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第94回日本社会学会大会 特設セッション報告要旨

倫理委員会企画テーマセッション概要 

 社会調査倫理の現代的課題

倫理委員会では、「社会調査倫理の現代的課題」と題して、調査対象地となる地域社会、社会調査教育、委託調査における倫理問題という3つの点から以下の報告を企画しています。第1報告では、社会調査の対象となる地域社会の側から、地域調査の学際性、アクション・リサーチの普及といった今日的特徴が抱える問題に加え、地域社会が調査者に求める研究倫理の在り方についてのカナダの事例を紹介していただく予定です。第2報告では、児童養護施設を対象とした社会調査実習における研究倫理という観点からご報告をお願いしています。第3報告は、様々な社会調査の委託を受ける調査会社の実務の現場における調査倫理を、業務委託に関わる倫理問題という観点から報告していただく予定です。
社会調査倫理は、調査者が調査対象者と接する際に求められる普遍的な課題でありながら、調査対象によって異なる個別的な問題も内包しています。調査者と被調査者との間に生じ得る問題は、これまでにも調査公害やフィールドあらしといった表現で指摘されてきましたが、本テーマセッションでは、調査者や調査手法、現場とのかかわり方が多様化するなかで起こってくる現代的な課題に3つの観点から迫っていきたいと考えています。

研究活動委員会企画テーマセッション(1)概要 

オラリティの居場所――語り難い経験をめぐって 

「語り」(オラリティ)は,その時,その場所で,語り手が発出でき,聴き手が受け入れられるかたちで紡がれる.オラル・ヒストリー研究,ライフ・ヒストリー研究やライフ・ストーリー研究は,語り手と聴き手のラポールを前提に,「語り」が持つ力強い「生の世界」を描き出してきた.そこには,語ること,語られることが,語り手の固有の文脈や,語り手を取り巻く社会関係,聴き手との距離感などによって変化することが含意されてきた.
他方で,語り難い沈黙を破って生まれた「語り」は,権利や生活を守る社会運動の文脈で凝縮され,社会的な力を獲得してきた.個の経験や記憶が歴史の切片として語り継がれることを欲する社会は,博物館や資料館で,学校現場の平和教育や人権教育の場で,こうした「語り」を聴いてきた.
そこで示されてきた敬意は,いくぶん儀礼的であったかもしれない.語り手と聴き手の役割に互換性はなく,語り手は聴き手が期待するように語り,聴き手は予見可能な語りを期待される態度で聴くことが暗黙裡の前提であったからである.戦争,公害や環境問題,災害経験やマイノリティの当事者性などにかかわる「語り」は,現在社会が描き得る未来への道標として記憶し,教訓化され,そのままに引き継がれるべきものと意味づけられてきた.
だが,語る主体の高齢化や世代交代は,無意識に前提にしてきた「語り」の真正性と不変性を揺さぶっている.
このテーマセッションでは,定型化された「語り」から零れ落ちるもの,ノイズとして排除されること,語る主体への役割期待がもたらす当事者性の呪縛,語りを継承する困難,さらには語り手と聴き手の間にある「伝わらなさ」の現在を考えたい.

 

【プログラム】

1.被害者の「語り」が生む連帯と分断:闘うオラリティ(松村正治:中ケ谷戸オフィス)
1968年に発生したカネミ油症事件では,50年以上が経過した現在でも,被害者が患者認定や補償拡大などを求めて運動を継続して闘っている.これまでは制度変革をめざす裁判闘争やロビーイングに集中してきたため,この食品公害の経験をどのように社会的に受け止めて学ぶのかという関心からは,実践や研究が蓄積されてこなかった.本報告では,この事件の被害者の語りに注目し,公共社会的な観点から何が聞く側に当事者性を呼び覚ますのかについて議論したい.

 

2.上手な社会運動の終い方?:承認のオラリティ(青木聡子:名古屋大学)
   本報告では,長年にわたり展開されてきた住民運動を事例として取り上げ,やめるにやめられない運動をめぐる人びとの語りに着目する.名古屋新幹線公害問題では,国鉄(当時)との和解成立(1986年)から30年以上を経た現在も,原告団は,騒音・振動などの公害発生源との共存を強いられながら活動を続けている.運動が長期化しその負担が少数のコアメンバーに集中するなかで,何が積極的に語られ,何が積極的に語られなくなっていくのか,その意味や運動への影響について検討する.

