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第97回日本社会学会大会 11月9日土曜日午後報告要旨

報告番号142

統治から零れ落ちた存在としての不安定な状況にある人々の統治——フランスの新型コロナウイルス対策を事例として
岡山県立大学 中村 健太

コロナ禍は全世界に甚大な影響を及ぼし、各国は対応を迫られた。その結果、我々は約二年間にわたって、満足に人とも会えない不自由な生活を強いられることとなった。しかし社会学にとって疫病の蔓延とその対策という事象は、国家がいかにして社会を統治しようとしているのかを明らかにするための格好の事例となる。本報告では、この問いを問うために、フランスのコロナ対策を事例として検討を行う。  報告者はすでに、現代社会を統治する主たる技法として、ミシェル・フーコーが提起した安全メカニズムが有効な枠組みとなっていることを明らかにした。安全メカニズムは生物種としてのヒトの群れを意味する個体群を統治対象とし、自由や多様性を奨励しつつ、個体群のもつ死亡率や出生率といった統計的値を参照することで統治をおこなう。ここで重要なのは、個体群のもつ統計的値には正常値が存在しており、正常値を逸脱していなければ一定の被害は容認されるという点である。  安全メカニズムによる統治は、コロナ禍でも行われた。そこでは、疫学的知と呼ぶべき知的基盤が根拠となって社会的距離の確保やワクチン接種などの対策が策定され、社会の正常化が促されていった。ところが、安全メカニズムのみでは十分に統治できない存在が明るみに出る。それが、本報告で注目するホームレスをはじめとする不安定な状況にある人々である。  不安定な状況にある人々は、自身のおかれた環境などの影響でコロナ対策を遵守することが困難だった。だが、彼らをそのまま放置しておくことは、流行が再び拡大するリスクを野放しにすることを意味する。そこで打ち出されたのが、“手を差し伸べる”戦略と呼ばれるものである。この戦略は、マスク着用やワクチン接種といった全国民に対して遵守が求められている対策を、不安定な状況にある人々が遵守できるようにするために前段階から働きかけることを意図していた。  安全メカニズムでは統治できない存在に手を差し伸べることで、対策を遵守できるようにしようとするこの方策は、フーコーの社会医学に関する議論を参照することでその意図を明瞭に理解できるようになる。  フーコーのいう社会医学は、国家医学、都市医学、労働者の医学の三つがあるが、本報告で重要なのは労働者の医学である。労働者の医学は19世紀イギリスの事例から分析される。フーコーによると、当時貧者は、衛生面で社会の治安を乱す存在として恐れられていた。そこで公的に貧者に医療を提供して、貧者を健康にさせ身体を管理することで、貧者以外の人々の不安を除去しようとしたという。  この視座を援用すると、政府は手を差し伸べる戦略によって不安定な状況にある人々を救おうとしたというよりは、彼らを含む全国民のもつ値を正常化させようとしていたことがわかる。つまり、安全メカニズムから零れ落ちた人々を安全メカニズムの枠内に戻すことで、社会を統治しようとしたのである。

報告番号143

関係論的アプローチとしてのI. M. ヤングの批判的社会理論
長崎大学 寺田 晋

1.目的 規範理論をめぐる近年の議論では、従来の平等や自律の概念を原子論的な存在論にもとづく構想として批判する主張が注目されてきた。個人と財との所有関係に注目する分配的パラダイムに対する批判として、過酷な処遇やスティグマの問題を扱う関係的平等の構想が(Anderson 1999)、他者に依存した生を非自律的とみなす個人主義的な自律の構想に対する批判として、他者との関係を自律の構成要件とする関係的自律の構想が提唱されてきた(Mackenzie and Stolijar 2000)。このような関係論的アプローチの展開において、抑圧を鍵概念とするヤングの批判的社会理論は重要な役割を果たしてきた(Young 1990)。そこで、この報告では関係論的アプローチの知的源のひとつとしてヤングの理論を再検討し、関係論的アプローチに役立てることができる未検討のアイディアを見つけ出すことを目指した。 2.方法 関係論的アプローチとの共通点と相違点に着目して、ヤングのテキストを分析した。 3.結果 関係論的アプローチとヤングの理論は、行為や行為能力の開発が阻害されることに不当性を見出す点で共通する。ヤングの場合、行為や行為条件の決定への参加を阻害する支配と能力の開発を阻害する抑圧というふたつの不正義に焦点が置かれているが、同様の問題は関係論的アプローチにおいてもケイパビリティの概念を用いることで分析されている。不当な関係の具体例として女性の抑圧や人種差別の問題が念頭に置かれていることは両者に共通するが、ヤングの場合は階級問題を含みつつ、それ以外の問題も扱えるように拡張するというかたちで関係概念が導入されている。関係的平等の構想とヤングの理論は、分配的パラダイムの批判という点で共通するが、仕事をめぐる問題に関してより踏み込んだ検討を加えているのはヤングである。また、関係論的アプローチとの相違点として、ヤングにおいてはA. ギデンズの構造化理論に依拠した構造概念が用いられていることが指摘できる。 4.結論 ヤングは、仕事をめぐる問題について、タスクを定義する仕事と実行する仕事とを分割する分業体制の問題や労働市場からの周辺化の問題を指摘しており、具体的な提言として職場の民主化や生産的な活動への参加の保障に言及している。こうしたアイディアは関係的平等の構想においても検討されるべきである。また、関係的自律に関しては、抑圧の批判が被抑圧者の自律の否定につながることがジレンマとして認識されてきたが、ヤングの構造概念はこのジレンマを解消できる可能性がある。ヤングは不正義の判断にかかわるのは個人に固有の生活史ではなく社会構造上の立場であり、構造的不正義とは同じような立場に置かれた人々の誰かが被る不正義であるとする。こうした視点から行為と構造をひとつの過程として捉えつつも、両者を分析的に区別することにより、個々人の行為の自律性を肯定しつつ、構造的な抑圧の存在を指摘することが可能になるかもしれない。 文献 Anderson, Elizabeth, 1999, “What Is the Point of Equality?” Ethics, 109(2): 287-337. Mackenzie, Catriona and Natalie Stoljar (eds.), 2000, Relational Autonomy: Feminist Perspectives on Autonomy, Agency, and the Social Self, Oxford University Press. Young, Iris Marion, 1990, Justice and the Politics of Difference, Princeton University Press.

報告番号144

ルーマンの芸術システム論におけるモノ論の射程
中央大学 井口 暁

アクターネットワーク理論や物質的記号論は、モノ(object)を人間と同等のアクターとして位置づけ、人間と非人間が織りなす異種混淆のネットワークの描写を試みることで、新たな社会学的モノ論の地平を切り拓いた。その一方で、それらのプローチは、しばしばネットワークの記述に留まる場合があり、人間とモノがどのように相互作用するのかについての説明が希薄であるという批判も提起されている(牧野 2017: 42)。 本報告では、モノ、人間、社会がどのように関係するのかについて掘り下げ、社会学的モノ論を発展させるための手がかりを、ニクラス・ルーマンの『社会の芸術』(1995)における「モノを媒介としたコミュニケーション」に関する洞察から抽出することを目指す。 ルーマンは、芸術システムを構成する芸術的コミュニケーションを、芸術作品という物質的なモノを介した、芸術家(制作者)と鑑賞者の間でのコミュニケーション過程として捉える。その上で、物質的なモノ、それに対する心的システムにおける知覚、その知覚を基盤としたコミュニケーションが可能となるメカニズムについて詳しく検討している。 以上の議論は、ルーマン理論の文脈から見て、特異な位置にある。ルーマンの社会システム理論およびラディカル構成主義は、社会的世界をコミュニケーションから成る意味世界として捉え、外的世界や心的システムから厳格に峻別するアプローチを提起してきた。ところが、芸術システム論の文脈では、それらの間の関係(構造的カップリング)が正面から考察されているのである。 だが、それに留まらず、社会学的モノ論の文脈から見ても、前述の残された論点、すなわち人間と非人間の相互作用の様態やメカニズムについて精緻化を進める上で重要な手がかりとなりうる。さらにルーマンは、モノ=知覚を通じた非言語的コミュニケーションとしての芸術的コミュニケーションを言語的コミュニケーションと比較することで、前者の特異性と利点をも抽出している。芸術的コミュニケーションは、言語ではなく知覚に準拠することで、言語に埋め込まれているイエス/ノーのコードの適用を回避する可能性を生み出し、「否定されえない社会性」を実現しうる。知覚がもたらす疑いえなさ、確実性を拠り所とすることで、参与者の間に著しい見解の相違や激しい対立が存在する場合においても、コミュニケーションの拒絶・断絶に至ることなく、コミュニケーションの接続を保証することができる。芸術は、モノに準拠することで、広範な多元性と自由と両立可能な社会秩序を可能にするのである。こうした独創的な洞察を整理することで、社会学的モノ論の精緻化と豊富化を進める手がかりを得ることを目指す。 参考文献 牧野智和, 2017,「自己」のハイブリッドな構成について考える––アクターネットワーク理論と統治性研究を手がかりに」『ソシオロゴス』(41): 36-57. Luhmann, Niklas, 1995, Die Kunst der Gesellschaft, Frankfurt a. M.: Suhrkamp. (=2004, 馬場靖雄訳『社会の芸術』法政大学出版局.)

報告番号145

組織の責任と答責性——ルーマンの「組織の公式化」の議論との関連を探る
福岡大学 樋口 あゆみ

【1.目的】本研究の目的は、社会学者ニクラス・ルーマンがキャリアの初期に書いた2つの「責任と答責性(Verantwortung und Verandwortlichkeit)」(1961, 1964)論文を検討することを通じて、以下の二点を明らかにすることにある。第一に一般的には前期・後期と区別されて捉えられているルーマンの議論が、組織に対する問題意識と着想という観点で見れば、一貫している点。第二に、そうした視点は彼の社会理論にも通底しており、リスク論やゼマンティクへと活かされている点である。 【2.方法】「責任と答責性」の成立について2018年から現在に至るまで出版が続いているルーマンの組織論論文集(Schriften zur Organisation)の編者ノートなどを参照しながら、この論文が書かれた目的と重要性とを、ルーマンの組織論研究のみならず、社会理論とも位置づけながら明らかにする。さらにはルーマンの責任概念を使った近年の論文なども加味して、その議論の応用可能性と適用可能性について検討する。 【3.結果】検討を通じて明らかになるのは、なぜ「公式組織とはなにか」を問う必要があったのか、である。公式組織/非公式組織は、概略すれば構造と関係という違いとして捉えられてきた。公式組織が権限や組織構造を、そして非公式組織が成員同士のコミュニケーションからなる関係性を指しており、それらが互いに影響をあたえながら組織は運営されていると考えられている。その上で「組織の公式化」の議論は、組織成員としての諸個人のコミュニケーションが、どのように組織として扱われるかに鍵がある。組織においては、人びとが負っている責任の一部を免除し、組織システムに移行するという契機があり、それゆえに組織は個人と切り離される。いわば負担免除として、また外部に責任の所在を明らかにするという意味での権限体系や答責性といった「責任の形式化」が必要になる。 【4.結論】社会学にとって「社会秩序はいかに可能か?」は、その学的はじまりからなされている中核的な問いのひとつである。マックス・ウェーバーが近代社会の特徴を官僚制の研究を通じて迫ろうとしたのと同様に、ルーマンにとって、組織とは何かを問うことは、近代社会の秩序とはどうあるのかを問うことであった。そうした見取り図にあって、一般的な責任概念と、誤りに対する責任を形式化した答責性とを区別することによって、ルーマンは組織システムにおける成員の責任からの免除メカニズムと、答責性の帰属の過程とを分析可能にしたのである。

報告番号146

ダブル・コンティンジェンシー問題と「走れメロス」——見田宗介(2016)の「無償化された友情」解と「囚人のジレンマ」解の検討
摂南大学 樫田 美雄

1. 『ダブル・コンティンジェンシー』に関する議論の近況  『ダブル・コンティンジェンシー問題(二重の偶有性問題)』は,恐らく疑似問題だ.我々の世界は,そもそも不確定性に満ちていて,コミュニケーション相手の選択が,自分の選択に依存しており,かつ,自分の選択がコミュニケーション相手の選択に依存しているケース(二重の偶有性ケース)」における不確定性だけを特別に取り上げる必要はない.  あるいは,現実においては,ガーフィンケルがアグネス論文(1967)で描いたように,「(相手の)期待への追随」というコミュニケーションスタイルが,具体物を媒介しないで理解の一致をもたらす方法として,現実的「解」を提供している.また,数土(2001)が主張しているように,「囚人のジレンマ」問題として考えて行くことができるのだから,決定不可能ではない,ともいえよう. とはいえ,一定の目標を一定の環境下で果たそうとする場合には,当該の思考者にとって,「二重の偶有性」が,乗り越えるべき「問題」となることもあろう.太宰治の『走れメロス』における「王」と「メロス」について見てみよう.少なくとも,物語の中盤においては,いずれもがこの「問題」に悩んでおり,「自分が信じたときに裏切られる可能性」に怯えていた.そして,この「裏切りの可能的被害者であること」(X部)が「王の残虐さ」の根拠であり,「メロスがセリヌンティウスを裏切りかけた」原因であった. 2. 見田宗介のメロス論  中盤での「メロスの走りの再開」は,肉体的復活であると同時に,精神的復活でもあった.しかし,この後者の「精神的復活」を可能にした論理の解明は進んでいなかった.見田(2016)は,そこに「無償化された友情」説を主張した.即ち,「相手の出方に依存することを辞めて,走る理由を自足的に発見すること」がなされたのだ,と主張した.これがどのように「二重の偶有性」問題に対しての解となりうるのか,詳細な議論は,当日配布する. 3. 他の解(「囚人のジレンマ」的解)との比較とまとめ  『走れメロス』の終盤には,「メロスとセリヌンティウスの相互殴打」シーンがあり,樫田は,これを2023年の日本社会学会大会では,<「しっぺ返し戦略」を取っている両当事者における「リセット」場面である>と主張した.問題は,この昨年の「解」と,今年の「解」の併存可能性/両立可能性,である.太宰は,同じ問題に対する2つの解を併記したのだろうか.それとも,2つの解がある,という理解が間違っているのだろうか.これらの点についても当日に,資料を配布して述べることとしよう. 【文献】 樫田美雄,2023,「『走れメロス』からの社会学」『新社会学研究』8 :5-19. 樫田美雄,2024,「『走れメロス』のシン・社会学-出口智之(文学)と見田宗介(社会学)の議論を受けて」『現象と秩序』20:105-132.(http://kashida-yoshio.com/gensho/gensho.html) 春日淳一,2005,「ダブル・コンティンジェンシーについて」『関西大学経済論集』55(3):445-455. 見田宗介,2016,「走れメロス――思考の方法論について」『現代思想』44(17): 16-26. 数土直紀,2001,『理解できない他者と理解されない自己』勁草書房.

報告番号147

ネオリベラリズム(批判)の多様性——自由・能力・ケイパビリティの観点から
金沢大学 村上 慎司

ネオリベラリズムに関する多様な考え方があり、その使用に対して懐疑する見解もある。本報告は、ネオリベラリズム概念の有効性を考察するため、そのオルタナティブな理論的立場となりうるA・センが提唱するケイパビリティ・アプローチ(以下CA)に着目する。なぜならネオリベラリズムとCAは共通して自由を重視するが、その解釈の差異が両者の能力を巡る議論にも反映され、これらの検討に意義があると考えるからである。  この背景下で本報告の目的は、先行研究の文献読解に基づきCAにおける自由と能力の観点から多様なネオリベラリズム(批判)を検討して、ネオリベラリズムを概念的に彫琢すると同時にCAを社会理論として洗練させる予備的考察と論点の明確化を試みることである。  主な検討の結果は以下の通りである。M・フーコーによればネオリベラリズムの要点は、国家が社会に市場の競争原理を貫徹するように介入することで「自由」を創出すると謳う点にある。フーコーのネオリベラリズム論における不十分な国家権力論に対して、フーコーの衣鉢を継ぐG・シャマユーは、F・A・ハイエクとC・シュミットの思想を参照しながら「権威主義的リベラリズム(authoritarian liberalism)」を定式化する。その特色は、ピノチェト独裁政権下のチリを念頭においたハイエクの見解、即ち、個人的自由が経済的自由に限定され政治的自由はオプションに格下げされることの容認にある。  こうしたハイエクの自由論を検討するため、本報告はCAに基づく実質的自由、とりわけ、「エージェンシー的自由(agency freedom)」と「福祉的自由(well-being freedom)」に区分されるセンの自由論に注目する。前者のエージェンシー的自由は能動性と関連するが、こうした行為(doing)を強調しがちな能動性が前景化すると、状態(being)/福祉(well-being) の価値が毀損されるのではないかという懸念、例えば、G・A・コーヘンが言う「アスレティシズム(athleticism)」としてCA批判がありうる。これに対して本報告は、当人にとって価値ある理由がある状態(being)とその達成可能性を擁護することがCAの理論的射程に含まれるが、そもそも行為と状態の明確な識別が困難であり、このこと自体が自由に関する重要な論点になることを示す。  次に能力の議論に移ると、ネオリベラリズムにおける個人モデルは、能力を個人主義的に特徴づける。また、N・フレイザーは、「進歩主義的ネオリベラリズム(progressive neoliberalism)」において平等がメリトクラシーに縮減されたと指摘する。これらに対して、CAは能力の社会的決定要因を考慮し、そして、近年では集団レベルのコレクティブ・ケイパビリティの意義が研究されているが、依然としてCAにおける個人主義の理論的位置づけが問われる。  最後に、フレイザーが想定する進歩主義的ネオリベラリズムは中道左派のネオリベラル化と解釈できる。これに対してCAに依拠する中道左派はメリトクラシーと異なる方式で各人の自由・能力を評価する経済システムの設計可能性に直面するが、フーコー=シャマユー的な意味での民主政の統治問題及びハイエク流設計主義批判を踏まえると、その設計可能性はより一層難題であることを指摘する。

報告番号148

生成AIは社会調査の方法を改善するか
東京大学 瀧川 裕貴

ここ数年におけるAI技術の進展は人々の予想を超えて驚異的なペースをみせている。とりわけ、直近では、生成AIと総称される文章や画像、動画、その他様々な内容を生成できるAI技術が飛躍的なブレイクスルーを果たした。生成AIがわれわれの社会や文化、実践を大きく変えるだけの影響力を持ち、また変えつつある点についてはすでに衆目の一致するところだろう。それだけでなく、生成AI技術は社会科学の方法論をドラスティックに変革する可能性をも秘めている。 すでに多くの社会学者、社会科学者が生成AIが社会科学にとってもたらす帰結の検討を進めているが(cf. Bail et al. 2024; Grossmann et al. 2023; Ziems et al. 2023)、この問題はきわめて重要であり、また技術の日進月歩がめざましいため、継続的に議論を整理し、最新の状況に合わせてアップデートしていく必要があるだろう。そこでこの報告では、現在までに生成AIが(広い意味での)社会調査に与える影響について検討した様々な議論を整理し、今後の展望を考察したい。その際に報告者自身が実際の社会調査において行っている生成AIの活用法についても紹介したい。 社会調査における生成AIの活用については、大きく次の4つに分けることができる。 1) 社会調査・実験の素材生成として 2) 社会調査・実験の回答者として 3) エイジェントベースモデルのエイジェントとして 4) テキスト分析の分析者として 1)については、例えばビネット実験のビネットを生成AIに作成させるという用途が考えられる。もちろんこれは単純な人的コストの削減という点でも十分意義があるが、それだけではない。例えば、生成AIに人力では不可能なほどの大量なビネットを作らせ、それを用いた大規模ビネット実験を行うことで、大規模テキスト分析と実験を組み合わせることも可能となる。これについては報告者が現在取り組んでいる研究について紹介する。 2)については、生成AI自体に社会調査や実験の回答者になってもらうことで現実に社会調査をせずとも社会や人間行為者について知ることができる可能性が開けている。もちろん、生成AIの回答と現実の回答が実際にどのように関係づけられるかについては慎重な検討が必要となる。 3)については、従来の単純な行動原理に基づくエイジェントに変えて、より複雑で言語能力さえ有するエイジェントを用いることで、リアルなシミュレーションが実現できると期待できる。また、マクロ社会学実験とエイジェントベースモデルを統合したような新たなタイプの社会学実験を行うことも可能であろう。 4)については、ゼロショットラーニングやフューショットラーニングと呼ばれる手法を用いることで、教師データがほとんど存在しない状況でテキスト分類などのタスクをこなすことができるようになっている。これは社会科学に関するテキスト分析のハードルを事実上ゼロに近いレベルに引き下げることを意味し、その意義は計り知れない。この点については、報告者の実際の分析事例を引きながらさらに議論することにしたい。

報告番号149

AIの導入・運用の理念と方針の社会学的検討——「定量・実証主義」をめぐる議論と、事例からの見直し
CIOL ウォーターズ めぐみ

本報告は、急速かつ広範囲に広がるAIの導入から問い直される、「知識」「知能」などの概念の内容や基準、内在される価値について、社会学とその周辺から把握と検討を試みるものである。 AIが何を目的とし、誰の権利・利便性などを尊重し、どのように運用されるべきものかという理念的な枠組みの共有と設立が、展開を続ける状況に追い付いていないという側面もある。 社会学および「社会科学」と呼ばれる隣接分野における、定量・定性アプローチなどの学問的な方法論をめぐる議論の蓄積は、単なるテクノロジーの向上にとどまらない「デジタル革命」の様々な次元を読み解き、指針を与える役割を担うと考えられる。 本報告では、人間の活動、特に産業と労働においてAIが置き換えられるとされる様々な活動の例から、「知識」「知能」「主体」などの位置や関係性を探ることとしたい。 また、商業サービス主導で進められ、表面化して語られていることと語られていない背景・構造についても取り上げ、考察するものとする。 事例としては、主に以下のものを扱い、報告者の経験を交え報告と分析を行う。 1)語学(翻訳業務および語学学習の周辺) 2)地図作成・地理的情報処理と成果(地理情報システム=GISをめぐる定量・定性データの議論、パターン認識の「展望」など) 3)サーベイランス周辺(ドローンや自動運転乗用車などの機器遠隔操作と、GIS・携帯電話等他システムとの連携による成果) 4)インターネットでのサービスとコミュニケーション(特にSNSの運用) 5)AIとEU法の知財権をめぐる対立(AIに与えられる「学習素材」としての人間の諸作品の扱いをめぐる諸問題) 6)ガイドライン・法律の重要性(イギリスでの大規模900人以上が巻き込まれた郵便局冤罪事件と責任の所在など) 以上を通じて、AIの現状と「見込み」の差、定量・定性面での再考(例:AIはTPO、人種・民族・階級・ジェンダー、文化や地域の違い等の「性質」の違いに対応できるか等)、指針・ガイドラインの面から見る安全・適切・適法性、AIの判断がどこまで妥当といえるか(ツール/神託?)、背景の傾向等を見直し、「知識」「知能」「主体」をめぐる評価を行うこととしたい。 参考論文など Openshaw, S., 1992, Further thoughts on geography and GIS: a reply, Environment and Planning A 24:463-466 Turing, A.M., 1950, COMPUTING MACHINERY AND INTELLIGENCE, MIND: A QUARTERLY REVIEW OF PSYCHOLOGY AND PHILOSOPHY VOL.LIX. No.236(October): 433-460  ほか

報告番号150

質的研究における妥当性向上の技法——認識論的議論と日本の社会学論文での実践状況
立命館大学 桜井 政成

質的研究における妥当性概念は量的研究のそれとは異なっており、独自に議論され続けている。本研究ではまず質的研究における妥当性概念の検討を、代表的な2つの論(Lincoln and Guba, 1985 とMaxwell, 1992)から行う。そしてそれを踏まえた質的研究における妥当性向上の指針を検討する。次に、インタビュー調査研究を例とした妥当性向上の具体的技法として、飽和、トライアンギュレーション、メンバーチェックについて概説するとともに、異なる認識論パラダイムにおいてそれらを導入することにどのような議論にあるのかを確認したい。そして、日本社会学会発行『社会学評論』掲載のインタビュー調査研究の妥当性向上の方策を、上記3技法の観点を中心に分析を行い、日本の社会学研究における現状の傾向を検討し、今後の研究実践への示唆を述べたい。  本稿の概要は以下の通りである。まず妥当性概念の検討から質的研究における妥当性概念の特徴を整理したが、それは量的研究のそれとは異なる概念化がなされており、その上で、独自の妥当性概念も存在していた。質的研究の妥当性概念には多様性がありつつも、実際の研究で妥当性を向上させるための具体的な指針がこれまでに共通して幾つか提唱されてきている。それは代表的には、バイアスの扱いを踏まえての透明性、再帰性、プロセス性である。  次にインタビュー調査を例に、飽和、トライアンギュレーション、メンバーチェックといった3つの質的研究における妥当性向上のための代表的な技法を取り上げ、認識論的差異に基づく議論を検討した。そこでは、認識論的な論争が多少見られるものの、認識論自体の実践上の調整(「繊細な現実主義」)がなされることなどよって、ゆるやかな合意のもとで取り組まれていることが理解できた。これは、特定の技法が特定の哲学的立場やパラダイム的立場と無差別に結びつく必要はないとしたSeale (1999)の見解が今も生きていると言えるだろう。  そして、日本の社会学系研究雑誌の掲載論文において、妥当性向上の方策はどのようになされてきているかを明らかにするために、日本社会学会発行『社会学評論』に掲載された、インタビュー調査を実施した論文を分析した。分析の観点はここまで論じた飽和、トライアンギュレーション、メンバーチェックの3技法を中心としている。CiNiiで検索した結果から抽出した69本の論文を対象として分析を行った結果、妥当性向上の戦略はトライアンギュレーションが主流であった。それらの多くの研究ではエスノグラフィ的な指向を持っており、そのために「厚い記述」を重視していた。一方で、それ以外の妥当性の可能性を高める方策には関心が薄い傾向にあった。なお対象となった研究では、認識論についてはトライアンギュレーションの多さと相まって、多くの研究が実証主義か「繊細な現実主義」の立場に立っていると理解できる。  しかしながらCiNiiでの検索では、『社会学評論』においてインタビュー調査を行っている研究をすべて抽出することはできなかった。そのため改めてJ-STAGEを用いて論文を抽出し、再分析を行いたいと考えている。報告時にはその結果を踏まえた、最新のより現実に即した検討結果を提示したい。

報告番号151

社会科学の領域における統計的技法の応用研究再考 ——Guttmanの最小空間分析(SSA)のリバイバルの事例
統計数理研究所 真鍋 一史

近年、欧米を中心に、SSA (smallest space analysis) のリバイバルともいうべき研究動向が出現した。SSA は、多次元尺度法(MDS)の系列に属し、相関行列に示されたn個の変数間の関係を、m次元の空間におけるn個の点の距離の大小によって示す技法である。現在の統計的技法の主流からするならば、SSA は「古典的な技法」として位置づけられるかもしれない。 しかし、そのような技法が社会科学の領域におけるsubstantiveな問題関心に導かれて、 再び効果的に利用されるようになってきた。ここでは、つぎの2つの研究事例を取りあげる。 1つはS. Oreg et al.の「人びとの変化に対する抵抗尺度の開発に関する研究」であり、もう1つはS. Schwartzの「人びとの価値観の測定モデルの構築に関する研究」である。まず、前者は、測定尺度の開発を、国際比較の視座から進めていくために SSA を利用し、その方略は成功し、「研究の方法論的な質の向上」が達成された。つぎに、後者においては、 SSAの利用は、そのような「研究の質の向上」というレベルを越えて、さらに新しい「価値観理論の構築」をも可能にした。 では、以上のようなSSA のリバイバルの研究に問題はないのかというと、それは決してそうではない。その最大の問題は、SSAのリバイバルにおいては、Guttmanの知的遺産のなかから、SSAという統計的技法のみが利用され、その技法が位置づけられるファセット・アプローチが活用されていないということである。ファセット・アプローチは、①ファセット・デザイン:質問紙調査の諸仮説を表現する独自の手法(マッピング・センテンスなど)、②ファセット・アナリシス:仮説検証型のデータ分析の統計的技法(SSAなど)、③ ファセット・セオリー:質問紙調査のデータ分析(つまり、ファセット・アナリシス)にもとづく人間行動の諸法則と諸理論、の3つの領域からなる「三位一体の知の体系」ともいうべきものである。それは、いいかえれば、統計的技法と、社会科学の諸領域とを強力につなぐインターフェースということができる。こうして、SSA は、ファセット・アプローチのなかに位置づけられて、初めてその威力を最大限に発揮することができるのである。 以上のような議論は、しかし、概念的に理解されるものではない。そのためには、具体的なデータ分析のデモンストレーション/イラストレーションが不可欠である。この研究発表では、発表者のデータ分析の実例を用いて、以上の点を具体的に解き明かしていく。そして、このようなデモンストレーション/イラストレーションをとおして、社会科学の領域における統計的技法の応用研究のあるべき方向が明らかとなってくるのである。 <文献> 真鍋一史『ファセット・アプローチとデータ分析事例』ミネルヴァ書房、2024年.

報告番号152

未婚化を“説明する”ための理論・方法論上の課題——「個人の選択」から「2人の約束」へ
帝京大学 神山 英紀

【1.目的】キリンの首がなぜ長いか、日本でなぜ地震が多いか説明するのに進化論やプレートテクトニクス理論が要るように、現象の“説明”には一般理論が不可欠である。未婚化も同様、計量分析による相関の有意や寄与率等々はそれらのみでは納得ゆく答えとならず、理論で意味づけられなくてはならない。未婚化が説明されないのは理論の不在によるので、この観点から、未婚化への既存アプローチを整理し、何が達成され欠けているかどう発展させればよいか明らかにすべきである。 【2.方法】未婚化の原因を問われると、我われの注意は自然にミクロの状況や個人に向かい、事象の特性として、まず、それは①個人の選択でなく2者でなされる何かと気づく。一方、未婚化は、明らかにマクロ水準の長期的変化(プロセス)であるから、➁その原因もマクロ水準の長期プロセスのはずと考える。①と➁の矛盾を前に、Coleman bathtubで浮き沈みしつつ③因果関係の焦点はミクロ水準にあるがこれをマクロ水準の長期プロセスにリンクさせるパスを明確にすることが重要と考え至る。①~③を留意点として、未婚化に関連する社会学・経済学・人口学の既存アプローチを大きく捉えて可能性を採取し、理論構築に資す点と限界を明らかにする。 【3.結果】アクチュアルな事象に即応し市民社会と応答するのは社会学が誇る伝統であり、体現者たる山田昌弘氏らによって、未婚化の問題は社会学そして世の主要論点の地位を得た。ただ、それゆえ、その後30年に及ぶ未婚化の理解が正しく更新されたかは疑問である。未婚化はバブル崩壊以降の日本経済の長期停滞―その間にも景気循環はある―と関連づけられやすいが、マクロ時系列データをみれば80年代から未婚化は連続して進行し、また(東アジアだけでなく)先進国・新興国の多くで普遍的にみられる。G. Beckerの結婚の理論はつとに知られ、それは経済学の基本仮定と精緻な理論構成を反映する。注目すべきは協力ゲーム論に基づく結婚把握で、それは否定し難い「2人による約束」というミクロ結婚モデルの基礎たりうる。ただ、市場均衡概念を通じてマクロ社会の把握につなげる展開は、結婚相手の不断の組み換えを前提するが、「自由市場は効率的」のドグマに並走させるそれはあらぬ方へ我われを誘うので、別のパスを見出す必要がある。人口学は、形式面で、社会諸科学に探求の基盤となる指標を与えるが、両性の人口を統制して「2人の約束」が生起する可能性を示す指標はない。これは結婚関数の変形で得られるが、人口再生産を主題とするこの学で、結婚はサブテーマに止まる。 【3.結論】よって「2人の約束」を現す結婚モデルをミクロの因果関係として提示しつつ、そのモデルの結果と原因を、それぞれ、マクロの長期プロセスである未婚化と原因につなぐパスの明確化が求められると分かる。未婚化の理論的説明は、通常の分析による推論と逆に、理論からモデルを導き未婚化の軌跡を再現し検証し予測を導く。男女が行動を調整しあい共同益を得る約束が結婚ならば、男女の賃金差がなくなるにつれ、夫妻が分業する理由はなくなるから、結婚して得られる利益のその分(分業益)は減り、数十年では結婚の利益は激減したであろう。その間に劇的に未婚化が進行(そして終焉)しても不思議ではないが、“説明”とするには理論的・方法論的突破が必要となる。

報告番号153

回顧調査/パネル調査でわかる結婚・離婚・再婚——家族に関する振り返り調査の分析(1)
関西大学 保田 時男

1.目的  本報告のねらいは、回顧調査およびパネル調査で捉えられる婚姻状態の変化(結婚・離婚・再婚)の違いを分析し、主に回顧調査のメリットを主張するものである。時間的な変化に関する分析をするためにはパネルデータが望まれることはよく知られている。しかしながら、パネル調査によるデータ収集には、データ収集期間の長さ、脱落等による偏り、金銭的コストなど、いくつかの問題がある。これに対して1回の調査で過去の変化を思い出してもらう回顧調査では、(うまく記憶を想起してもらえれば)上記の問題は解決できる。本報告では、ほぼ同じ母集団を想定して収集された回顧調査とパネル調査の分析結果を比較することで、両調査で捉えられる結婚・離婚・再婚がどう異なるのかを明らかにする。 2.方法  回顧調査として「家族に関する振り返り調査」(RSFH)を用い、パネル調査として「働き方とライフスタイルの変化に関する全国調査、若年パネル」(JLPS-Y)を用いる。この2つの調査は、調査対象の範囲が完全に一致しており、両調査とも1972~1986年生まれの全国無作為抽出サンプルである。また、有効回収サンプルの規模も極めて近く、RSFHは3327票、JLPS-Yは3367票(第1波)である。違いは、RSFHが2022年時点からの回顧調査であるのに対して、JLPS-Yは2007年から毎年追跡のパネル調査ということである。両調査の分析によって、回顧調査とパネル調査でわかる結婚・離婚・再婚の実態にどのような違いがるのかを明確にする。 3.結果  単純な婚姻状態の分布としては、2007年の分布では両調査の間でほとんど違いは見られないが、調査対象年が進むほどに分布の差異が大きくなることがわかった。差異は離婚の割合について大きく、回顧調査はパネル調査の1.5倍の割合で離婚経験者を捉えている。また、パネル調査が脱落によりサンプルサイズが半減しているため、離婚経験者のサンプルサイズは回顧調査のほうが約3倍の規模となる。また、回顧調査では婚姻状態の変化に伴う意識の変化が大きく出る傾向があり、とくに離婚およびその後の意識の変化が比較的きれいに観察される。 4.結論  いくつかの視点から、婚姻状態の変化(結婚・離婚・再婚)、およびそれに伴う生活の変化を捉えるうえでは、回顧調査のほうがふさわしい場合が多いことがわかった。これは主に、離婚に伴う生活の悪化がパネル調査からの脱落原因になることの影響が大きいためと考えられる。また、回顧調査はある時点からの生活を振り返るため一貫した物語が回答に現れやすいものと解釈できる。分析目的によってはこの特徴が望ましくない場合もあることには注意が必要である。 【謝辞】 本研究は日本学術振興会(JSPS)科学研究費補助金19H00615「大規模回顧調査による家族形成期のパネルデータ分析」(代表:保田時男)および24K00335「回顧調査によるパネルデータ分析の方法論的な発展」(代表:保田時男)の助成を受けたものである。 本研究は、日本学術振興会(JSPS)科学研究費補助金・特別推進研究(25000001, 18H05204)、基盤研究(S)(18103003, 22223005)の助成を受けたものである。東京大学社会科学研究所(東大社研)パネル調査の実施にあたっては、社会科学研究所研究資金、株式会社アウトソーシングからの奨学寄付金を受けた。パネル調査データの使用にあたっては東大社研パネル運営委員会の許可を受けた。

