報告番号408
新型コロナ対応互助 FBグループの経験から——何が変わり何が変わらなかったのか、そして何が明らかになったのか
関西学院大学 岡本 仁宏
本報告は、社会学教育に関与しておらず、また教育学の専門家でもない、市民社会論の一研究者による、新型コロナ禍のもとでFacebookグループを運営した経験から出てきた若干の観察、及び同グループでの岡本の呼びかけに答えて意見や情報を提供していただいた参加者の議論から得られた知見に基づき、現場教員の立場から若干の問題提起を行おうとするものである。
基本的な問いは、下記のような大きな問いである。
①Covid-19は大学教育に何をもたらしたのか。前と後でどう変化したのか。新しい教育は生まれたのか。劣化したのか優化したのか。
②Covid-19は大学教育の何を明らかにしたのか。緊急事態への対応が大学教育について照らし出したものは何か。
これらの大きな問いに答えるための素材を出すことが本報告の意図となる。
グーテンベルグ革命に匹敵するDXの大きなインパクトを受けて、大学を含む教育の在り方が大きく変容しつつある。新型コロナ禍は、遠隔授業の可能性を広げたという点において明らかにポジティブな影響があった。非常に多様な教育実践が生まれ、既存の大学への制度的な縛り、大学や大学コミュニティ、キャンパスなどの意味が問い直されたし、従来型の発想に縛られた政策の意味も問い直された。
可能性が広がったということは、差の拡大の可能性が増したということでもある。緊急事態対応においても、現場教員が個人的対応を余儀なくされたことは明らかだが、どこまで組織として支援やあえて言えば組織的責任を果たせるリーダーシップをとれたのか、という点は、コロナ後の大学の在り方を照らし出している。
「MOOC革命」が語られてから10年が過ぎYouTubeなど教育的デジタルコンテンツがネットにあふれる状況の中で、「知のネットワークの結節点としての大学」における教育の可能性をつかむためには、現場教員が自己実現の可能性を描ける構想が必要である。
報告番号409
コロナ禍で大学での学修はどのように変容したか
武蔵大学 中西 祐子
2020年4月、多くの日本国内の大学は「いつもと違う新年度」を迎えた。
前年末、WHOは原因不明の肺炎の発生を発表。1月9日には新型コロナウイルスであると公表した。1月15日には日本国内初の感染者確認が確認され、政府は1月30日に新型コロナウイルス感染症対策本部を設置した。2月5日にはダイヤモンド・プリンセス号内の集団感染が確認され、連日のコロナ関連報道で市民の日常生活はモラル・パニックの様相も帯び始めた。店頭では使い捨てマスクや除菌スプレーに加え、トイレットペーパーまで品薄となった。2月27日、当時の安倍晋三首相は、「この 1、2 週間が感染拡大防止に極めて重要である」と、全国の小中高校、特別支援学校に対して3月2日からの臨時休校を要請。3月13日には新型コロナウイルス対策の特別措置法が成立した。
当初の「少し長い春休みの年度末」という見解はほどなく覆されることになった。4月に入っても学校が再開されることはなく、4月7日には緊急事態宣言が東京、大阪、福岡他計7都府県に発出され、16日には対象が全国に拡大された。大学に対しても文部科学省は3月24日、「令和2年度における大学等の授業の開始等について」を通知。「大学設置基準第21条等で定める学修時間を確保するための方策を大学等が講じていることを前提に、10 週又は15週の期間について弾力的に取り扱って差し支えない」とした。従来、1セメスターあたり90分×15週相当の授業時間数を確保する必要があった各大学も、これを受けて新年度開始時期を4月下旬から5月のゴールデンウィーク後に延期した。延期期間中、各大学で進められたのは、遠隔授業のための各種機材やインターネット・アプリの導入・整備であった。