 

3.私は何であるか?:差別のオラリティ(高崎優子:北海道教育大学教育学部釧路校)
本報告では,少女期に人権をテーマとした作文を書いた一人のアイヌ女性の語りに注目する.アイヌとして自らを積極的に語る者,沈黙する者,沈黙の理由を問う者,さまざまな語りが交差するなか,女性は自らを「差別を語る者」として位置づける.少女期以降の沈黙,再び語り出すようになった経緯,そして「アイヌであること」が「差別される者である」ということ.経験は語りを通じて他者への呼びかけに転じる.報告者自身の応え損ねの出来事も踏まえながら,語りを通じた他者の経験の分有と応答の可能性について考えたい.

 

4.失われゆく風景:空間を読み解くオラリティ(廣本由香:福島大学)
広島県竹原市忠海の沖合に浮かぶ大久野島では日本陸軍によって秘密裡に毒ガスが製造されていた.戦前に毒ガス製造にかかわった工員や学徒,戦後の解体処理作業にたずさわった作業員の多くは,慢性気管支炎等を患う障害者として国から認定されている.数少ない一部の体験者とその意志を語り継ぐ山内正之氏によって,大久野島では被害とともに加害の歴史を語る取り組みが行われてきた.本報告では直接的な当事者ではない山内氏に焦点を当て,過去との関係を示唆する「連累(implication)」を糸口に空間と記憶を伝える実践について考える.


 

研究活動委員会企画テーマセッション(2)概要 

 ゲーム・チェンジャーとしての社会学――領域を越える/領域を変える
文責:樫田美雄(神戸市看護大学,kashida.yoshio@nifty.ne.jp)

(1) 登壇者と演題・・・報告者(4名)とコメンテーター(2名)
・渡正(順天堂大学)
義足を身体の一部として使いこなしていくこと:スポーツする身体の社会学的記述
・松永伸太朗(長野大学)
「リズムの専門家」としての労働者:フリーランス労働における「投射性」の社会学的記述
・阿部真大(甲南大学)
ゲームチェンジャーとしての「職業の社会学」 ―カスハラ・やりがい搾取・ポスト日本型雇用社会
・湯川やよい(愛知大学)
「批判的な社会学」の可能性を考える―「領域交差」とゲームの複数化―
コメンテーター1・・・江原由美子(東京都立大学名誉教授)
コメンテーター2・・・水野英莉(流通科学大学)
※ 当日配布資料は、学会大会指定のワンドライブ上にアップされる予定です。

 

(2) 企画趣旨
 社会の現代的変化は,社会の諸個別領域間に新たな関係性を生み、個別領域別に対応して成立してきた諸社会科学に対し、実用性の低下をもたらしています。これを「社会科学の危機」といってもよいでしょうし,労働社会学のような「連字符社会学の危機」といってもよいでしょう.けれども、この「社会科学の危機」と「連字符社会学の危機」は「新しい社会学のチャンス」でもあるはずです。
つまり,「法律」「政治」「経済」「労働」「健康」「人権」というような社会科学の主要な基礎タームの意味が現代では揺らいでいますが、このような状況こそは、従来の連字符社会学ではない、新しい社会学を生み出す母胎であるともいえるはずです。
そこで、経営学における「ゲーム・チェンジャー」概念を借りて(参考:内田和成編『ゲーム・チェンジャーの競争戦略』日本経済新聞出版社、ほか)、テーマセッション『ゲーム・チェンジャーとしての社会学­領域を越える/領域を変える­』を、研究活動委員会主催で開催したく思います。
日本の社会学の世界は、個別の領域には多くの個別領域別社会学会が成立していますが、社会学には複数領域を横断して新しい学知を創造できる大きな潜在力があります。この潜在力を伸ばすことは、社会学全体を対象とした学会である日本社会学会の役割であり、日本社会学会の委員会である、研究活動委員会の役割であると思われます。
(例1:ギグ・エコノミーの興隆は、労働者の古典的な定義の外側に大量の非労働者的に活動して生活の糧を得る人間を生み出していますが、そのような人々の生き方の探究のなかにこそ、新しい社会学の課題があるように思われます。例2:在宅療養者の質と量の増大は、病気療養者の古典的な定義の外側に大量の非療養的に療養生活を送る人間を生み出していますが、その人々の生き方のぞんざいさと工夫の中にこそ、人間社会学の課題があり、その課題の探求こそは、医療と福祉の社会学を人間社会学的に発展させるものだといえると思います.ビスケットを隠れてかじりながら透析治療を受ける患者の合理性こそ人間の合理性だ、とも言えるようにおもわれます。)
繰り返しになりますが、領域の安定性と、他領域との隔絶性に依拠して知を蓄積するような漸増的社会学は、社会のシステムの組み替え期には、その基盤を失うことになるはずです。しかし、上述のような形で自己更新性の確認をすることと、自己破壊の中に新しい領域の生成の萌芽を見いだすことこそは、社会学の本来的能力だ、という主張が可能なはずです。本テーマセッションでは、そういう「ゲーム・チェンジャー的志向をもった社会学」にかんする報告を4本並べたうえで、その中に現代社会学の可能性を確認していこうというものです。どうぞよろしくお願いいたします。