報告番号154

系列分析を用いた恋愛から結婚履歴の類型化——家族に関する振り返り調査の分析(2)
大東文化大学 香川 めい

1.目的 本報告の目的は、系列分析を用いて若年期の恋愛と結婚の履歴を類型化し、個人の属性との関連を検討することにある。恋愛結婚が現在の結婚の主流を占めることはよく知られている。晩婚化、未婚化が進展するなか、結婚の前提となる恋愛経験には一定の関心が集まってきた。しかし、人びとがどのように恋愛を経験し結婚に至るのか履歴の側面には不明な点も多い。たとえば、若者の恋愛経験がおしなべて低調になっているのか、恋愛を全く経験しない層と活発な層の断絶が生じ二極化が進行しているのか、また、恋愛はするものの結婚に至らない層の分布に変化はあるのかなど、プロセスをみないとわからないことも多い。 2.方法 2022年度に実施した「家族に関する振り返り調査」(35~50歳の男女が対象)を分析に用いる。本報告では、15~35歳までを観察期間とし、この期間の恋愛、結婚経験の情報がすべて有効な3,305ケースを分析の対象とした。 分析に際して、観察期間21年間の恋愛、結婚経験を(1)未婚で恋人がいない、(2)未婚で恋人がいる、(3)結婚しているの3つの状態で把握するパーソン・イヤー・データを作成した。未婚で恋人がいない状態が期間中継続していた369ケースを除く2,938ケースに対し、系列分析(DHD)を行って非類似度距離を算出し、この非類似度行列に対してクラスター分析(Ward法)を用いて類型化した。 3.結果 非類似度距離行列に対するクラスター分析から7クラスターの結果を採用した。21年間恋愛も結婚もしなかった類型を含めると人びとの恋愛・結婚履歴を8つに集約したことになる。それらは、(1)恋愛少→結婚(20代半ば)[N=692]、(2)早婚[N=424]、(3)恋愛→結婚(20代半ば)[N=498]、(4)恋愛→結婚(30代)[N=259]、5)恋愛少[N=394]、(6)恋愛少→結婚(30代) [N=277]、(7)恋愛継続[N=394]、(8)恋愛・結婚なし[N=367]である。 これらの類型と性別、生年コーホート、学歴との関連を確認した。男性では「恋愛結婚なし」と「恋愛少→結婚(30代)」が多く、女性で「早婚」と「恋愛→結婚(20代半ば)」が多い。若いコーホートで「恋愛少→結婚(30代)」と「恋愛・結婚なし」が増え、「恋愛少→結婚(20代半ば)→」と「早婚」が減少している。短い恋愛期間を経て結婚する類型の結婚年齢が高くなっている。学歴別には「早婚」は学歴が低くなるにつれて、「恋愛少→結婚(20代半ば)」は学歴が高くなるにつれて増加する。大卒以上では、「恋愛→結婚(30代)」も相対的には多い。なお、(7)「恋愛継続」クラスターには性別や生年コーホートの属性による大きな違いはなかったが、わずかながら学歴の低い方が(7)「恋愛継続」になりやすい傾向が見られた。 4.結論 以上をふまえると、属性によって恋愛から結婚の経験の仕方には違いがあるといえる。また、高学歴化の影響をうけ20代前半での結婚が生じにくくなったこと、結果として、若者の恋愛・結婚経験には恋愛を経験しない人と経験する人の二極化が進行している可能性が指摘できる。 【謝辞】 本研究は日本学術振興会(JSPS)科学研究費補助金19H00615「大規模回顧調査による家族形成期のパネルデータ分析」(代表:保田時男)および24K00335「回顧調査によるパネルデータ分析の方法論的な発展」(代表:保田時男)の助成を受けたものである。

報告番号155

初婚タイミングは親子間で連鎖するか?——家族に関する振り返り調査の分析(3)
熊本大学 菅澤 貴之

1.目的 結婚行動に関する実証研究は社会学、経済学、人口学といった複数の社会科学分野で積極的に展開され、知見の蓄積が確実に進んでいる。しかしながら、日本社会を対象として、早婚に分析の焦点をあわせた研究は、管見の限り、きわめて限定される。これは初婚件数全体に占める早婚の構成割合が、1970年以降、男女ともに5%未満にとどまっていることも影響しているものと思われる。 そこで、先行研究では見落とされがちであった早婚という結婚行動について、本報告では世代間連鎖の視点にもとづき、その実態とメカニズムを検討する。この試みをとおして、結婚行動の総体の把握につながることを目指す。 2.方法 本報告で分析に使用するのは「家族に関する振り返り調査」の個票データである。本調査は、2021年12月31日時点で満35歳から49歳(1972年~1986年生まれ)の男女を対象に2022年2月から3月に郵送法で実施された。層化二段抽出法により日本全国254地点から7620人のサンプルを抽出し、最終的な有効回収数は3327人、回収率は43.7%である。本報告では、データをパーソン・イヤー形式に変換したうえで分析に用いる。分析対象は、18歳から調査時年齢までのパーソン・イヤーである。したがって、女性かつ18歳未満で初婚を経験したケースは分析対象から除外している。くわえて、分析で使用する変数に欠損がある場合も対象から除外している。 今回の分析で採用する手法は離散時間ロジットモデルである。従属変数は未婚である個人が初めて結婚を経験すること、すなわち、初婚イベント生起の有無をあらわすダミー変数である。独立変数は、先行研究を踏まえ、親の早婚、親の離婚、15歳時の経済状況、本人学歴、子どもの誕生の5項目を設定した。さらに、統制変数として、性別、出生コーホート、父親学歴の3項目を設定した。 3.結果 分析の結果、親が早婚であった場合には、その子どもも早婚となる確率が高まるという、「早婚の世代間連鎖」の存在が示唆された。世代間連鎖のメカニズムとしては、以下の過程が導出された。親の早婚は15歳時の貧困リスクを高め、さらに、その結果として、子の教育達成が低くなるという、ライフコース初期過程における累積された不利によって早婚が世代間で再生産される。妊娠(子どもの誕生)も早婚確率を高める大きな要因であったが、若年期での妊娠の背景には、部分的ではあるものの、親の早婚を起点とした生育環境と教育達成における不利の累積経験が存在していることも明らかとなった。 4.結論 早婚、それ自体は問題ではないが、さまざまな不利の累積経験の帰結として「早婚の世代間連鎖」が発現しているとすれば、それは支援施策が必要とされる社会的問題と結論づけられる。たとえば、現在、政府が掲げる若年親やひとり親家庭などの困難を抱えている世帯の子どもに対する就学前から高等教育段階までの切れ目のない生活・学習支援の強化は、教育達成の格差を是正するうえでの有効な支援施策として期待できるだろう。 【謝辞】 本研究は日本学術振興会(JSPS)科学研究費補助金19H00615「大規模回顧調査による家族形成期のパネルデータ分析」(代表:保田時男)および24K00335「回顧調査によるパネルデータ分析の方法論的な発展」(代表:保田時男)の助成を受けたものである。

報告番号156

少子化対策は未婚者の出生・結婚意欲を高めるか——未婚者への少子化対策の効果に関する要因配置実験(1)
学習院大学 麦山 亮太

【1.目的】先進諸国における少子化の進行を背景として、いかなる政策が出生率を高める効果を有するのかについて研究がなされてきた。また、政府も出生率の上昇を企図して「異次元の少子化対策」はじめ様々な政策を提案している。しかしながら、こうした政策は主として既婚者またはすでに子どもを持つ人々をターゲットにしており、結婚率の減少が主たる近接要因と指摘されてきた日本の低出生率を向上するうえには不十分ではないかとの指摘もある。そこで本研究は、さまざまな少子化対策を実施することで、未婚者の出生意欲、さらには結婚意欲がいかに変化するのかを要因配置実験を用いて明らかにする。要因配置実験はこうした問題関心にとって有効な方法であるにもかかわらず、既存研究はいずれもすでに結婚している夫婦またはカップルを対象としたものであり、未婚かつ子どものいない対象者を扱った研究はない、本研究は少子化対策が暗黙に対象に置いていた人々を超えた波及効果を有するのかを明らかにするはじめての研究として先行研究への貢献を果たす。 【2.方法】2023年に実施した、未婚で子どもを持たない20-34歳の男女1355名を対象として実施したウェブ調査データを使用する。調査では回答者に対して(1)残業規制、(2)育児休業給付金、(3)育児短時間制度、(4)児童手当、(5)保育園の利用、(6)大学入学金・授業料、(7)消費税増税、に関する架空の政策セットを各個人につき16回提示し、それぞれその政策が実施された場合の出生意欲および結婚意欲を聴取する、要因配置実験を実施した。その他個人属性に関する情報を聴取し、これらは統制変数として分析に含められる。分析には出生意欲および結婚意欲を従属変数とするマルチレベルモデルを用いた。 【3.結果】分析の結果、(1)から(6)の政策の充実はいずれも出生意欲および結婚意欲の双方を高める効果を有することが明らかとなった。特定の政策の効果が他と比べてきわめて大きいといった結果は確認されなかった。また(7)消費税増税の実施は出生意欲および結婚意欲を引き下げる効果を持つことも示された。以上の分析結果は様々な追加分析を行っても頑健であった。ただし、以上の効果量は雇用形態間や交際状況間における出生意欲や結婚意欲の違いと比べると相対的に小さかった。 【4.結論】本研究の結果は、既婚やすでに子どもを持つ者を対象としている政策であったとしても、将来にわたって期待される負担を引き下げることを通じて、間接的に未婚者の出生意欲を高める効果を有する可能性を示唆する。さらに、出生意欲のみならず結婚意欲も政策の効果を受けることは、日本における結婚と出生の強い結びつき(子どもを持つためには結婚するものである)を反映しているとみられる。少子化対策の効果を評価するうえでは、その直接のターゲットとして想定されている既婚あるいは子どもを持つ者のみならず、未婚あるいは子どもを持たない者まで含めて評価する必要がある。

報告番号157

未婚者の結婚・出生意欲への少子化対策の効果は学歴・教育意識により異なるか?——未婚者への少子化対策の効果に関する要因配置実験(2)
立教大学 大久保 心

【1. 目的】 労働力や福祉制度の持続可能性への懸念から、少子化は国際的な社会問題となっている。学術的にも少子化対策については数多く議論がなされており、政策が出生率や出生意欲に与える効果の検討を通じて、出生を促進する要因が模索されてきた。 だが、日本の文脈を踏まえると、大きく2つの課題がある。第1に、未婚者の結婚意欲や出生意欲を考慮に入れた分析は十分に行われていない。先行研究の焦点は既婚者の出生意欲をいかにして高めるかという点に置かれてきた。しかしながら、50歳時未婚率が上昇し、かつ結婚と出生との結びつきが強い日本では、未婚者の結婚意欲や出生意欲を高める要因も、少子化対策として検討する必要がある。第2に、これまでの研究では、未婚者と少子化対策の効果とその異質性について十分に解明されていない。学歴が高いほど教育意識が高く、子どもへの経済的・時間的投資も強い傾向が国内外の多くの研究で示されてきた。このことを踏まえると、日本においても、子育ての投資により積極的とされる高学歴層や高教育意識層ほど、子どもへの経済的・時間的投資をサポートするような少子化対策に対してより強く反応して結婚意欲や出生意欲を高めると想定される。そこで、本研究では、未婚者の結婚・出生意欲への少子化対策の効果が学歴・教育意識により異なるかについて検討する。 【2. 方法】 [データ]未婚かつ子どものいない20-34歳の男女を対象とした、2023年12月実施のWeb調査「若者の結婚と子育てに関する調査」のデータを用いる。本調査は、回答者に7項目に関する架空の政策を示したヴィネットへの結婚意欲・出生意欲を、回答者ごとに16ケース回答してもらう要因配置実験である。政策7項目の内容:(1)残業規制、(2)育児休業給付金、(3)育児短時間勤務制度、(4)児童手当、(5)保育所利用、(6)大学入学金・授業料、(7)子育て支援のための増税。[分析対象]使用する変数に欠損のない1273名。[変数]従属変数:結婚意欲(7件法)および出生意欲(ほしい子どもの数0人-5人以上)。独立変数:架空の7政策。交互作用項:独立変数*学歴および独立変数*教育意識。統制変数:性別・異性との交際状況・就業状況・年齢・所得・中3時成績など。[分析戦略]結婚意欲、出生意欲を従属変数としたマルチレベル分析(レベル1=政策、レベル2=個人)。さらに、ヴィネットを提示する前の元々の出生意欲が0人である場合とそれ以外のサンプルに分割し、それぞれ分析した。 【3. 結果】 (1)〜(5)および(7)の政策の効果と学歴・教育意識について、一貫した傾向は確認されなかった。一方、(6)大学入学金・授業料については、従属変数が結婚意欲・出生意欲、また分割サンプルのいずれの分析でも、一貫して大学入学金・授業料の軽減について、教育意識が高いほど結婚・出生意欲を高める効果が確認された。それに対して、学歴との交互作用効果は見られなかった。 【4. 結論】 基本的には、子育てをサポートする政策は、総じて未婚者にとっての結婚や出生の意欲を高める。ただし、調査時点から最も遠い将来での子育て負担の軽減となる大学入学金・授業料の軽減についてのみ、教育意識の高い者ほど出生に魅力的な政策と感じるのかもしれない。このことは、幼少期の子育てサポートに関連する少子化対策が、学歴や教育意識に関わらず若年層全般の結婚・出生意欲を高めうることをも意味する。

報告番号158

少子化対策によって結婚意欲と出生意欲が変化しやすいのはどのような人か?——未婚者への少子化対策の効果に関する要因配置実験(3)
中京大学 松田 茂樹

1. 目的  Factorial Survey(FS)は、Rossiら(Rossi, Sampson et al. 1974, Rossi, Waite et al. 1974)によって開発されてから今日までに、さまざまなテーマの研究に用いられてきた(Wallander 2009)。その基本的な方法は、同一個人が複数のヴィネットに回答した「ワイド形式データ」を、「ロング形式データ」に変換した上で、それを分析するものである(Auspurg & Hinz 2015)。これに対して、本研究は、FSを「ワイド形式データ」のままで分析する。  この研究に用いるものは、日本における架空の少子化対策の拡充策が未婚者の結婚意欲と出生意欲に与える効果を調査したFSのデータである。少子化対策が人々の出生行動や出生意欲に与える効果に関して、多くの先行研究がなされてきてきた。それらの先行研究では、少子化対策によって自分の出生行動を変化させやすい人とさせにくい人はどのような人か、ということは解明されていない。本研究は、その点を解明する。   2.方法  使用したものは、2023年12月に、(株)クロス・マーケティングのパネルを対象としてオンラインで実施した「若者の結婚と子育てに関する調査」の個票データである。調査対象者は20~34歳の未婚かつ子どものいない男女で、サンプルサイズは女性 623人、男性725人である。この調査では、現行の政策と、ランダムに生成された新たな政策セット(ビネット)を並べて表示して、新たな政策が行われた場合の結婚意欲(0–6点)、ついで新たな政策が行われた場合の出生意欲(ほしい子どもの人数、0~5人以上)を聴取している。1人の回答者は、計16個のビネットに回答している。このデータを、ワイド形式データとして用いる。被説明変数は、個人ごとに、全て(16個)のビネットへの「結婚意欲」と「出生意欲」の回答の個体分散である。説明変数として、性別、年齢、学歴、職業、恋人有無、家族規範意識、親同居有無、回答された結婚意欲または出生意欲の個体平均値を用いた。分析方法は、tobit分析である。 3.結果  年齢が低いほど、恋人・婚約者がいる人、親と別居の人、家族規範意識がリベラルな人ほど、提示された少子化対策によって結婚意欲と出生意欲が変化しやすい。一方、職業による差はみられなかった。結婚意欲と出生意欲が非常に低い人と非常に高い人は、意欲が変化しにくい。 本研究結果は、FSをワイド形式データとしても用いて研究することができることを示す。この方法は、他のテーマのFSにも応用できるものである。

報告番号159

近代都市貧困地域における教育系「救済」アクターと救済資源——東京市鮫河橋の二葉幼稚園と支援組織
早稲田大学 武田 尚子

1 関心の所在  近代日本において、国は救貧制度に関して厳しい制限主義で臨んだ。しかし、現実には天災人災、戦争、不況などが絶え間なく発生し、困窮者が存在した。救貧行政とは別体系で、困窮者救済に関わったのは学校・教育機関である。貧困世帯の子どもたちの就学継続が可能となるように、都市貧困地域では教育機関が教育と生活支援の両面で貧困層救済に関わった。  本報告では、このような「教育的対応」を教育系「救済」として捉え、「救済資源」の供給アクターと救済資源について分析する。本報告が分析対象とするのは、明治33年創立、明治39年に東京市四谷区鮫河橋に移転した「私立二葉幼稚園」の幼児教育活動である。鮫河橋は明治期に「東京の三大貧民窟」と呼称された。二葉幼稚園が設立以来、公刊してきた年次報告を一次資料として用いて分析を進める。 2 「私立二葉幼稚園」設立の資源  私立二葉幼稚園の設立者は野口幽香と森島峰である。二人は華族女学校附属幼稚園の保姆であった。森島はサンフランシスコで貧困層対象に無料保育を行う「無償幼稚園」付設教員養成学校で学び、教育系「救済」方法の経験があり、かつ津田梅子と親しかった。  二葉幼稚園の設立基金はアメリカン・ボードの宣教師として来日していたM.F.デントンの尽力で集められた。デントンはアメリカン・ボードの補佐機関「太平洋ウーマンズ・ボード」が派遣費用を負担した女性宣教師である。19世紀後半にアメリカでは女性の活動領域拡大を求める動きが広がり、女性が参入しやすい領域として幼児教育や宗教(海外宣教)があった。デントンの初来日は1888年で、デントンは京都で同志社女学校のほか、幼児教育施設の立ち上げに関わった。女性の社会的活動領域拡大を求める国際的な動きの影響を受けて、野口・森島の幼稚園構想は実現したと考えられ、貧困層対象の幼稚園設立は1890年代の日本における女性の活動領域拡大を求める動きの萌芽と捉えることができる。 3 教育系「救済」活動の運営資源 貧困層の幼児を対象とした二葉幼稚園運営の主要な資金源は「定期寄附者の寄付」すなわち「自主財源」の供給であった。明治33年~明治42年の「定期寄付登録者」の実人数は270名、うち207名が女性である。幼稚園の運営体制は森島が経験したサンフランシスコのチャリティ団体が無償幼稚園の運営を支援していた形態に類似していた。二葉幼稚園では救済資源供給の社団的組織が形成され、継続性がある自主財源供給が社会的信頼を得て、「公的機関」による臨時の救済資源も供給されるようになった。日米両国にまたがる女性たちの活動や支援ネットワークが、教育系「救済」活動の支援基盤になっていた。  都市社会学では、シカゴ学派に先行して、ジェーン・アダムスがハルハウスを開設し、シカゴ学派に研究活動基盤を提供した。鮫河橋でも同様に女性による教育系「救済」活動が先行し、のち東京市社会局の社会事業系「救済」活動が展開した。近代都市における女性の教育系「救済」活動の重要性をこの事例は示している。

報告番号160

大都市低所得地域における社会的マイノリティ集団の連携と共同性構築の論理——カナダ・バンクーバーを事例に
東京都立大学 山本 薫子

1. 目的  今日、都心部でのジェントリフィケーションや家賃高騰にともなって都市低所得地域の空間的範囲が縮減しつつある中で、都市社会における共同性構築の促進要因、構造を明らかにすることは重要な意義を持つ。本報告では、①エスニック・マイノリティや移民の割合が高い都市低所得地域における社会運動・地域活動の実践を通じて異なる人種・エスニック集団の間でどのような関係性や連携が見られるか、②特定の集団の枠を超えて地域全体、社会全体に関わるより大きな課題(コロナ禍の緊急生活支援、住宅不足問題、人権問題など)の解決が図られる過程で連携のための論理はどのように構成されるか、について検討する。 2. 方法  事例は、カナダ・バンクーバーのDowntown Eastside(DTES)及び隣接地域(中華街等)である。2012年以降に現地で定期的に実施した質的社会調査(インタビュー、参与観察)、文献調査によって取得したデータを用いて分析を行う。 3. 結果  対象地区にはSRO(簡易宿泊所)が多く立地し、身体・精神的な障がい、疾病や薬物・アルコールの依存を抱える住民が多く、極めて福祉ニーズが高い。貧困等の社会課題が集積すると同時に、それらの改善・解決を目指す社会運動・支援活動・福祉サービスが集中する地域でもある。また、住民に占める先住民(アーバン・ネイティブ)の割合も大きい。DTESには第二次大戦前までは日本人町があったが、戦中の強制収容と戦後施策によって大半の日系人は他への移住を余儀なくされた。現在は日本語学校など一部の施設が残るのみであるが、今も定期的に日系カナダ人によるフェスティバルが開催されている。  現在、カナダ政府による先住民に対する過去の迫害、日系人強制収容、中国系移民に対する制度的差別について和解施策や補償が進んでいる。DTES及び周辺では移民の歴史に関わる建築物の保存・改修、移民の生活史を紹介する博物館等が開設・準備されている。これらの移民グループはDTES及び周辺を拠点として差別・迫害を含む集合的記憶の保存・継承を目指すと同時に、移民の立場からの先住民との共生・共同性構築のあり方の検討やその実践を模索している。 4. 考察  DTES及び周辺では多くの先住民、移民が生活支援を必要としているが、その中には英語が不得意な人々もいるため、支援団体の活動は複数エスニック集団の連携が核となる。30歳代〜50歳代前半の日系、中国系カナダ人らの支援者は、祖父母・親世代とは異なり、自らのエスニック集団の中で民族的ルーツや排斥の歴史(日系人強制収容など)をアイデンティティの軸として地域活性、多世代交流の活動を行なうと同時に、先住民等の他グループ、人権団体、ホームレス支援等のNPOとの連携にも積極的である。今日の低所得層に対する排斥(ジェントリフィケーション等)を過去の排斥(差別や日系人強制収容等)と重ね合わせる集合的な被害経験共有も図られている。そして、植民地主義に基づく支配という文脈でこれまでの先住民・アジア系移民への差別・迫害を捉えると同時に、現在の人権問題、居住環境をめぐる自分たちの問題解決実践を脱植民地化の文脈で捉える動きがある。脱植民地化の具体化の一形態として、先住民・日系・低所得らの市民グループの連携を通じた土地・集合住宅の共同所有・管理(コミュニティ・ランド・トラスト)の試みも進んでいる。

報告番号161

同和対策に関する特別措置法終了後の同和対策事業対象地域の変容——A市における国勢調査データから
関西大学 内田 龍史

【1.目的】2002年3月の同和対策に関する一連の特措法期限切れに伴い、被差別部落-部落外の格差、すなわち1965年の同和対策審議会答申が指摘した「実態的差別」を把握するために行われてきた国による同和地区の生活実態調査はなくなり、自治体による調査もほぼ行われなくなった。他方で2000年代は日本社会全体で格差や貧困、社会的排除が社会問題化した時期でもあった。当該時期の先行研究からは、同和地区内における低学歴傾向は特措法期限切れ後にも継続しており、その後の生活実態を規定していることが示唆されている。ただし、国勢調査を利用した先行研究による分析は同和地区全体の数値と当該自治体全体との比較に留まることが多く、個々の同和地区の多様性を捨象してしまっているという限界があった。そこで本研究では、京阪神都市圏に所在するA市における国勢調査の個票データを用いた同和対策対象地域の分析において、2000年から2020年までの経年変化の把握とともに、個々の対象地区間とその周辺地域(対象地域を除く小学校区)との比較を行うことを主たる目的とした。 【2.方法】国勢調査の個票データを用いた。本調査は、A市J審議会・国勢調査データを活用した旧同和地区等に関する分析調査専門部会として2023年度に実施したものであり、報告者は部会長として調査のとりまとめを行った。 【3.結果】対象地区の社会経済的地位に関する項目について、2020年時点のA市全体と対象地区全体とを比較すると、著しい格差は見られず、2000年時点と比較して学歴格差は縮小傾向にあった。ただし、20歳代の若年層では克服されているとはいえ、全体としてやや低学歴傾向ではあった。その影響もあってか、顕著な差があるとは言えないものの、失業率がやや高いこと、従業上の地位はわずかに正規の職員・従業員割合が低く「非正規雇用」割合が高いことなど、従来から同和地区の特徴とされてきた雇用の不安定さが完全には克服されていなかった。また、従来から課題として指摘されてきた低学歴傾向は、周辺地域と比較した場合には相対的に維持されていた。同和対策事業によって同和地区内には公営住宅が多数建設されたこともあり、同和地区の相対的な低位性は公営住宅の集積によるものではないかといった疑問があったが、本調査結果からは公営住宅が集積していない地域においても共通して低学力傾向が見られることから、同和地区特有の要因である可能性が高いことを明らかにした。 【4.結論】本研究で明らかになった最大の知見は、対象地区住民に見られる周辺地域と比較しての相対的な低学歴傾向である。そうした低学歴を起因として生起すると考えられる失業率の高さや正規の職員・従業員割合の低さ、「現業職」割合の高さ、さらには多くの対象地区で見られる高齢者人口割合の高さなどから明らかになるのは、周辺地域と比較して、依然として、相対的に、教育・就労・福祉課題が、対象地区に見られるということであった。その背景には、地域社会において貧困が地域的に集積していたことが現状に影響を与える「履歴効果」、ないしは個人の属性とは別に近隣の特徴が個人に影響を与える「近隣効果」、さらには、部落差別による「地域スティグマ」にともなう土地価格の相対的低位性など、地域社会特有の要因がこれらの現状に影響を与えていることが示唆される。

報告番号162

互いに見知らぬ人々の集まりによる都市商業空間の変革——1980年前後の原宿歩行者天国を事例として
東京大学大学院 桐谷 詩絵音

【1. 背景】都市において人々が消費行動を行いながら交錯する中で、どのように商業空間が成立するかは、盛り場研究をはじめ都市研究の重要な一分野をなしてきた。企業や行政が売上を最大化するために空間を演出・管理する一方、人々がその空間演出からは逸脱して、独自に商業空間を意味づけながら利用する局面に注目する研究が登場している。この研究群は、あくまで日常的な秩序の枠内で、利用者がどのように商業空間を意味づけているかという内的な認識に注目してきた。しかし、異なる人々が集まる中でどのように独自の空間が創出されるのかという盛り場研究の問題意識を共有するならば、利用者が他の利用者と交錯する中で、どのように既存の商業空間が動的に変革されうるのかも分析する必要がある。【2. 分析視角】そこで本発表は、「竹の子族」など若者たちが路上で踊るという想定外の行動が頻発した1980年前後の原宿歩行者天国を事例に、人々が都市の商業空間を利用する中でどのように独自の空間が創出されるのかを問う。先行研究は、原宿や歩行者天国を商業空間として演出・管理する企業資本や行政の思想や実践を明らかにしてきた。しかし商業空間を「何らかの外的なシステムの論理」に還元してしまうことなく、そこに集まる人々が立ち上げていく「固有の磁場」(吉見 1987)を明らかにしようとするならば、管理・演出が張り巡らされた商業空間を、そこに集まる人々が具体的にどのように利用していたかの内実を分析する必要がある。本発表は近年の都市コモンズ論を援用し、路上で踊った若者たちがどのように原宿の都市空間を使用し、それにより原宿の中にどのような独自の空間が形成されたかを分析する。資料として、当時の新聞・雑誌記事や「竹の子族」の取材書籍、ドキュメンタリー番組などを用いる。【3. 分析結果】まず1970年代後半の原宿は、ファッションに一定水準以上の関心と審美眼をもち、さらにその関心を実行に移すだけの経済力をもった人々が、相互に洗練性を競いながらショッピングや飲食などの消費を行う空間として成立していた。一方、洗練されたファッションを用意できない人々にとっては、疎外感や所在なさを感じさせる空間でもあった。ここに登場したロックン・ロール族は、自作の衣装や家族の古着を着て路上で踊ることで、必ずしも消費行動を行うことなく原宿に滞在することを可能にした。また彼らの路上ダンスに影響を受けた竹の子族は、もはや洗練されたとすら見なされない奇抜な衣装を自作して踊ることで、やはりショッピングや飲食を行うことなく原宿に滞在した。竹の子族の影響を受けて、同様に奇抜な服装で目立つことを目的とする人々が集まる一角が、歩行者天国に形成された。【4. 結論】原宿の路上で踊った若者たちは、はじめは企業資本や行政の演出・管理の通りに、原宿という商業空間を洗練性を競いながら消費行動を行う空間として使用していた。しかし踊りが複数のグループ間で模倣されていくうちに、自作の衣装や古着を駆使しながら、店舗でお金を使わずに原宿に滞在することが可能になり、最終的に奇抜な服装で目立とうとする空間が歩行者天国に形成された。商業空間の成立を分析する際には、企業や行政による管理・演出の局面だけでなく、実際に人々がそこをどのような空間として利用していたかの検討が必要であることを示す。

報告番号163

都市における文化生産活動と象徴的境界
大阪公立大学 笹島 秀晃

1980年代以降の都市と文化の社会学のなかで、都市における文化生産活動は主要な問題領域として関心を集めてきた。その一方で、都市の文化生産活動における象徴的境界(Symbolic boundaries)の問題は、十分に検討されない論点として残されていた。象徴的境界とは、ピエール・ブルデューの社会学を引き継ぎつつミシェル・ラモンによって提示された概念で、「人、集団、物事を包摂し定義し、その一方で他のものを排除する線」として定義される。 ラモンらによるレビュー研究のなかで、社会学の多くの領域における象徴的境界論が紹介されているが、わずかではあるものの都市社会学にも言及されている。言及されている研究は、ジェラルド・サトルズなどの貧困研究やエスニック・マイノリティの研究、宗教施設の研究のみであり、近年、都市社会学の中で論じられている文化生産活動に関する研究に、どのような視点を投じるものであるかが検討されていなかった。 本報告では、都市における文化生産活動の研究に対して、象徴的境界という視点がどのような新しい知見をもたらすものであるかを検討する。報告では初めに、ラモンの象徴的境界論を紹介した上で、ラモンらのレビュー論文で取り上げられている都市社会学の研究をあらためて検討する。具体的には、イライジャ・アンダーソンやジェラルド・サトルズを取り上げる。次に、都市の文化生産活動を研究するにあたって社会階級に注目することを指摘したダイアナ・クレーンにならい、社会階級に着目した文化生産活動の研究の整理と、そこにおける象徴的境界の問題を検討する。具体的には、19世紀ボストンの富裕層と美術館建設運動を研究したポール・ディマジオ、20世紀後半のアメリカ、中間層の住宅における作品展示をあつかったデヴィッド・ハレ、19世紀中頃、アメリカ・シカゴのジャズクラブでジャズ・ミュージシャンの活動を分析したハワード・ベッカーである。 こうした検討を踏まえ、結論では、以下のような問題を検討する。都市という空間のなかで、ある階層の集団は、どのような価値観を持ち、どのような作品や文化活動を自分たちにとって適切なものとみなすか。かつ、どのような作品や文化活動を、不適切なものとして排除するかのか。先行研究の多くが20世紀中頃までの、文化的嗜好や価値観などの序列化が比較的明確な時代を対象にしていた。そこでは、象徴的境界をめぐる二項対立的な記述(富裕層対大衆、ハイカルチャーとサブカルチャー、黒人と白人、演奏者と聴衆)が主であった。しかし、二項対立的な枠組みのままで象徴的境界は適切に記述できるのか。現代に近づき文化的カテゴリが多様化しカテゴリ間の序列も不明瞭になるなかで、都市の文化生産活動における象徴的境界はより複雑になっているのではないか。そうであるならば、いかにして複雑化した象徴的境界を経験的に記述できるのだろうか。 参考文献 Lamon, M. and Molnar V. (2002) The Study of Boundaries in the Social Sciences. Annual Review of Sociology 28: 167-95.

報告番号164

コンクリート(ブロック)建築と戦後住宅政策
國學院大學 中川 雄大

1.目的 近年の都市研究・住宅研究においては、都市の環境負荷に対する関心や人間中心主義的な視点に対する反省から、人びとが自然や建築物などの物的環境といかに相互作用することで都市化が生じているのか検討されるようになった。 こうした関心から、近年グローバルサウスの都市化を分析する上で関心を集める建築材料がコンクリートブロックである。コンクリートを人の手で扱いやすいようにブロック状に成形したコンクリートブロックは、一つずつ人の手で積むことで容易に建築物を建てることができるため、セルフビルドによるインフォーマルな都市化を可能にする重要な資材である。 だが、グローバルサウス以外の地域で建材としてのブロックはいかにして受容されたのだろうか。そこで本発表が着目するのが近代日本社会である。日本の家屋は現在でも木造建築が主流であるが、過去にブロック建築が試みられてこなかったわけではない。それどころか、都市不燃化の観点から戦後日本では官民一体となってその普及に大きな期待が寄せられていた。しかし、一部の地域を除いて日本ではブロック建築が広く定着することはなかったのである。それはなぜなのだろうか。 2.方法 近年の住宅をめぐる社会学では住宅を取り巻く物質に関心が向けられているが、住宅の設計に関心が集まり、住宅がいかにして建設されてきたのかという工学的実践が等閑視されてきた。そこで、本稿では住宅というモノとそれに関わる施工者や住民などの実践の関わりを捉えようとするアプローチを導入したい。 その際に、本発表が主として分析資料とするのは、ブロック建築普及のために出版された数多くのテキストである。ブロック建築を推進する諸団体の機関誌をはじめとして、ブロック建築の専門家は多くの雑誌・書籍を出版したが、それらのなかにはブロック建築に興味を持つ一般の読者向けに知識を伝達するために書かれた入門書や、一般的な住民がブロック住宅にどのように居住しているのか伝えたルポルタージュもある。つまり、これらの資料を用いることで、ブロックやブロック建築という物的環境に対して、専門家は技術者や住民にどのような対応を促したのか、あるいは実際に彼らはどのように対応したのか分析することが可能となる。 この視点から、ブロック住宅の普及が推進された資源論的背景を示した上で、ブロック住宅が抱えていた脆弱性に対して、複数のアクターがいかにその脆弱性の制御に取り組んだのかを、モノと人の相互関係に着目しつつ、明らかにする。 3.結果 分析の結果、ブロック建築の普及を促したのは木材資源の不足に対する強い危機感であること、ブロック住宅はブロック自体とその施工に脆弱性を抱えており、前者はブロック生産技術の向上によって克服されたが、後者の解決は難しく、住宅に対する施主の熱意に委ねられていったことが判明した。しかし、都営住宅に住んでいた住民は一方的にブロック住宅の環境に適応しなければならない存在でもあった。加えて、ブロック住宅の脆弱さに対する制御の困難は、その後の団地を中心とした中高層の集合住宅の建設において、プレキャストコンクリートの使用を推し進めていく要因にもなっていた。 本発表の事例は、20世紀半ばの日本における住宅開発の軌跡を形成する上で、物質的資源、技術の進歩、社会的嗜好の間の複雑な関係を浮き彫りにしている。

報告番号165

生活者としての福祉委員——仙台市八幡地区における地域福祉の事例分析
東北大学大学院 傅 昱

【1.目的】本報告では、天野正子(2012)の「生活者」論というアプローチから、福祉委員は如何に「生活者」とされるかを明らかにする。仙台市八幡地区では、「世帯の単独化」や一人暮らしの高齢者が増加している一方、地域活動の担い手不足や高齢化の進行は、地域福祉の課題となっている。天野によれば、生活者の概念は、市民運動(ベ平連)や生活者運動(生活クラブ生協)の時代で使われるように、日本社会の大きな転換過程で向き合う不安感やリスク感、日常的な暮らし方への反省や疑問、新しい生き方やライフスタイルへの願望や期待から生み出され、どこにでも存在するごく「普通の人々」とされる。本報告では、高齢者でありながら地域福祉の担い手に対する事例分析を通して、そこに得た知見をもとに「生活者」論を展望することから、地域福祉の行方への示唆を試みる。 【2.方法】本報告では、八幡地区の30名福祉委員リーダーへの質問氏調査を行い、福祉委員がどのような社会的背景のもとに登場するか、また彼らはどのような社会的性格があるかを概観する。そのなかで典型例と考えられる70代の6名にインタビュー調査を行い、彼らは福祉委員を担当したきっかけ、地域福祉の活動の進み方、八幡地区での生活経験に目を向けて考察する。 【3.結果】現在までの分析結果から、6名のインタビュー協力者は、居住歴、職業歴、性別などの基本属性に加え、八幡地区での生活経験の違いにより、それぞれ担当するきっかけが異なることが明らかになる。ところが、インタビュー協力者たちは次の共通点もある。①福祉委員を担当する理由は、長年にわたり地域活動に参加してきたことの延長にあるのである。②自分も高齢者であるため、業務上または活動上に難しいところがあるものの、基本的に自分ができる範囲内にしかやらない。それは自分の精神・身体に過大な負担をかけないとともに、活動の長期化にも寄与する。③地域福祉の活動を継続しようとするだけではなく、日々の暮らしにおける人と人とのつながりを再構築し、地域社会全体を支えることを通して、その人らしい生活を志向してもいる。 【4.結論】以上の考察から、福祉委員は個としての生活の充足を支える他者(=要支援者)との関係づくりのための試みは、天野のいう過去になかった「個としての確かな生」を取り戻すためのことというより、現在や将来にある「個としての確かな生」を追い求めるための実践が示されている。同時に、福祉委員は病いや老い、障がいに対する関心を共有していくための地域づくりを「ネットワーク型コミュニティ」とされる可能性を示唆している。 〈文献〉天野正子、2012、『現代「生活者」論 つながる力を育てる社会へ』有志舎。

報告番号166

地域資源と住民主体の行方——豊島の離島振興政策で残ったものは何か
名古屋市立大学大学院 馬渡 玲欧

【1.目的】1990年に香川県豊島の産廃不法投棄事件が摘発され、93年11月に公害調停を申請する間の時期にあたる92年に、豊島は香川県の「いきいきアイランド推進事業」の採択を受け、2冊の報告書を残している。本報告では、それら報告書やその周辺の諸制度・背景を紹介しつつ、産廃問題や瀬戸内国際芸術祭によって注目が集まってきた同島の現代史において、どのような離島振興の可能性が結果として残っていったのか、考えてみたい。さらにはこの事例を通して、日本の地域開発における「地域資源」の用いられ方や「住民主体」の活動の諸相(さらにはこれら鍵概念)について検討したい。 【2.方法】上記目的のために、日本の離島振興政策の歴史を示しつつ、どのように香川県や豊島住民が離島振興を進めようとしていたのか整理する。次に、「いきいきアイランド推進事業」報告書を資料とし、そのなかでの「住民主体」や「地域資源」の位置づけについて検討する。特に「地域資源」については石材業の存在を強調していたことから、同島において石材業の果たしてきた歴史的役目と今日の状況についても確認したい。 【3.結果】日本の離島振興史の概略を確認すると、1950年に九学会連合対馬調査があり、国土総合開発法に基づく特定地域開発の検討がなされ、53年に離島振興法が成立、59年に経済企画庁総合開発局離島振興課が設置された(鈴木 2019)。離島振興法は1992年に4回目の改正がなされ、これを契機としていきいきアイランド推進事業が香川県で創設、豊島が事業採択されることとなった。豊島における同概要を確認すると、1992年度に「豊島活性化ビジョン(構想)」がまとめられ、翌年度には「豊島活性化プラン策定調査」が行われた。後者はビジョンを実現していくための計画(設計図)として位置づけられる。『ビジョン』を紐解くと、「住民自身」「住民の総意」「住民の主体的活動」等の文言によって「住民主体」の取り組みが強調されている。さらに『プラン』では、「豊島の特性を生かした活性化プラン」が「豊島住民が主体」となって「地域の資源(特性)を磨き上げる」ことを通して達成されることが記載されている。ここでの「地域資源」は、「大師詣り」「豊島石」「瀬戸の景観」「ため池」に集約される。報告では「資源」の内、「豊島石」に着目する。「離島振興」の文脈で、豊島の活性化プランが練られ、そのなかで「島の基幹産業」とみなされていた石材業が「島ごと豊島石博物館」の中核として位置づけられていた。同博物館は、将来的に石材だけでなく「島の生活文化」をも対象とする学習の場として構想されていた。しかし、産廃問題をめぐる公害調停と住民運動のプロセスで、この「ビジョン」「プラン」は結果として頓挫したと考えられる。 【4.結論】石材という地域資源に基づく「島ごと豊島石博物館」の構想自体は途絶えたが、しかしながら「島ごと」という発想は、豊島外からもたらされた瀬戸内国際芸術祭の島内周遊に実質的に移植されているように思われる。それでは「住民主体」の行方はどこに行ったか。様々な取り組みが行われているなか、本報告では廃棄物処分地に存在する「豊島のこころ資料館」の運営と管理にその理念が受け継がれている可能性があり、報告当日は今後の課題や展望を含め、その点を詳述したい。【文献】鈴木勇次,2019,「日本の離島振興のあゆみ」『島嶼研究』20 (1):7-21.