あらゆる学問分野において暗中模索の大学教育が始まる中、社会学教育ゆえの困難の代表格は社会調査実習であった。平時であれば社会調査実習は、キャンパス内外をフィールドに、学生たちが未知の人々を対象に調査を実施するものである。住民基本台帳のランダムサンプリングから量的調査を始めたり、フィールドに出かけてのインタビュー協力者募集から質的調査を始めたりするのが定番であった。しかし、不特定多数の他者との接触や紙の配布すら、コロナ禍においては罹患リスクが高いと嫌われる行動となる。社会調査実習に不可欠な各種作業や「集団性」は、突然「不要不急」の最たるものとなったのである。自粛生活が続く中、各大学では社会調査実習をどのように実践してきたのか。そしてまた学生は当時の大学教育から何を学んでいたのか。
本報告では、まずコロナ禍での社会学教育の展開を、①報告者の勤務先大学で経験した当時の遠隔教育導入過程と自身のG科目(量的調査)指導を出発点に、②一般社団法人社会調査協会が2019~2023年度に認定したG科目(量的調査)の各大学公開シラバス(現時点では約230クラス分を確認中)の分析を通じて明らかにする。続いて、コロナ禍の学生の学修状況について、③政府統計、④東京大学社会科学研究所附属社会調査・データアーカイブ研究センター公開データの二次的分析、および⑤報告者が勤務先大学学生を対象に行った簡易質問紙調査の分析を総合して考察する。(学生の学修状況の考察は、社会調査実習やG科目に限ったものではない。)
シラバスを見るとコロナ禍のG科目(量的調査)指導では、①二次的データ活用、②ウェブ調査の導入、③統計ソフトを学生の自宅パソコンで使用させるための対策が確認できた。学生の学修状況の変容は、①コロナ期に大学休学率が減少する(文科省統計)メリットが見られた一方で、②世帯収入最下位層の女子学生の学習時間の減少、③世帯収入最上位層の男子学生の学習時間の増加、④高収入層男子と低収入層女子にオンライン授業希望が、高収入層女子に対面希望が多いこと(内閣府調査データ二次分析)が分かり、コロナ禍の学修状況のジェンダー差、階層差の可能性が考えられた。
報告番号410
ポストパンデミック時代における社会学教育実践と社会調査実践をめぐる困難
中央大学 天田 城介
本報告は、新型コロナウィルスの感染拡大というパンデミックを経験した私たちにおいて社会学教育と社会調査のあり方は問い直されているものの――ポストパンデミック時代においては対面調査に戻すことで有益な社会学教育と社会調査ができることもあるし、オンライン調査などの多様な社会調査を実践するなどの様々な工夫や方法によって効果的な社会学教育と社会調査が可能であるものの――、結局のところ、社会学において問われているのは「対面かオンラインか」でも「量的調査か質的調査か」でもなく、「非サイエンス的な知の活動」(筒井 2021)を抱え込まざるを得ない学問である社会学が「問いや方法を人々から受け取る」(筒井・前田 2017)という方法論的特徴を踏まえ、「ポストパンデミック時代を生きる人びとから問いや方法をいかに受け取るか」が問われていることを提示するものである。社会学の方法論的独自性という意味では「パンデミックの時代」でも「ポストパンデミック時代」でも社会学に問われていることは変わらないものの、他方では「ポストパンデミック時代における人びとから受け取る問いや方法」は大きく変容したともいえる。
すでに多くの論文等で指摘されているように、新型コロナウィルスの感染拡大というパンデミックのもとでの社会学教育と社会調査のあり方は大きく変わった。