 

(3) 開催日時および進行予定
発表日時は、2021年11月13日土曜日15時~18時です。登壇者の発表後短く質疑をします。また、コメンテーターのコメントと同時に「チャット」で質問を受け付けます。どなた様もふるってご参加下さい。


研究活動委員会企画テーマセッション(2)報告1 

 義足を身体の一部として使いこなしていくこと:スポーツする身体の社会学的記述
順天堂大学  渡 正

スポーツの会学はこれまで、近代スポーツの持つイデオロギー性を批判してきた。たとえば、義足の選手をオリンピックから排除する国際オリンピック委員会(IOC)や国際陸上競技連盟(WA)の対応の背後に、近代的な「自然な身体間の競争」の前提があり、またこの前提は擬制に過ぎず維持に無理があることの指摘であった。さらにこの擬制はレームなどの障害者のアスリートの「障害(Impairment)の」身体を階層秩序のなかで劣位に位置づけ「無力化(Disabled)」してきたという指摘もある。
このような近代/スポーツ批判を体現し、それ乗り越えるものとして障害者アスリートの身体に対しては、「サイボーグ」のメタファーがよく使われる。「『自然な』身体として想定されているものが、実は科学や技術と肉体との複雑な混合体である」(Norman and Moola. 2011:1268)ことを明確に示すからである。「サイボーグの身体」の主張は、近代/スポーツの相対化であり、スポーツとテクノロジーの関係で無力化されてきた障害者の主体性の回復を企図するものだったといえる。しかし、「批判者がいくらサイボーグ的な視点から批判しても、自然な身体という想定はスポーツの世界を支えるのに不可欠である(福島 2017)。実際、「サイボーグ」理解の試みは、義足を過剰に「身体化」することで、障害者アスリートの主体性を強調する。その結果、義足の使用に関する議論の解像度を低下させてしまっている。「サイボーグのメタファー」は、近代スポーツ批判であったにもかかわらず、スポーツの人間中心的理解の側面があることで、近代スポーツの語りに回収されていった。
一方、障害学などの「障害者研究」において、障害者スポーツやアスリートが対象として論じられることはこれまでほとんどなかった。この無関心の要因には、スポーツという営みが障害者の身体を「障害者」としてきた近代のablismの本拠地の一つであると想定できることや、そこで活動するアスリートのパフォーマンスや「サイボーグ性」が、「一般の障害者」の経験や身体と大幅に乖離しているように見えているためだろう。実はスポーツ社会学においても事情は同様であり、障害者スポーツ/アスリートへの学的関心は高いとはいえない状況であった。
このような状況のなか、本報告は、障害者アスリートの義足の経験を記述していくことで、上記のようなスポーツ社会学・障害研究からの脱却を目指す。すべてのアスリートが同様に理解しているわけではないことには注意が必要であるが、義足のアスリートである又吉康十(左膝下切断、走幅跳)は、義足を例えるなら「ヘルメットのような感覚であり、装着し続けることは気持ち悪い」と述べ(スポーツ社会学会での発言)、あくまで義足を道具として位置づけている。では、いかにImpairmentと、それを補い「拡張」する「道具」は使いこなされているのだろうか。また同じ義足や車椅子でも「日常用」と「競技用」の使い方は異なる。本報告では、Impairmentの身体を前提に、義足や道具の使用をスポーツ実践の中から捉え、「身体」に関する人々の経験を記述していくことを目指す。障害の身体とスポーツの身体の関連のなかから障害者スポーツ研究の社会学的可能性を提案していきたい。