報告番号167

岡山県の中山間地域における地域の運営方針の変更——高梁市松原町と宇治町の事例
安田女子大学 野邊 政雄

【1.目的】  近年,中山間地域にある農山村では過疎化と高齢化の進展が著しい.岡山県高梁市宇治町と松原町は吉備高原に位置する中山間地域であり,この地域の運営方法の変化は,過疎化と高齢化の影響を顕著に受けている.本報告の目的は,高梁市宇治町と松原町において,過疎化と高齢化が地域の運営にどのような影響を与え,その対策としてどのような施策が実施されているのかを明らかにすることである. 【2.方法】  本研究では,2023年および2024年にかけて,市役所の出張所にあたる地域市民センターの職員や両町の住民を対象に,詳細な聞き取り調査を実施した.調査の内容は,過疎化と高齢化の影響,およびそれに対する地域の具体的な対応策についてである.調査対象者は,地域の運営に直接関与している職員および各町の住民である. 【3.結果】  聞き取り調査の結果,高梁市宇治町と松原町では,過疎化と高齢化に対応するために以下の3つの主要な変化があった.  第1に,両町は移住者受け入れ体制を整備し,移住者の増加を目指すようになったことである.具体的には,インターネット上に空き家や貸家の情報を掲載し,都市部からの移住を促進する努力をしている.また,住民のボランティアが移住者の引っ越しを手伝い,地元出身者と移住者の交流会を開くなど,移住者が地域に適応しやすい環境を整えている.  第2に,両町では一部の事業を中止し,継続して実施する一部の事業を簡素化・外注化する取り組みが行われている.例えば,ふれあい祭りという町の祭りは,以前は毎年開催され,花火などの出し物が披露されていたが,近年では花火を中止し,祭り自体も簡素化された.また,町の外からの観客を楽しませることよりも,町内の住民が自ら楽しむことを重視する祭りへと変わった.この他,かつては町の家庭が関西の高校生をホームステイさせて農業体験を提供していたが,住民の高齢化と人口減少によりこの取り組みも中止された.さらに,高齢者への弁当配達サービスも,以前はボランティアが行っていたが,現在ではシルバー人材センターに委託している.  第3に,高齢者が暮らしやすい環境を整えるための仕組みが作られたことである.住民のボランティアが高齢者を町内の希望する場所まで自動車で送迎する移送サービスを開始した.また,虚弱な高齢者が自力で行えない住宅や敷地の手入れ(例えば,草刈りや電球の交換)についても,住民のボランティアがこれを代行する制度が整備された. 【4.結論】  以上のような事例から,高梁市宇治町と松原町では,過疎化と高齢化による影響に対処するために,以下のような対応策が取られていることがわかった.第一に,移住者を増加させるための受け入れ体制の整備が進められている.第二に,地域の運営においては,一部の事業を中止し,継続する事業の簡素化・外注化が行われており,限られたマンパワーを効率的に活用する工夫が見られる.第三に,高齢者が安心して暮らせるようにするためのボランティアによる支援体制が整備されている.

報告番号168

地域コミュニティにおけるまちづくり計画策定のプロセスと効果——新潟市秋葉区の事例の検証より
大正大学 金子 洋二

地域のまちづくり計画を住民自らが考え、役割分担して実践していく動きが広がっている。本報告では、2023年に新潟市秋葉区で行われた事例を採り上げ、そのプロセスと効果について分析していく。  この取り組みは、秋葉区の「特色ある区づくり予算」という枠組みを活用し、秋葉区自治協議会が主導して行われた。区内11地区のコミュニティ協議会に実施を呼びかけたところ、全ての地区から実施の意思が示され、2023年6月から12月にかけて各地区3回の住民ワークショップを通して地区毎のまちづくりビジョンがまとめられ、実行段階にある。  この様にスムーズに事が運んだ背景にはいくつかの要因があると考えらる。秋葉区長および担当者、事業受託者、企画・運営を担当したコーディネーターへのヒアリング調査により、以下の4点が明らかになった。 <1.区民幸福度調査により地域資源と課題を明確化>  秋葉区自治協議会では、2021年8~10月にかけて「秋葉区民幸福度調査」を実施した。無作為抽出による15才以上の区民2,000人を対象に52項目に渡る調査を行い、1,035件の回答を得た。結果からは秋葉区の魅力と共にまちづくりの課題が明らかになった。その成果はマスコミや市の広報を通じて周知されると共に、新潟市長への提言書として提出されるなど、住民の声を発信するためのエビデンスとして活用されている。 <2.自治協議会が主導することで各コミュニティ協議会が動きやすく>  秋葉区自治協議会には区内11の全てのコミュニティ協議会の代表が所属している。上述の幸福度調査を行うことにより、次のステップとして「資源の活用」と「課題の解決」を進める手段としての地区毎のビジョン策定へと議論がつながった。 <3.住民の主体性を尊重したマルチステークホルダープロセスを導入>  秋葉区役所は本事業を予算化すると共に、職員がチームを編成してワークショップの運営を補助するなど、縁の下の力持ちとして支え、参加者(=住民)が主体的に取り組めるような環境づくりを行った。また、ワークショップの参加者は幅広く老若男女を公募するマルチステークホルダープロセスを導入した。 <4.ビジョン策定後も見据えたフォローアップ体制>  ワークショップの企画および運営はまちづくりに精通する外部のコーディネーター3名が分担して担当した。各コミュニティ協議会との綿密な打ち合わせに始まり、実施期間中や実施後も継続的に相談に乗るなど、ビジョンの実現に向けた伴走体制が整えられている。また、区役所では今年度、関連事業を実施するための費用を助成する制度(上限20万円/地区)を設けている。  以上の検証に加えて、2024年7~9月にかけてワークショップを開催した11のコミュニティ協議会を対象にアンケート調査とヒアリング調査を行い、ビジョン策定の効果を分析する。本報告ではその結果も併せて採り上げる。

報告番号169

南洋群島の金融互助——パラオ、ポンペイ、マーシャル、チュークの事例
島根県立大学 恩田 守雄

1.目的  本報告の目的は田植えなど労力交換のユイ(互酬的行為)、道路補修など共同作業や共有地(コモンズ)の維持管理のモヤイ(再分配的行為)、冠婚葬祭のテツダイ(支援<援助>的行為)という日本の伝統的な互助慣行のうち 、一定額を拠出し順番に受け取る頼母子や無尽について(恩田,2006:2019; Onda,2013:2021) 、南洋庁の本庁と支庁が置かれたパラオ、支庁があったポナペ(ポンペイ)、ヤルート(マーシャル諸島ジャルート)、トラック(チューク)の金融互助と比較し、その「移出入」について検討することである。 2.方法  上記の目的を達成するため日本の互助関連の文献を精読し、現地調査ではパラオ(2018 年 8月)、ポンペイ(2019年3月)、マーシャル諸島(2023年3月)、チューク(2024年3月)で聞き取り(半構造化インタビュー)を行った。過去に韓国(第85 回大会)、中国、台湾(第87回)を調査し東アジア(第88回)の互助慣行について発表したが、本報告はフィリピン(第89回)、インドネシア(第90回)、タイ(第91回)、マレーシア(第93回)の東南アジアの調査と関連し、さらにパラオとポンペイ(第95回)、マーシャル諸島(第96回)の発表の延長上に位置づけられる。 3.結果  パラオとポンペイでは、日本の統治時代に伝えられた無尽の言葉が現在もムシンとして使われている。ポンペイにはムシンをする資金がない人がわずかな支払いで参加できるビンゴゲームがある。この「ビンゴつきムシン」はムシンの受取人が服や日用雑貨などの賞品を準備し参加料を受け取るが、ムシンに参加できない人にも機会を与えコミュニティを共助で支えてきた。マーシャル諸島の小口金融の kadlal は太平洋戦争後米軍やその関係者が使う言葉(throw down)に由来するが、その仕組みは日本の無尽から移入されたものと推測される。太平洋島嶼地域での金融互助はいずれも利息がつかない。これに対してチューク諸島では聞き取り調査をする限り、無尽の言葉も仕組みも見られない。 4.結論  日本統治下にあった南洋群島では、小口金融の無尽をめぐる「互助慣行の移出入」について、その言葉と仕組みを取り入れたパラオとポンペイ、仕組みだけ取り入れたマーシャル諸島、両者とも見られないチューク諸島というように3つに分類することができる。この「移出入」の違いは日本人の集団入植による接触や交流の程度(強弱)がその要因として考えられる。これらの金融互助は東アジアの射幸心の強いものと異なり利息がつかない共済型で、東南アジアのように宗教的な影響も少ない。日本から移入された当時は利息つきであったと推測されるが、戦後島民はそれを土着の互助慣行として同化融合し、無利息の金融互助を通して生活を支え合ってきたと言える(科学研究費基盤研究 C「日本と南洋群島の互助ネットワークの民俗社会学的国際比較研究」20K02091 令和2~6年度、研究代表者<個人研究>恩田守雄)。 <参考文献> ・恩田守雄、2006『互助社会論』世界思想社。2019『支え合いの社会システム』ミネルヴァ書房。 ・Onda, Morio. 2013. “Mutual help networks and social transformation in Japan.” American Journal of  Economics and Sociology, 71(3):531-564. 2021. “Rotating savings and credit associations as traditional  mutual help networks in East Asia.” International Journal of Asian Studies,18(1):1-17.

報告番号170

中途採用に際しての人事担当者の評価と選好——ヴィネット調査と事後インタビュー調査に基づいて
東京大学 有田 伸

【1.目的】組織による従業員の採用プロセスは、人々の就業機会とその質を決定づける重要な役割を果たしており、そのプロセスにおいて誰がどのように評価・選好されるのかを解明することは、就業機会に伴う格差を理解する上で必須の作業となる。日本的雇用慣行の下において、従業員の採用プロセスは新卒採用と中途採用とに大別されるが、前者に比べれば、後者に関する研究は必ずしも十分になされてこなかった。本研究は、近年の雇用慣行の変化もふまえ、中途採用のプロセスにおいて、候補者の属性・学歴や過去の職歴等が人事担当者にどのように評価・選好されるのかを、混合研究法に基づいて検討することを目的とする。【2.方法】本研究は、勤め先で採用業務に携わっている調査会社登録モニターに対するヴィネット調査(回答数1,095)と、調査回答者の一部に対して事後的に実施したオンラインインタビュー調査に基づく。ヴィネット調査では、8名の架空の中途採用候補者に関して「とても採用したい」から「まったく採用したくない」までの7段階で採用希望の程度を評価してもらった。架空の中途採用候補者のプロフィールは性別(男性/女性)、学歴(大学院(MBA)/難関私大/中堅私大)、初職(大企業/ベンチャー企業)、転職経験・現職(転職なし/転職して現在ベンチャー企業/転職して現在大企業)、入社後の抱負(これまでのキャリアを生かす/転職先に適応)の5次元からなり、年齢は43歳で固定した。また協力の意思を示した回答者の内からインタビュー調査の対象者を選定し、最終的に8名の対象者に対して、回答の理由や判断の根拠等を尋ねるオンラインインタビュー調査を行った。【3. 結果】ヴィネット調査の結果、全般的には、難関私大出身者が他の学歴所持者よりも、また「転職先の企業で培われてきた知識や仕事のやり方に適応する」という抱負の方が「これまでのキャリアで培ってきた自分の知識や経験を生かす」よりも高く評価される傾向が示された。また職歴に関しては、初職がベンチャー企業で、そこから転職を経て現職がベンチャー企業である場合に、評価が一定程度下がった。インタビュー調査を通じては、各企業の業種・業務内容や採用担当者自身を含めた既存社員の働き方・キャリアパス等との関連において、中途採用候補者の属性や学歴・職歴に対して独自の意味付けがなされ、それぞれに対する独自の評価がなされることが示された。同時に、候補者の職歴等はそれ自体が評価対象となりはするものの、候補者のキャリア構築の「ねらい」さえ納得できるものであれば、比較的多様なキャリアが評価され得る可能性があることなどが明らかになった。【4.結論】中途採用候補者の属性や学歴・職歴は、それ自体が採用後の職務遂行能力の評価基準となると同時に、それらを通じて仕事に対する姿勢や採用後の就業の継続性等を判断するための手がかりとして解釈され、評価の対象となる。これらは、新卒採用における評価・選好ともある程度の共通性を持つものであり、中途採用であっても、即戦力としての職務遂行能力以外の、いわゆるメンバーシップ型雇用に適合的な能力が評価される傾向があると言える。今後は、各企業の属性との関係を十分にふまえながら、いかなる中途採用候補者がどのように評価されるのかをさらに詳しく検討していく必要があるだろう。

報告番号171

高卒の初職非正規雇用リスクにおけるジェンダー間格差——性別職域分離がもたらす影響
東京大学大学院 那須 蘭太郎

【1.目的】 本研究の目的は,高卒層の初職非正規雇用への入職リスクにおけるジェンダー間格差が,性別職域分離と各職業での非正規雇用リスクの格差によって説明されるか明らかにすることである.日本における学校から仕事への移行の不安定化は,初職達成における不平等に大きな影響をもたらしている.特に,初職非正規雇用入職における格差に着目することは,その後のキャリアや地位達成過程に影響をもたらす点において重要である. 近年の初職非正規雇用研究では,日本の高卒層における初職非正規雇用への入職リスクがジェンダー間で異なった趨勢を示しており,男性で初職非正規雇用リスクの拡大が控えめであった一方,女性ではそれが拡大していることが繰り返し指摘されている.こうしたジェンダー間での格差の拡大に関して,高卒後の初職就業における性別職域分離の影響が指摘され,検討されてきた.しかし,こうした影響が,ジェンダー間格差をどの程度説明し,初職入職コーホートによってどのように変化してきたかを定量的に明らかにした研究は行われていない.そこで本研究では,高卒層に着目し,初職非正規雇用リスクのジェンダー間格差が,性別職域分離によってどの程度説明されるか,さらにそれがどのように変化してきたかを明らかにすることを目的とする. 【2.方法】 分析には,日本全国を対象として行われた22の社会調査データを合併した合併データを使用し,二項ロジットモデルから推定される予測確率と職業分布の記述的確認,およびBlinder-Oaxaca分解をロジットモデルへ拡張した要因分解法による分析を行った.分析対象は,高卒の男女に限定し,1970年以降に初職として正規雇用あるいは非正規雇用へ入職した集団に限定した. 【3.結果】 分析の結果,以下の3点が明らかとなった.第1に,先行研究で指摘されてきたように,1990年代以降,女性の初職非正規雇用リスクが顕著に上昇することによって,ジェンダー間格差は拡大している.第2に,1990年代以降のジェンダー間格差のうち,約3分の1程度は職業分布のジェンダー間での違いという構成効果によって説明される一方で,職業による回帰係数のジェンダー間での違いは,ほとんど初職非正規雇用リスクのジェンダー間での格差を説明しない.第3に,こうした職業分布による格差の拡大傾向は,職業ごとの初職非正規雇用リスクのジェンダー間格差および職業分布のジェンダー間の違いをふまえれば,比較的ジェンダー間での格差が大きいブルーカラー職が高卒層内部のシェアを拡大させた一方で,ジェンダー間での格差が観察されない事務職で,特に高卒女性が減少したことによって生じたと考えられる. 【4.結論】 高卒層における職業の分布の変化は,社会全体の高学歴化と関連している.高卒事務職の減少は,大卒事務職への置き換えの影響を受けており,全体的なブルーカラー職への変化は,高卒層の地位の低下が顕著であることを示している.こうした高卒層の相対的な地位の低下と,ブルーカラー職における非正規雇用リスクのジェンダー間格差の大きさが相まって,近年の高卒初職非正規雇用リスクにおけるジェンダー間格差の拡大を形成していると考えられる.本研究で明らかにされた事柄は,先行研究で指摘されてきたことと整合的であり,本研究ではそれを定量的に評価したといえる.

報告番号172

同窓からの岐路——長期にわたる学卒コーホートの追跡パネル研究から(1)
東洋大学 西野 理子

本報告は、1990年代初頭に某大学学部を卒業した学卒コーホートを追跡したパネル調査の報告である。首都圏にある3回生の学卒コーホートに、在学中から卒業後までに3回にわたって初回の調査を行い、その後30歳代直前と直後、さらに2022年に50歳代を迎える彼らに追跡調査を行った。2022年調査では204名から協力が得られている。 長期にわたるパネル調査として、JPSC(「消費生活に関するパネル調査」)とJLPS-Y/M(東大社研若年・壮年パネル調査)が著名である。いずれも毎年実施でperson-year-dataが構築されているのに対し、本データはこれまで6時点でデータを構築しているに過ぎない。また、対象があくまで1学卒コーホートに限定されている。一方で、20歳前後、30歳前後、そして50歳代と長期にわたって追跡できている。このような長期パネルとしては、吉川徹による「職業とパーソナリティ」調査が挙げられよう。本調査はライフコース調査として、多岐にわたる調査内容を含んでいる点に特徴があり、限定された学卒コーホートの長期にわたるライフコース形成を検討することができる。対象者らは就職氷河期の直前に大学を卒業し、「失われた30年」と呼ばれる日本社会の経済停滞期に20代、30代を送り、現在は50代を迎え、高齢期を視野に入れようという段階にある。 第1に注目されるのは、職業経歴の男女差である。男女雇用機会均等法施行後何年もたってから大学を巣立っていった彼らは、男女ともになんらかの仕事に就いた経験があり、現在も男性のほとんど、女性も約9割がなんらかの仕事に就いているが、初職を継続しているのは男性が6割にのぼるのに対し、女性では2割にとどまる。そして、失業経験や自営業経験に顕著な差異が認められない一方で、企業での役職を男性の8割が経験しているのに対し、女性ではその比率は2割強にとどまる。男性の相当数が安定した職業キャリアを形成した一方で、女性の職業キャリアは多岐にわたる。 第2に、家族形成においても、とりわけ顕著な差異が子どもの有無に現れている。結婚や離再婚における男女差は大きくないが、女性で子どもをもたなかった人が多い。結婚しない、または結婚が遅く子どもをもっていない人がとらえられている。この傾向は他の調査でも昨今指摘されており、少子化のなかで結婚しても子どもをもたない層が着目されている。本調査では過去のデータを活用することができ、学生時代から職業を重視して意欲的に将来に取り組もうとした女性たちが、実際に職業生活を重視するなかで結婚が遅くなり、子どもをもたなかった様子を確かめることができる。男性では、同じように学生時代から職業生活を重視する価値観をもっていても、家族形成への影響はあらわれていない。 本報告では、若年期の価値や将来計画との関連も含めて、同窓を旅立ってからのライフコースの岐路を検討考察する。

報告番号173

上位大学卒業生におけるホワイトカラー上層の再生産——長期にわたる学卒コーホートの追跡パネル研究から (2)
立教大学 三輪 哲

1.目的  本報告は、1990年代初頭に某大学学部を卒業した学卒コーホートを追跡したパネル調査により得られたデータより、その脱落パターンおよびメカニズムと、世代間の階層移動の様態を実証的に検討するものである。学部レベルまで統制しても、ホワイトカラー上層といった階層において強い再生産性がみられるのかどうかが分析の焦点となる。 2.方法  「50代への移行調査」は、「からだ・こころ・つながりの発達研究」プロジェクトが1990年代より継続(ただし断続的)しているパネル調査である。その特徴は、同一大学学部の学卒コーホートを、長期にわたって観察していることで、それにより大学在学時、卒業直後、30代、そして50代の状況に至るライフコースの変化を描くことができる。  もともと本調査の対象者は1,576名で、そのうち在学中の最初の時点(T1)での回答者は1,026名(65%)であった。卒業後1年目以降から回答をはじめる者もいないではないが、その数はごく少ない。2022年度におこなわれた調査(T6)では、204名からの有効回答を得た。回答者のうち196名はT1から回答をしていた(ただし途中での未回収もある)。途中から回答をはじめてきた者はわずか6名であった。  なお世代間移動の分析においては、階層を、専門・管理・事務・自営・ブルーカラー(販売やサービスなどグレーカラー含む)の5つに分類し、父職を出身階層、50代現職を到達階層の指標として、移動表を作成した。 3.結果  このたびの調査(T6)へと回答する確率を、初期時点(T1)の変数より予測をしたところ、次の結果を得た。某学部における学科による違いや、卒業年(学卒コーホート)による違いはみられなかった。さらに、大学入学時の志望度や、友人関係、団体所属などは関連がみられなかった。一方、回答に対してポジティヴに関連するのは、性別(女性)、大学在学時に自宅生であったこと、20年後の長期的な生活イメージを持っていたこと、それから大学生活の充実度評価であった。  さらに、移動表により世代間移動の分析をおこなった。到達階層の分布をみると、男性では管理職が最頻で(60%)、次いで専門職(26%)、事務職(8%)と続く。女性のそれは、専門職(54%)、事務職(19%)、管理職(11%)の順であった。全体移動率は、男性が64%、女性は76%であった。女性の方がやや高いのは、日本社会全体での分析と同様である。  各階層の再生産性をオッズ比でとらえると、専門職のそれは大きくなく(男性: 1.36、女性: 1.69)、大学学部を統制しているために、もはや出身による機会の格差はあまりみられない。しかしながら、男性の管理職については、オッズ比は5.35になり、明瞭な再生産性が観察された。 4.結論  男性の管理職層においては、同一の学部であってさえ、出身階層の影響が色濃く残ることが明らかとなった。脱落による偏りを補正するウェイトをかけておこなった再分析でも、これらの傾向はみられた。

報告番号174

現代日本における文化の境界感覚と新しい文化資本、ハビトゥス
駒澤大学 片岡 栄美

【研究目的】  ブルデュー関連の研究動向を踏まえて、現代日本の文化資本とそのディスタンクシオンの様相を解明する。文化テイストで境界感覚をもつ人はどの程度いるのか、また卓越化意識、「趣味の良さ」判断と文化実践、ハビトゥスについて量的・質的調査から明らかにする。サヴィッジらによれば今日の文化資本は「高尚な文化資本」と「新興文化資本」があり、世代差、階層差によって分化するというが、文化の境界感覚と実践の関係や、美的性向、ハビトゥスを検討しつつ、文化テイストをめぐる知見を整理する。 【方法・データ】  日本版ディスタンクシオン研究会(代表:片岡)が実施した全国サンプルの量的調査2種(2019年3月住民台帳より層化確率比例抽出・郵送法、2023年3月Web調査で性・年齢・職業構成による割当法)と40名へのインタビュー調査などをもとに分析する。 【分析結果】 (1)「趣味の良さ」の主観的判断は正規分布に近似し、文化実践や集団内地位との関連性をもつ。しかし洗練された趣味テイストの重要性は、集団や職種の界により異なる。 (2)日本人の趣味テイストに関する境界感覚については、約50%が他人の趣味に嫌悪感を感じ、優越感もしくは劣等感を感じる人も約半数いる。文化や作品に対するセンスに自信があるタイプは、優越感、嫌悪感を感じやすく劣等感を感じにくい。また芸術文化とポピュラー文化を区別しない人ほど優越感も劣等感も感じていない。ポピュラー文化からセンスのよいものだけを選ぶ人ほど、境界感覚が強い。しかし文化の境界感覚と社会的地位、学歴資本との関連は弱い。 (3)子ども時代に多くの正統文化経験をした人ほど、趣味の境界感覚が強く、嫌悪感などを感じやすい。 (4)趣味テイストの境界感覚の強さは、異質な他者を排除する方向へ作用しているが、非権威主義的価値も示す。 (5)高学歴若年層を中心に、幅広いジャンルの文化知識の獲得を特徴とする「新しい文化資本」が台頭し、上昇志向と強く関連する。そのハビトゥスの特徴についても言及する。 (6)多重対応分析で析出される文化の差異空間は、性と年齢、経済資本・学歴資本などで分化し、中高年層の経営者層や大企業管理職層を中心とした伝統的な文化資本のあり方と若年層のポピュラー文化を中心とした複数のテイストが現われるが、経済資本と学歴資本の関連が強まり、ブルデューが1960年代フランスで示した文化資本と経済資本の交差配列は現代日本ではみられない。 (7)インタビューデータでもハビトゥスの特徴を明らかにする。 【結論】  趣味や文化実践を通じた卓越化や差異化が何らかの(正負の)効果や象徴闘争となるのは、現代では約半数の人々にとっての問題である。アメリカでは低学歴者のほうが象徴的排除を行いやすいと言われるが、日本では明確ではない。日本の文化実践やテイストは性と年齢で分化し、若年層ほど正統趣味よりもポピュラー文化中心の中間的・大衆趣味へとシフトしている。しかし高学歴層を中心にできるだけ多くの知識やジャンル知識を得ようとする新興文化資本が台頭している。子ども期からの正統文化の蓄積は、境界感覚を強め文化的境界線を作動させやすく、排除的傾向とともに民主的態度とも関連する。趣味の幅広さと知識量への欲望は、現代の文化資本の重要な要素である。

報告番号175

介護は60歳以降の男性の働き方をどの程度左右するのか——60歳直前の階層的地位に注目して
労働政策研究・研修機構 森山 智彦

【1.目的】 本研究の目的は、60歳からの70歳までの男性の介護提供が働き方に与える影響について、59歳時の企業規模が両者の関係にいかに干渉しているかを、働き方の変化や婚姻状況も踏まえて分析することである。 【2.方法】 本研究で用いるデータは、厚生労働省「中高年者縦断調査」の2005年から2020年までのデータである。分析対象は、男性の60歳から70歳までの経歴である。推定にはイベントヒストリー分析を用いることとし、3種類の分析を行う。1つめは有業から無業への移行(分析1)、2つめは正規労働者からの移行(分析2)、3つめはフルタイム労働者からの移行(分析3)である。したがって被説明変数は、分析1が有業から無業への移行の生起、分析2が正規労働者から他の雇用形態や無業への移行の生起、分析3がフルタイム労働者からパートタイム労働者や無業への移行の生起である。主要な説明変数は、「介護の有無」、「婚姻状況別の介護の有無」、「59歳時の所属企業の規模」であり、リスク期間や定年経験の有無、家族の状況、貯金や借金額、主観的健康を統制し、推定を行った。 【3.結果】 主な結果は2点ある。第1に、59歳時の所属企業の規模を考慮しない場合、介護の担い手となった男性は介護なしの男性に比べて、無業への移行確率が高い。ただし、59歳時の企業規模によって介護と就労の関係は大きく異なる。59歳時に中小企業に在籍していた男性では、介護の提供が無業への移行確率を高めているのに対して、大企業に勤めていた男性の場合は、介護提供による無業への移行確率に差は無い。その一方で、男性には、介護の提供に伴い、非正規労働者等に雇用形態を変えたり、労働時間を40時間未満に短縮して働くような傾向は確認されなかった。 第2に、配偶者の有無によって男性の介護提供と働き方の関係が異なるのかを分析したところ、59歳時の所属企業の規模を考慮しない場合、配偶者の有無に関わらず介護の提供は男性の無業への移行確率を高めていたが、特に配偶者のいない男性でその傾向が顕著だった。また、有業から無業への移行に対する59歳時の企業規模の干渉効果については、「配偶者あり・介護あり」男性に関して、中小企業の男性は介護が無業への移行確率を高めているが、大企業の男性にそのような傾向は見られなかった。ただし、雇用形態や労働時間の変化に対しては、一貫した違いが確認されなかった。 【4.結論】 以上の結果は、60歳直前の階層的地位が、60歳以降のキャリアを規定するのみならず、介護などライフコースにおける偶発的リスクを回避するための選択肢の幅にも影響すること、並びに60歳以降に男性が介護の担い手となった場合、正規・フルタイム労働を選ぶか無業を選ぶかの二者択一的判断を迫られていることを示唆している。そのため、このように相対的に不利な地位にいる人々に対する継続就労あるいは間断なき転職を重視することが、就労意欲のある人々の離職リスクの低減につながるだろう。

報告番号176

日本の自殺対策政策の言説分析——「健康問題」に着目して
東京大学大学院 於 倩

1. 目的  自殺に関するこれまでの社会学的研究(Durkheim 1897)は、自殺の「原因」に着目するものが多く、これがどのように問題化され、それに対していかに対処すべきかについては十分に検討されてこなかった。また、自殺の「対策」政策の成立過程を分析する先行研究(森山 2018;小牧 2019)は、アクターの動機、利害関係、当該アクターが果たした機能を精緻に記述しているが、自殺対策政策が「原因」をどのように捉え、その原因に対していかなる「対策」を講じてきたのかを十分に検討してこなかった。そこで本報告は、自殺対策政策の形成過程において自殺の「原因」と「対策」の結び付きかたとそれらを正当化するロジックを明らかにすることを目的とする。 2.手法  本報告では、『自殺対策白書』を対象とした言説分析を行う。『厚生(労働)白書』を分析した岩田正美(2016)の方法に依拠した通史的分析を行う。本報告では内閣府が発行していた2007 年初版から 2016 年版までの『自殺対策白書』を分析対象とする。この期間の目次内容(本文と資料編の章・節・項タイトル、コラムや掲載事例等)を一覧化して整理し、変化のあった・なかった箇所を年ごとに比較しながら、特に論点となる箇所を特定し、その背景と変化点を詳細に分析した。 3.結果  2007 年初版から 2016 年版までの『自殺対策白書』における中心的な記述ならびに変化が見られた箇所は、主に「健康問題」や「経済・生活問題」であった。本報告で特に注目する「健康問題」に関する記述では、2007年初版では「健康問題」の重心は「うつ病」に置かれているが、2009年版以降ではうつ病以外の「不眠」や「アルコール依存症」に、そして2012年以降では「被災者・支援者の心のケア」などの社会環境問題に移行してきたことが明らかとなった。 4.結論  内閣府が主管する時期の自殺対策政策において、「原因」から「対策」が導かれるのではなく、むしろ「対策」可能なものとして自殺の「原因」が特定され、社会問題化されていることが指摘できる。多岐にわたる精神的・身体的な「健康問題」を対策可能なものとするため、まずは「うつ病」として扱い、自殺対策政策を実施した。しかしその後は、「うつ病」を「不眠」や「アルコール依存症」という原因に読み替えて特定し、またそれらが生じる社会環境の問題に焦点を当てて政策的な対応を進めた。このように「対策」を前提として「原因」を設定することで、特定の社会環境に置かれた人々をハイリスク群として取り扱うことが可能になったことが、分析から明らかとなった。  本報告は、政策を対象とする社会学に対して言説分析の有効性を再確認するとともに、政策の形成・更新過程において「原因」と「対策」の関係が正当化されるロジックを解明した。これにより社会的なものの構成や組織化のプロセスを明らかにするための理論的・経験的な知見が提供可能となった。他方で、本報告では「健康問題」にまつわる政策上の言説戦略の分析に限定されているという点が課題として指摘できる。今後は「経済・生活問題」など他の問題点にも同様なアプローチを用い分析することが必要である。 【参考文献】岩田正美,2016,『社会福祉のトポス:社会福祉の新たな解釈を求めて』有斐閣./小牧奈津子,2019,『「自殺対策」の政策学』ミネルヴァ書房./森山花鈴,2018,『自殺対策の政治学』晃洋書房.