第一に、コロナ禍での社会調査実習に象徴的に示されるように、授業もオンラインであったことに加え、学生たちの実施するインタビュー調査やフィールドワークはほぼオンライン調査となった――現在はおおむね対面調査に戻ったものの、調査対象者がオンライン調査を望むことも少なくない――。こうした学生たちのオンライン調査を見届けた社会学者からは「オンラインインタビューで調査対象者が話したことを学生はまんま受け取ってしまう。社会科見学みたいになってしまう」という声も聴く。他方で、同じように社会調査実習を担当する社会学者は「当事者である学生が同じ当事者団体にオンラインインタビューをすると、最初の自分たちの「問い」をブラッシュアップせず、そのまま最後まで行ってしまう」という言葉を口にする。オンライン調査の場合、後述するような工夫や方法を駆使して多大なコスト・負担を担わないと、スクリーン上での調査対象者の言動のみを読み解くがゆえに、学生たちの世界において「ノイズ」が生じ難く、そのノイズから「問い」が立ち上がり難く、また調査を通じて「問い」を書き直されることが難しいことも少なくない――実際、オンラインインタビューでも調査冒頭で「アイスブレーキング」の時間をあえて設けたり、別々の機会を設けてあえて複数の調査対象者におのおの聞くなどの工夫をして「ノイズ」を発生するようにしていた社会学者もいたようだ――。
第二に、もちろん、コロナ禍においても社会学者は様々な社会調査教育の工夫や方法を駆使して、学生にとって効果的な社会学教育を実践してきたし、自らの社会調査においても実に多様な工夫と方法を展開してきた――その社会調査の方法とその困難については田辺・三浦・石井ほか(2023)ほか複数の論文等にて言及されている――。また、Zoom等を用いたオンライン調査を実践したり、アーカイブデータや各種データベースを用いて分析したり、オンライン上で質問票調査を実施することで、これまでにない現実を析出することも可能となった。むろん、そのような社会学教育実践と社会調査実践には多大なるコストと負担がかかるため、社会学者は上昇した教育コストや調査コストを自らで担わざるを得ない。この四半世紀の大学改革下の大学において社会学者の抱え込まざるを得ないコストと負担からすれば、こうした社会学教育実践と社会調査実践を個人的に遂行することはかなりの困難がともなう(日本社会学会社会学教育委員会 2021)。こうした実践を可能とするコストと負担を誰がどのように担うのか、その仕組みについて検討することも重要であろう。
第三に、上記の検討は必要であるものの、ポストパンデミック時代における社会学教育実践と社会調査実践においてまさに問われているのは、多様な社会調査方法の技法や創意工夫を超えて、「非サイエンス的な知の活動」を抱え込まざるを得ない学問である社会学が「問いや方法を人々から受け取る」という方法論的視点から「ポストパンデミック時代を生きる人びとから問いや方法をいかに受け取るか」である。パンデミックを経験した人びとの世界は変容したし、その人びとへのアクセスもデータのとり方も変わったことを踏まえ、私たちがどのようにして「問い」と「方法」を人びとから受け取るかが問われているのだ。文献
日本社会学会社会学教育委員会.2021.『社会学教育実態調査報告書――大学改革下の社会学教育』日本社会学会社会学教育委員会報告書.
田辺俊介・三浦麻子・石井賢示・杉本真義・吉田佳子・知念渉・都島梨紗.2023.「座談会 調査の困難とその解決」『社会と調査(特集:コロナ禍における社会調査)』第30号:27-44.
筒井淳也.2021.『社会学――「非サイエンス」的な知の居場所』岩波書店.
筒井淳也・前田泰樹.2017.『社会学入門――社会とのかかわり方』有斐閣.