福島真人,2017,「身体、テクノロジー、エンハンスメント」『真理の工場:科学技術の社会的研究』東京大学出版会.
Norman, M. E. and F. Moola,2011 “‘Bladerunner of boundary runner’? : Oscar Pistorius, cyborg transgressions and strategies of containment,” Sport in Society 14 (9): 1265-79.


研究活動委員会企画テーマセッション(2)報告2 

 「リズムの専門家」としての労働者:フリーランス労働における「投射性」の社会学的記述
松永伸太朗(長野大学)

現代社会における労働においては、就業形態にかかわらずフレックスタイム制度の導入などに代表される労働時間の柔軟化が推進されている。これは労働時間を決定する個人の裁量が高まる一方、その時間をいかに有効に使用するかについての個人の選択が複雑化することを意味している。このことは、労働時間を単に仕事に従事する時間としてのみ記述するのではなく、時間利用に関する選択の意味や他の時間的幅を有する活動との折り重なりのもとで記述するといった、従来の産業・労働社会学が積極的に行ってこなかった記述を社会学に対して要請することになる。
 こうした労働時間の柔軟化の動向を受けて、近年の労働社会学では労働者が働くなかでどのようにして自らの業務遂行や職業生活における予測可能性を組織しているのかという点に関心が寄せられている。労働者は、労働時間そのものが多様化したり、他者との協働によって働くべき時間が左右されるような不規則な仕事に従事していても、業務経験を積み重ねるうちに予測可能性を獲得することがある。言い換えれば、複雑であってもそれぞれの仕事はそれがいつまで続くか、いつ終わるべきかといった未来予測を可能にする「投射性projectivity」(Mische 2009)を有しており、その投射性を資源にして目下の選択を絶えず組織するのである。こうした熟練のあり方をベンジャミン・スナイダーはトラック運転手のエスノグラフィーのなかで「リズムの専門性」と呼んでいる(Snyder 2017)。
本報告では、企業からの労働時間管理を受けず働くフリーランスのアニメーターの労働に着目し、いかにしてアニメーターが自らの労働やそれと関連する活動に関する時間を管理し、経験しているのかを明らかにする。出来高報酬で働き、かつ複数の企業から仕事を請け負うことの多いアニメーターは、場合によっては数日単位の〆切のなかで業務の遂行や次の仕事の探索などを行うことになる。このように単に仕事に従事するというだけではなく、職場にいながらいつ休憩を取るか、目下の業務に直結しない作画の学習などをいつ行うか、どのタイミングで休日を取るかなどの選択も複雑な形で生じることになる。これによって職場における時間管理もきわめて重層的なものになるが、これを熟練したアニメーターがいかにして対処しているのかをエスノグラフィックに記述する。さらに、こうした労働に対して職場外の生活の要因が重なった場合にどのようにアニメーターが対処しているかについても議論する。
こうした議論に基づいて、アニメーターは将来的な不確実性に晒されながらも、目下の仕事のリズムを絶えず再編成しつつ就業を継続させることを可能にしていることを明らかにする。このように労働者が労働時間の柔軟化のなかでどのようにして自らの職業生活を組織しているのかを明らかにしていくことは現代社会における産業・労働社会学の課題の一つであり、そのためには他の領域社会学の関連する知見も参照し、狭義の職場や労働に限られない対象にアプローチするような形で産業・労働社会学の境界が見直されていくべきであることを示唆したい。

Mishe, Ann., 2009, “Projects and Possibilities: Researching Futures in Action,” Sociological Forum, 24(3): 694-704.
Snyder, B., 2017, The disrupted workplace: Time and the moral order of flexible capitalism, Oxford University Press: New York.