報告番号177

DV加害者プログラムのファシリテーターはいかなる働きかけを実践するのか——ファシリテーターの実践の内実を探る
岡山県立大学大学院 西川 由紀

これまでDVに関する研究は、被害者に焦点をあてたものが大半である。  DV加害者に関しては、DV加害者の特徴を捉えた研究や記述、加害者が被害者を支配するプロセスに関する研究や記述が蓄積されてきた。DV加害者の対応に関しては、厳罰化か疾病化の議論がなされてきた。この2つの方向性に加えられる新たな視座としてDV加害者プログラム(以下、プログラム)が提示され得る。現在、アメリカやカナダのDVプログラムの在り方を参考にしたプログラム実践が日本でも行われている。  日本におけるプログラムの在り方に関しては、教育としてのプログラムと治療としてのカウンセリングによる効果の差異、長期間と短期間の効果の差異、DV被害者と連絡をとること、取らないことによる効果の差異、DV被害者の意向を加害者に伝えるか伝えないかによる効果の差異が取り上げられてきた。   プログラムの実践内容に関しても議論が行われてきた。加害者の感情や行動それ自体に焦点を当てるものと、それに加えてDV被害者であるパートナーとの関係性をみるものがある。感情や行動それ自体に焦点を当てるものは「あなたはなぜその行為に及んだのか」を問うことを重視し、DV被害者であるパートナーとの関係性をみるものは「愛している」からといってパートナーを支配してはならないことを重視するプログラム実践が行われている。DV加害者を対象としたプログラムやカウンセリングは、DV加害者の苦しみや感情を吐露する場として注目されてきたといえる。  一方、日本においてプログラムを実践するファシリテーターに関する研究は蓄積が浅い。 ファシリテーターがDV加害者である参加者にいかなる働きかけをするのか、ファシリテーターと参加者との間で、あるいは参加者同士の間でどのようなやり取りがあるのか、ファシリテーターはDV加害者であるプログラム参加者に敵として対峙するのか、味方として寄り添うのか、その中間に位置づいているのか、そもそもなぜファシリテーターが必要なのか、これらに関しては明らかにされていない。  本稿では、DV加害者への働きかけの場であるプログラムを実践するファシリテーターに焦点をあて、ファシリテーターの実践の内実を明らかにすることを目的とする。本稿は、DVを関係構築と維持のための装置とする沼崎の理論に依拠し、装置を作動させないためのファシリテーターの働きかけに着目する。  ファシリテーターの働きかけの効果を参加者の変容においてみることから、長期間にわたるプログラム実践を行う団体を調査対象に選出する。また、参加者の行動や行為の変容に関してファシリテーターの判断ではなく加害者のパートナーへ確認を取るプログラム団体を調査対象とする。 以上のことに当てはまるプログラムを実践するZ団体においてファシリテーター研修を受け、現在もプログラムを運営するファシリテーターと現在研修を受けている研修生にインタビュー調査を実施した。短期間のプログラムを実践するファシリテーターとDV被害者女性の自助グループのファシリテーターを対照サンプルとして選出した。  ファシリテーターのいかなる働きかけがプログラム参加者に変容をもたらすのか、インタビュー調査をもとに報告する。

報告番号178

矯正施設を経験した女性による刑事司法システムの解釈実践
岡山大学 都島 梨紗

本報告では、少年院や刑務所といった矯正施設を経験した女性に焦点を当てて、彼女たちにとっての刑事司法システムがいかなるものであったのかを、インタビューを中心とした質的データによって描き出し、施設内/外における困難の様相を捉え直すことを目的とする。  犯罪統計において、女性は圧倒的なマイノリティである。『令和5年版犯罪白書』によれば、刑事施設入所者のうち、男性は12,906名であったのに対し、女性は1,554名である。少年に関しても、男子が1,203名であり、女性は129名であった。いずれにおいても、矯正施設に入所する女性は男性の1/10ほどであるといえる。  2017年に「再犯防止推進計画」が法務省より打ち出され、政策的に再犯防止への機運が高まる中、学術的にも「非行・犯罪からのデジスタンス」研究群の蓄積が徐々に増えてきている状況である。なかでも、欧米のライフコース論やデジスタンス研究の影響を受け、矯正施設を経験した当事者の主観や意味づけに着目した調査研究の層は厚い。しかしながら、これら研究群は報告者も含めてその多くは男性を調査協力者としているため、男性の視点での刑事司法システムの記述であったといえる。特に、計量的な研究となるとどうしても女性の視点を見逃した記述にならざるを得ないだろう。  そこで本報告では、インタビューを中心とした質的調査の方法を用いて、矯正施設を経験した女性がどのように刑事司法システムを解釈していたのか、を描き出すことを目指している。先行研究として、欧米におけるデジスタンス研究では少数ではあるものの、ジェンダーの視角や男女の比較の視点を用いた調査研究がなされてきている。例えば子持ちで犯罪履歴のある女性の場合、「母親であること」が立ち直りのための資源であることを見出している。男性学の視角からは、男らしさが犯罪の促進要因になるという知見が主流だが、仕事での成功や家庭を守るといった男らしさを獲得することで,立ち直りのプロセスを歩むことが出来るという知見もある。  本報告では、10代後半~30代の女性(成人済み)を事例として検討予定である。比較的若年の女性の場合は、先行研究のように「母親」になっておらず、一方で就労自立といったアスピレーションも高いわけではない。ただし、彼女にとっての刑事司法システムの経験は暴力被害からの離脱と大きな関わりがあるために、彼女の人生のターニングポイントとして解釈されている点は注目に値する。一方比較的中年の女性の場合は、「母親」として子育てをしているものの、刑事司法システムとは別の新たな管理システム(児童福祉)が重圧として圧し掛かっている。刑事司法システムと児童福祉システムの両者の管理が圧し掛かることで、彼女は「下手を打てない」状況に追い込まれる。「母親であること」が立ち直りの資源であるという先行知見に対し、検討の余地を示唆する事例である点は注目に値する。当日の報告では、これらの事例を詳細に検討する中で、彼女たちが捉える刑事司法システムの側面から、施設内/外における困難の様相を捉え直す予定である。

報告番号179

逆境を生き延びてきた人たちにとっての住居
一橋大学大学院 金井 聡

【目的】  住居には、そこで暮らす人々のパワーバランスに基づく規範があり、強い立場にある者が生活全般にわたる見えないルールを制御することで、他の構成員はそれに従うことを余儀なくされる。虐待やドメスティック・バイオレンス(DV)は、住居内における力の偏りが顕著な形であらわれた現象でもある。  本研究では、幼少期に虐待やマルトリートメントなどを経験してきた人たちが、その後の人生をどのように生き延び、生存の基盤を築いてきたのか、住居におけるさまざまな権力への抵抗という視点から考察する。住居内での力の不均衡に対し、どのような抵抗がなされるのかという点に注目することによって、逆境を経験してきた人たちを、社会サービスの対象としてではなく、環境との相互交渉において生きのびる存在としてとらえなおす。 【方法】  養育者からの暴力やマルトリートメントで、幼少期に住居内に安心を見出せなかった経験をもつ当事者(4名)を対象に半構造化インタビュー調査を実施し、そこで語られた内容を、時間軸とともに記述し、考察を行った。  質問項目として、これまでどのような間取りの家に誰と住んできたのか、住居の中で「居心地が良い」と感じられる場所はあったか、住居を「居心地よく」するためにどのような工夫をしてきたかを事前に提示した。 【結果・考察】 ①「逃げる」  野坂は、家族の構成員間のやりとりや関係性がパターン化され、繰り返されることによって、家族の文化や役割がシステムとして維持されることに注目する。家族というシステムに引き継がれていく文化は、馴染み深さや一体感を与える要素の一つでもあるが、システムが機能不全を起こすと、閉塞感や行き詰まりを生み、その結果として、家族という文化に支配や暴力が刻まれることがある。  インタビュイーの一人は、家族からのネグレクトや暴力にさらされ続け、高校卒業後、祖母と妹の介護に追われることとなり、同時に、勤務先の会社が倒産するという事態に遭遇する。だが、そのタイミングで「逃げる」という選択が、本人のライフストーリーにおいて大きな転機になっていた。住居の内側に刻まれてきた暴力の文化を断ち切り、自由を得る手段としての「逃げる」ことの意味について、あらためて問いなおしたい。 ②「所有」しなおす  ボルノウは、人間と空間の関係が、主体と客体のような二元論ではなく、精神と肉体のように未分化なものとして感じられる状態を「ひとが所有している空間」と述べる。それまでに積み重ねてきた行為や、周囲の人間関係によって培われた記憶や文化が、空間と相互に影響し合うことで、居心地の「良さ」や「悪さ」などの感覚が生まれる。  もう一人のインタビュイーは、かつて暴力の温床であった住居にまつわる色や音などの感覚の記憶を再構成し、自分自身でコントロールできる環境に置き換えることで、居心地の良い部屋をつくり出していた。これらの語りを手がかりに住居を「所有」しなおすことについても考えてみたい。 【参考文献】 野坂祐子(2022)「家(イエ)に棲む暴力」檜垣立哉編『住む・棲む』大阪大学出版会 O.F.ボルノウ(1963=1985)大塚惠一、池川健司、中村浩平訳『人間と空間』せりか書房

報告番号185

中等教育の設置者種別と高等教育進学の関係——地域を考慮して
慶應義塾大学 西丸 良一

1 問題の所在  中等教育と進路分化の関係は、高校トラック(藤田 1980)を用いて検討されることが多い。高校進学の大衆化によって、高校トラックが社会移動の媒介要因となり、高校と社会階層の関係が密接になった(中西ほか 1997)こと等が、これまで明らかにされてきた。ただ、そのように考えるなら「設置者種別」も重要な要因として注目しなければならない。なぜなら、私立学校は高い学校教育費を必要とし、社会階層と結びつく可能性がある。設置者と進路分化の関係を検討する場合、中学校段階に注目したものが蓄積されつつある(濱本 2021など)が、高校の設置者に注目した検討は依然として少ない。日本における私立高校の役割は、公立高校を補完する位置づけ(潮木 1978など)とされ、教育達成を有利にする学校選択と考えられてこなかったからかもしれない。だが、学校基本調査を用いて設置者ごとに高等教育進学率をみると、2010年以降、私立高校の方が15ポイント程度高い進学率を示す。こうした現状を踏まえれば、中学校だけでなく高校を含めた設置者種別も進路分化に影響している可能性が考えられよう。  ただ、私立学校の位置づけは地域によって大きく異なる。私立中学は都市部に設置されている傾向にあるため、その検討は都市部に限定されることが多い(樋田 1993など)。私立高校も都市部の方で学校選択の余地があり、その優位性が示される(小林 2023)。そこで、高校の設置者ごとの進学率を都市部(東京圏・愛知・京阪神)か否に分け、学校基本調査で確認すると、都市部では設置者による進学率の差が約20ポイントあるのに対し、その他の地域では10ポイント程度にとどまる。この点を踏まえ、本報告は地域を分けて、中学・高校両方の設置者と高等教育進学の関係を、高校トラックや社会階層を用いながら検討する。 2 方法  データは、全国調査である「高校生と母親調査,2012」をベースにおこなった「学校卒業後の若年層の就業・家族形成に関する追跡調査」(19K00608、代表:中澤渉)で得られた。分析は2019年冬の調査データを用いるが、新規サンプルが追加されている。分析に用いるサンプルサイズは変数情報のそろうN=1127となった。 3 分析結果と結論  分析の結果、学力と学科で構成される高校トラックを統制しても、高等教育進学に対する私立学校の優位性は示される。ただ、その優位性は社会階層の影響を代替するかたちで部分的に関連している。あわせて、中高ともに私立である優位性は、都市部に限定して確認できることもわかった。学校基本調査で示された設置者種別による進学率の差は、すべて私立学校の独自性によるものとはいえない。 付記  本研究はJSPS科研費(課題番号19K00608,22K02340)の助成を受けたものです.また、2023年度二次分析研究会(@東京大学社会科学研究所)にて有益なコメントをいただきました。記して感謝いたします。

報告番号186

機会の平等を追求する教育格差研究の陥穽と再評価——運の平等主義・結果割当の原理・民主的平等
宝塚大学 数実 浩佑

本研究の目的は、1)教育格差研究は、機会の平等のみならず、地位の平等の問題に着目しなければならないこと、2)地位の平等に着目するためにも、(一定の)機会の平等の実現が求められること、以上2点の主張について、政治哲学の規範理論を参照しながら、その主張の中身と妥当性について論じることである。教育格差研究は、出身階層、性別、エスニシティをはじめとする社会的背景によって教育機会や教育達成に格差が生まれること、あるいは教育的資源に不均等があることを問題視し、その格差の生成メカニズムおよび解決方策について研究を積み重ねている。この研究の背後にあるひとつの規範的前提は、機会の平等(equality of opportunity)ないし公平性(fairness)である。すなわち、出身階層、性別、エスニシティといった本人によってはコントロールできない属性要因が、人々の教育機会や教育資源、教育達成に影響を与えるのは不公平であり、その結果として生まれる教育格差は、社会の責任として解消すべき不平等であるという前提がここにはある。この規範的前提は、運の平等主義(luck egalitarianism)の観点から明確化/正当化できるものの、運の平等主義にはさまざまな問題も指摘されている(Kazumi 2023)。なかでも過酷性批判(the harshness objection)と呼ばれる批判が重要である。つまり、社会経済的背景などにおいてマイナスの要素がないにもかかわらず、自らの意志と選択で成績不振や低い教育達成にとどまるような子どもは、たとえ不遇な人生を歩むようになったとしても、社会はかれらに支援の手を差し伸べることはない。その結果、メリトクラシーの原理は、機会の平等や公平性という価値に重きを置く一方で、業績による差異を正当化し、自己責任言説が強化される危険性がある。以上の「教育格差研究の陥穽」に対して、本研究は、Olsaretti(2009)の割当の原理(the principles of stakes)に着目し、運の平等主義の問題点を批判的に検討する。そのうえで、教育格差研究は「責任の根拠」(the grounds of responsibility)のみならず、「責任の正当な根拠を構成するどのような特徴に、どのようなコストが付随すべきか」という点に着目する必要性を論じる。具体的には、事後的な再配分(補償)によって不平等を是正しようとするアプローチとは別に、学歴による就労格差や正規・非正規労働者の所得格差をはじめとする根本的な社会構造の問題に目を向けて、行き過ぎた就労格差・所得格差を解消する――機会の平等ではなく、地位の平等(長松 2009)の実現を目指す――というアプローチの重要性を述べる。ただしこの主張は、機会の平等を追求する教育格差研究のアプローチを否定するものではない。なぜなら、教育格差を解消することは、機会の平等を追求することそれ自体のみにその意義があるわけではなく、社会的背景による分断を解消することで、地位の不平等の解消に向けた社会的機運を高めることにポジティブな効果をもつ可能性があるからである。このことについて、Anderson(2007)の民主的平等(democratic equality)の概念を援用しながら、教育における公平性を追求すること、すなわち、教育格差研究を進めていくことの意義について、機会の平等とは異なる角度から再評価する視点を提供する。 <付記>本研究はJSPS科研費23K12736の助成を受けたものである。

報告番号187

高校段階における学科の種別と賃金の関係——職業科卒の賃金はそのほかの学科の卒業生よりも高いのか?
一橋大学 成澤 雅寛

本発表は,高校段階における学科別の賃金差を明らかにし,職業科卒者が賃金獲得において有利となっているかどうかを検討する.従来,職業教育は,不安定雇用を避けさせる雇用の安定化機能を果たすとされてきた.その一方で,職業科卒業者は,地位達成においては不利であるとされてきた.とはいえ,学科によっては,高い地位に就くこともある.これは,学科によっては,普通科卒者よりも,あるいは高等教育卒者よりも賃金が高くなる可能性を示唆する.人的資本理論の観点からすれば,OJTが企業内で行われ,企業内での評価が賃金に影響していると考えられる日本は,採用時の学歴別の人的資本の蓄積ではなく,職業別の企業内人的資本の蓄積が賃金を引き上げている可能性がある.それゆえ,職業科は,各職業の特殊技能や訓練可能性という面で秀でているということからして,普通科や一部の高等教育卒者よりも賃金が高い可能性がある.そこで,本発表は,一部の職業科卒者は,普通科よりも,あるいは高等教育卒者よりも賃金が高いのかを検討する.具体的には,(1)高卒者に限れば,職業科卒者は,普通科よりも高賃金である,(2)農業科および工業科の高卒者は,非銘柄大学卒者よりも賃金が高い,(3)農業科および工業科を卒業した者のなかで高等教育に進学した者は,高等教育に進学しなかった者よりも賃金が低い,という仮説を検証する.  方法は,社会階層と社会移動全国調査(SSM調査)の2005年データと2015年データを用い,単回帰分析/重回帰分析(OLS推定)とHeckmanの2段階推定法(Sample-selection Model)による分析をおこなった.学科別の賃金差は,公的データにおいても見当たらない.そのため,単回帰分析による統制変数なしの学科別賃金差を明らかにするだけでも重要な意義がある.2段階推定法は,賃金格差を検討する際のセレクションバイアスに対応するために,しばしば使用される.本稿でも,2段階推定法を用いて,セレクションバイアスに対応したうえで高校の学科と賃金の関連性を検討する.  分析の結果,(1)高卒層に限定すれば,商業科と家庭/家政科を除いて職業科は,普通科よりも賃金が高い.しかし,その効果は,性別を統制するとなくなるため,性別の影響が大きいと考えられる.(2)農業科および工業科の高卒者は,非銘柄大学卒者よりも賃金が高い.しかし,その効果も,性別を統制するとなくなるため,性別の影響が大きいと考えられる.(3)農業科および工業科を卒業した者のなかで高等教育に進学した者は,高等教育に進学しなかった者よりも賃金が低いとはいえない.  以上の分析結果から,職業学科卒者が普通科卒者や一部の高等教育卒層よりも賃金が高いことは事実ではあるものの,その大部分は性別の影響によるものであると結論づけることができる.

報告番号188

学校教育行政と社会の関係の研究——明治前期の学制改革を主例として
足利短期大学 西 敏郎

1.目的 本研究は明治前期の学校教育と社会の関係の解明を目指した研究である。換言すれば学制改革という社会変動とその要因の解明を目指した研究である。そして今回は「学制」から「教育令」への改革を取り上げる。これまでも明治前期の学制改革を扱った研究はたくさんある。しかし先行研究をみれば支配層(政府)から被支配層(国民)への方向での探究が主であり、教育の受け手である被支配層の視点から学制改革に注目した研究はあまり見受けられない。その理由として例えば土屋忠雄は「この頃の人民に参政権は無く、被支配層という側面でしか政治参加を許されない存在であったから」(土屋1962.100)という説明をしている。しかし如何に政府が強権的に学制改革を進めても、それを実際に実行していくのは国民である。結果的にそれは就学率の低迷や民衆蜂起の際の学校の打ち壊しといった事象となって現れる。そして政府はこれらに対応していかざるを得なくなる。つまりそういった意味で明治期の国民も政治参加者であり政府に対して影響力を持つ存在なのである。本研究はこの視点を軸としている。 2.方法 熊谷一乗は『学制改革の社会学』の中で学制改革の要因を提示している(しかし彼のフィールドは戦後教育であった)。また土屋忠雄、仲新は明治前期の学校制度の社会への影響を研究している。本研究はこれらの研究を参考として進めている。具体的には明治前期の「文部省年報」や、地方巡視官の報告や各地方の教育史・記録の再整理を行い、そこに当時の国民の実情がわかる資料との照らし合わせを行う。つまりこれまでの学制改革の研究は「①旧学制→②改革→③新学制」という段階の視点に対し、本研究は「①旧学制→②旧学制に内在する改革への要因→③改革→④新学制」という視点を持って学制改革の解明を目指す。そして最も明らかにしたいのが②である。 3.結果 分析の結果、明治前期の学制改革の要因として、①「ナショナリズムの要因」②「時間的制約の要因」③「人民の学校教育に対する不理解の要因」④「人民と教師の人間関係の要因」を明らかにした。そして①と②の要因によって制度が不完全なままにも拘わらず施行され、結果的に様々な問題を創出したこと。制度設立後は③と④が大きく影響力を持ち、それら問題への対応と、受け手側(国民)の要求という形で学制改革が積極的牽引をされたことなど明らかにした。 4.結論 現代においても学制改革は毎年行われている。本研究の成果はその理解の一助となることと確信している。学制に限らず必要性は生活の中から自発的・自然発生的に内部より求められて出現する。その社会が必要としない教育(制度)はどんなに施したところで成立はしない。したがって学制改革においては、その時代の生活水準と経済体制から教育要求を把握することが制度成功の必要条件と提言する。学制改革という事象は“国家が求める人間像”と“国民が生活の中で求めているもの”との関連で生み出されてくる教育のあり方を示すと同時に、その社会に潜在している諸問題を露わにするのである。 文献 熊谷一乗『学制改革の社会学 ―学校をどうするか―』東信堂 1984年  土屋忠雄『明治前期教育政策史の研究』講談社 1962年

報告番号189

高校教員のキャリア形成と授業づくりとの関連性 ——高校教員を対象とした質問紙調査をもとに
東京学芸大学 小澤 昌之

1.問題の所在  生活や身近な諸事象を捉えることから問題発見や解決策を導く公民科は、学校教育やシティズンシップ教育の観点において重要な役割がある。ただ実際には、公民科は、大学進学や入学試験を踏まえ、「自らの人生や社会の在り方を見据えてどのような力を主体的に育むかよりも、大学入学者選抜に向けた対策が学習の動機づけ」として位置づけられていることが課題とされている(下地・佐藤 2022)。具体的には、①現状の大学入学者選抜では、知識の暗記・再生や暗記した解法パターンの適用の評価に偏りがちであること、②高等学校・公民科は小中学校の社会科と比べて、知識偏重型の授業にとどまりがちとなっている、③(公民科で学んだことが)卒業後の学習や社会生活に必要な力の育成につながっていない、などが課題とされている。  本発表では、公民としての資質・能力の育成を目的とする公民科の授業に焦点を当て、高等学校に勤務する教員を対象とした質問紙調査をもとに検討を行う。具体的には、「望ましい」とされている(「学習指導要領」に即した)授業を運営するにあたって、授業づくりや授業方法、教師の理解度・自信度と教師のキャリア・属性に関連性はあるのかに関して検討する。 2.調査概要  分析に用いる調査は、法教育・教師教育研究会が全国の高等学校に勤務する社会科教員を対象に実施した「法教育教師教育プログラムのための調査」(有効回答総数:N=460)である。本調査は、2021年9月~2021年10月に、協力が得られた10県の地歴科・公民科教育研究会に対して,研究会会長(あるいは副会長)より,会員に対して調査依頼を行い、期間中にwebアンケート調査形式で調査を実施したものである。  分析に用いる変数は、従属変数として「授業づくり」「授業方法」などを設定した。一方独立変数としては、回答者である教員自身の経歴やキャリアに関わる変数(性別、出身学部、教員免許保有の有無、教員歴、勤務校の類型、研究会・学会への参加経験など)などを投入した。 3.調査結果  第1に「授業づくり」については、現在の勤務高校のタイプや学会・研究会参加経験の有無と生徒用資料集を参考にするかに関連性があることが判明した。第2に「授業方法」については、教員歴や現在勤務している高等学校の類型、学会・研究会参加経験が、授業方法との間で関連性があるかとみられる。第3に、憲法理解自信度については、地理歴史科免許の保有や学会・研究会参加経験の有無が影響することが判明した。

報告番号190

メディア発展史からみた「中国動漫文化」の生成プロセス
桃山学院大学大学院 万 峻滕

1本発表の目的は、中国における「動漫文化 (≒オタク文化)」の生成プロセスをメディアの発展史と関連づけながら考察することで、現代中国の近代化の一局面を動漫文化という視点から照射することにある。 2「動漫」とは、アニメとマンガの中国語である「動画」と「漫画」の頭文字をとって創造された言葉で、起源は1998年11月に創刊したアニメ・マンガの情報雑誌『動漫時代』にある(はちこ 2019)。 動漫文化にかんする先行研究や中国メディア史、さらには公式データなどを活用しながら、こうした文化が生み出されるプロセスを明らかにする。 3 1978年政府は、改革開放政策を採用し、近代化へと大きく舵をきった。 テレビ放送は1958年9月2日に開始された。しかし、しばらくの間テレビ受像機の普及は都市部に限られており、経済的・社会的格差を象徴する娯楽アイテムであった。それが1978年になると、内モンゴルなどの未開局地域を除く26の省市自治区で、普及率が36%に達し、大都市から小都市から農村へと一般化していった。 1983年に普及率のさらなる上昇を目的として開催された『第十一次全国広播電視工作会議』の影響もあり、1996年には普及率は86.1%に達した。放送する番組も多様化し、外来コンテンツを視聴することができるようになった。たとえば、1986年には手塚治虫の『鉄腕アトム』が放送された。 1996年には井上雄彦の『SLAMDUNK』が、2002年にはCLAMPの『カードキャプターさくら』の中国語版(原作70話、中国語版52話)が放送された。しかし日本アニメを代表とする外来コンテンツは、広電総局の外来コンテンツ規制政策などの影響で2005年から徐々に視聴できなくなっていく(遠藤 2008)。 テレビ史と軌を一とするように、マンガなどのコンテンツを含む書誌の出版数が、1978年の37.74億冊から、2000年の62.74億冊へと急増する。1990年代には中国語訳された『SLAMDUNK』が人気を博した。訳本の一部は海賊版であったが、海賊版であるからこそ多くの人が手に取ることができこともたしかである。 2000年代に入るとインターネットが普及し始める。CNNICの『第35回中国網絡発展状況統計報告』によると、2014年12月時点で、ネットユーザーは6.49億人、ネットの普及率は47.9%に達した。ネットの一般化は、テレビで視聴できなくなった外来コンテンツのネットへの移行を猛烈に促した。たとえば『カードキャプターさくら』もあっという間にネットへと移行し、全70話には中国語字幕がつけられた。 2011年に日本でテレビ放送されたアニメ『ギルティクラウン』は、中国語字幕をつけたうえでネット放送された。ただしコンテンツは、版権所有者から許可をとっていないものもあった。 4これら「違法行為」の横行という規範意識の薄さが動漫文化の生成と隆盛に寄与していることはたしかである。しかしこうした状況は、グローバル化する現代世界においてもはや通用する手法とは言えない。ともあれ「圧縮された近代」と呼ばれる劇的変化のなかで生まれた「中国動漫文化」は、現在も新たな生成を繰り返し多様化している。このことは中国のさらなる近代化を促すよう機能していると考えられる。今後はインテンシブ調査によってその内実に迫りつつ、中国近代化の多様な様相を研究していきたい。 はちこ, 2019, 『中華オタク用語辞典』文学通信. 遠藤誉, 2008,『中国動漫新人類』日経BP.

報告番号191

風景の再創造と〈脱風景化〉の風景——Datar写真ミッションが表象する1980年代フランスの風景
尚絅学院大学 菊池 哲彦

【1.目的】  フランスの国土整備地域振興庁(Délégation à l’aménagement du territoire et à l’action régionale: Datar)が1984年から89年にかけて実施した「Datar写真ミッション(Mission photographique de la Datar)」は、第二次大戦後に激変していったフランスの風景に失われたまとまりを回復させる、写真による「風景の再創造」を目指す公的プロジェクトである。このミッションは、1980年代のフランス社会にとってどのような文化的・社会的意味を持っていたのか。本報告は、この点について検討する。 【2.方法】  本報告は、Datar写真ミッションで撮影された写真群やこのミッションに関する行政文書、およびミッションの活動を紹介・批評する当時の新聞・雑誌記事をおもな史料として、メディア文化史的な視点から分析していく。 【3.結果】  この写真ミッションの活動を紹介する当時の新聞・雑誌記事の多くは、ミッションで撮影された写真群が「フランスの新しい風景」を提示していることを好意的に評している。  その一方、哲学者アラン・ロジェは、1997年に刊行された著作の中で、Datar写真ミッションの写真群に対する感銘を示しながら、それらに「衰退に対するしつこいほどの偏愛」があると評している。そして彼は、こうした偏愛が、異化された(dé-payser)、脱風景化(dé-paysager)された風景写真に現れていると指摘している。  ミッションの写真群を「フランスの新しい風景」と評価している新聞記事は、こうした前衛性に言及しつつも、それを持て余しているように見える。持て余しているからこそ、これらの記事は、「フランスの新しい風景」へと回収することによって、ミッションの写真群が孕む前衛性を飼い慣らそうとしているようにみえる。  Datar写真ミッションの風景写真が当時のフランス社会に対して示したのは、「フランスの新しい風景」だけではない。それと同時に、何らかの安定した風景に落ち着くことから逃れていく〈脱風景化〉の風景を提示してもいるのである。 【4.結論】  Datar写真ミッションが示したのが両義的な風景であることは、1980年代フランスにおける「風景の不在」や「風景の不可能性」を意味するのではない。むしろ、急激な環境に晒されていた1980年代のフランス社会に現れていた、風景としての安定を求めながらも常にそこから逃れていく脱風景の風景こそ、この写真ミッションが「フランスの新しい風景」として見出した風景である。このミッションの文化的・社会的意味は、「風景の再創造」を掲げつつ、〈脱風景化〉の風景を見出したことにこそある。 【5.文献】 BERTHO, Raphaële, 2013, La Mission photographique de la Datar: Un laboratoire du paysage contemporain, La documentation française. ROGER, Alain, 1997, Court traité du paysage, Gallimard.

報告番号192

肌に施される永続的な身体加工の普及に対する「清潔感」の影響——永久脱毛とタトゥーイングの比較
上智大学大学院 MICHALOVA ZUZANA

【目的】  本研究の目的は、現代日本社会における永久脱毛とタトゥーイングの普及の違いが何によって生み出されているのかを考察することである。なぜ、両者は永続的な身体加工実践という共通点を持つにも関わらず、社会の間での受け入れられ方が異なっているのだろうか。そこで、鍵概念として「清潔感」という規範に注目する。 日本社会における「清潔感」という規範がどのように形成され、どのような特徴を持つのかを明らかにし、そして、こうした「清潔感」の規範が実際に身体加工の実践にどのような影響を及ぼしているのかを検討する。 【方法】 日本社会における「清潔感」と永久脱毛に関わる文献レビューを行い、それを踏まえ、筆者が行ったタトゥーイングに関するインタビュー調査(2015年~2016年、2022年~2023年)を再考察する。 【考察】 現代の日本社会における「清潔感」という規範には、大きく2つの側面が見られた。1つは戦後の公衆衛生意識から来る衛生的な清潔さへのこだわりであり、消毒用品やアロマ、空間の「清潔な」雰囲気なども含まれる。もう1つは美的規範に関わるものである。その基盤の一つとして主に女性に向けられてきた「清潔感」の要求、家庭内の空間や他人の世話のみならず、自身の身だしなみ、化粧、髪の手入れなどのジェンダー規範がある。近年は、女性に対して「清潔感」という期待のウェイトがまだ大きいが、美的な「清潔感」は男女双方に求められつつあり、外見から好印象を与え、不快感を与えないことが重視されるようになってきている。つまり「清潔感」とは、客観的な美的魅力の基準の1つとなっており、そのことが身体加工実践においても重要な基準となっている。 清潔感という規範を通して永久脱毛とタトゥーイングの普及の違いについて考察すると、次のことが言える。すなわち、清潔感という規範は、永久脱毛という身体加工実践に対しては親和的である(清潔感を獲得する)一方、タトゥーイングという身体加工実践に対しては親和的ではない。このことが、共に永続的である身体加工という共通点をもつ両者の普及の違いを生み出していると考えられる。先行研究において、従来日本社会におけるタトゥーイングが逸脱規範によって抑制されていると指摘されていたことを踏まえると、現代におけるタトゥーイングの普及が「清潔感」規範によっても抑制されているという知見は、日本社会における身体加工実践の複雑化を捉えるうえでは重要である。 ただし本研究の知見は、タトゥーイングのインタビュー調査のみに基づく限定的な結果であり、今後永久脱毛に関するインタビュー調査を行い、再検証する予定である。

報告番号193

無形文化財の担い手の変容——細川紙と本美濃紙を事例に
立教大学大学院 趙 冠華

1. 目的 現代社会では,工業化と産業化の進展により生活様式が大きく変化し,手作りの日用品が大量生産の安価な機械製品に取って代わられている.その結果,伝統工芸の認知度低下,高齢化に伴う担い手不足などの問題が深刻化した.特に手漉き和紙産業は急速に衰退し,技術断絶の危機に直面している(近兼 2004; 小川・長田 2015). このような状況下で,無形文化財の保護・継承がどのように維持されているのかを考察する必要がある.本報告の目的は,2014年にユネスコ無形文化遺産リストに登録された「日本の手漉和紙技術」を例に,和紙に携わる人々へのインタビューを通じて,技術の担い手に焦点を当て,無形文化財としての和紙技術継承の実態を明らかにすることにある. 2. 方法 本報告のデータは,2022年6月から2023年2月にかけて埼玉県小川町の細川紙と岐阜県美濃市の本美濃紙の産地で実施した3回のフィールドワークおよびインタビュー調査の結果である.本美濃紙保存会と細川紙技術者協会に属する和紙職人,および文化財関連を担当する自治体職員に聞き取り調査を行った. 3. 結果 まず,手漉き和紙の技術継承は家業継承から外部募集への移行である.細川紙では1990年に埼玉伝統工芸会館が開館し,1994年から研修生を募集した.本美濃紙では1994年に美濃和紙の里会館が開館し,1997年から研修生を募集した.その後,家族の移住や美術大学での和紙使用などによって,女性職人の割合が増加した. 次に,「よそ者」による地域の伝統技術の継承である.地元の人々が家業として和紙作りをしていたのに対し,外部募集で来た研修生は全員和紙が好きで職人になっている.また,細川紙は職人の後継者不足を懸念する一方,本美濃紙は観光化と人口減少を背景とした「よそ者」による技術継承に対する不安を抱えている. 最後は職人の収入源の変化である.従来の文化財修復や和紙販売店の注文に加え,現在では地域の小学校からの体験予約や卒業証明書の注文が主となっている.観光客の紙漉き体験を指導する職人の経済状況も比較的良好である. 4. 結論 以上の3点から,技術の継承には変容が見られる.まず,移住や美術の学習を契機として,女性が趣味志向で職人になる事例が増加している.これは家庭内の伝統的なジェンダー役割の観点から,夫が別の職業で生活費を稼ぐため,経済的な責任を持たない女性は,収入以外の志向で職人仕事を選択することが多くなったと考えられる. また,職人にとって観光客の増加は,注文数および研修生の増加に繋がり,それは収入の増加だけでなく,和紙を作る機会の増加でもある.そのため,観光が技術継承の維持に重要な役割を果たしていると言える. したがって,日本の手漉き和紙技術は,産業として観光や学校教育に依存しているが,同時に新たな担い手が現れたと言える. 参考文献 小川三四郎・長田萌,2016,「手漉き和紙生産者の経営実態と存続に向けた社会的課題 ——山形県の月山和紙・深山和紙・長沢和紙の事例」『山形大学紀要.農学』17(3): 189-211. 趙冠華,2023,「日中手漉き紙産業における技術継承の特徴と伝統継承の価値に関する比較研究」東洋大学大学院社会学研究科2023年度修士論文1). 近兼敏,2004,「手漉和紙の現状と課題——伝統産業の一考察」『経済地理学年報』50:191-2. 注  1) 本報告は,筆者の修士論文の一部である.