報告番号411
統計的因果と社会学的因果——統合的理解にむけて
東京大学 瀧川 裕貴
1 はじめに
近年の社会学では、実証研究における統計的因果推論の進展に一部刺激を受けつつ、あらためて社会学における因果ないし因果的説明の位置づけについて様々な議論が繰り広げられている。論点の1つは、社会学は因果的説明を中心とすべきか、それとも、記述など別の探究形式にアイデンティティを見出すべきかという点にある(Abend 2022; 佐藤 2019; 筒井 2021; Watts 2014)。第2の論点は、因果的説明を中心とするとしても、どのような因果的説明か、それは統計的因果推論と異なるのかどうか、という点にある(Goldthorpe 2011, 2016, Hedström 2005, Hirshman and Reed 2015;瀧川 2019)。本報告では、1. 社会学の中心的アイデンティティは因果的説明にあり、2.社会学の因果的説明は統計的因果推論と本質的に同一の因果概念によって理解できる、という立場を提示したい。その上で、3. 社会的因果を意味に媒介された相互行為因果と概念化し、統計的因果推論と同様の枠組みで経験的な識別・推定が可能であると論じる。
2 統計的因果推論における因果概念
本報告では、J.Pearl(2000)の構造因果モデルを社会学における因果的説明の定式化に援用する。構造因果モデルでは、因果を「世界に対する(反事実的)介入」という概念で把握し、因果構造を非循環有向グラフ(DAG)でモデル化する。このような枠組みのもと、本報告では、社会学が扱う社会的因果を「社会的世界に対する(反事実的)介入」という概念で把握する。社会的世界とは行為者が意味を介して、他者にはたらきかけたり、はたらきかけられたりする世界のことである。そこで、社会的因果は「意味を媒介した相互行為因果」としても定式化できる。また、意味とは「受け手の心的表象への介入」として定式化できる。このように、構造因果モデルにより社会学における因果を統一的に把握することで、1. 因果前提の明確化、2. 記述ではなく説明の中心性、3.日常的行為者の因果理解との連続性、を確保することができる。
3 メカニズムによる説明の因果推論的擁護と意味媒介メカニズム解明の必要性
以上をふまえて、統計的因果と社会学の因果的説明の差異を主張する議論に反論する。社会学者による統計的因果推論への反論には密接に関連する2つの主張が含まれている。第1は、統計的因果とは異なり、社会学の因果的説明はメカニズムの説明を目指すべきである、という主張、第2に、統計的因果とは異なり、意味の理解、そして理解可能な説明を目指すべきだという主張、である。
第1点については、メカニズムによる説明は、社会学独自の因果概念を含意するわけではなく、むしろ因果推論の妥当性を高めるために必要とされると主張したい。とくに、マクロカテゴリの処置を行為レベルの処置に分解することにより、外的妥当性、移転可能性が高まるということにメカニズムによる説明の必要性を見出すべきである。
第2点については、意味も因果プロセスの一環であること、それゆえやはり意味媒介メカニズムを明らかにすることは、理解可能性ではなく、因果推論の妥当性の向上のために必要であると主張したい。意味現象もある意味でマクロな複合事象であり、構成的意味次元に分解して、因果プロセスを検討することが、外的妥当性、移転可能性を高めるのである。こうした概念化により、実験等の手続きで意味媒介メカニズムの検証自体も経験的に可能となる。
4 結論
社会学における因果的説明は統計的因果と統一的に概念化されるべきである。そうすることで、実験や観察データからの因果推論など諸科学で用いられているものと同じ手続きを用いて、社会学理論を経験的に検証し、拡張していく道が開けるはずである。
報告番号412
処置のジレンマ——因果推論における意味の問題
立命館大学 筒井 淳也
近年、社会学の統計分析においても、統計的因果推論の手法が浸透しつつある。統計的因果推論は、実験研究における無作為化比較実験をモデルとして、処置群と統制群の均質化を通じてより厳密な処置(介入)の因果効果を明らかにしようとする試みである。具体的には、マッチング、傾向スコア分析、自然実験などの手法が展開されてきた。
社会学がこれまでノウハウとデータを蓄積させてきたのは調査観察データであるが、以上のような統計的因果推論の枠組みでは、自己選択の記録としての調査観察データは介入実験のデータよりも扱いが難しく、いわば「次善の策」として利用されるものになる。というのは、自己選択は(研究者の処置ではないために)バイアスの大きな要因になると考えられているからである。特に調査観察データにおいては、統計的因果推論の前提条件をクリアすることが難しい。