研究活動委員会企画テーマセッション(2)報告3 

 ゲームチェンジャーとしての「職業の社会学」 ―カスハラ・やりがい搾取・ポスト日本型雇用社会
阿部真大(甲南大学)

カスハラと「職業」
過剰なサービスを労働者に要求する「カスタマーハラスメント(カスハラ)」が社会問題化している(NHKクローズアップ現代+「カスタマーハラスメント」取材班編著2019)。この問題に対し、法制度からではなく、社会学の視座からアプローチすることはできないだろうか。カギとなるのは、「連帯の実現」としての「職業」の捉え方(尾高邦雄)である。社会的なニーズから演繹的に仕事の「外枠」を定めていく。その社会的合意があってはじめて、我々は「モンスターカスタマー」と出会ったとき、「そこまで要求するのはお門違いなのではないか」と諫めるが出来る。それはまた、「個性の発揮」としての仕事の側面(尾高)を強調することで労働者の搾取状態を不可視化する「やりがい搾取」(過剰なサービスへの対応が求められる業界においてしばしば起こりうる)への防波堤として機能することも期待されるだろう。

 

「職業人」を育てる脱-組織のマネジメント
労働者の組織への過剰なコミットメントが、社会全体のシステムの機能不全を誘発している状態がしばしば見られる。「何のための仕事か?」を考えるとき、それを組織ではなく、社会の中に位置づけ直すこと(「職業人」としての倫理の醸成)は、ポスト日本型雇用社会においては喫緊の課題である。ただし、この問題の原因を「個々人の心がけ」や「旧態依然とした企業文化」のみに求めるのでは不十分だろう。(組織の中において)組織人であることの「快楽」に迫り、そこから適度に距離をとり「組織人」と「職業人」のバランスを上手く取ることを促すマネジメント(「脱-組織のマネジメント」)について考える必要がある。それは、理解社会学的なアプローチに基づいた、実効的な提案でもある。

 

公共圏の再活性化と職業の社会学
仕事が消費者の論理(カスハラ)、もしくは組織の論理(「職業人」としての倫理の欠如)の中でのみ語られることに対し、社会の中にそれを位置づけ直すことは、私化(privatize)された仕事を公共圏に取り戻す試みである。と同時に、「われわれが職業集団のうちにみるものは、一個の道徳力である。この力によってこそ、個人のエゴイズムを抑制し、労働者の心のうちにいきいきとした共同連帯の感情を絶やさぬようにし、弱肉強食の法則が商工業上の諸関係にこれほど露骨に適用されないようにすることが可能なのである」(Durkheim 1893=2005:62)とデュルケームが論じたように、それは、「弱肉強食」の資本主義のもとにおいて、労働者を保護し(働く人を守る「職業」の側面)、組織を存続させ(組織を強くする「職業」の側面)、その結果、社会をサステナブルなものとする「有機的連帯」を実現するものでもある。「職業の社会学」は、仕事を主に「組織」の側面から分析してきた従来の社会学の「ゲームチェンジャー」となりうるものである。

 

参考文献
Durkheim, Émile De la division du travail social 1893 = 2005 田原音和訳『社会分業論 復刻版』青木書店
NHKクローズアップ現代+「カスタマーハラスメント」取材班編著2019『カスハラ モンスター化する「お客様」たち』文藝春秋


研究活動委員会企画テーマセッション(2)報告2 

 「批判的な社会学」の可能性を考える―「領域交差」とゲームの複数化
愛知大学 湯川やよい

本報告では、セッションのキーワードである「ゲーム」を「ある研究領域で共有される信念、暗黙知、思考の習慣等の総体をルールとして実践される制度」と仮に定義する。本報告の目的は、Burawoy(2005)が「批判的な社会学」と呼ぶ領域におけるゲーム(一定の規範的な問題意識を基盤として権力構造を批判的に読み解く制度)、特に「批判的な社会学」の中で重要な役割を果たすジェンダー・セクシュアリティ研究領域のゲーム(何らかの社会変革を希求する規範的な問題意識を基盤に、人種化、階層化されたジェンダー権力の複雑な働きを読み解く制度)について、その意義と課題を検討することにある。現在のゲームの「change(新しいものへの代替)」ではなくゲームの「pluralize(複数化・複層化)」を志向することにより「批判的な社会学」の射程を切り広げる可能性を示したい。具体的には、(1)M. ブラウォイのパブリック社会学論、(2)J.デリダの領域交差論(intersection)を補助線として上記を検討する(※「領域交差intersection」は脱構築実践の1つで、ジェンダー社会学で一般に知られる「(ジェンダーと人種、民族、階級等の)交差性intersection」とは異なる)。