報告番号194

障害者によるアートの表象 ——新聞報道の言説分析
立教大学大学院 和久井 碧

障害者による表現や創造を、私たちはどのようなまなざしで見てきたのか。日本における障害者とアートに関しては、芸術文化を通じた社会包摂という文脈での価値や意義、活動の評価方法は研究されているが、障害者のアート、その表象については研究が十分とは言い難い。そこで本研究は、障害者のアートを扱う新聞記事における表象を取り上げ、障害とアートをめぐる言説が時代と共にどのように変遷してきたのかを明らかにすることを目的とした。調査は1930 年代から 2022 年 までの『朝日新聞』に掲載された障害者のアートや表現、創作物に言及する記事を対象とした。 本研究では「障害者」の定義を、福祉制度で規定された身体・知的・精神障害児者とし(福祉法制以前は特殊教育下や精神薄弱、精神病患者等と言われた事例も含む)、「障害者のアー ト」の定義は、既存の芸術分野の分類を超えて広く生産活動まで含む、障害者の創作活動とした。大内(2010)は昭和 10 年代の特異児童作品展に関する言説が大衆的好奇心に支えられていたこと、河内(2012)の研究からは、山下清の「天才画家」という語られ方が記号となり、結果としてアイドル化していったことが明らかとなった。しかし、 特異児童作品展や山下清以外の障害者とアートをめぐる言説については、十分研究されていない。また、スティケル(2019)の西欧史研究では、障害者の社会への統合の過程で、逆説的に障害者を差別化してきたことが明らかになっている。本研究は、スティケルの言うような、社会統合の過程における障害者の逆説的差別化が、障害者の表現の表象においても見られると言う仮説を立てた。 調査の結果、1930~1970 年代の障害者とアートをめぐる表象は、専ら障害による帰結とされた「特異性」を健常者の社会に復帰する契機として捉えていた。また、障害を不幸や陰気さと結びつけ、「憐れみ」の対象とする言説が見られた。1980 年代から、世界的に障害者の権利擁護の機運が高まるにつれ、愛やこころのふれあいといった主観性と心性が強い言葉が使われるような「ぬくもり言説」が増えた。1990 年代に見られたのは、障害の帰結としての優れた能力というよりも、障害者の個性の発揮を重視する「差異言説」であった。そして、障害者の芸術活動の支援が広まるにつれ、差異を包摂し共生社会を目指すという文脈で「差異言説」と「ぬくもり言説」が接続した。2000 年代 から 2022 年までの障害者とアートをめぐる言説は、パリでのアール・ブリュット・ジャポネ展を契機として「アール・ブリュット」という言葉が社会において普及するにつれて、障害から帰結すると考えられる「差異」を肯定的に受け取りつつ、その逸脱が、人間に共通の、生命の根源としての意味を担わされるようになっていると考察した。障害者の表現に関する表象は、障害者の社会統合が進むにつれて、言説の次元における逆説的差別化が進んでいると同時に、障害者を他者化=自然化しつつ、それが健常者にも普遍的につながる根源であるというある種の「ねじれ」も存在していることが明らかとなった。

報告番号195

メールアート実験によるアート・パフォーマンスと社会学研究の統合
京都産業大学 金光 淳

発表者の専門は数理社会学、社会ネットワーク分析、ソーシャル・キャピタル論であるが、瀬戸内国際芸術祭での様々な調査研究、創造都市に関するデータ分析のほか、現代アーチストの作品の分析、Fluxusアーチストの社会ネットワーク分析やインタビュー調査(メール・アーチストの塩見允枝子)などを行ってきた。(これらの成果は『社会美学宣言』というタイトルで勁草書房より出版を考えている本で体系化される予定である。)また今年から科研費の芸術部門(芸術実践)においてメールアート実験によって社会的介入を行うアート・プロジェクトを始めている。(社会学者が芸術実践分野で科研費を採択することには非常に大きな意義がある。)  メールアートは、日常とアートの垣根を取り払い、数々の実験的な現代アートを展開したFluxusのアーチスト達によって頻繁に行われたアート・イベントである。元々ポップ・アーチストのレイ・ジョンソンによってNYCで始められたのが始まりである。郵便(通信)サービスを使ってアーチストがハガキなどに「作品」絵や、文字、メッセージを描いたり、共同して作成したりした、今で言う「関係性アート」である。日本でも「具体美術協会」のメンバーである嶋本昭三がメール・アーチストとして有名である。 メールアートの第1の特徴は、誰でも参加できることから、専門美術教育を受けたアーチスト による「エリート美術」に対する民主主義的なアートである点である。第2に、作品の高額な売買を嫌い、かつまたそれを発生させないという意味で反資本主義的アートという点である。第3に、「アーチスト」は他の職業をしながら、このアートを趣味の延長かつ社会的実践としても行っている点である。例えば東日本大震災の復興を支援するメールアート展がシステムエンジニアの中村恵一によって行われている。先立つ1970年代には軍事独裁政権下の南米で政治的な抗議の内容を含んだメールアートが世界中に送られたこともある。第4そして最後に、このアート実践自体が、コミュニケーション+社会ネットワーク(ソーシャル・キャピタル)の構築となるという点である。  筆者が今回行うメールアート実験では、世界的に活躍するメール・アーチストの中村恵一をスターターとし、発表者をターゲットとするハガキメールの伝送実験を行う。第一の実験では、「政治的なメッセージを含んだワードアート」のメールアートを行い、ハガキに手を加えて学生に伝送してもらう。その途中で「専門のメール・アーチスト」に介入してもらい、スターターから10〜20ステップでターゲットである筆者に届くようにする。その際に参加した学生には、メールアートに参加する前と後の政治的な意識の変化を探る調査を行う。また第二の実験では、障がい者を対象に、「理想とする社会像を絵に描いたアート作品」のメールアートを行い、第一の実験と同じ手順で介入調査と意識の変化の調査を行う。この介入的美学社会実験によって、政治的に無関心な(社会像を描きにくい)現在の学生(障がい者)がメールアートへの参加とメール・アーチストとの交流などによってどのように変化するかというアートの社会実践効果を実証的に測定できるであろう。  以上のメールアート実験のほか、現在書籍のために理論化を進めている「アート・ワールドの社会美学モデル」についても発表する。

報告番号196

危篤のときの対面——表情をかわすことの社会学
久留米大学 石橋 潔

【1.目的】 この報告の主題は、対面性がもっとも純化した社会的な領域の探究である。コミュニケーション方法が多様化し、非対面のコミュニケーションが広がっている現代社会において、「直接に会って対面すること」がどのような固有の性質を持つのか。そして対面性は社会のどの領域に残り、また再配置されていくかのだろうか。このような問いは、これからの社会のゆくえを考える社会学が問うべき問いだろう。このとき探究されるべき一つは、もっとも純粋な対面性が保持されている領域だろう。それが本報告の焦点である「危篤のときの対面」である。 危篤の対面とは、家族など、自分にとって親しい人が危篤におちいったとき、その枕もとに駆け付け、対面することをいう。この報告では、この対面が社会的に認められた対面であることを指摘し、その対面に向かう人に公的な社会的役割の免除が与えられ、その対面が特別なものとして保障されていることを示す。そしてその対面の中で人々は表情をかわし、感情価を持った個別的で局地的な小世界が生じていることを示す。このことで対面性が代替不可能な固有な性質を持つことを示したい。 【2.方法】:①この対面が、法的にそして制度的に規定されているかを確認する。たとえば生活保護などの法的規定、または各組織の忌引きなどの社会制度の規定、遺言などの規定などである。このことで危篤のときに、親密者にとって公的な社会的役割が免除されている特別な領域であることを示す。また②ターミナルケアを担う施設、専門職にとってもこの危篤のときの対面を保障しようとしていることを判例、標準テキストなどで確認する。③そして危篤のときの対面について記録されている手記、詩歌などを確認することで、そこでの対面がどのような場を成立させているのかを考察する。 【3.結果】および 【4.考察】 危篤のときの対面は、親密者に対して公的な社会的役割の免除を許し、その対面が保障されているといえる。この対面は共同体の生活にあった看取りが、機能分化して外部化していくなかで、対面自体が純粋な形で分化して残り続けている。その危篤のときの対面では、人々は、苦しんでいるのか、安らかなのか、表情を確認し、また互いの表情をかわそうとする。そしてそのことで強い感情価をもつ個別的で局地的な小世界のような場が形成される。そこではその当事者しか了解できないような意味や感情などが生まれる。そこは第三者や社会が近づけない領域(社会の地平)のような領域なのではないか。そしてこの対面を考察することで、対面性の持つ一般な性質が極限的な形で見えてくるだろう。

報告番号197

行動制限下での看取り——別れとその人らしさ
慶應義塾大学 木下 衆

【1.目的】  強い行動制限下で認知症の人を看取るとき、家族はどのような葛藤を抱えたのだろうか。本報告は、2020年以降のコロナ禍、特に行動制限が強い時期に看取りを体験した介護家族の経験を、社会学的に分析することを目的とする。  発表者はこれまで、認知症家族介護を研究してきた。その中でも、継続して調査を実施してきた患者KとLが、行動制限の下、入所していた介護施設で亡くなっている。 本報告では、コロナ禍前からの研究の蓄積を踏まえつつ、「行動制限下での看取り」という介護家族の経験の特徴を明らかにしようと試みる。 【2.方法】  行動制限下で亡くなったKとLの介護家族に対し、インタビュー調査を実施する。本報告では、そのデータを主に分析する。  関連し、特にKのケースでは、コロナ禍でのリモート面会のビデオデータなども取り上げる予定だ。 【3.結果】  現在の認知症ケアにおいて、患者の人生(ライフヒストリー)を参照し、その人らしさを尊重することが極めて重要視されている。だからこそ、患者の人生を知りうる存在として、介護家族が専門職に頼られる、あるいは自ら介護してしまう事態を、発表者はこれまで分析してきた(木下 2019)。  しかし、行動制限が始まった段階で、KとLの介護施設での生活は複数年に渡っていた。そのためKとLの家族は、例えば認知症発症前や在宅での暮らしだけではなく、コロナ禍前の施設での暮らしも参照しながら、自分たちの関わり方を模索することになる。自分たちはどう関わるべきなのか、あるいは関わりを控えるべきなのか。直接やり取りする機会が限られる中、どう専門職を信頼するのか。介護家族は、行動制限という状況の下、迷いながら選択をしていた。  そして介護家族は、行動制限下での看取りを、そうした施設での暮らしを踏まえながら評価していく。単純に、最後の日々を共に過ごせた・過ごせなかったというだけで、家族は看取り経験を評価しない。「あの人は最後のとき、きっとこのように暮らしていたに違いない」という解釈が、行動制限下での看取りにおいて、極めて重要となる。  それは、参照されるべき患者の人生に、施設での暮らしが書き加わった状態だったとも表現できるだろう。 【4.結論】  本報告では、「行動制限下での看取り」の特徴を明らかにした上で、認知症ケアそのものが抱える困難へと、議論を展開したい。意思疎通が難しい相手のその人らしさを、どのように尊重するのか。行動制限は、その問題を極端にした。しかし、その人らしさの尊重という問題そのものは、介護家族がずっと抱え続けてきたものなのだ。 文献 木下衆、2019、『家族はなぜ介護してしまうのか――認知症の社会学』、世界思想社

報告番号198

手術痕と疾患の箇所の不一致に関するスティグマ研究——自家移植を伴う耳介再建手術を経験した小耳症当事者の語りに着目して
名古屋大学大学院 田中 裕史

スティグマ論の先駆けであるE. Goffmanは,スティグマを3つの類型に整理しており,その1つとして「もろもろの肉体上の奇形」(1963=2001: 18)を挙げている.この外見にあらわれるスティグマについては,「体のどこにあるのか」ということが問題にされてきた.たとえば,一目で容易に知覚できる箇所にスティグマをもつ場合と一目では知覚できない箇所にスティグマをもつ場合とでは,スティグマ保持者の経験の様相は異なる.また,特定の箇所にスティグマをもつことによって困難が深刻化することもある.既存の研究は,これらの点に着目することで,箇所がもたらす経験や意味づけの違いを明らかにするとともに,その背景にある外見に関する社会規範を問題化してきた.  しかし,既存研究のこうした枠組みでは自家移植によってできた手術痕の経験や意味づけを説明しきれない.自家移植とは,治療目的のために自分の臓器や組織,細胞を取りだし自分自身に移植することである.自家移植を伴う外科手術を行う場合,疾患の箇所と手術痕の箇所は必ずしも一致しない.つまり,自家移植による手術痕の経験や意味づけについて考察を行うためには,単に手術痕の箇所を問題にするだけでは不十分である.それにくわえて,手術痕と疾患の箇所が一致していないこと(「箇所の不一致」)が,どのような経験や意味づけをもたらしているのかを問題しなければならない.以上の問題意識から,本報告は「箇所の不一致」の経験や意味づけについて考察を進める.  その際に着目するのが,自家移植を伴う耳介再建手術を経験した小耳症当事者の語りである.小耳症とは先天性の耳介欠損であり,形成外科学において,耳の外見を形づくる耳介形成手術という治療法が確立している.代表的なものが,自家肋軟骨移植による全耳介形成術であり.この手術は肋軟骨を移植するため,胸部に手術痕が残る.また,耳を立体的にする際に,鼠径部(太ももの付け根)の皮膚の移植をすることがあり,その場合は鼠径部にも手術痕が残る.本報告は,ライフストーリー・インタビューを行う中で得られた語りの分析を通して,小耳症の当事者が「耳の手術をしたにもかかわらず,胸部や鼠径部に手術痕がある」ということをいかに意味づけているのか,考察を行う.  分析結果・結論では,箇所の不一致が段階的な告白における障壁になりうることを示す.G. Scambler(1989)は,不利益を被らないように,相手との信頼関係に応じて自身の病気を徐々に明らかにしていくというてんかん患者の技法を明らかにしている.この段階的な告白では,相手に告白を受け入れてもらうために齟齬や飛躍を極力感じさせないという「円滑さ」が重要になる.それに対して箇所の不一致は,当事者にとって「円滑さ」を損なわせる障壁になりうることが示唆された.このことは手術痕よって生じる困難に対して有効な対処を選択しにくいことの一因にもなっていた.その他の分析結果と結論は報告時に提示する. 【文献】 Goffman, E., 1963, STIGMA: Notes on the Management of Spoiled Identity, New Jersey: Prentice-Hall.(石黒毅訳,[1970] 2001,『スティグマの社会学――烙印を押されたアイデンティティ 改訂版』せりか書房.) Scambler, G., 1989, Epilepsy, London: Routledge.

報告番号199

ろう者の「見ること」をすることの考察 ——手話通訳を介したろう者と聴者のインタビュー場面の分析
立命館大学衣笠総合研究機構 飯田 奈美子

【目的】手話は視覚言語であり、視線を相手に向けることは、手話コミュニケーションの開始・継続だけでなく順番交代などの大きな働き(菊地・坊農2015)を行う。通訳を介したろう者と聴者のコミュニケーションの場合、話し手と受け手の順番交代は複雑になり3者が志向をどこに配分するか競合しあっている。視線を向けることは、単に「見る」というだけでなく「見ること」をすること(西阪2008)によって、話し手は受け手に視線を向けていることを提示し、受け手も視線を獲得していることを提示しあう行為を行っている。通訳を介したコミュニケーションにおいて、ろう者が「見ること」をすることは順番交代だけでなく、様々な行為の達成に向けて行われている。本研究では、ろう者の「見ること」をすることによって、どのような行為の達成を志向しているかを明らかにしていく。 【方法】手話通訳を介して、聴者がろう者にインタビューを行い、その場面を録音録画したものをエスノメソドロジー・会話分析にて分析を行った。 【結果】手話通訳を介したコミュニケーションにおいて、ろう者(インタビュイー)が話し手になっている場合、主に聴者(インタビュアー)に視線を向けているが、通訳者に対しては、常に周辺視野において「見る」ことをしている。しかし、局所的なトラブルなどが発生すると通訳者を「見ること」をしていることが観察された。 焦点化する現象は、まず、①固有名詞やろう者(インタビュイー)が造った手話表現を用いた時に通訳者が理解しているかを確認するために「見ること」を行っているものである。これは、ある手話単語を表示しながら、通訳者に視線を向けることで、現在行っている手話表現が通訳者が知らない固有名詞の可能性や通常あまり用いられない表現であることを提示する。それと同時に手話通訳者がその手話表現を理解し読み取れているかの確認を行うものである。②聴者(インタビュアー)の反応が薄い場合に、通訳者に視線を向け「見ること」を提示することで、通訳者の身体を資源として聴者の反応を引き出すものである。これは、通訳者の反応を引き出すことで、通訳者が聴者に視線を向けて反応の引き出しを行おうとしているものである。通訳者は常にろう者の方に身体と視線を向け、ろう者の手話の読み取りや順番交代のタイミングを即時に受け取ることができるように身体を配置している。そのような通訳者が聴者に視線や顔の向きを向けることは、聴者の反応を引き出すために行われていることがわかっている(飯田2023)。その機能をろう者が利用し、通訳者を「見ること」によって、「反応の引き出し」という行為の達成への志向をしていることがわかった。 【文献】菊池浩平・坊農真弓,2015,「相互行為としての手話通訳活動:通訳者を介した順番開始のための聞き手獲得手続きの分析」『認知科学』22巻1号167-180. 西阪仰,2008,『分散する身体―エスノメソドロジー的相互行為分析の展開』勁草書房.

報告番号200

美容師によるがん患者へのアピアランス支援に関する一考察——「患者さん」との信頼関係の構築に着目して
立教大学 菅森 朝子

【背景】近年、がん医療において、外見を意味する「アピアランス」の支援が着目されている。医療現場では、アピアランスの支援に取り組むにあたって非医療者である理美容専門職の関与が期待されている。しかし、理美容専門職の側からは、「がんを経験した方への接客に対する困難感」として「病気や治療に関してどこまで聞いていいのかわからない」ことや「治療中に提供する理美容サービスが医学的に正しいかといった悩み」が挙げられているなど課題も多い。 【目的】本報告は、アピアランスの支援において、理美容の専門職である美容師と「患者さん」との関わりを検討する。2017年より社会貢献として非営利で「アピアランスサポート」に取り組む美容師Aさんの実践を事例に、Aさんが「患者さん」との関係について「信頼関係」をキーワードに語っていることに焦点をあてる。Aさんがどのように「患者さん」との信頼関係を構築してきたのか、どのような課題を抱えて何に取り組んできたのかを明らかにすることで非医療者の専門家によるがん患者支援に向けた示唆を得ることを目指す。 【方法】2021年9月にオンラインでインタビュー調査を実施した。インタビューに際しては、はじめに調査の趣旨とデータの取り扱いについて説明し、参加を途中で取り止められることや研究成果の発表範囲を伝え、許可を得て録音を行った。トランスクリプトを作成し、事前に確認をしてもらい、分析を実施した。 【結果・考察】Aさんは、「患者さん」との関係に関して「専門家としてしっかり頼ってもらえるようにしたいなと思っています」と語る。信頼を得られれば「サポートの内容も充実できる」が、反対に信頼を得られなければ本来サポートできたはずのこともできなくなってしまうという。しかし、信頼はすぐに得られるものではなかった。Aさんは、信頼を得るために、SNSで自己開示をした情報発信を行う、がんに関する医学的知識を学び続ける、「医療者ではない立場」をわきまえた振る舞いをする、施術の際にはあえて治療や病気とは別の話題をして心地よさを提供するようにするなど、さまざまな工夫と努力を積み重ねて信頼関係を構築していた。「患者さん」との信頼関係が構築された先では、目的を見失わずにアピアランスサポートを丁寧に発展させていくべく、個人的な感情で結びつくような形には持っていかないように心がけていた。「ちょうどいい距離でプロとしてサポートする」ために「深入り」しないよう「戦略的限定化」(三井 2004)を行いながら活動に取り組んでいた。「患者さん」と美容師の場合には、「患者-医療者関係」のようにパターンがないだけにある面では医療者以上に「深入りする」リスクを持つとも考えられる。Aさんの取り組みを見ると、信頼関係は所与ではなく、構築し、継続させていくものであることがわかった。こうした「患者本位」の支援は「患者さん」からも支持を得ていてニーズは大きい。社会貢献活動としてのがん患者へのアピアランス支援は、美容師の関心も高い。しかし、実際に普及させるには、理美容の専門知識や技術を持っているだけでは不十分で一定の医学的知識を得ることの必要性や、社会貢献活動における営利と非営利の線引きを留意する必要性が課題として提示された。 【参考文献】三井さよ,2004,『ケアの社会学―臨床現場との対話』,勁草書房.

報告番号201

医療マンガ作品における社会学的研究の検討
三育学院大学大学院 篠原 清夫

【1.背景と目的】 マンガ研究はメディア・芸術をはじめ様々な分野でなされている(文化庁 2020).社会学においてもマンガ研究は重要な分野となることを池上(2013)は指摘し,社会学分野研究の流れ整理している.1950~1960年代は鶴見俊輔と副田義也を中心とした社会批評や教育的論考,1970~1980年代は社会学独自の視点での分析,1990年代は社会学的なマンガ研究の増加と多様化があることを分析している.マンガの社会学的研究に関して片桐(1990)は大衆意識の分析,宮原・荻野ら(2001)は社会現象としてのマンガ研究を提唱している.日本社会学会においてはマンガ研究に関するテーマセッションが複数回開催され,一般研究報告でも毎年のようにマンガを扱った発表がなされる現状があり,マンガの社会学的研究は定着していると考えられる.近年,医療分野でヘルスケアの支配的研究方法に挑戦するムーブメントとしてマンガを用いるグラフィック・メディスン(Czerwiec, et al. 2015)の試みがなされ,医療分野においてもマンガは注目されている.そこで本研究は医療マンガ研究の状況を整理し,医療マンガの社会学的研究の可能性と方向性について検討することを目的とする. 【2.方法】 医學中央雑誌刊行会の医学論文有料データベース「医中誌Web」,医学文献有料データベース「メディカルオンライン」,国立情報学研究所の「CiNii」で検索し,医療マンガ研究の動向を明らかにする.その知見を基に,社会学分野の視点を活かした医療マンガ研究について検討する. 【3.結果】 データベースで医療マンガに関する日本の論文を検索した結果,医療マンガに関する研究自体多くはない.医療マンガに関する研究や論考は,患者への励まし表現,新人看護師の職業困難性,看護師のジェンダー(Matsuoka et al. 2009-11),産科医・助産師の分析(安井 2017),精神医学・精神疾患マンガ紹介(三嶋, 諏訪 2019),薬剤師・薬学マンガの歴史(五位野 2020),理学療法の社会的認知(藤野・高橋 2023)がある.その他にも医療マンガの視点を含めた紹介(日本グラフィック・メディスン協会 2021)がなされているが,社会学分野の研究は少ない.医療社会学には「医療における社会学(Sociology in Medicine)」と「医療を対象とする社会学(Sociology of Medicine)」(Straus 1957)がある.グラフィック・メディスンは医療のためにマンガを用いる「医療におけるマンガ」研究であるが,社会学の特徴を活かした「医療を対象とするマンガ」研究の進展が期待される. 【4.結論】 医療マンガ研究の社会学的研究は今後の可能性を秘めていると考える.その際マンガ論や批評でない研究をすることが求められ,「なぜマンガを取り上げることが必要なのか」(石田 2001)について検討しなくてはならず,また社会的現実の単純化された反映理論(石田 2000)としてドキュメント素材のマンガを扱うことにも留意が必要である. 【文献】池上賢,2013,「社会学におけるマンガ研究の体系化に向けて-データベースによる先行研究の整理・検討から-」『応用社会学研究』55:155-173. 片桐新自,1990,「マンガの社会学-マンガを通してみる大衆意識の分析-」『桃山学院大学社会学論集』24(1):21-53. 宮原浩二郎・荻野昌弘編,2001,『マンガの社会学』世界思想社.

報告番号202

「男性に惹かれる男性」の異性婚選択に関する研究——男に惹かれる既婚者は「裏切り者」か?それともポルノか?
神戸大学 白井 望人

【1.目的】本発表の目的は、2020年代の日本において「男性に惹かれる男性」(いわゆるゲイやバイセクシュアルを含む)が「女性と結婚する」というライフコース選択をどのように評価しているのか、その評価が、男性たちが他の「男性に惹かれる男性」と繋がる際にどのような影響を与えているのかを、特に現時点で法的に独身の男性に注目して明らかにすることである。前川直哉(2017)は『薔薇族』などの大正時代から1980年頃までの男性同性愛者向け雑誌等から、「男性に惹かれる男性」たちが女性との結婚選択の是非を議論していた様子を詳述した。本発表では、こうした議論に見られた結婚選択の捉えられ方を下敷きにしつつ、同性婚訴訟をはじめとした性的少数者の権利運動が盛んになりつつある2020年代において、結婚選択がどのように評価されているのかを改めて問い直すものである。【2.方法】機縁法により募ったインタビュイーに半構造化インタビューを実施する。対象者は、日本で生まれ育った18歳~40代までの法的に独身のシスジェンダー男性20名である。男性への惹かれを感じ、恋愛や性行為といった形で実行に至った人々を広く対象とする(ゲイやバイセクシュアルの自認を問わない)。インタビュイーには、各々のライフヒストリー(セクシュアリティや性的体験を中心に)、今後の人生の展望などを語ってもらう。インタビューは2024年4月から行っており、9月頃まで行う予定のため以下では2024年6月時点でわかっていることを述べる。【3.結果・考察】①1990年代以降のゲイ雑誌で指摘されているように、女性との結婚を選択する「男性に惹かれる男性」の絶対数はある程度減少していると思われるが、女性との結婚ニーズは依然根強く残っている。ただし、「セクシュアリティを隠して(恋愛)結婚し、同居する」といった結婚形態にこだわらない意見も多く見られた。②個人の結婚選択を頑なに否定するような態度はあまり見られなかったが、結婚後も依然として同性との性的関係を持つような「男性に惹かれる」既婚者男性に対して嫌悪感を抱く男性が多かった。こうした男性は既婚者との関わりを避ける傾向にある。③その一方で「女性と結婚していること」に性的な興奮を見出す男性は一定数見られた。こうした態度は「男性に惹かれる」既婚者男性への肯定的な態度に結びつくこともあれば、否定的な態度と共存することもあった。特に後者について、セックスの際の性的興奮の道具としては「女性と結婚していること」を利用するものの、ひとたび既婚者男性が恋愛関係などの親密性を求めればそれを理由として拒否するといった行為として現れた。【4.結論】先行研究やエッセイ/コラムでは「しょうがないこと」または「ゲイネスに対する裏切り行為」とだけ分析されてきた結婚行為は、実際の既婚者男性という具体物を前にする時、特定個人への欲望または拒絶という形で現れる。しかしながらこの二つの対応は独身男性による既婚者男性の他者化(拒絶もしくはポルノ化)の形でまとめられるだろう。この傾向は「男性に惹かれる男性」の婚姻率が低下し、同性婚訴訟が行われ、同性と連れ添うことが「規範」となりつつある現在の状況に関連していると思われる。

報告番号203

トランスジェンダー女性の子を持つ父親の経験
立命館大学 勝又 栄政

トランスジェンダー(以下より、TG)の認知拡大に伴い、かれらの生きやすさには親の受容が重要であることが指摘されてきた。しかし、TG当事者に限らず、その親も不安や戸惑いを抱えており、子どもをすぐに受け容れられないケースが報告されている(たとえば、石井 2018; 荘島 2008)。しかし、これらの研究の対象者はもっぱら「母親」に偏っており、「父親」に関する調査は困難な様子が見て取れる。さらに、父親を対象とした調査の中でも、先行研究が対象としているのは主に「TG男性の子」を持つ「父親」(石井 2018; 勝又2024)であり、「TG女性の子」を持つ「父親」の実態はほとんど明らかにされていない(国外の研究も含め、TG男性/女性の子を持つ父親/母親の組み合わせの中で、TG女性の子を持つ父親のデータは最も少ない状況である)。また、TGの子どもの立場に立てば、TG女性は、TG男性の子と違い、「父母からの受容」が性同一性の高さに関係する(佐々木 2017)とのデータもあり、家庭において、TG女性の子を持つ父親が子をどのように受け容れているのか/受け容れないのかについての調査は急務であるといえる。以上を踏まえ、本報告では、「TG女性の子を持つ父親」へと焦点を絞り、父親の主観的経験から子をどのように受け容れているのか/受け容れないのか、また、その背景について明らかにすることを目的とする。調査方法は、生活史調査の手法を用い、半構造化インタビューを採用した。調査協力者は、TG女性の子を持つ父親5名である。なお、「TG女性の子を持つ父親」の経験について特徴的な点を分析するために、勝又(2024)の「TG男性の子を持つ父親」の調査結果をもとに比較検討を行った。5名の父親の聞き取りから、子どものカミングアウトの時期にはばらつきがあり、幼少期の段階で子どもからカミングアウトをされたパターンと、成人になってからカミングアウトをされたパターンとが析出されるとともに、子どもの年齢や自立の度合いによって父親の子どもへの関わりに差が生じている可能性があることが示唆された。また、子どもの「受け容れ」に対する態度としては、子どもの将来について自発的に考え、積極的に関わる父親と、逆に「考えないようにする」など、直接的に子どもの性のあり方を否定するような発言はしないものの、目を逸らすという方法で子どもとの関係を継続する父親の姿が見出された。加えて、特徴的であったのは、子どもの「容姿」に対する違和感や抵抗感であり、これらはTG男性の子を持つ父親と比べると顕著な点であった。本報告ではこれらの結果が父親たちのどのような過去の経験から導かれたものなのか、その生い立ちも含めた分析結果を提示したい。【参考文献】石井由香理,2018,『トランスジェンダーと現代社会――多様化する性とあいまいな自己像をもつ人たちの生活世界』明石書店. 勝又栄政,2024,「トランスジェンダー男性の子を持つ父親の『受け容れ』をめぐる経験」『家族社会学研究』36(1): 7–20.荘島幸子,2008,「トランスジェンダーを生きる当事者と家族――人生イベントの羅生門的語り」『質的心理学研究』7(1): 204–24.佐々木掌子,2017,『トランスジェンダーの心理学――多様な性同一性の発達メカニズムと形成』晃洋書房.

報告番号204

インターネット・サービスにおける現代的なゲイ・バイセクシュアル男性の親密性
大阪大学大学院 秋丸 竜広

【1.目的】  出会いを目的としたインターネット・サービスが,若年層を中心に関心を集めている.E.Illouz(2007)は,これらのサービスが,合理的にお買い得な人を探すよう利用者を煽り続け,ロマンティックな感情は,市場原理によって構造化されてしまうと懸念している.また,Illouz(2012)は,誰かと深い関係になること,そのためのコミットメントを忌避するコミットメント・フォビアが,特に男性において生じていると問題視している.このインターネット・サービスをめぐる「冷たい親密性」をめぐる懸念は,現代的な出会いの場が,A.Giddens(1992=1995)の「純粋な関係性」の構築を困難にしていることを示している.本報告の課題は,インターネット・サービスにおける純粋な関係性について,サービス利用者であるゲイ・バイセクシュアル(以下「バイ」と記す)男性の経験から検証することである. 【2.方法】  本報告における検証は,2023年11月に首都圏在住の若年ゲイ・バイ男性11名を対象に実施したフォーカス・グループ・ディスカッションで得たデータを中心に分析して行う.異性愛者と比べて,ゲイ・バイ男性は,インターネット・サービスを介した出会いが盛んであることから彼らに着目した.また,ゲイ・バイ男性の中でも,盛んに出会うことができる地域に居住し,恋愛や性行動が盛んとされる年齢に焦点化して,対象者を限定した. 【3.結果】  対象者らは,「バレなければ浮気をしても良い」風潮を忌避しており,交際相手とのモノガミー的関係を志向していた.そして,そのような関係を得るため,より適したインターネット・サービスを利用するなどの工夫をしていた.一方,このようなサービスが,恋愛の相手に限らず,友人や広くゲイ・バイ男性らと知り合い,交流する重要な場として機能しているために,恋人がいたとしても,インターネットから撤退することは困難だと語った.彼らは,サービスの持つ機能の多様さを理由とした,交際における葛藤を経験し,それを恋愛の困難性として認識していた. 【4.結論】  以上のように,首都圏の若年ゲイ・バイ男性というインターネット・サービスでの出会いが主流な対象者らは,これらのサービスを上手く用いることで純粋な関係性を得ようと試みるものの,その多機能性ゆえの葛藤を抱え,結果的に冷たい親密性論が懸念する事態を経験していた.このような葛藤の生じる背景には,彼らが,セクシュアリティにアイデンティティの力点を置いていること,そして,性的な恋愛/非性的な友情という異性愛規範的な対称性が必ずしも有効にならないことが考えられる.本調査データは,あくまで首都圏の若年ゲイ・バイ男性の中でのごく一部において認識・経験されているものである点に限界があるが,インターネット・サービスをめぐる親密性について重要な示唆を与えている. 〈主要参考文献〉 Giddens, Anthony, 1992, The Transformation of Intimacy: Love, Sexuality and Eroticism in Modern Societies, Cambridge: Polity Press.(=松尾精文・松川昭子訳, 1995,『親密性の変容――近代社会におけるセクシュアリティ,愛情,エロティシズム』而立書房.) Illouz, Eva, 2007, Cold Intimacies: The Making of Emotional Capitalism, Cambridge: Polity Press. ――――, 2012, Why Love Hurts: A Sociological Explanation, Cambridge: Polity Press.

報告番号205

20~30代の異性愛カップルにおける親密性モデルの再検討――自己開示と関係調整に着目して
大阪大学 岡田 玖美子

【1.目的】親密な関係をめぐっては「親密性の変容」論(Giddens 1992=1995)を筆頭に,前期近代以前に比べて,より平等な関係性へと近づきつつあるとのみかたが示されてきた.他方で,とくに異性愛カップルでは依然としてジェンダー非対称な関係性が残存しうるとの批判もある(e.g. Jamieson 1998; 岡田 2023).また,日本では従来の「空気のような愛」や「以心伝心」など,テレパシーのようなコミュニケーションが推奨されてきた一方で,近年若い世代を中心に西洋同様,明示的なコミュニケーションを重んじるようになったとの指摘もある(Alexy 2020=2022).しかし,その詳しい相互行為の実態は十分に明らかになっていない.したがって,本報告では,首都圏在住の20~30代の相対的に関係が良好なカップルの語りから,その親密な関係における自己開示と関係調整のプロセスをペア・データの質的分析から明らかにし,現代日本の親密性の特徴について考察することを目的とする. 【2.方法】オンライン上での調査協力依頼に応募してくださった10組20人のカップルを対象として,2023年2~3月に行った半構造化インタビューのデータのうち,交際年数などの状況が比較的近い5組10人分を用いた.個人で行ったインタビューデータをペアで参照しながら,カップル内の自己開示と関係調整に関わる相互行為のありようについて分析を行った. 【3.結果】感情面での自己開示に関しては,多くのカップルにおいて「感情のぶつけ合い」を避け,感情を整理して伝えることが重視されていた.ただし,将来に関することや仕事や学業に関することなど,「個としての人生」と「2人の関係・生活」が拮抗しうるような場合には,適度な自己開示のかたちを苦戦しながら模索する様子もみられた.このような場合には,女性側から話し合いをもちかける場合が多かった.対して男性側は,意図的であれ非意図的であれ,話し合いの際に相手に「ちょっかい」をかけたり,中断して物理的に場所を変えたりするなど,緊迫した場であえて相互の自己開示を曖昧にしながら関係調整を行っている例があった. 【4.結論】めざされていた親密な関係としては,感情をぶつけ合ったりコミュニケーションから逃げたりせずに,必要なタイミングで冷静に話し合うなかで互いの人生設計や状況の違いを理解・整理しながら,妥協点や着地点を見つけることで「個としての人生」と「2人の関係・生活」を両立を図るものであった.それは,個人の人生の選択肢が複数あり予測不可能な現代において,自己開示の徹底は,ときに不安を招くことにつながるからである.したがって,Jamieson(1998)の言葉を借りれば,前期近代の「以心伝心」といった“silent intimacy”モデルでもなく,Giddensが想定したような欧米的な“disclosing intimacy”モデルとも微妙に異なり,今回のデータからみえた現代日本のカップルの親密性モデルは,曖昧なコミュニケーションによって,どのタイミングで,どの程度自己開示し合うのか自体を見計らいながら,互いに歩み寄って感情的に安定した生活を維持することを最善とする点が特徴的であるといえる. 【付記】本報告は,JSPS科研費(課題番号: 22J11421)の成果の一部である. 

報告番号206

「メンズメイク」はどのようにつくられるか——現代日本の男性化粧品企業の戦略から
お茶の水女子大学大学院 小口 藍子

【1.目的】本研究の目的は,現代日本で男性化粧品を手掛ける企業がどのような戦略のもとで「メンズメイク」という用語を使用しているか/していないかを明らかにし,企業活動において「メンズメイク」がつくられる過程を照らし出すことにある.戦後,男性化粧を扱う雑誌記事が増加傾向を見せるのは①1980年代半ば,②1990年代後半,③2010年代終わりから2024年現在,の3つの時期である.うち近年の③期に固有な特徴に,男性化粧を表す言葉として「メンズメイク」という用語が使われるようになったことがある.近年の日本男性の化粧実践を捉えるには,用語としての「メンズメイク」の検討が不可欠といえよう.しかし男性化粧の先行研究はまだ少なく,「メンズメイク」用語の分析もなされていない.本研究は「メンズメイク」を提唱する主要なアクターである化粧品企業に焦点を当て,現代日本で「メンズメイク」が形成される過程を探る.【2.方法】報告者は2023年から2024年にかけて男性向け化粧品を手掛ける企業4社への聞き取り調査を行った.調査は本社訪問もしくはWEB会議サービスで実施し,広報担当者あるいは代表取締役から回答を得た.【3.結果】4社いずれもが男性化粧品の製作・宣伝において,男性に多く見られる肌悩みに対処すること,男性が手に取りやすいような工夫を施すことを重視していた.しかし各社の市場参入の時期やターゲット顧客層,担当者の思いによって,自社製品を「メンズメイク」と呼称して売り出すかどうかには違いが見られた.4社のうち最も早くに男性化粧品の販売を開始したA社は,化粧初心者の男性向けに製品を展開した.A社は今や男性化粧が「メンズメイク」ではなくケアの一環になりつつあるとして,「メンズメイク」を積極的に提唱しない戦略をとるようになる.男性化粧品市場の拡大を受けて事業に踏み出したB社・C社は,男性化粧が普及しつつあるなかでの訴求を模索した.化粧に抵抗のない若年男性を主要なターゲットに据えるB社は,男性化粧が定着段階にあるからこそ「メンズメイク」の用語が有効だとして,使用する戦略をとる.他方でC社は化粧に抵抗の残る初心者男性にアプローチするために,「メンズメイク」は特別で気負った印象を与えるとして使用を避ける.4社のなかでは後発参入にあたるD社は,担当者自身の化粧経験や肌悩みを踏まえて男性化粧品を展開する.D社は男性化粧を根付かせたいという思いのもと,「メンズメイク」は男性消費者に呼びかけるために有効だと捉える.【4.結論】男性化粧品企業にとって「メンズメイク」は男性の化粧を可視化し定着させ,自社製品を男性消費者の選択肢に入れるための用語として機能する.他方で企業にとっては,日本社会で男性化粧がある程度普及しつつあるからこそ「メンズメイク」の使用を避けたり手放したりする戦略も可能になっている.男性化粧品を手掛ける企業の活動において「メンズメイク」は,市場動向や社会的文脈のなかで自社戦略を方向づける際に引き寄せられたり手放されたりしながらつくられていく用語であると結論づけられる.