本報告では、調査観察データの場合、この困難が<意味的>な問題になりうることを示す。このことを通じて、社会学的な研究課題において因果推論がどのような関係を持ちうるのかについての含意を引き出す。
統計的因果推論の条件は、しばしばno spillover (no interference、非干渉)条件およびconsistency(一貫性)条件として整理されている。社会学が扱うような調査観察データにおいては、しばしば前者の条件の問題が指摘される。たとえば大学進学がその後の人生に与える効果を推定する場合、介入によって進学者が増加すると、(高等教育への公的資金の投入や就職市場の変化などを通じて)非進学者を含む環境全体に干渉し、それが変化する可能性がある。
ただ、今回の報告では、社会学が扱うような変数においては、むしろ一貫性の問題の方が深刻であることを主張したい。「ワクチンの処方」「児童手当の拡充」「学級サイズの変更」といった介入として考えやすい変数であれば、干渉条件をクリアすれば因果推論は成立する可能性がある。しかし「進学」「結婚」といった社会学的関心が集まりやすい変数については、処置の一貫性を確保することが意味的に困難になることがある。特に長期観察データでは、同じ設問の同じ値でも、全体社会の構造や価値観が変化しているため、「同じ」であるとは考えられないというケースが普通であろう。1960年代の大卒の意味と、2010年代のそれとでは意味内容が異なる。
同時代のデータでも、大卒といった選択は、薬の処方とは違って意味的な厚みがあり、「他の条件が同じ」であるという状態を理解可能なかたちで設定することが難しい。すなわち、処置群と統制群を均質化しようとすればするほど、処置の意味が剥奪されるというジレンマが生じるのである。
報告番号413
生活史と因果
ヘルシンキ大学 朴 沙羅
本報告は、質的研究と「因果」との関係を論じる準備として生活史研究を取り上げる。佐藤郁哉(『社会調査の考え方』2015年, 東京大学出版会)が的確にまとめるように、社会調査における多様な問いは、物事についての記述に関わる問い(「どうなっているのか?」)と、因果関係に関わる問い(「なぜ、そうなっているのか?」)に大別できる。この二者のうち、生活史研究はしばしば、記述に関わる問いを主に扱うとみなされてきた。この前提に立つと、生活史研究と「因果」について述べる場合には、「生活史研究も因果の解明に寄与する」と主張するか、あるいは「生活史研究には因果の解明以外に(あるいは因果の解明以上に)社会学の発展に寄与することができる」と主張するのが順当に思われるが、これは困難な道である。なぜなら、「生活史研究にとって「因果」とは何か」を語るためには「何に関して何を述べれば因果について述べたことになるのか」という問題に答えねばならないが、この問題に答えることは容易くない。そのため、報告者は「生活史研究は、何を目的として、どのような状況で因果関係に関わる問いを発し、何によってその問いに答えたことにしているのか?」であり「その問いと答えによって、生活史研究は何を達成しているのか?」という問いを設定する。この問いに答えるため、過去20年程度の間に出版された生活史研究の教科書とモノグラフから、「なぜ、そうなっているのか?」の問いに答えた事例を収集し、その事例のいくつかを取り上げて個別に検討する。生活史研究において因果関係が問題とされる事例は確かに複数存在し、あるいは生活史研究もまた因果関係の解明に寄与できることや、その寄与をもって学術および社会問題への貢献を企図する研究もある。他方で、生活史研究においては記述と因果を厳密に分離できる場合が主流とは言えず、記述に関わる問いへの答えが、因果関係の説明になる場合も見られる。さらに、「理由」「原因」「動機」といった語彙によって「なぜ、そうなっているのか?」の回答が述べられる場合も多い。また、いかなる問いに対するどのような応答をもって「なぜ」への答えとみなすかは、学問分野と調査者の問いによって変化しうると指摘できる。
報告番号414
新しい介入主義に市民社会はどう対峙するか
“東京経済大学 町村 敬志”
報告番号415
<生>を包摂する社会へ——ケアとジェンダーの視点から
“京都産業大学 落合 恵美子”
報告番号416
民主主義の二つのかたち——自利から利他へ
“名古屋大学 渡邉 雅子”
報告番号417
災禍の時代と教育政策
“東京大学 中村 高康”
報告番号418
災禍の時代と自殺問題
“広島大学 江頭 大蔵”