 

(1)パブリック社会学論(Burawoy 2005)は、異なる信念のもと相互補完的に働く社会学の4つの理念型(専門的、政策的、批判的、公共的)を示し、4つの間での健全な相互批判(内部の異種混交性)と他領域からの学際的知の注入(外部との横断性)に基づくディシプリンの再帰的自己更新を希求する。この議論は、本テーマセッションが掲げる「ゲームチェンジ」の問題関心とも多くを共有している。本報告では、Burawoy(2005)をめぐる諸論争の全容ではなく、同論で示される「批判的な社会学」のメタ分析(ドグマ化の傾向性とその回避)とそれに対する英語圏ジェンダー研究領域からの応答に焦点化する。特に、従来の論争で十分に扱われてこなかった論点をとりあげたい――すなわち「(狭義の)公共的な社会学」がもつとされる無限定性(たとえば、キリスト教原理主義、解放社会学のいずれにもよりそい得る特性)と、「批判的な社会学」に特有の規範性(一定のベクトルをもつ批判的な問題意識)との間で、どのような「相互批判(対話)」がどの範囲で可能なのか。
この点をさらに掘り下げるため、(2)Derrida(2001=2008)等に依拠し提示される「領域交差」の議論を参照する。デリダの大学論を関係者への聞き取り等を通じて解題した西山(2011)に照らせば、ポスト構造主義的な転回を経た1990年代以降ジェンダー・セクシュアリティ研究が重視するintersectionの視点(ジェンダーに交差する人種、階級など複数要素の相互連関に注目する分析)のもと擁護される複数性や学際性もまた、「特定の制度を読み解く制度」という点では単一的(有限的)である。一方、全てのゲームがその有限性ゆえに孕む本源的暴力性を学術研究自身が直視し続けるため、「特定の制度を読み解く制度」そのものを脱構築する役割を果たすのが、デリダの言う「領域交差intersection」である。つまり、「領域交差」は、従来の支配的な諸制度だけでなく、それに対抗し批判的分析を行うあらゆる既存の諸制度(ジェンダー理論、批判的人種理論、カルチュラル・スタディーズなど)においても「正統な地位や十分な立場をまだ得られていない主題や問題、経験に優先権を与える」ことで、ときに「領域間」での知の創出を可能とする(西山 2011:74)。
2つのintersection(従来の交差性の議論と「領域交差」)の併存は、「批判的な社会学」におけるゲームの目的(批判的分析の精緻化、卓越性)から外れる「余剰」をも許容するような自己省察の技法を導き、抽象的なポスト構造主義ジェンダー理論と経験的な社会調査研究との接合を深化させる可能性を示している。余剰を介し生起する偶発的正義に期待する脱構築は常に不安定で「社会科学の方法」としても構造化されづらいが、様々なバックラッシュが興隆し深刻な社会的分断が問題化される現在、この脱構築の試論は「批判的な社会学」に一定の示唆を与えるのではないか。ただし、「領域交差」という別様のゲームは、そこで脱構築される現在のゲームとそのルール(諸変数の交差性の解明、それと組みあわされる様々な批判的分析)無しには実践されえない。したがって、「批判的な社会学」は従来のゲームを「変更」するのではなく、ときに別様のゲームも加える「複数化・複層化」を試行することで、その射程をさらにラディカルに切り広げる大きな可能性を有すると考える。

 

・Burawoy,Michael,2005,”For Public Sociology, ”American Sociological Review,70:4-28.
・Derrida, Jacques,2001, L’Université sans condition,Paris: Éditions Galilée(西山雄二訳,2008,『条件なき大学』月曜社.)
・西山雄二,2011,『哲学への権利』 勁草書房.


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