報告番号207

アジアのテレビ広告におけるジェンダー役割―日本・中国・台湾・韓国・タイ・シンガポールの国際比較研究
京都産業大学 ポンサピタックサンティ ピヤ

【1.目的】 本研究の目的は、日本・中国・台湾・韓国・タイ・シンガポールのアジアのテレビ広告におけるジェンダーと労働役割の現れ方の類似点あるいは相違点を考察することである。そのうえで、テレビ広告におけるジェンダー役割に関する研究に再検討を加え、新たな知見を加えたいと考える。 これまでのテレビ広告におけるジェンダーをめぐる先行研究には、いくつかの問題点がみられる。まず、これまでの先行研究の多くは、アメリカ合衆国を中心に、西欧社会の広告におけるジェンダーを研究したものがほとんどであり、アジア諸国を対象にしたものは、いまだ多くはない。また、従来の広告におけるジェンダー研究においては、当該の社会のジェンダー構造がテレビ広告に直接的に反映されているという観点でとらえるものが目立つ。この点からも、今後、現実のジェンダー構造の反映という単純な図式的見方を超える必要がもとめられていることは明らかだろう。 【2.方法】 2023年8~10月の期間にわたり、アジア六か国において最も視聴率の高い3つのチャンネルで、プライムタイムに放映された番組(9回:金・土・日)から広告サンプルを収集した。そして、ジェンダー役割に関する項目に基づいて、各国の分析したデータをSPSSプログラムで統計分析を行った。 【3.分析結果】 広告内容分析した結果、まず、すべての国ではナレーターが男性である広告の割合が、女性ナレーターの広告を大きく上回っている。ただし、国とナレーターの性別の間には有意な関係が見られる。また、性別により年齢層の異なる主人公が広告に起用されていることがわかった。つまり、広告に登場する若い女性は、男性よりしばしば多く登場する。 主人公の性別の割合の側面から見れば、広告の中で登場する男性と女性の主人公の割合は違いが見られる。また、主人公の性別と労働役割について、六カ国の広告に見られる働く男性と女性の割合には、有意な関係があることが明らかとなった。 さらに、これらの六つの国の広告における男性と女性の職種と職業に従事する以外の役割には違いが見られることがわかった。次に、各国のテレビ広告における男女の役割について、男女の違いが見られることが明らかになった。また、テレビ広告における男女の職種についても有意な違いが見られる。そして男女の職業に従事する以外の役割について、違いが見られる。 【4.結論】 以上のように、アジアの広告におけるジェンダーの配置は、欧米のこれまでの広告におけるジェンダー研究の成果と、ほぼ一致している。たとえば、ナレーターの男女比についても、男性が女性を大きく上回っている。広告で重視されているのは若い女性なのであり、女性は家庭内の役割が多く、男性は、家庭外の役割に従事することが多い。 さらに、これらのアジア国々における働く男性と女性の割合、および、男女性の職種と職業に従事する以外の役割には違いが見られることが明らかとなった。一般的な傾向としては、広告に登場する働く男性の割合は女性より高い。 しかし、各国の分析結果から、ジェンダー役割の平等性の描かれ方のパターンはいくつか存在していることが明らかになった。ジェンダー役割の平等性や新しいジェンダー・イメージが誕生していることがわかる。したがって本研究の分析結果はアジアの広告における性ステレオタイプ描写が少しずつ減少している傾向が見られる。

報告番号208

「大学生と語る性 2021~2024」インタビュー調査(1)——調査概要およびポルノ視聴行動
明治大学 平山 満紀

【1.目的】「大学生と語る性 2021~2024」インタビュー調査は,性に関する人権やジェンダー平等意識,性の多様性の認識が高まり,一方インターネットやSNSが発達し人間関係が根底的に変容する現代における,大学生の性的ライフヒストリーやライフスタイルに関し,多様な個人の固有な特性の把握に留意しつつ,実態を捉えることを,目的とする. さらに『大学生と語る性』晃洋書房,2011との比較をし,十年余の変化を明らかにする.本連携報告は,「性に関 する若者のインタビュー調査-人権とジェンダー平等の観点から-」(学術研究費助成事業 基盤 研究(C)2021~2025年度)の計画する,大学生へのインタビューと非大学生へのインタビューという2つの調査のうち,前者の結果と分析の抜粋である. 第一報告は,調査の概要の説明に続き,ポルノグラフィ―視聴行動に関する回答に焦点をあて,さまざまな種類のポルノのうち,どのような背景をもった人が,どの種類のものを視聴し,どのような理由で選好しているのかを明らかにし,ポルノ視聴がその人のセクシュアリティに与える影響の把握にもつとめる. 【2.方法】本調査の方法は以下の通り. ①インタビュー期間:2021年6月~2024年3月.②インフォーマント:調査時に在籍していた大学生.③インフォーマント募集方法:大学の授業などで知らせる・縁故法・Twitterによる募. 謝礼有. 全国の大学生に対し,ジェンダーやセクシュアリティの多様性に配慮し,学部,学年,地方,大学の入学難易度,性経験の有無の偏りが小さくなるように調整しながら募集した.④インタビュー方法:オンラインによる半構造化インタビュー.⑤インタビュー時間:1時間半~2時間強.⑥インタビュアー:「セクシュアリティ研究会」のメンバー8人.⑦質問:子ども期や思春期の性に関する経験,親や友人との性に関する会話,性に関する価値観や考え,性行動,性的パートナーとのコミュニケーション,性のリスク管理,AV・ポルノ視聴行動, 性的人生への希望など. 【3.結果】 インフォーマントは,男性22人,女性33人,ノンバイナリー5人の計60人。性的指向は,ヘテロセクシュアル39人,バイセクシュアル5人,パンセクシュアル6人,ゲイ1人,アセクシュアル1人,わからない・決めたくない・その他8人,と多様だった。 ポルノ視聴は,男性はほぼ全員が日常的に行っている。実写かアニメ・マンガかの別では,実写 AVを好む人の方が多い。女性は,ポルノを日常的に視聴する人と,しない人に大別できる。例外はあるが,自慰経験ありと,自慰経験なしの別に重なる。女性たちが日常的に視聴するポルノの種類は,男性向け実写AV,女性向け実写AV,BL,TLやエロイラスト,音声メディアなどと幅広い。性交経験ありの女性でBLを選ぶ人は少ないが,性交経験ありの女性も無しの女性も,TLやエロイラスト を挙げた人は多かった.ノンバイナリーの人たちはそのセクシュアリティの多様性を反映して,視聴するポルノは多様であるが,実写AVに違和感をもつ意見もみられた. 【4.結論】 従来の調査で把握されなかったものも含め,多様なポルノが視聴されていることがわかった.人権意識が一部の人には身体化されていること,ポルノ依存と見られる男性,ポルノの影響で自分の身体に強い劣等感を抱く女性がいることなども明らかとなった.詳細は報告で述べる.

報告番号209

「大学生と語る性2021~2024」インタビュー調査(2)——男子大学生の性行動
東京医科歯科大学 大倉 韻

【1.目的】  「青少年の性行動全国調査」によると、2011年以降若者の性行動は不活発化を続けており、これまでその原因が様々に検討されてきた(文献)。また青少年研究会の調査では6割の若者が恋愛よりも勉強や仕事、友人、家族、趣味などを優先しており、さらに男性より女性のほうが恋愛より他の項目を優先するという結果が得られている(報告書)。これら量的調査の結果を踏まえて、男子大学生の恋愛行動・性行動とそれを規定する要因を質的データをもとに検討する。  【2.方法】  セクシュアリティ研究会(代表:平山満紀)が2021年6月から2024年3月にかけて大学生60人を対象に実施した半構造化インタビューの結果を使用した。本報告では性自認を「男性」と回答した22人について、彼らの生育環境、家族や友人との対話、メディア消費(ポルノグラフィを含む)、性教育などが恋愛交際経験ならびに性経験にどのような影響を与えるかを検討した。  【3.結果】  詳細な分析は当日の報告に譲るが、インフォーマント男性の交際経験・性経験について、経験が「ない」ものが決して少なくない現状が確認された。また経験のあるものについても経験人数は少数にとどまっていた。性に関する悩みや不安を友人や家族に相談するものは少なく、ほとんどの人がネットの情報検索に頼っている状況が確認された。YouTubeの性教育動画や性関連動画などもしばしば視聴されていた。学校の性教育が恋愛交際や性行動に役立ったと回答したものは少なかったが、私学などで性教育に力を入れている場合は満足度が高くなる傾向が見られた。ポルノグラフィについてはスマートフォンで実写動画を閲覧するものが多く、ポルノ視聴とマスターベーションが強く関連していた。アニメやマンガなどの俗に言う「2次元」ポルノ視聴はそれらのオタクを自認するものに視聴が限定される傾向があった。ポルノの性描写を真に受けるような態度は確認されず、また暴力的な表現を忌避したり、そうした表現が演者に与える影響を懸念する声も聞かれた。性行為のやり方(いわゆるノウハウ)について不安を表明するものは少なかったが、恋愛交際のいわゆるアプローチについては不安を語る未経験者が多かった。恋愛経験があるものの性交経験のない男性は「性行為によって相手を妊娠させてしまう」ことへの懸念を理由として挙げ、また性交経験のある男性も同様の「責任」に言及する者が多かった。そうした面で性教育は一定程度の効果を上げていると言えるが、同時にそうした「脅しの性教育」によって性行動が不活発化している可能性を指摘するものもいた。ゲイ男性からはハッテン場などでの性行為について詳細な語りが得られた。  【4.結論】  質的調査でも男性の性の不活発化が確認されたが、パートナーを大切に思えばこそ焦って性行為へと乗り出さない態度はむしろ肯定的に評価されるべきであろう。またネットに氾濫する性情報に振り回されアノミー状況に陥っている若者がいるのではないかという懸念があったが、彼らはネットから必要な情報を適切に取捨選択できている印象を受けた。  【文献】 日本性教育協会編,2019,『「若者の性」白書─第8回青少年の性行動全国調査報告』小学館. 大倉韻,2024,「恋愛の優先順位」青少年研究会『現代若者の再帰的ライフスタイルの諸類型とその成立条件の解明』54-56.

報告番号210

「大学生と語る性2021〜2024」インタビュー調査(3)——大学生における性の語り方
明治大学 PACHER ALICE

【1.目的】 近年、日本の若者層において、セックスについての否定的なイメージの増加傾向が報告されている。特に2005年から性に関する会話の経験がないという割合が増えていると同時に、性のイメージとして「楽しくない」という割合も増えている(若者の性白書 2013:49-58).若者層だけではなく、中高年層でも性的なコミュニケーションをとる頻度が減っていることが確認され、言語的・身体的なコミュニケーションの乏しさがセックスレス化に繋がる一つの要素と見られている(日本性科学会2016:58-59). 本報告の目的は、セクシュアリティ研究会の「大学生と語る性」インタビュー調査の第3報告として日本の大学生における性的コミュニケーションの実態を考察することである.すなわち、大学生は誰と、そしてどのように性について語っているのかをインタビュー調査を通じて考察することを目的とした. 【2.方法】 2021年6月~2024年3月の調査時に大学に在籍していた60人に対して,半構造化インタビュー調査を実施した。本報告では,交際経験のある26人と交際経験のない34人の大学生に着目し、1. 性について誰と何を話しているのか、2. どのような雰囲気で話しているのか、3. 性的同意や性的交渉を含めてパートナーとセックスについてどのように話しているのか、について考察する. 【3.結果】 性について日常でも話すと回答したインフォーマントの中には、高校の友達やバイトの仲間、大学の友達、後輩・先輩が性について語る相手として挙げられた.その中には、異性よりも同性の相手と性について語り、真面目な議論よりも冗談のように性について話す傾向が見られた.また、家庭内では性についての会話におけるタブー意識が強い.だが、女性の中には交際経験の有無を問わず、ジェンダーやセクシャリティに関する授業を大学で受けた経験がある場合、母親と授業の内容について話していると語る学生もいた. 交際経験のない学生の中には、友達や学生仲間と冗談のような雰囲気で性について話すこともある反面、誰とも話さず、周りの友人とは直接的な「性」についてよりも、恋愛や共通の趣味、推し活についての話が中心であることがわかった。 交際経験のある学生の中には、性的同意に関しては、パートナーとの性的なコミュニケーションの重要性を強調する一方、女性の大学生は気乗りしないセックスや痛みを感じた場合、直接断ることができ、男性のインフォーマントの中には、相手に「痛い時にはいつでも言ってね」と言うことで、セックスの際に問題があれば言えるような雰囲気を作る努力をしていることがみられる。だが、痛みの原因や、交際相手と一緒の作り上げていきたい性についての会話は乏しく、コミュニケーションの偏りが明らかとなった. 本報告では、性的なコミュニケーションの在り方を与えている要因(性別、性交経験の有無、過去の性的な経験など)も踏まえながら分析結果を詳細に紹介する.

報告番号211

「大学生と語る性2021~2024」インタビュー調査(4)——「親密性のパラダイム」深化の諸相
大妻女子大学 木村 絵里子

【目的・方法】日本社会では,1970年代以降,性解放や恋愛至上主義の浸透などを背景にして性交経験率が増加傾向にあった.性交のモラルが「婚姻前提」から「愛情前提」が多数派になったのは1990年代以降のことである(「日本人の意識調査」).しかし,2000年代後半以降,若年層の性行動に大きな変化が生じている.性交経験のない未婚者の割合が男女ともに増加し(「出生動向基本調査」),若年層の性的関心の経験の低下や性に対するイメージが悪化し,恋人との性交経験のない者も増えてきた(「青少年の性行動全国調査」).  従来の学術研究では「恋人であれば性的行為をおこなうのが当然だ」と愛情と性の結びつきを自明のものとする傾向もみられるが,前述の先行調査の結果に鑑み,「愛情と性の結びつき」のあり方そのものを問い直す必要がある.そもそも日本社会では,「親密性のパラダイム」として性行為の領域において「愛」が重要な位置を占めるようになったのは1960~70年代以降のことに過ぎない(赤川 1999).平均初婚年齢が上がり,結婚までの期間が長期化する近年において,この結びつきに変化が生じている可能性がある.あるいは上記のような調査結果は,西洋とズレが生じていた日本社会の親密な関係性における性的行為の特異な位置づけ(木村 2016)が,近年になってより先鋭化してきているとも考えられる.本報告では,セクシュアリティ研究会による「大学生と語る性2021~2024」インタビュー調査データを用いて,恋愛関係における性的行為の位置づけについて検討してみたい.方法や調査データの詳細は第一報告要旨を参照のこと. 【結果・結論】本調査のデータによれば,恋愛と性的行為が密接に結びついている場合,性的行為は「愛情表現」や「コミュニケーション」などと位置付けられている.ただし,恋人との性的行為を「幸せに感じた瞬間」がある一方で徐々に「つまらなさ」「苦しさ」を感じるようになったり,性的行為をおこないたくないという理由から恋愛に対して消極的になっていたりという語りも見受けられる.これらは恋愛と性的行為が強固に結びついていながら,同時に,恋愛と性的行為が別の要素として引き裂かれてもいる.つまり,ここから見出されるのは「親密性のパラダイム」の深化ゆえに生じている「愛があっても解消されない」多様な性の問題である.例えばセックスレスカップルにおける性的主体性の不十分さもここに含まれるだろう(パッハー 2022).  また,恋愛が後景に退き性的行為のみがせり出しているという親密性のパラダイムの外側に位置付けられる事例もある.逆に,直接的な性的行為が切り離された,アイドルの「推し活」などについては,ある種の高揚感を伴いながら語られている.こうした現象は,セクシュアリティの個人化といかに関連するのだろうか.当日の報告では,以上のような事例を取り上げ,現代の大学生が築く親密な関係性のさまざまなかたちについて考察をおこなう. 【文献】赤川学,1999『セクシュアリティの歴史社会学』勁草書房. 林雄亮編,2018『青少年の性行動はどう変わってきたか』ミネルヴァ書房.木村絵里子,2016「近代的『恋愛』再考」川崎賢一・浅野智彦編『〈若者〉の溶解』勁草書房. 田村公江・細谷実編,2011『大学生と語る性』晃洋書房.パッハー・アリス,2022『したいけど,めんどくさい』晃洋書房.

報告番号212

「大学生と語る性2021-2024」インタビュー調査(5)——「性的な関心がない」とはどういうことか?
石巻専修大学 高橋 幸

1目的  2000年代後半から顕著になった高校生・大学生における「性的関心がない」という態度の増加は,友人との性についての会話の少なさやポルノ視聴経験の少なさという行動に加えて,「性・セックス」に対する悪感情(楽しくない・汚い)と関連していることが指摘されてきた(林編2018).  ただし,「性的関心がない」人のなかには,他者に性的に惹かれない性的指向であるアセクシュアルの人も含まれており,この場合,性的無関心と悪感情は独立である(つまり性への悪感情を持っているから性に関心を持たないのではなく,端的に関心がないのだ).2023年の全国調査で「アセクシュアル・無性愛者」は0.9%,性的指向を「決めたくない・決めていない」は5.6%であった(釜野ら2023).  したがって,性的無関心については,悪感情によるものと性急に思いこむことなく,本人がそれをどのように捉えているのかを丁寧に見ていく必要がある.本報告では「性的関心がない」と語る13人の語りを中心に分析し,その様相を明らかにする. 2分析データ  上記の13人をジェンダー別にみると,女性11人(女性全体の33.3%),男性 1人(男性全体の4.5%),NB 1人(NB全体の20%).フェイスシートに本人が記入した性的指向別にみると異性7人,パン1人,アセクシュアル1人,「わからない」2人,「不明」1人,「こだわりがない」1人(性的関心がないのに性的指向が回答できている8人は,恋愛的指向を答えたことがインタビュー内で判明). 3分析結果  「性的関心がない」と語った全員に性交経験がなく,性的に興奮したり性的快楽を感じたりしたことがなく,女性2人を除く11人はマスターベーションをしたことがなかった.しない理由は「必要性を感じたことがないから」であり「それをどうやるのかがわからないし友達から聞いたりもしない」からである.性的関心がないことに対しては「自分らしいと思う」,「いまは自分のこと(勉強やサークル等)を優先したい」と語りつつも,将来のライフスタイルの見通しの立たなさに対する不安を語る人が多かった.  性(具体的には「性交」および「異性」存在)への恐怖や嫌悪を語ったのは6人で,残りの7人には恐怖・嫌悪に該当する表現は見られなかった.恐怖・嫌悪は性的関心や性交経験がある人にも見られる.小・中学生期に異性友人集団から外見を嘲笑されたりイジメられたりした経験と自分の性的恐怖・嫌悪を関連づける語りが複数人から聞かれた.パブリックスペースでの性被害(チカン等)は女性を中心にあまりにも多くの人が受けているため,この有無と恐怖・嫌悪の有無の集団は重ならない.また,恐怖・嫌悪を持つ層をはじめとした多くの人が学校の性教育で「もっと具体的なことを知りたかった」と語った. 4結論  「性的関心がない」と語った人のなかで性的恐怖・嫌悪を語った人は半数程度であった.今後必要なのはアセクシュアルについての社会的理解を深めていくことであり,それと同時に社会的「問題」として議論すべきは性的無関心そのものというよりも性への恐怖や嫌悪である.恐怖・嫌悪に対しては,全ての人への生理・射精教育,性交の説明,性関係教育(relationship education)等を組み込んだ包括的性教育の充実が有効であると考えられる. 文献 林雄亮編,2018,『青少年の性行動はどう変わってきたか』ミネルヴァ書房. 釜野さおり他,2023,「家族と性と多様性にかんする全国アンケート」結果概要.

報告番号213

子どものケアの脱家族化の現状と課題
太成学院大学 山本 由紀子

【1.目的】子どものケアの脱家族化については、エスピン・アンデルセン(1999‐2000)が「脱家族化」概念を示したことに対して、ライトナー (2003)は、ケアを外部化することを可能にする脱家族化と家族によるケアを支援する家族化の二つの指標によって家族主義の多様性を論じた。この指標に依拠した先行研究では、日本における子どものケアの脱家族化は、ケア労働の拡充に遅れがみられる一方で、ケア費用の脱家族化が強化される特徴があると評価されてきた(大木 2019)。しかしながらごく近年では、保育所の量的拡大によって保育所利用率は上昇し、先行研究に依拠すれば子どものケア労働の脱家族化は「進展した」と評価される水準に達している。ではこのことを根拠にして、日本における子どものケアは「選択的家族主義」(Leitner 2003)へと移行しつつあると評価できるのか。本報告では、日本における子どものケアの脱家族化の現状を直近のデータに基づいて示し、その課題を明らかにすることを試みる。【2.方法】子どものケアの脱家族化について、先行研究に従い次の二つの下位項目を設定する。①「ケア労働の脱家族化」指標として、保育所数・定員の推移、3歳未満の保育所利用者数・利用率の推移、➁「ケア費用の脱家族化」として、育児休業給付、家族給付の水準を示す。使用する主なデータは「OECD Family database」である。その上で、これらのデータと各施策の利用要件および利用対象者等の諸条件を関連付けて検討することにより、日本における子どものケアの脱家族化の課題を考察する。【3.結果】ケア労働の脱家族化の指標とされる3歳未満の公的保育所利用率はOECD平均を上回る水準に達していることから、この点のみに着目すれば日本のケア労働の脱家族化は強化されたということになる。しかしながら、公的保育制度は「保育を必要とする」という家族的条件をその利用要件としており、育児不安や育児負担等の育児ニーズは制度上利用要件に含まれず、公的保育の利用には結びついていない。またケア費用の脱家族化について、雇用保険加入者を対象としている育児休業給付は、給付水準・期間ともに制度面では比較的高水準となっているが、実際の給付額ではOECD平均を下回っている。また家族関係社会支出のうち普遍的な給付である現金給付は低水準にとどまる。【4.結論】日本において比較的進展しているといえる保育所利用率および育児休業制度は、いずれも親の就労を根拠として提供されるものであり、誰にとっても選択可能な資源にはなっていない。「ケアの脱家族化」が育児不安や育児負担感に対する解法として求められてきたことに鑑みると、子どものケアの脱家族化が親の就労と密接に関連づけられていることが課題であると考えられる。【文献】Esping-Andersen, Gøsta,1999,Social Foundations of Postindustrial Economics, London:Oxford University Press. Leitner, Sigrid,2003,“Varieties of Familialism: The Caring Function of the Family in Comparative Perspective” European Societies, 5(4): 353 – 75. 落合恵美子,2015,「『日本型福祉レジーム』はなぜ家族主義のままなのか―4 報告へのコメント」『家族社会学研究』27(1): 61-8 大木香菜江,2019,「家族主義福祉レジーム諸国における育児の脱家族化―日本とイタリアの育児政策比較研究―」京都社会学年報 27: 45-67

報告番号214

「愛着理論」の現在 ——戦後日本社会における知識の受容・変容過程にかんする知識社会学的考察
関西学院大学 村田 泰子

本報告は、知識社会学の視点から、戦後日本社会における「愛着理論」と呼ばれる育児理論の受容・変容過程について検討するものである。  「愛着(attachment)」とは、特定の他者に対しつよい結びつきを形成する、人間の傾向を指す。提唱者ジョン・ボウルビィは精神分析理論と進化論のバックグラウンドをもち、イタリアでの施設児研究をつうじて、発達における乳幼児期の経験の重要性とその生涯にわたる影響を説いた。またメアリー・エインズワースは、子どもの母親にたいする愛着行動の類型化を行い、子どもの発達に関する一般理論へと高めた。  その後、英米では、愛着理論は疑いようのない大きな影響力を保持する一方、広範な批判も展開されてきた。なかでも人類学者による西洋中心主義という批判や「フォーク・セオリー」という批判、多様な「アロ・マザー」による子育てをめぐる議論(Naomi Quinn and Jeanette Marie Mageo ed., 2013)、家父長制とのかかわりや新自由主義のもとでの「トータル・マザーフッド」(Joan Wolf 2011)についてのフェミニズムの議論などは重要だろう。  ひるがえって、日本では、専門家による指導と「母性愛」を軸とした近代的育児法の導入は大正期にはじまり(首藤美香子2004)、戦後、第一次池田内閣の「人づくり政策」のもと、三歳児健診などの具体的施策をつうじて広まった(小沢牧子1994)。その知は、産業構造の転換をむかえつつあった日本社会の状況とマッチし、母親専従の育児システムを理論的に支える「正典」となっていったと考えられる。ちなみに英米の研究では、日本の子育ては母子の「近接性(proximity)」を特徴とする子育てとして知られている(Naomi Quinn and Jeanette Marie Mageo ed., 2013)。  その後、日本では長らく小さい子どもをもつ女性の就労率は低く抑えられてきたが、2000年代以降、変化がみられる。末子年齢3歳未満世帯の妻(15歳以上)の就業率は2002年には27.9%であったが、2017年には52.7%まで増えた。このように社会が変化するなか、理論は現実に合わせたものとなっていない。欧米社会が1970年代にいちはやく少子化と不況を経験し、共働きを支える福祉政策を展開してきたのにたいし、日本ではそうはなっていない(落合恵美子2018)。  むろん、国内でも愛着理論の批判的検討がなされてこなかったわけではない。2000年代初頭には、愛着理論が「仕事をもっている母親を不安にさせている」という指摘(高橋惠子2003)がなされ、心理学分野を中心にジェンダーの視点から問い直しがすすんだ。また、実証的な研究も行われ、母親の早期就労復帰は、子どもの問題行動を促進する直接的な効果をもたないという結論が導き出された(安梅勅江2002、菅原ますみ2003)。しかしその一方で、母子保健や保育、療育などの現場では、きわめて素朴で古典的な愛着理論の理解にもとづく教育や指導が行われてもいる。  こうした現状にあって、現場で子育てをしている女性たちは、愛着理論をどのように捉え、実践しているのか。本報告では、2021年から24年にかけて兵庫県と大阪府で収集した、乳幼児を育てる女性10名のインタビュー・データをもとに、愛着理論のねづよい影響力と、同時に、知識が実践をつうじて書き換えられる可能性について検討する。  なお本報告は、JSPS科研費23H03653(代表:北村文)の助成を受けたものである。

報告番号215

精神科病院への非自発的入院と家族のケアをめぐる葛藤に関する考察 ——患者家族を対象としたインタビュー調査から
東京通信大学 櫛原 克哉

【1. 目的】明治期の精神医学の黎明期からこんにちにいたるまで、家族は精神障害者のケアの担い手として位置づけられてきた。現在の象徴的な例としては、非自発的入院の一形態である医療保護入院(本人から同意が得られない際に家族等の同意により行う入院制度)が挙げられる。同制度は「家族等」が入院の意思決定に関与する世界的に見ても稀有といっても過言ではない制度であり、家族主義の存続・持続と個人化の停滞とも呼びうる様相も帯びている。非自発的に入院した患者を家族にもつ者は、入院が取りうる選択肢のなかで最善だったか葛藤するほか、退院後に家族との関係性が悪化することもあるという。このような家族の声の発信や、精神障害・入院経験がある患者家族を対象とした心理学の質的研究もあるものの、管見の限り社会学の研究は見当たらない。そのため本報告は、非自発的入院とその前後のケアに関する患者家族の経験ついて考察することを目的とする。 【2. 方法】精神科病院への非自発的入院(医療保護入院ないし措置入院)の経験がある者(主に統合失調症)を家族にもつ18名に、半構造化面接法に基づくインタビュー調査を実施した。主な質問項目として、①家族の生育歴と病歴、②入院前/中/後の様子、③非自発的入院に対する考えや意見、④現在の家族との関係性が含まれる。対象者はいずれも入院経験者の父ないし母である。 【3. 結果】入院の正当性についての葛藤は本調査でも確認されたものの、入院によって家族間に軋轢が生じたという事例は比較的少数に留まった。ケアを中心とした家族間の強固な結びつきを示唆する事例として、自宅ないしその近距離で家族の生活を見守りつつ生活全般の面倒をみるケースや、高齢の親が子どもの生活を支えるいわゆる8050問題に近いケースがあった。家庭内暴力の激化が入院の契機だった事例では、暴力を危惧する父親が退院に反対するも、主治医との相談のもとで母親が入院の調整を進め、退院後の生活に至ったものもあった。一方で、家族のケアへの疲弊から住居を別にしたい、夫婦の老後生活を充実させたい、家族関係を弱化・解消したいといった要望も聞かれた。しかし、本人に要望を伝えられない、支援の不足から実現が困難である、相談先がわからないといった理由から、諦念に近いかたちで受忍する様子もみられた。 【4. 結論】家族のケアを担い続けようとする家族がいる一方で、そこから一定の距離を設けようと考えるも実現には至らず、ケアの義務感と解放の希求とのあいだで葛藤する家族の存在も確認された。背景として、ケアや生活の場の提供は家族以外には困難であるという状況と認識があり、相談先も思い当たらないために家族内でのケアを継続せざるをえない実情がうかがえた。 【謝辞】本研究は、厚生労働科学研究費補助金(障害者政策総合研究事業)(23CG1017)の助成を受けたものである。

報告番号216

中国都市部における子育て期家族の親族によるケアの分担
神戸大学大学院 侯 佳慧

20世紀の後半、欧米では、Ariès(『〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活』1960=1980)、Shorter(『近代家族の形成』1975=1987)、Stone(『家族・性・結婚の社会史―1500-1800年のイギリス』1977=1991)などの議論を中心に、近代家族論が徐々に形になり、「近代家族」という概念も使われるようになった。  欧米では、1880年代から、「工業社会」における近代化に伴う都市化と工業化により伝統的な家族規範が徐々に変わってゆき、新しい形を形成し始めた。その結果、ケアの家族化が行われ、女性の労働力率が低下し、主婦化が進んできた。そして1970年代になると、オイルショックによる経済の不況、個人主義の浸透、フェミニズムの発展などを背景に、欧米社会は「リスク社会(risk society)」に転換し、「第2の近代」のプロセスに入った。この段階では、出生率が再び低下し始め、ケアの脱家族化が進み、脱主婦化が進んできた。  中国に焦点を当てると、「第1の近代」と「第2の近代」の間に間隔がなく、ほぼ同時に進行している。それだけではなく、中国では、主婦化から脱主婦化、ケアの家族化から脱家族化のプロセスも逆の方向で進んでいる。中国の女性の労働力率は1991年の72.84%から2023年には60.54%に低下し、安定した下降傾向があり、むしろ主婦化が進行しているように見える。女性の就労とケアの配分における近代化の道筋が他国と逆転した理由は、中国独特の政策的背景にある。まず、建国初期の30年間、国は労働力を増やすため、積極的に再生産労働の社会化を推進し、「脱主婦化」の目的が明白であった。その後、経済的要因を背景に、雇用問題の解決と資源配分の最適化により、「婦女回家」 の論争が何回も行われた。1990年代の国有企業の改革に伴い、「単位」 制度が解体し、ケアの責任が再び家庭に戻った。そして、女性職員が中心のレイオフが主婦化をさらに加速させた。  とはいえ、中国における共働きの割合は他の国に比べて高く、共働き家庭の育児は大きな社会問題となっている。その結果、隔代育児はいつの間にか中国社会の既定の「伝統」となり、ケアにおける親族援助がケアの分担の選択肢の一つになった。そのため、本研究では、ケアの外部化の前にもう一歩先に、親族範囲でのケアの分担を検討したい。  本研究では、ケアの負担がもっとも大きい、子育て期を対象期間に選定し、核家族の中の女性、いわゆる母親を調査対象として、中国都市部家族の親族範囲でのケアの分担の実態を明らかにすることを目的としている。母親を強調するのは、家庭内のケア責任は主に母親によって無償で担われてきたことであり、ケアは母親にとって逃げられない責任のためである。調査対象者の選定にあたっては、寧波市に居住して、家事労働者を雇用する経験がなし、現時点では子供が小学校に通っている、中産階級の女性を対象として選んだ。調査期間は2024年3月から4月までの2ヶ月である。

報告番号217

「社会構想の社会学」の展開可能性
社会構想大学院大学 德宮 俊貴

「わたしたちが社会学に求める課題は,人間と社会についての〈見晴らし〉を開く,ということにある」。「未来への『見晴らしを開く』という仕事は,大きく分けて,未来を『予見』するという仕事と,未来を『構想』するという仕事とに分けられる」(見田宗介『見田宗介著作集 VII 未来展望の社会学』岩波書店,2012年,199頁)。こう断言する見田宗介も指摘するとおり,フランス革命後の混乱期に「社会再組織」をめざしたオーギュスト・コントにより「予見するために見る」学問として社会学は考案された。今日までつづく制度化された社会学の基礎を築いたエミール・デュルケームもまた,「普仏戦争敗北後のフランス社会の社会学による再建」(中島道男「エミール・デュルケームとは誰か」デュルケーム/デュルケーム学派研究会『社会学の基本――デュルケームの論点』学文社,2021年,x頁)に使命感をもっていた。他方で,社会学の諸方法論を批判的に検討した盛山和夫によれば,「社会学は最終的には『経験的』ではなくて『規範的』な学問たらざるをえない」(盛山和夫『叢書現代社会学 3 社会学とは何か――意味世界への探究』ミネルヴァ書房,2011年,269-70頁)。社会学は学史的にも方法的にも社会構想の学としての性格を有しているといえるが,多様化し細分化した現代社会学において,あらためてこれを一領域として確立し,展開していくことはできるだろうか。その可能性をさぐるために,本報告では「社会構想の社会学」がひきうけるべき主題を再確認ないし再定位することを試みる。 「『社会構想』とは,望ましい社会についてのイメージをその構成原理の水準で提示するものであり……(1)その時点での社会の問題点・欠陥の指摘,把握,(2)それらが何に起因するのかの解明,(3)望ましい人間社会のあり方の提示,(4)現在の状態から望ましい社会への変革過程・変革方法についての主張,という4つの大きな主題を持つ」と舩橋晴俊は定義する。けれども,個人や組織の実践との関連がこの定義では不明である。「諸個人にとって社会構想は……等身大の問題に対して,その歴史的な意義や社会の中の位置について巨視的な視点から理解を与え,普遍性のある解決の原則と方向を提示する」ものであって,「ある主体の変革努力が,他の主体の同様の変革努力を連鎖的に触発し,その主体が見い出した問題解決方法や原則が,共鳴によって社会的に普及していく」ような「触発的変革力」(舩橋晴俊「社会構想と社会制御」井上俊・上野千鶴子・大澤真幸・見田宗介・吉見俊哉編『岩波講座現代社会学 26 社会構想の社会学』岩波書店,1996年,2-21頁)がそこでは求められるという舩橋自身の解説をふまえるなら,社会構想の社会学とは,1人1人の生きられる困難をその時代その社会の構造的な問題としてトータルに把握しなおすとともに,人間存在の原論的な考察をつうじて望ましい社会の(自己批判に開かれた)原理的なイメージを提示し,問題の克服に展望や方向性をあたえることで,主体的な変革実践を連鎖的に触発する学問領域である,と定義できるだろう。すなわち,実証,理論,構想,実践の4つの局面の円環からなるわけだが,とりわけ実践の局面において,研究成果の学術をこえた発信(触発)はいかに可能かが問われることになる。

報告番号218

Future Design
京都先端科学大学 西條 辰義

Wouldn’t you all like to design a society in which future generations will want to say “thank you” to the current generation? However, world leaders are willing to wage wars and invasions. On the other hand, “Future Failure,” which places the burden on future generations, has been accelerating since the mid-20th century. Planetary boundary researchers warn that carbon, nitrogen, and phosphorus cycles, as well as biodiversity, have reached a tipping point from which there is no return. What, then, should we do? Don’t we have a disposition to “feel happiness by aiming for the happiness of future generations, even at the expense of immediate benefits”? Let us call this “futurability”. Our current society has not been structured in a way that allows us to realize our “futurability.” Therefore, Future Design (FD) which was started in Japan about ten years ago, aims to design a society in which we can realize our ability to avoid future failure. Like the Iroquois, the effectiveness of flying into the “future” and thinking about the “present” from there was confirmed in various subject experiments, and the praxes began. In 2015, the town of Yahaba, Iwate Prefecture, used FD to formulate a vision for the year 2060 as part of its “Comprehensive Strategy for the Creation of Town, People, and Work.” When participants were divided into two groups, one to think about the “future” from the “present” and the other to think about the “present” from the “future,” the imaginary future generation designed a creative and sustainable society. In 2017, while preparing an FD practice in a town, one of the officials whispered to me, “You guys are supposed to take data in our town and then write a paper about it.” In response to this, I established six principles the main actors in the practice should be the people and citizens practicing FD, and the researchers should play the role of shadows and led by the main actors. We have also initiated a proposal to use FD at the G7: Think 7 (T7) in the pre-G7 meeting, and at the T7 for the G7 in Germany in 2022, we proposed “Future Design: For the Survival of Humankind”. The proposal is not only to punish Russia, but to have a time for world leaders to become imaginary future leaders in 2050, to form a vision, including peace, and to discuss what should be done now. Tsuyoshi Okamoto of Kyushu University has started FD in first-year education at his university. In Yahaba Town, the birthplace of FD, a “Future Design Ordinance” has begun to be formulated for the happiness of future generations. General Incorporated Association (GIA) Future Design, which supports the praxes of FD, has also begun its activities. The Ministry of Finance also has a Future Design Group. Overseas, FD practices have begun in the Netherlands and other countries.

報告番号219

仮想将来世代人はどこに属しているのか?
名古屋大学 立川 雅司

地球環境の危機が叫ばれている中、長期的視点に立つことの重要性が指摘されている。MacAskill(2022)は、哺乳類の平均的生存期間と同じ時間を人類も送ることを想定すれば、人類は今後70万年生存するはずであり、我々はそうした未来の人びとまでも配慮するような「長期的視点」をもつ必要があると指摘する。それでは、どうすれば長期的視点に立つことができるのか。そうした問いに答える試みのひとつとしてフューチャー・デザイン(以下FD)が議論されている(西條 2015)。FDが実施された場合、仮想将来世代人は現在世代人とは異なった選好を表明する例がしばしば報告されているが、それはなぜだろうか。将来世代人は、どのような立場や観点にたつことで、こうした異なった選好を表明することになるのだろうか。  FDのワークショップに参加する人々が仮想将来世代人の役割を帯び、発言する際に、彼らはどのような立場から、現在世代人と対話しているのだろうか。異なった選好や価値観に立っていることは何を含意するのだろうか。こうした課題に答えるべく、本報告では、未来倫理(戸谷 2023)の諸視点やエコロジカル・シチズンシップ(ドブソン 2003=2006)などの議論を手掛かりに、仮想将来世代人が依拠する立場や観点について試論的に検討する。例えば、どのような未来倫理(契約説、功利主義、責任原理、討議倫理、共同体主義、ケアの倫理)に仮想将来世代人が立脚しているのかという点は、仮想将来世代人と現在世代人との関係性に影響を及ぼし、仮想将来世代人の発言や助言の中身にも影響を与えるのではないか。具体的には、ケアの倫理や共同体主義では、両者の距離感が小さくなる(親近感を帯びた存在として関係性が想定)のに対して、功利主義や責任原理では逆に距離感が広がる(客観的/抽象的な存在として関係性が想定)と考えられる。また、仮想将来世代人が対話の場で向き合う現在世代人は、同じ物質的な基盤を共有する血縁や地縁のつながりをもつ人々としてとらえられているのか、それともそうしたつながりを考慮しない形で、抽象的な存在としてとらえられているのか(単なる善意の発露として助言しているのか)という違いによっても、両者が向き合う空間は異なったものとなるであろう(結果として発言も異なってくるであろう)。  以上のように、仮想将来世代人が長期的視点を抱く立場や観点(その可能性や理路)について、様々な観点から確認しておくことは、FDの実践にも示唆を与えるのではないだろうか。

報告番号220

Future Sociology for A Sustainable Society
京都先端科学大学 佐藤 嘉倫

【1. Aim】 The aim of this presentation is to explore the creation of Future Sociology to realize a sustainable society, building on Tatsuyoshi Saijo’s Future Design. In Future Design workshops, participants are divided into present and future generations to discuss the future of their area, often thirty years ahead. Initially, the present generation prioritizes its own interests, but through discussions with the future generation, they start to prioritize future interests and determine necessary current actions. Saijo terms this “futurability,” and reports show that many workshops have helped the present generation acquire it. However, there is a challenge in adapting Future Design for Future Sociology. Originally designed to address burdens like environmental issues placed by the present on the future generation, Future Design’s workshops have been conducted at the municipal level with limited participants. To resolve issues such as environmental problems which require national-level cooperation, we need to scale up Future Design, which I term Future Sociology. This presentation aims to explore how to achieve this. 【2. Method】 To address this, I propose three problems in Future Sociology: Can the present and future generations understand each other? Can they collaborate beyond their respective interests? How can each generation go beyond internal conflicts? The first problem seems insurmountable since the present generation has not met the future one. However, in Future Design workshops, the present generation interacts with a virtual future generation, gaining some understanding. Is this scalable to the national level? The second problem involves acting against one’s own interest for the future generation. While small-scale workshops might reach consensus, is this feasible at the national level? The third problem addresses conflicts within generations. Implementing Future Design nationally will encounter internal conflicts within each generation based on class, gender, ethnicity, and age. How can these be resolved? 【3. Results】 I propose a two-step solution. First, establish the Ministry of Future in the national government, as proposed by Saijo. However, the current National Diet might not pass bills from this ministry since no future generation member holds a seat. To address this, conduct Future Design workshops in the National Diet. Diet Members would be divided into present and future generations to discuss Japan’s future. Small-scale workshop results suggest that such workshops in the National Diet could solve the three identified problems. 【4. Conclusions and Discussion】 Having Members of the National Diet participate in Future Design might seem far-fetched. However, in June 2023, the Constitutional Democratic Party submitted the Basic SDGs Bill to the House of Representatives, showing that some Diet members are committed to sustainability. We can start by involving these conscious Diet members in workshops.

報告番号221

フューチャー・デザインとデジタル民主主義——仮想将来世代との対話を通じた持続可能な社会の構築
統計数理研究所 今田 高俊

【1.目的】西條辰義らを中心に進められているフューチャー・デザインは、仮想将来世代の視点を現在の政策決定プロセスに取り入れることで、持続可能な社会の構築を目指すアプローチであると解釈できる。本報告では、デジタル民主主義のツールであるPol.is および「二次の投票」(Quadratic Voting)によりフューチャー・デザインを機能強化する可能性を探る。 【2.方法】第一に、熟議民主主義の手法としてミニ・パブリクスやPol.isの活用事例を検討し、これらがフューチャー・デザインの実践にどのように貢献できるかを議論する。熟議民主主義は、公共の問題について市民が集まり、情報を共有し、意見を交換し、合意形成を目指すプロセスを重視する。フューチャー・デザインは、熟議民主主義を活用することで、より確実で周到な社会デザインの手法となる。特に、ミニ・パブリクスの手法とPol.isというデジタルプラットフォームにより、現状のフューチャー・デザインが抱える困難としての「代表制」(議論に参加する市民が無作為に選抜されていない)と「規模の大きさ」(市町村という地域社会に制限されている)という問題を克服することを論じる。第二に、投票方法の革新として提案されている「二次の投票」が、フューチャー・デザインの理念に沿った民主主義としてどのように役立つかを探求する。二次の投票(Quadratic Voting, QV)は、民主主義の意思決定制度における革新的なアプローチであり、個々の選択肢に対する有権者の選好の強さや優先順位をより正確に反映させることを目的とする。QVは、少数意見の保護、意思決定の質の向上、社会的合意形成など、多くの問題を解決する可能性があることを論じる。 【3.結果】上記の方法を踏まえた結果として、持続可能な開発目標(SDGs)に関するフューチャー・デザインの実践手続き案を紹介する。日本を母集団とし、無作為抽出によって成人1000名を選出し、「調査パブリックス」とする。アンケート調査により、17のSDGsについて「二次の投票」により優先順位を決定する。また、調査パブリックスから300名を選出し、熟議に参加する「ミニ・パブリックス」とする。ミニ・パブリックスを20名からなるグループ15組に分け、各組を現在世代と仮想将来世代の2つに分けて熟議をオンラインでおこなう。熟議のテーマは優先順位1位から3位までのSDGsに関するものとし、熟議の結果をPol.isにアップロード(マッピング)して、調査パブリックスから賛成・反対・スルーの選択(と意見)を募る。意見が終息した時点で、調査パブリックス1000名の合意形成がどの程度なされているかをマスコミに公表し、政府への意見書として提出する。 【4.結論】本報告は持続可能な社会への移行を目指す上で、仮想将来世代の視点を現在の政策決定プロセスに組み込むことの重要性を強調するものであると同時に、熟議民主主義の手法やデジタルツールを活用することで、フューチャー・デザインの実践を強化し、より包括的で参加的な民主主義を実現するための具体的な方法を提示するものである。ただし、こうした方法の実現はデジタル民主主義の成熟度に依存するため、半世紀ほどかかると予想される。資料等は発表時に配布予定。

報告番号222

「歴史の終わり」を超える市民社会——フクヤマとコーエン&アラトーの論議の対比から
明治大学 大畑 裕嗣

冷戦終焉が言われていた1992年、社会・政治理論の分野において論争的な二冊の書物が公刊された。一冊は、フランシス・フクヤマの『歴史の終わりと最後の人間』(邦題『歴史の終わり』、以下、邦題で表示)、もう一冊は、ジーン・コーエンとアンドリュー・アラトーの共著『市民社会と政治理論』(未訳)である。この二冊は、それぞれ異なったインパクトを持つ問題作として受け止められ、ほとんど別々に論じられ、検討されてきた。両者の関連性については立ち入った検討はあまりなされず、それゆえ、一方を否定的な準拠点としつ他方の限界を超えるような理論的作業は望むべくもなかった。本報告は、上記二書のこのような受容のされ方を踏まえて、『歴史の終わり』を否定的媒介として位置づけつつ、21世紀の新たな状況に対応する市民社会の展望を導出するためのツールとして『市民社会と政治理論』を読み直す方略を示す。  「自由民主主義」という思想的背景の強調の下に、政治社会-市民社会-経済社会という、かなり静態的な三分モデルを分析枠組として定立するという、『市民社会と政治理論』が、従来、しばしば肯定的に評価されてきた理論的焦点は、コジェーヴの普遍的等質国家論を下敷きとした『歴史の終わり』の主張と実質的に収斂してしまう可能性をはらむものであった。本報告では、『市民社会と政治理論』を、別の側面から、言いかえれば、歴史過程において生成する、複数の文脈における市民社会の定義更新という方法論に即して読み直し、生じていく出来事にてらしての「市民社会再審」の要請を導出する。  報告は次の順序で進める予定である。(1)『歴史の終わり』『市民社会と政治理論』が著者たちによって準備され、刊行されるまでの経緯、それぞれの概要、公刊当時の反響、論評などを簡潔に述べる。(2)19-20世紀にかけて提示され、実践された社会構想の諸選択肢のあいだには決着が着き、われわれはヘーゲルやコジェーヴが示唆した「世界史の終わり」を目前にしているというフクヤマの主張と、従来の市民社会に関する言説とその批判の検討に基づき、市民社会論の再構築を行うコーエンとアラトーの理論的プロジェクトのあいだには、後者の前者に向けての収斂を生じさせる可能性が存在していたことを指摘する。(3)『歴史の終わり』『市民社会と政治理論』に対する高評価と反響は、1990年代の時代状況に規定されていたこと、21世紀にはいって以降の世界情勢の変化を受けて、フクヤマはかつての自説への懐疑を表明するようになり、コーエンとアラトーの市民社会論の「定式化」は護持されつつも、その生産的展開は伸び悩んだことを述べる。 (4)『市民社会と政治理論』の意義は、市民社会論を基礎づける、単一的で安定的な「語りの構造」(ソマーズ)を措定することなく、いくつかの異なる「文脈」に応じて、市民社会論がどのように異なった主張をなしたかをみるという方法論にあったとする視角を提起する。想定する「文脈」をより適切なものとすれば、市民社会論は「歴史の終わり」論の陥穽におちいること、言いかえれば「市民社会という新たなユートピアの啓示」にとどまることなく、21世紀の現実の中での「市民社会再審」を遂行する枠組たりうることを結論とする。

報告番号223

アーカイブ活用を通じた「対話」の可能性——障害のある女性の「語り」を用いて
愛知大学 土屋 葉

【目的・方法】 本報告で扱うのは、障害のある女性の「生きづらさ」に関する語りという「質的データ」である。このデータは生活史法を用いたインタビュー調査により得られ、逐次起こしを行い、個人が特定されないよう匿名化したテキスト(文字資料)の状態で研究プロジェクトチームのメンバー間に保持されている。ここから作成されたアーカイブズの活用の可能性について検討したい。  第一に、本アーカイブの情報共有について考える。この研究プロジェクトの大きな特徴は、支援の提供を受ける側(障害のある女性)から得られたデータを、支援を提供する側と共有することをめざすものであることだ。具体的には作成したアーカイブズを、専門家や支援者と共有することを想定している。ここでいう専門家とは、医療、教育、行政など障害のある当事者と制度的、機能的にかかわる人びとであり、支援者とはその一部に専門家を含みつつ、障害のある女性の日常生活に、広くかかわる人びとの総称である。  第二に、アーカイブズの実践的活用について検討する。アーカイブズの活用を通じてめざすのは、第一義的には研究者と、専門家や支援者のあいだでの「対話」であるが、それのみならず障害のある当事者と、専門家や支援者のあいだでの「対話」の実施をめざしたい。近年、支援の提供を受ける側の主体性・優先などが議論されるが、専門家と障害のある当事者との非対称性は未だに強い。こうした非対称性が存在するなかで、ひとりの障害当事者が、みずからの日常生活にふかくかかわる専門家や支援者と向きあうとき、ほかの誰でもない「この私」 の輪郭を際立たせて心もちや求めを伝える意義は大きいが、それと同じくらい、いま、ここにいるわけではない(「この私」というわけではない)「誰か」のこととして話題にするやり方にも意義がある。  たとえば障害当事者が専門家や支援者への不満や怒りを含むアーカイブズの語りに「共感する」と表明しても、それがただちに目の前の「あなた」(専門家や支援者)を責めたり異議申し立てをすることにはならない。あるいは専門家や支援者がアーカイブズの語りにたいする否定的な解釈を表明しても、それが目の前の障害当事者への反論や否定にはならない。アーカイブズは両者にそのような仮構の中立性を与え、無防備な深情の表明を可能にする。 【結果・結論】  当日は専門家や支援者等との対話から検討した一部を報告する。また専門家や支援者等からの意見をもとに、かれらからみた使い勝手の良いアーカイブの在り方についても述べる。

報告番号224

障害者運動史資料のアーカイブとその課題——立命館大学生存学研究所における実践を例として
立命館大学 山口 和紀

本報告は、社会運動・障害者運動史資料のアーカイブズに関する実践報告である。報告の目的は、第一に、立命館大学生存学研究所における障害者運動史資料のアーカイビング作業について具体的な紹介を行うことである。第二に、具体的な実践の紹介を通して、大学内におけるアーカイビングあるいはアーカイブズの構築における課題を共有することである。具体例として、同研究所が2022年度よりアーカイビング作業に着手した中山善人氏の資料の受け入れと整理作業について取り上げる。  資料受け入れの経緯とアーカイビング作業の経緯については次のとおりである。資料の寄贈者である中山氏は脳性マヒの当事者であり、1976年に障害者運動組織・福岡青い芝を結成し、1981年からは日本脳性マヒ者協会全国青い芝の会副会長を務めるなど、日本の障害者運動をけん引した中核的人物であった。生存学研究所は2020年の中山氏の逝去後、中山氏が個人で収集していた資料の受け入れを故・立岩真也前所長を中心に行った。報告者らは、立岩前所長の指示により2021年度6月ごろから、中山氏寄贈の資料のアーカイビング作業に着手し、現在も作業を行っている。  生存学研究所には専任のアーキビストがおらず、アーカイビングにあたって標準化された作業マニュアルも作成されてこなかった。そのため、報告者らは整理にあたって、作業の方向性自体を確定させながら作業を行う必要があった。そこでまず、障害者福祉研究を専門とする山下幸子(共同報告者)および山口和紀(報告者)が、資料のおおまかなグルーピング作業を行った。その上で、資料目録の作成作業に移った。また、資料目録作成と同時に資料の物理的保存処置も行った。なお全体の目録作成は完了しておらず、現在も目録作成および保存処置を行っている。  作業の過程では、資料の激しい劣化に対する処置が必要であった。中山氏の寄贈資料は、1960年代から1970年代にかけて印字されたと思われる紙媒体資料が多数存在し、個人宅で保管されていたことから、劣化が進んでいる資料が多かった。こうした保存の処置についても、事前に知見をもった作業者がおらず、また生存学研究所としては資料保存にあたっての保存処置の経験が少なく標準的な方法が定められていないため、作業の過程でそれを学びながら作業の方法自体を策定していった。中山氏の寄贈資料については、立命館大学衣笠総合研究機構・生存学研究所 研究員である岩田京子(共同報告者)が中心となり、目録化・保存処置の作業を行った。  とくに懸案事項となったのは、どのような保存容器を用いるかであった。同研究所はすでに資料の保管に適したスペースが残り少なく、資料を限られたスペースに収めるように配慮する必要があった。そこで、中山氏資料については中性紙箱に保管するような標準的な方法ではなく、原資料が送付されてきた際の段ボールを活用する方法を採用した。また、原資料のホッチキスが外れている場合の処置や、写真の保存方法などについて具体的に検討することも必要となった。  本報告では、これらの作業の経緯とともに、直面した課題やその解決策についても詳述する。限られた資源の中でアーカイビングを進める際の経緯と難しさを紹介することで、研究所内におけるアーカイブ構築の難しさと生存学研究所における対処を共有したい。

報告番号225

質的データのアーカイブの担い手としての障害者運動——マンチェスター障害者連合を事例として
立命館大学 伊東 香純

障害者に関する歴史は、主に医療福祉の専門職によって記述されてきた。その記述において障害者は、介入の受動的な対象とされてきた。障害者による運動は、そのような見方を医学/個人モデルと名づけて異議を唱え、代わりに個人ではなく社会に注目して障害を説明する社会モデルを提唱してきた。その源流とされる運動が、英国で1960~70年代に活動した「隔離に反対する身体障害者連盟(UPIAS)」である。UPIASの活動を一部受継ぐかたちで1985年に発足した障害者組織が、「マンチェスター障害者連合(GMCDP)」である。GMCDPは、障害者運動についてのアーカイブである「障害者アーカイブ(Disabled People’s Archive)」の運営を活動の1つとしている。  本報告は、「障害者アーカイブ」が障害者運動として障害当事者によって運営されている点に注目する。どのような背景で、どのように運営されているのかを記述し、その上で、担い手が従来の歴史の記述者と異なることにより、アーカイブされるデータやその方法がどのように異なるのかを考察することを目的とする。参照した資料は、障害者アーカイブを運営者のインタビュー及び関連の文書資料である。  調査の結果、障害者アーカイブの特徴として、2点を指摘する。第一に、他の機関が所蔵していない資料を所蔵している点である。これは、資料の寄贈者、利用者双方の視点で指摘されている。資料の寄贈者は、主に障害者運動の活動家である。GMCDPでは、2000年以降、自分たちの歴史を残す必要があるとの声が上がり、アーカイブ活動の必要性について調査をおこなった。すると、物置等に保存している資料が傷んでしまうのではないか、管理者の死後、価値を知らない親戚等が資料を捨ててしまうのではないかという懸念を持っている人の存在が明らかになり、アーカイブが立ち上がった。当初、アーカイブの利用者として想定されていたのは、若手の活動家であったが、実際に利用しているのは、活動家よりも研究者であるという。他に同様の資料を所蔵している機関がないため障害者アーカイブを利用していると考えられるが、運営者によると資料は十分に活動されていないという。  第二に、さまざまな機能障害を持つ人を利用者として想定していることである。障害者アーカイブでは、視覚障害者が利用できるよう墨字の文書をテキスト化したり、知的障害者の利用のためにわかりやすい英語になおしたりしており、後者は英語ネイティブでない利用者にも役立っているという。このようなアクセシビリティの対応を、活動の最初からおこなってきた。アーカイブにおいては、可能な限りオリジナルのままで保存することが重視されがちだが、それによってアクセシビリティの格差が維持されてしまう。このためGMCDPでは時間と人手をかけて資料の変換をおこなっている。この対応について、他のより大規模なアーカイブ機関から助言を求められることもあるという。 障害の社会モデルが唱えられ始めた1970年代とは異なり、現在では、障害者の当事者参加や自己決定の重要性は広く認められつつある。しかし、アーカイブに関しては未だ議論が少なく、管理や介入の対象としてではない形でデータを保存する方法についてさらなる議論が必要である。

報告番号226

クィア・アーカイブの現状と課題——トランスの人々の語りのアーカイブ化実践を中心に
関西学院大学 武内 今日子

【1.目的】  本報告では、トランスの人々の語りのアーカイブ化実践を中心に、クィア・アーカイブの理論と実践にかんする現状を概観し情報共有をおこなうとともに、アーカイブ化に際していかなる課題が見られるのかを検討する。性的マイノリティの語りのアーカイブは、周縁化されてきた性の歴史を広範に伝えるほか、性的マイノリティたちが自らの経験やほかの当事者にかかわる情報を得て、自分の人生を形づくるための情報保障の基盤となっている(小澤 2018)。多くの性的マイノリティのアーカイブがレズビアン、ゲイ、トランスジェンダー等のコミュニティに根差したものである一方で、アーカイブにおいて多様な経験の語りが、これらのよく知られたカテゴリーに分類されることへの警戒も生じている(Brown 2015; Schram 2019)。そこで、カテゴリーへの同一化に抗いアイデンティティの揺らぎをはらむクィアな語りが、アーカイブでいかに生き延びられるかを探る必要があるだろう。 【2.方法】  英語圏・日本語圏におけるクィア・アーカイブにかかわる理論的文献や、語りのアーカイブ化実践を検討する。具体的には、「Digital Transgender Archive」や「Queering the map」、日本におけるトランス・アーカイブに関連する諸プロジェクト、トランスたちに対する排除的な言説に抗う安全のための情報提供サイトなどの取り組みを分析する。加えて筆者が実施してきた、トランスの人々、とりわけ非二元的な性を生きるXジェンダー/ノンバイナリーにかんする調査研究に基づき、語りのアーカイブ化をめざすうえでどのような実践的な課題に直面しているかを検討する。 【3.結果】  まず、トランスの人々の語りをアーカイブ化する枠組みの特徴と課題が示された。アーカイブ化は個々人のネットワークやコミュニティ知識を基盤におこなわれており、現状では女装コミュニティに焦点化したものが多い。とはいえトランスたちの経験は、狭い意味でのトランス・コミュニティだけではなく、同性愛者コミュニティやセクシュアリティ・ミックスの場などさまざまな場と関わり、自己を表す概念も変遷するため、何のアーカイブとしてまとめられるべきなのかは論争的である。国や大学ベースの「正統な」アーカイブへの批判的な意識から、アイデンティティや年代等の情報を呈示しないアーカイブ化の試みも展開されている。  さらに、データの公開がトランスの人々のプライバシーとどのような緊張関係にあるのかを指摘し、倫理的な配慮のあり方やアーカイブ化による抵抗の実践について論じる。トランスたちの経験の語りは、性別移行を経て「埋没」をめざす中で自ら消される場合があり、ウェブ上のコミュニティのデータを集積することにも困難が大きい。近年トランスジェンダー排除的な言説が蔓延する中で、規範的なトランスジェンダー像に沿わない語りのウェブ公開が避けられていること、トランスにかんする正確な知識に基づく情報を蓄積する安全な場が必要とされていることも示す。 【4.結論】  クィア・アーカイブは、自己の位置づけの変遷や揺らぎ、そして性の規範や排除的な言説に対する抵抗の実践を表現しようとしてきた。トランスの人々の経験にかんしても、その複雑さや交差的な経験を含みこんだアーカイブの枠組みをつくる努力が必要とされている。

報告番号227

ウェブアーカイブの方法と課題について
立命館大学大学院 中井 良平

本テーマセッションにおける過去の報告や執筆論文において、筆者らは次段落のように、ウェブアーカイブについての大枠の議論をおこなってきたのだが、今回は著作権法等をさらに詳細に見ていくことで、日本において現状ウェブアーカイブに関わるどのような取り組みが可能であり、議論すべきどのような課題があるのかについて見ていきたい。加えて、本テーマセッションにおける2022年の報告及び中井[2022]を引き継ぐ形で、ウェブアーカイブの方法についても考察をおこなう。  本テーマセッションで過去筆者や山口が報告してきたように、人々がウェブに残してきたデータはそのままではサービスの終了等に伴い消えていく一方であり、日本においてはそれらデータのアーカイブに関する議論も殆ど行われていない。その原因としては少なくとも次の3つが考えられる。①:ウェブ上のデータにどのような価値があり、それがどの程度の期間残り続けるのかが不明であった。②:アメリカにおけるフェアユース概念のように、公共の利益が著作権に優先する場合があるという考え方の法律・法解釈への反映の問題③:②とも関わり、アメリカにおけるウェイバックマシンのような網羅的にウェブアーカイブをおこなおうとする機関が存在せず、ウェブ上の膨大なデータを収集・アーカイブする方法論が議論されてこなかった。  ①については中井[2022]で大まかに見ていき、人文社会学領域で同データの重要性が論じられており、日本におけるウェブログサービスが次々と終了し、すでに膨大なデータが失われてしまっていることを述べた。また③についても同様に、個人の研究者が膨大なデータを取り扱えるデジタル環境が一般的になっていることを述べた。②③に関わるウェイバックマシンの大まかな紹介は山口がおこなった。  本報告及び本セッションをきっかけに、異なる領域の研究者による交流・意見交換がおこなわれ、ウェブアーカイブに関する議論が大きくなっていくことを期待したい。筆者は立命館大学生存学研究所においてアーカイブの実務に関わる中でウェブアーカイブにも関心を持ち、その方法や法的課題等について調査・報告をおこなってきたが、ウェブアーカイブの専門家ではなく、デジタル技術及び法律を対象とし研究をおこなっているわけでもない。報告や論文執筆にあたっては慎重に調査・考察を進めてきたつもりではあるが、十分に目が行き届いていない点もあるだろう。例えば、これまでウェブアーカイブに関心はなかったが、技術や法律に明るいといった研究者の方に議論に参加してもらえれば、大変心強い。

報告番号228

刑事司法分野における芸術活動のアーカイブ——国内外の事例と「刑務所アート展」実践報告
立命館大学大学院 鈴木 悠平

刑事司法分野における芸術活動は、犯罪・非行からの離脱や更生、再犯防止への効果や影響が注目されている。また、受刑者たちによる芸術活動は、受刑者個々人の変容だけでなく、外からは見えにくい刑務所内の環境やそこで過ごす受刑者たちの経験を知る手がかりとなったり、刑事司法制度下にあるさまざまな当事者(加害者、被害者、加害者家族など)の対話の機会の創出につながったりと、刑務所外の社会にも多様な影響をもたらし得る。海外では、イギリスのKoestler ArtsやアメリカのRehabilitation Through the Artsなど、非営利団体によるアート・プログラムや展覧会が盛んである。国内でも、「死刑囚表現展」や刑務所主催の「矯正展」といった一般公開の展示会事例は見られるものの、まだまだ数は少なく、質的データのアーカイブもなされていない。本セッションでは、こうした国内外の事例に触れながら、報告者が運営に関わった企画展「刑務所アート展」における質的データのアーカイブ構築の試みを紹介する。 「刑務所アート展」は、全国各地の刑務所に服役する受刑者からアート作品を募集して展覧会をひらき、審査員および展示会場やWebギャラリーで作品を観た人のコメントを、応募した受刑者に返すことで、「壁」で隔てられた刑務所の内と外の交流をつくりだすプロジェクトである。現在日本には66の刑務所があり(拘置所や刑務支所などは除く)、2022年末時点の受刑者の数は約3万6千人と報告されており。同展の作品募集にあたっては、受刑者・出所者支援に長年取り組むNPO法人の協力で約800名に募集案内を送付し、29施設の52名から全135作品の応募があった。刑務所内で受刑者が芸術表現に使用できる道具が限られていることを踏まえ、エッセイ、小説、詩、川柳、短歌、俳句、フォント、書、マンガ、絵画を募集ジャンルとした。刑務所アート展に参加する受刑者たちから送られてきたアート作品と、応募用紙記載の作品紹介・作者名等のメタ情報は、会場で展示するだけでなく、全て画像およびテキストデータ化し、運営団体のWebサイト(https://pac-j.com/)上でデジタルアーカイブとして公開している。服役中のため自由に作品を発表することのできない受刑者たちに代わって、作品を預かり、発表し、アーカイブする過程での論点・注意事項(作品募集方法、権利処理、アクセシビリティなど)に触れながら、実践報告を行う。また、これら作品データのアーカイブの学術研究や教育現場での活用可能性についても議論する。

報告番号229

勲章のもつ質的データの活用——ヘルマン・ゲーリングの人物像を例として
株式会社栄光 田中 淳史

【1.目的】  本報告の目的は、歴史人物の実像を探る方法として勲章に注目し、叙勲記録や佩用記録から読み取れる質的情報の活用を提案することにある。  本報告では歴史人物の1人としてヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring, 1893〜1946)を例に挙げ、叙勲記録及び佩用記録の調査、分析を通じてゲーリングの人物像を考察、検討する。 【2.方法】  勲章は個人の国家に対する奉仕、もしくは国家間の外交儀礼によって与えられるものである。したがって、叙勲記録にはその人物の経歴が反映され、勲章の佩用には人物の経歴や立場を対外的に示す役割があると言える。加えて、政府高官や高位の軍人は多くの勲章を受章するが、それらをすべて同時に佩用するのではなく、佩用すべき勲章と、しなくてもよい勲章の取捨選択を行う。勲章のもつこのような性質から、特にその佩用については佩用者の意識が多分に影響すると考えられる。  以上のような観点から、まずヘルマン・ゲーリングの叙勲記録を整理し、彼がいつ、どこで、どのような勲章を佩用していたのかについて調査する。次に、勲章の佩用(取捨選択)とそれが表出するものついて、彼がいかなる意識を抱いていたか考察する。そして、一般的にイメージされるゲーリングの人物像と、勲章の佩用から浮かび上がった彼の意識との差異を比較検討することで、従来の観点からは浮かび上がらなかったゲーリングの人物像を明らかにする。 【3.結果】  ヘルマン・ゲーリングは第一次世界大戦中にプール・ル・メリット勲章をはじめとする戦功勲章を数多く受章し、それらはエースパイロットたる彼の代名詞となった。  ナチスが政治権力を掌握するなかで、ゲーリングも政府高官として数々の勲章を受章することになるが、それらは外交儀礼上必要な場合を除き佩用されることは極めて少なく、彼は常に戦功勲章を中心に佩用している。騎士級(Ritterkreuz)の勲章や従軍章等を一列にして佩用するメダルバー(Ordensspange)の構成においても、彼は二級鉄十字章、ホーエンツォレルン王家勲章騎士級剣付き、カール・フリードリヒ軍事功労勲章騎士級、ツァーリンゲン獅子勲章騎士二級剣付きの4つを基本とし、プール・ル・メリット勲章と合わせてこれらの勲章を佩用することにより、彼が第一次世界大戦において大きな戦功を挙げた軍人であることが対外的に示されている。そして、ゲーリング自身がこのような勲章の佩用を選択していることから、彼のアイデンティティの中心は「軍人・軍隊」にあり、また対外的にも自身をそう演出したかったのではないかと考えられる。  さて、カリカチュアによって描かれ、そして一般的にイメージされるゲーリングの人物像は、大量の勲章を余すことなく身につけ、勲章によって自身の(政治的)権力を表出させる、そのために勲章の受章に貪欲である、といったものである。しかし、実際の勲章の佩用にみられる彼の意識は、それら一般的なイメージからは大きく乖離しており、むしろ実際の人物像は一般的なイメージと対立的であると言える。 【4.結論】  ヘルマン・ゲーリングについて、勲章の佩用記録を調査、分析することにより、これまで一般的に述べられてきたものとは異なる人物像が浮かび上がった。このように、叙勲記録や佩用記録のもつ質的情報の活用は、歴史人物の実像を探るうえで有用であると言える。

報告番号230

「テクノロジー・アセスメントとしてのバイオエシックス」論の検討
芝浦工業大学 皆吉 淳平

【報告の目的】   「バイオエシックスは、たんにバイオエシックスであるのではない」。「バイオエシックスの社会学」を構想したR.C.Foxは「アメリカのバイオエシックス」を社会現象として捉え、「バイオエシックス」がアメリカ社会の観念、価値、信念の全般的な状態の指標となると考えた。「バイオエシックス」や「生命倫理(学)」と呼ばれる研究領域に対して、領域そのものを社会現象として捉える歴史的・文化的あるいは社会学的研究が蓄積されてきている。  本報告では、「テクノロジー・アセスメントとしてのバイオエシックス」論を検討する。科学・技術と社会との相互作用として「バイオエシックス」という現象を捉える議論は、科学社会学の再構成にも貢献する作業であると考えられる。 【考察】  T.Stevensは「アメリカのバイオエシックス」を戦後のresponsible science movementに遡って検討し、1960年代から70年代にかけてのバイオエシックスというmovementは「批判から管理への転換」だったと指摘している(Stevens 2000)。ヒトゲノム計画におけるELSIプログラムは、こうした転換の到達点のひとつである。  こうした「規制の倫理学(regulatory ethics)」としてバイオエシックスを捉える視点は、「日本におけるバイオエシックス」の歴史研究にも見ることができる。1960年代(あるいはそれ以前)から70年代にかけてのライフサイエンス論やテクノロジー・アセスメントという政策にかわるものとして導入されたのが(それも原子力政策にも深くかかわった政治家が主導して導入したのが)、80年代以降のバイオエシックス(生命倫理)だと指摘される(香川・小松編 2014)。  テクノロジー・アセスメントとして(あるいはその機能を代替する仕組みとして)「バイオエシックス(生命倫理)」を位置付けるのであれば、それは科学・技術と社会との相互作用を探求する社会学的研究の対象として、さらなる研究が求められるのではないだろうか。そうしたときに「バイオエシックス(生命倫理)」をめぐる議論の蓄積は、医療社会学の知見とともに、科学・技術を対象とする社会学に大いに貢献するだろう。 【文献】 ・香川知晶・小松美彦編, 2014,『生命倫理の源流ーー戦後日本社会とバイオエシックス』岩波書店. ・皆吉淳平, 2008,「「生命倫理の社会学」はいかにして可能か?」『現代社会学理論研究』No.2(doi.org/10.34327/sstj.2.0_100). ・Stevens, M.L.Tina, 2000, Bioethics in America: Origins and Cultural Politics, The Johns Hopkins University Press.

報告番号231

インフラに対する「信頼」の揺らぎと回復——2006年エレベーター死亡事故を例に
慶應義塾大学大学院 水田 綾奈

【1. 目的】 近代以降、道路や水道、鉄道、公営住宅などインフラは、日常生活を成り立たせる社会的システムとして、さまざまな技術や制度、組織、個人と結びつきながら広く整備され、多くの安心感を人びとにもたらしてきた。人びとは、これらインフラをなにげなく利用することを通して、自己を取り囲む環境の安定性に対する確信を日々暗黙のうちに実感している。しかし、このようなインフラへの「信頼」は、非人格的な原理に対する信仰を想定している点で構築しつづけることが難しく、ひとたびインフラにかかわる重大な事故などに直面するとすぐさま不安定になるものである。本報告は、こうしたインフラへの「信頼」が揺らぐ局面に注目し、これがいかに経験されるかについて、モノや人、組織や制度といったさまざまなアクターによって織りなされる相互作用を検討することを通して実証的に明らかにする。この作業はSTSを中心に既存のインフラ論が論じてきたインフラの「不可視性」を、「信頼」という社会学的な問題設定に置き直すことで、社会学の内側から科学技術を扱うための論点を探るという意義をもつ。 【2. 方法】 インフラにかかわる重大な事故の具体的な事例として、本報告では2006年に東京都港区で発生したシンドラー社製エレベーター(以下、EV)死亡事故を扱う。本事故は、ブレーキの故障により扉が開いたままEV が上昇したために、住人が床と建物の天井に挟まれて窒息死したものであり、事故以前にも閉じ込めや着床時に床とフロアに段差が発生するなどのトラブルが頻発していたにもかかわらず、その報告や適切な対処が管理事業者と保守会社、メーカーら(以下、専門家システム)の間で不十分な状態にあった可能性が指摘されている。そして本事故に際し、全国のEVに対して緊急点検が行われた結果、同社製のEVを中心に不調や異常、点検不良などが散見されたことから、人びとの間に専門家システムに対する厳しい批判や根深い不信といった社会的な葛藤が広がることとなった。 本報告では、このようなユーザーと専門家システムの対立や葛藤がいかに生じたか、そして一度揺らいだ「信頼」がいかに回復されようとしたかについて、事故をめぐる経緯や社会的文脈、関係するアクターのもつ価値観・文化や制度的形態の在り様から検討する。具体的には、事故やその後の影響を報じた新聞・雑誌記事といった報道資料、事故調査報告書や技術論文を中心とした文献調査を通して、ユーザー/専門家システムの各アクターから事故がいかに語られたかという視点から上記について明らかにしていく。 【3. 結果】 調査の結果、ユーザーはEVに対する技術的な知識が欠如しているために強い不信を抱いたというよりも、日々利用する中でユーザーが感じる不調や異常の存在を、ある種専門家システムが把握している以上に「知っていた」からこそ、対立が生じていた。つまり、インフラの正常/異常の基準や意味が、専門家システムとユーザーの間で異なっていたのであり、こうした差異が「信頼」の揺らぎと結びついたといえる。そのうえで、専門家システムとユーザーの間で「信頼」を(再)構築するためには、両者の構図を超えるアクター(法制度、マスメディアなど)が大きな役割を果たすといえる。 【4. 結論】 以上を通して、インフラを、インフラたらしめる動態的・プロセス的な相でとらえる視座を構築したい。

報告番号232

不確実性と他者への配慮——ワクチン義務化とアルゴリズム予測への態度から見る「科学をめぐる価値意識」の構成要素
公益社団法人国際経済労働研究所 山本 耕平

【1.目的】本報告では、ある科学技術の利用によって一部の人びとが不利益を被る可能性がある場合に、社会全体としてはベネフィットが期待されるならばその利用を容認すべきだと考える態度に着目し、本テーマセッションの論題の一つである「科学をめぐる価値意識」に具体的にどのような要素が含まれるのかを探索的に検討したい。 【2.方法】2022年3月に実施された「第2回データ駆動社会に関する意識調査」のデータを使用した。同調査は、性別・年齢(5歳階級)・居住地(8ブロック)によって日本の人口推計に近似するよう割当抽出をおこない、インターネット調査会社Bに登録していた20~69歳のモニターから回答を得たものである(N=2219)。同調査では、回答者をランダムに2群に分け、「犯罪をおかしやすい人を予測するためにAIを利用すること」について、(1)「誤った疑いをかけられる人がいるとしても、社会全体として治安が良くなるならば」、あるいは(2)「誤った疑いをかけられる人がいるとしても、予測された人が犯罪に手を染めずに済むならば」AIによる予測を利用するべきだと思うか、を尋ねている。さらに全回答者にたいして、「新型コロナのような感染症が流行したときに、ワクチンの接種を義務とすること」について、「ワクチンを拒否する人に強制することがあったとしても、社会全体として感染をおさえることができるならば」義務とするべきだと思うかどうかを尋ねている。(1)と(2)にたいする回答は、デモグラフィック変数やいくつかの意識変数との関連において大きな差は見られなかったため、これらを統合して「AIによる犯罪予測」にたいする態度とし、ワクチン義務化にたいする態度と比較することにした。分析のため、各回答者のなかに「AIによる犯罪予測」とワクチン義務化にたいする態度がネストされたプールド・データを作成した。 【3.結果】プールド・データを使って順序ロジットモデルを推定したところ、「AIによる犯罪予測」に比べてワクチン義務化のほうが、社会全体としてベネフィットが期待されるならば容認される傾向が見られた。両者の差は、社会全体としてはベネフィットが期待されるとしても「AIによる犯罪予測」は容認しない傾向にあった中高齢者や、プライバシー不安を感じている人びと、科学への信頼が低い人びとが、ワクチン義務化にたいしては容認するようになることによって生じていた。一方、ジェンダー差(男性のほうが容認的)はいずれの態度においても変わらなかった。同様の結果は固定効果モデルでも確認された。 【4.結論】上記の結果は、少数者が不利益を被りうるとしても社会全体としてベネフィットが期待されるならば容認すべき、という価値意識が、対象となる科学技術の不確実性と、不利益を被る人びとへの配慮という2つの構成要素からなることを示唆する。ただし、この解釈の妥当性はさらに厳密な調査によって検証される必要がある。当日の報告ではこの点についても議論したい。

報告番号233

researchmapは日本の大学教授職調査における標本抽出枠となりうるか
立教大学 渡辺 健太郎

[目的] 本報告では、日本の大学教授職調査における標本抽出枠としてのresearchmapの可能性について報告する。大学教授職とは、一般には大学教員と呼ばれる職業集団を指す。大学教授職を対象とした調査は日本においても様々に実施されているが、現在では網羅性の高い標本抽出枠が利用できないという制約によって、その標本設計はコストと代表性の間で板挟みになってしまっている。そこで本報告では、単純無作為抽出が適用可能な標本抽出枠であるresearchmapから得られる無作為抽出標本の代表性について検討した結果を報告する。 [方法] reseachmap上の研究者には、researchmap会員IDが割り振られている。このIDは10桁であるため、まずRDDと同様の方法で、実在しうる組み合わせの範囲において、無作為にIDに相当する文字数字列を2,800,000通り作成した。そして、上記の組み合わせから5,000件を単純無作為抽出し、それらのIDが実在することが確認されたケースについては、researchmapページのスクレイピングを行った。分析では、researchmapに含まれるデータのうち基幹統計と比較可能である、職位と専門分野の分布について、2022年「学校教員統計調査」と2023年「科学技術研究調査」データとの比較を行った。 [結果] 5,000件のIDのうち、実在するのはその13%に相当する650件であった。このうち、大学教授職は305ケースであり、教授、准教授、専任講師、助教、助手、学長・副学長のいずれについても、95%信頼区間内に学校教員統計調査における比率を含んでいた。専門分野については、researchmapデータと科学技術研究調査データの比較可能性のため、自然科学と人文社会・その他という2分類を用いた分析を行った。その結果、researchmapデータにおけるそれぞれの専門分野の95%信頼区間は、科学技術研究調査における比率を区間内に含むことが確認された。 [結論] 以上から、researchmapは日本の大学教授職調査における標本抽出枠たりえることが示唆されたといえよう。ただし、上記の知見はあくまで職位と専門分野の分布の比較のみにもとづくものであるという限界がある。そのため、今後はresearchmap標本を用いた大学教授職調査を行うなどして、researchmapに含まれないデータである、性別や年齢等の属性についても検討する必要があろう。 [付記] 本稿は、科学技術社会論学会第22回年次研究大会での報告内容を再構成・再分析したものである。

報告番号234

研究者ネットワークの構造は、原発事故後の報道における研究者のプレゼンスにどのような影響を与えたか——共同研究関係、委員経験、批判的なスタンスに注目して
関西学院大学 立石 裕二

【1.問題】 福島第一原発事故後、マスメディアに登場する研究者たちには、しばしば「原子力ムラ」に属する「御用学者」か、さもなければ政府批判の研究者か、といった極端なラベルが付けられてきた。研究者の発言の背後にある利害や人間関係といった要因が社会的にはますます注目される一方、こうした「存在」による説明は、科学社会学ではときに「時代遅れ」のアプローチと見なされてきた。研究者による情報発信が増加し、研究者に関する背景情報も豊富に存在する一方、これらの関係を捉えるための分析的な枠組みが整っていないと考えられる。本報告では、系統的に収集されたデータを用いて、原子力・放射線分野における研究者ネットワークのありようと、その中にいる研究者による情報発信との関係を分析する。具体的な仮説としては、原子力や放射線という「業界」からの距離、共同研究の活発さ、政府委員会での委員経験の有無が新聞記事への登場回数に与える影響について検討する。また、「業界」の中では批判が出にくく、距離が遠くなるほど批判が出やすくなる、という仮説についても検討する。 【2.方法】 科学研究費補助金データベースKAKENから、原子力・放射線関連の研究者14439名を抽出し、共同研究関係のデータを用いてネットワーク分析を行った。また、4紙の新聞記事データベースを用いて、原発事故に伴う放射線被ばくについて言及がある記事を対象に、事故後2年間にこれらの研究者が登場した回数をカウントした。さらに、原子力委員会、原子力安全委員会、放射線審議会の委員経験者に対してフラグを設定するとともに、新聞記事に登場した研究者について、記事の中でのコメントや前後の文脈をもとに、原発事業や政府の放射線リスク対策に対して批判的かどうかのフラグを設定した。 【3.結果】modularityに基づくコミュニティ抽出を行い、属する研究者数の順に6つのコミュニティを分析対象とした(放射線医学・生物学、医工学・炉物理、原子力・核融合、線量・環境動態、高エネルギー物理学、物性・材料)。原子力・核融合コミュニティでは委員経験者の割合が最も高く、線量・環境動態コミュニティでは記事登場回数の合計が最も多かった。記事登場回数を従属変数として一般化回帰分析を行ったところ、委員経験と共同研究の多さによる正の効果、帰属コミュニティによる効果が確認された。とくに委員経験による効果が大きかった。批判フラグありの研究者自体が少なかったため、統計的な検証には限界があるものの、放射線医学・生物学コミュニティでは批判的な研究者が少なく、ネットワークの周辺部において多いことから、放射線医学という専門性の近傍では批判が出にくい可能性が示唆された。 【4.考察】原発事故後には、専門としてやや距離がある研究者をふくめ、原子力・放射線分野に関わる幅広い研究者が新聞記事に登場していた。これらの研究者の多くは委員経験を持っており、原子力や放射線の専門家として公に認識されることが報道への登場パターンに影響を与えた可能性がある。また、原子力工学と放射線医学という二つの異なる性質をもつ研究者集団が情報発信に関わっており、この二極化した構造についてさらに議論する必要があることが示唆された。 【付記】本研究は、JSPS科研費19K02061の助成を受けて実施されたものである。

報告番号235

原子力損害賠償制度改変の社会学的分析
東京大学 定松 淳

【1.目的】  原発政策は、社会がどのようなエネルギーインフラを選択するかという点において、社会のあり方をマクロ水準で規定する大きな要素のひとつである。日本においてその決定のされ方は強権的なものとして批判されてきた。福島事故を経てなお、そのあり方は大きく変わっていないと見られている。そこで本研究では、事故後によく見られた「原発政策をどのように変えるか」という問いではなく、「原発政策はどのように決められているか」という問いを探求することとする。とくにその時、メゾレベルの、アクター間の政治的交渉過程よりも、日本政府によって政策のロジックとして「どのように正当化されているか」というミクロ水準に焦点を当てる。  そのために事例として、2016年に日本政府によって行われた原子力損害賠償制度の変更を取り上げる。原子力損賠賠償はN. ルーマンが『リスクの社会学』で取り上げた、「リスク問題に対する全体社会の反応」の典型的事例である。特に焦点を当てたいのは、「政治システムは『語り(talk)』に、つまり合理的な決定のための努力をしているとの記述に専念するようになる」(『リスクの社会学』邦訳171頁)というルーマンの指摘である。具体的事例に即しながら、「ルーマンの書いていること」の「どれが論理的な帰結で、どれが彼の思い込みなのか」、「きちんと識別」すること(佐藤俊樹『メディアと社会の連環』74頁)を試みたい。 【2.方法】  この政策変更が審議されたのは、2016年9月に経産省が発足させた「電力システム改革貫徹のための政策小委員会」のもとに設置された「財務会計ワーキンググループ」(以下、WG)である。本研究では、WGと親委員会の議事録と公開資料の分析、また関係者への聞き取りを行った。また併せて、同時並行して開催されていた「東京電力改革・1F問題委員会」と、この政策変更が取り上げられた2017年の第193回国会の議事録についても分析を行った。 【3.結果】  福島事故後、原子力損害賠償機構法が制定され、原発事業者は原子力損害賠償に備えた一般負担金を、事故を起こした東京電力は特別負担金を原子力損害賠償機構(当時)に納入することとなった。しかし事故対応費用総額の見積もりが増大(11兆円→21.5兆円)するなかで、福島事故前に積み立てておくべきであった「過去分」も回収することが事務局原案として提案され、WGで承認された。ただし1970~2011年の「過去分」総額を3.8兆円と見積もったうえで、2011~19年に納入される一般負担金1.3兆円を控除して、2.4兆円を2020年から40年かけて託送料金で回収することとなった。ここでは事務局側が、(過去分を)「回収できるだけ回収する」というスタンスに自ら歯止めをかけていることが確認できる。 【4.結論】  日本政府の政策変更の正当化においては確かに数字合わせとしての側面が見られる。しかしそれは福島事故対応費用を確保しようとする実態と責任感を伴うものであり、これが “talk” ではないことを指摘できる。(もちろんそれは、強制避難者への賠償を中心とする枠組みのもとでの責任であり、いわゆる自主避難者への支援を含むものではない。ただしこの点を変革したいのであれば、枠組みの変更に当たるのだから、行政ではなく政治に対して要求を行っていく必要があるだろう。)

報告番号236

日本の社会学研究における「食」の位置・意味連関——食に関する社会学研究の整理と分析
立命館大学 安井 大輔

〇社会科学的な食研究は、「食」のプロセスごとに分離されており、個別の段階における最適解は導けても、他の段階でも望ましい結果までは導けていない。こうした食研究の分断状況に対して、個人と社会の関係を問う「マクロ」な理論体系と個々人の「ミクロ」な対面的な相互行為分析をあわせもつ社会学は、「よい食」を探究する諸学間の対話を実現可能とする枠組みを提供することが期待されている。 〇周知のように、社会学は実証的な質的・量的な社会調査に加え、史資料批判や理論構築、思想史・言説分析など、他の社会科学に比べて、非常に多彩な理論と調査・分析の方法を備えている。研究対象に対するアプローチをめぐる議論(方法論)も盛んである。現代の食にまつわる諸現象や諸行為を対象とした社会学的な研究においても、調査対象となる個人や団体、観察や聞き取りの項目、使用統計データ、分析手法は研究者によって多様化している。食にかかわるアプローチは、身体の問題と自然環境や社会の問題に大別され、さらにその大枠内部で、食にかかわる個別領域が形成されている。 〇日本語の「食」は物(Food)も行為(Eating)も包含する多義的な言葉である。食をまなざす社会学者の多様な視点は、社会学的方法の豊饒性を示すいっぽうで、ともすれば職人芸・個人の嗜好として相対主義に回収され、食をめぐる学問的対話が阻害される危険性をあわせ持つ。それゆえ食を社会学的に探求しようとするには、自らの専門的知見を整理・言語化し食の現象を明確にすること、すなわち食の理論・概念化が期待される。幅広い対象領域を持つ食という現象に迫り、食に共通する問題やその解決の方法を超分野的に論じるには、共通言語としての「食」の理解が不可欠だからである。 〇「食の社会学にとって「食」とは何か」というテーマに対し、本研究では、社会学研究における食概念の整理として、日本の社会学における食を題材にした研究群の分析をおこなうことで応えてみたい。総合社会学雑誌、および連字符社会学や地域別社会学学会の学会誌に掲載された論文や研究ノートに対し、「食」および関連ワード(「農」「飲」「料理」「栄養」「健康」など)を設定して、計量テキスト分析を行う(樋口 2020)。これまで日本語の社会学研究が、何をどうすることを「食」の「研究」としているのかを明らかにする。この作業を通して、食に関する研究の分断状況もしくは集約状況を整理することを試みる。 〇『社会学評論』『ソシオロジ』における論文抄録を用いた予備分析では、「食」は変容、料理、日本、農業と、「食事」は障害、回復、女性、役割と、「農業」は生産、生活と、共起関係にあることが示された。今後、社会学系の学術誌諸雑誌においても同様の分析を行い、それぞれの社会学ごとにおける食の位置づけや時代ごとの違いを比較して、より詳細な分析を加える。本作業によって、日本の社会学における「食」の研究の現状について、一定程度の傾向(乖離もしくは接合の程度)を明らかにできるはずである。食が社会学においていかなる位置を占めているのかを示し、日常的な概念連環をも反映した緩やかな食の理論を作るためのロードマップを描くことを目指したい。 樋口耕一, 2020, 『社会調査のための計量テキスト分析[第2版]―内容分析の継承と発展を目指して―』ナカニシヤ出版

報告番号237

食の社会学と東アジアの可能性——食の再帰的近代を問う
東京大学 上田 遥

近年、日本の社会学も「食」に関する省察を深めつつあるが、西洋特にフランスにおける「食の社会学」の長い研究史や高い制度化水準については、まだまだ学ぶべきところが多い。今後、日本における「食の社会学」の確立を目指すにあたって、こうした国際的動向をふまえるとともに、日本・東アジアからいかなる貢献が可能であるかを考えていかねばならない。  そうした問題意識から、本報告ではまずフランスの「食の社会学」の学説史を概観する。「食」はその卑近性と身体性ゆえに、長らく二次的・下級的課題とされてきた。心身二元論をとる啓蒙思想、ならびにデュルケムの「社会的事実」から排除された「食」が、消費の社会学や味覚の社会学を経由し、1970年代以降いかに正当な課題として立ち現れるようになったかについてみていく。そこから、食のトータル性(totalité alimentaire)という基本哲学が見出されることになるが、その多面的な研究展開の局面として「食事モデル」と「プロティン・トランジション」という二つのテーマに焦点をあて、報告者が東アジアを舞台に取り組んできた研究をもとに報告する。  食事モデルとは、食事回数・場所・時間・社会関係など食生活をトータルに捉える分析概念である。報告者は、日本・台湾・中国・韓国における食事モデルに関するWEBアンケート調査(各国1,000名)を実施してきた。東アジアの隣国でも崩食現象はみられるか、それが近代家族システムとどう関わっているかについて、現在明らかになっている知見を報告する。一方、プロテイン・トランジションとは、植物性タンパク質から動物性タンパク質への移行を指し、(論争はあるが)現在の西洋では支配的言説になりつつある。東アジアはこうした言説に疎遠であるが、台湾・韓国をはじめ一部の東アジア諸国では肉消費が西洋に劣らない水準まで急成長している。また、日本におけるプロティン・トランジションも既存の「日本型食生活」の維持方向が濃厚であり、根本的な受容が行われてるとは言い難い。統計データや政策文書の言説分析を通じて、東アジアがプロティン・トランジションをいかに受容し、今後どのような議論が必要となるかを見定める。  上記二つのテーマにおいて共通するのが、「食の再帰的近代(reflexive food modernity)」の性質・影響をいかに考えるかということである。従来の西洋中心主義的・単線的な近代化論を脱するため、異質的・複数的な近代のあり方、特に「圧縮近代」を経験するアジアの食の近代化プロセスへの学的関心が高まりつつある。フランスで成立した食の社会学も、いまやアジアを主戦場としつつある。こうした学的情勢をふまえて、日本の「食の社会学」が貢献できる可能性を見出していきたい。

報告番号238

食とナショナル・アイデンティティ——1930年代イタリアにおける未来派を手がかりとして
和洋女子大学 秦泉寺 友紀

1910~30年代のイタリアで展開した前衛芸術運動、未来派(futurismo)は、1930年代初頭、「未来派料理宣言」の発表や『未来派の料理(Cucina Futurista)』の刊行を通して、新たなイタリア人にふさわしい食をめぐる提案を行った。機械、戦争、スピードを美学とする芸術運動が食の分野に踏み込むという構図は、一見奇妙なものにもみえる。その一方、未来派はイタリア人、ひいてはイタリアの刷新を掲げていた。そしてその見解では、食物はそれを食べる人間をかたちづくるものとみなされていた。こうした結びつきにおいて、少なくとも未来派の当事者たちにおいては、イタリアの刷新の手段として食を刷新するという方向性は、一定の一貫性を帯びていた。  マリネッティ(Marinetti, Filippo Tommaso,1876-1944)とフィッリーア(Fillia/本名Colombo, Luigi, 1904-1936)の共著『未来派の料理』は、食欲増進のために食物に香水を振りかけるといった、およそ実用的とはいえない奇抜なアイディアを多く含む。それは確かに食を扱ってはいるのだが、通常イメージされるようなレシピ集としての料理本とは全く異なる。またそれは、イタリアの国民食ともいえるパスタ批判を展開し、耳目と反発を集めた。なぜパスタがイタリアの食卓から追放されなければならないのか。それは彼らの見解では、イタリア人がパスタを「噛まずに飲み込む」せいで「無気力や憂うつ感」に陥っているうえ、外国産の小麦への依存という問題も生じているからであった。  イタリアの食文化史家モンタナーリとカパッティは、著書『食のイタリア文化史』で「料理の歴史はそれ以外の歴史のなかに解消されてしまってはならない」と述べている。しかし同時に、人がどのような食べ物を調理し食べていたか(あるいは何を食べざるをえなかったか)は、その時々の社会の姿を如実に映し出す鏡ともいえる。未来派においては、どのような食べ物をどのように調理して食べるかが、彼らのめざす新しいイタリア人と結びついていた。本報告では、未来派の掲げたあるべき食がいかなるもので、そこからどのようなイタリア人の刷新が展望されていたのかを、未来派のパスタ批判を手がかりにみていく。そして、未来派が対峙した当時のイタリアの食糧事情(小麦不足)や、彼らに向けられた批判をあわせてみることで、未来派がめざした食を通してのナショナル・アイデンティティの刷新がはらんだ限界を示すことをめざしたい。

報告番号239

大正期から昭和初期における結核の自然療法と食
お茶の水女子大学 宝月 理恵

[1.目的] 結核は20世紀前半の日本において、非常に多くの感染者・死者を出した感染症である。本報告は、結核の自然療法を選択し、在宅療養していた患者たちに向けた食餌療法に関する専門家の規範的言説の特徴を結核療養書(在宅療養マニュアル)から検討することを目的とする。合わせて、結核患者自身の療養体験談も比較対象として参照する。 [2.背景] 抗生物質が戦後に登場するまで結核は特効薬がない慢性病であり、長い療養期間を要した。明治中期以降結核療養所が存在したものの、経済的な負担や病床数の不足から在宅療養する患者が大多数を占めていた。その多くの在宅患者が実践した治療法が「自然療法」である。自然療法とはドイツで誕生し、日本では明治後期以降に広がっていった療養法を指す。結核の療養指導者として知られた医師・原栄は、「疾病の治癒に与かる主体は箇体の自然的活力なり」との原則に立ち、患者の自己治癒力を促進する療法を自然療法と定義した(原栄,1913,『自然療法及結核叢談』吐鳳堂書店)。何をもって自然療法とするのか、自然療法提唱者のなかでも統一された見解があったわけではないものの、多くの自然療法で重視されたのは大気、安静、栄養だった。 [3.対象と方法] 自然療法の実践者は、家庭で自主的に療養するために書籍や雑誌、あるいは通信療養指導書と呼ばれた療養マニュアルから在宅療養の具体的方法を学んだ。そのため、本報告ではこれらのマニュアルを分析対象とする。さらにそのマニュアルを参照して結核療養を行った患者(または患者家族)の体験談も分析に加える。とりわけこれまで注目されてこなかった食餌療法に焦点を当て、規範的言説の特徴を検討する。 [4.結果] 栄養の摂取による体力・自然治癒力の改善は自然療法の基本であったために、マニュアルでは食品分析やカロリーなど当時の栄養学知が動員され、療養生活に適した滋養物(牛乳や鶏卵)の摂取が勧められた。しかし、結核の病状経過において胃腸の不調や発熱、消耗により食欲低下・消化不良が頻繁に出現する。そのため、栄養摂取と食欲不振のバランスをどのようにとるかが食餌療法の一つの鍵となっており、多くのマニュアルにおいて胃腸を労わるための食事のとり方(フレッチャー式咀嚼法)や分食などが提案されている。一方で、マニュアルに食品成分表が掲載されても、具体的な料理献立はほとんど載っていない。対照的に患者が発信した体験談における献立は当時の食生活に照らすとハイカラな内容となっている場合がある他、民間療法を取り入れるなどしており、患者にとっての食養生は多元的、機能的、象徴的な意味を持っていたと推定できる。 [5.結論] 結核療養言説は当時の最新の栄養学知を参照しているが、マニュアルにおける食餌療法の具体的方策は必ずしも画一化されていたわけではない。そのような中で共通して論じられていたのは食欲不振時にいかに栄養を消化吸収するべきかという問題であった。積極的に献立モデルが提示されなかった要因として、患者の差異(病態、経済状況、地域性など)によって単一化が困難だった可能性や、執筆者のジェンダーが考えられる。他方で、患者自身の療養体験談では、洋食を含むハイカラな献立や民間療法的食実践も紹介されており、専門家マニュアルの規範的言説には必ずしも合致しない幅のある実践を含んでいた。

報告番号240

市民的食支援にかかわる福祉レジーム論 ——贈与・市場・政策
上智大学大学院 堀部 三幸

日本では2000年以降、公や地縁でもなければ家族や市場でもない市民による食支援が急増している。フードバンクは2000年に登場し、2007年以前は6件だったが2008年から2015年に49団体が活動を開始し、2023年には252件となり増加が続く(流通経済研究所 2020: 13;農林水産省 2022)。子ども食堂は2012年に登場し、2016年319件、2018年2,286件、2019年3,718件、2020年4,960件、2021年6,014件、2022年7,363件まで増加した(むすびえ 2023)。これまでにも一時的に食支援が拡大することはあった。だが、それは戦禍や災禍という生命の維持が難しい状況や著しい窮乏に陥った状況である。 しかし、2000年以降、従来とは異なるかたちで市民による食支援が主流化しつつある。支援団体の多くが公共施設で公的な補助を受けながら余剰食品を用いて活動している。本報告は、この2000年以降の市民による食支援を福祉社会学的に位置づけ、食の福祉レジーム論を展開することを目的とする。そのために、福祉国家の分析枠組みとして多用されてきた福祉レジーム論、福祉ミックス論、社会政策学や文化人類学で積極的に受容されてきた贈与関係論などを援用する。昨年度大会の本テーマセッションで展開した事例報告の理論編として準備するため、必要に応じて筆者自身の子ども食堂やフードバンクに関する調査結果も引用・提示する。 食支援の形態を理論的に検討するにあたり食支援を類型化する。類型化の軸となる項目は、提供されるものが食品あるいは食事か、共同調理の有無、食の分配方法が対面または非対面か、食品が非選択もしくは選択か(自由に選べるか否か)、食品・食事の受け取り手が選別されるか否かなどである。 市民による食支援形態の位置づけを検討した結果、福祉レジームごとに市場・贈与・政策といった対応パターンの相違が見出された(堀部 2023)。概括的に言えば、自由民主主義レジームではワークフェア(労働できる者への福祉)、社会民主主義レジームでは多様な贈与と政策(普遍的・平等な福祉)、保守主義レジームでは階層化(職種などで階層化した福祉)、日本型福祉レジームでは階層化及び家政的贈与(女性による無償労働の社会福祉)という相違である。詳細については当日の配布資料を参照されたい。 文献 堀部三幸,2023,「市民による食支援で形成される贈与関係――日本型福祉レジームを検討するための分析課題の提示」『上智大学社会学論集』(47): 23-45. 認定NPO法人全国こども食堂支援センター・むすびえ,2023,「第8回こども食堂の現状&困りごとアンケート調査結果」(2023年7月26日取得,https://musubie.org/wp/wp-content/uploads/2023/07/musubie_Q8_sheet_0718.pdf). 農林水産省, 2022,「フードバンク」(2022年7年28日取得,https://www.maff.go.jp/j/shokusan/recycle/syoku_loss/foodbank.html). 流通経済研究所,2020,「平成31年度 持続可能な循環資源活用総合対策事業 フードバンク実態調査事業 報告書」(2024年1月17日取得,https://www.maff.go.jp/j/shokusan/recycle/syoku_loss/attach/pdf/foodbank-22.pdf).

報告番号241

「肉を食べる」と「食肉代替食品を食べる」の相違——新しい物質主義的社会学を手がかりとして
九州産業大学 藤原 なつみ

【1.目的】 気候変動や人口増加にともなう食料不足など食をとりまく諸問題の深刻化を背景として、「食べる」ことのありかたが問い直されている。とりわけ、「肉を食べる」ことをめぐっては、動物福祉やタンパク質危機(protein crisis)への懸念などの論点も加わり、代替タンパク質による食品素材の研究開発などが急速に進んでいる。 しかし、「肉を食べる」ことは、単にタンパク質の摂取のみを目的とする行為ではない。人間と非人間を区別せず、その関係性に着目する「新しい物質主義的社会学」(Fox and Pam 2017、森ら 2017)の視座を援用すると、畜肉という物質と、人間の身体、文化的な認識、歴史的背景、流通、キッチン、食器などによる異種混成的なつながりとして理解できる。畜肉と食肉代替食品とでは、生産から消費までのフードチェーンの様相が大きく異なっていることからも、「肉を食べる」ことと「食肉代替食品を食べる」ことの間には大きな乖離があり、単純に置換することはできないだろう。本報告では、「食肉代替食品を食べる」ことが、従来の「肉を食べる」こととどのように異なるのか、新しい物質主義的社会学の視座を手がかりとしながら検討する。「肉を食べる」ことについては、これまでも文化人類学や歴史学など多様な研究領域において議論されてきた。ここでは、消費者へのインタビュー調査から得られた発言などを踏まえつつ、食の社会学としての議論を試みたい。 【2.方法】 肉、大豆ミート、培養肉を「食べる」ことについて、食への関心が高い生協組合員やその家族を対象として、フォーカス・グループ・インタビュー調査を実施した。調査実施期間は、2022年12月~2023年2月である。 【3.結果】  大豆ミートを実際に食べた調査対象者からは、味や風味についてだけでなく、「水に戻す手間がかかる」「賞味期限が長い」など、食品としての物的な特性についても言及があった。培養肉については、技術的な側面などについて疑問や不安の声があった。 【4.結論】 畜肉、大豆ミート、培養肉は、それぞれに関与するアクターが大きく異なっているため、「肉を食べる」ことと「食肉代替食品を食べる」ことにはそこから生じるさまざまな相違点があることが明らかになった。 【参考文献】 Fox, Nick J., and Pam Alldred, 2016, Sociology and the new materialism: Theory, research, action, London: Sage. 森啓輔・岩舘豊・植田剛史, 2017, 「新しい物質主義的社会学に向けて 本質主義と構築主義を超えて」『書評ソシオロゴス』13(2): 1-33. 【謝辞】 本研究は、公財)味の素食の文化センター、ならびにJSPS科研費(22K13526)の助成を受けたものです。

報告番号242

映像技術の変遷と「特撮らしさ」の構築
中京大学 真鍋 公希

【目的・方法】本報告では、1970年代以降の日本の特撮ジャンルにおいて「特撮らしさ」が発見・構築されていく過程を、同時代のハリウッド映画で開発された新しい技術との対抗関係という観点から論じる。アメリカの映画史家Julie Turnockによれば、近年のハリウッドのブロックバスター映画では、その映像が実際にカメラを通して撮影されたかのように見える「フォトリアリズム」が規範的な演出観となっている(Turnock 2015)。この「フォトリアリズム」を可能にした技術の一つが1970年代に開発されたモーション・コントロール・カメラ(カメラの動きをコンピューターで制御する技術)である。また、1990年代以降に多用されるようになるCGIも、その高い自由度から「フォトリアリズム」の実現に貢献したといえる。こうした新しい映像技術(とそれらを用いた作品)の登場に対して、日本の特撮では、これらを部分的に取り入れながらも、ハリウッド映画とは異なる「特撮らしさ」が志向されるようになった。なかでも、本報告では円谷英二以来の「伝統的な手法」として強調される傾向にあるミニチュアや着ぐるみに照準し、制作者やファンが、ミニチュア・着ぐるみにどのような意味を与えてきたかを記述する。【結果・考察】1980年代のファン雑誌では、モーション・コントロール・カメラなどによる最新の撮影とミニチュアを使った撮影が対比され、その是非が読者投稿欄で論争となった。ここでは、最新の機械的な撮影に対して、職人技の光る人間らしい撮影・制作に「特撮らしさ」が見出されている。一方で、CGIが主流となっていく1990年代以降は、被写体の不在/実在という技術的な対比から、ミニチュアそれ自体に「特撮らしさ」を求める言説が増加する。そうした言説では、しばしば、爆破などのシーンでミニチュアが制作者の予想通りに動かないことを強調している。つまり、これらの言説では1980年代とは反対に、ミニチュアというモノの非人間性に注目し、そこに「特撮らしさ」を見出しているのである。このように、「特撮らしさ」をミニチュアや着ぐるみに求める点は一貫していても、同時代のどのような技術と対比されているかによって、その意味づけは異なる。以上の議論は、映像技術の普及や受容の記述であると同時に、ハリウッド映画の技術動向や作品との力学によって、「特撮らしさ」という一種の美的規範が形成されたことを示している。この一連のプロセスは、Pascale Casanovaが論じた世界文学の中心/周縁国間に見られる力学とも重なるもののように思われる。そこで、当日の報告では、このような領域を超えた美的規範の形成プロセスの比較可能性についても検討したい。【参考文献】Turnock, J., 2015, Plastic Reality: Special Effects, Technology, and the Emergence of 1970s Block- buster Aesthetics, Columbia University Press. Casanova, P., 1999, La République mondiale des Letters, Ed. Du Seuil(=岩切正一郎,2002,『世界文学空間――文学資本と文学革命』藤原書店).

報告番号243

ポピュラー・カルチャー研究の場と展開⑴——アイドル研究を事例に
慶應義塾大学 上岡 磨奈

ポピュラー・カルチャー研究を展開する場および方法の一つとして、研究会の運用がある。上岡は、2019年に自身の研究対象である「アイドル」を研究関心とする研究者との連携、研究の深化などを目的とした研究会を立ち上げた。当初、同会の目的は関連する文献の整理とオープンな場でトークイベントなどの形式でのアウトプットを行うことであったが、内容を検討する段階でまずは研究を進める場を整えていくことが必要であるとして、学際的な先行研究の網羅、論点や課題の整理が優先された。中村は立ち上げからメンバーとして加わり、文献リストの作成も行なった。その後、2022年には研究会のメンバーが編著者となり、参加メンバーを中心に執筆を行った書籍が刊行され、研究会の成果といえる一冊となった(田島悠来編『アイドル・スタディーズ 研究のための視点、問い、方法』明石書店)。  田島は同書を「「アイドル文化」から社会のなかでの「当たり前」に問いを投げかけていく試み」と位置付け、主に「アイドル研究」の初学者に向けて「「アイドル」を研究するための手引書となるような、また、自身の研究を鼓舞する一冊として位置付けられるよう構成」を行なっている(田島2022, 9)。「アイドル研究」に対する社会学的なアプローチと研究の場が続いていくための足場づくりという点で同書と研究会の目的は一致していると考える。また何を「アイドル」とみなすのか、という課題に向き合い、「アイドル」という文化現象およびコンテンツの複雑さに目を向けつつ、単純化するのではなく「アイドル」の捉え難さを伝えることを同会も同書も目指している。フィジカルな議論の場としての研究会を書籍という形式で発展的に残すことは、ポピュラー・カルチャー研究内の隣接する分野との関わりにおいても重要な成果となったと考える。  また一方で研究会を運営する上で、素朴に研究対象が同じであるということを足がかりとせずに、対象についてどのような問題関心を持っているか、自身の研究についてどのような課題を抱えているか、を吟味しつつ、研究キャリアの近いメンバーで構成することを重視した。ポピュラー・カルチャー研究において研究関心や目的といった研究の方針の違いは、時に見えづらいと感じる。それは対象そのものが目立つばかりに、特に対象にもともと関心を持たない人には問題意識を共有しづらいこともある。そこで問題関心を同じくするメンバーで議論を深めることで論点を明確にし、外部からも問題の所在が明らかであるよう心がけた。本報告では、研究会の実践を通じて得られたポピュラー・カルチャー研究の場を繋いでいくための課題を整理し、学術的な基盤を今後確立していくための具体的な論点を提示する。

報告番号244

ポピュラー・カルチャー研究の場と展開(2)——メイドカフェ研究を事例に
慶應義塾大学 中村 香住

“ポピュラー・カルチャー研究を行う際に、研究者自身が当該文化に何かしらの形でアクターとして携わっているケースがある。報告者は博士論文において、メイドカフェにおける女性の労働経験について、フィールドワークとインタビュー調査をもとに、第三波フェミニズムの視点から分析を行う研究を遂行した。しかし、報告者は研究を始める以前から、メイドカフェのコミュニティに複数の立場から携わっていた。具体的には、(1) メイドカフェの「常連」客、(2) 「NPO 法人秋葉原で社会貢献を行う市⺠の会 リコリタ」スタッフ、(3) 「メイドカフェでノマド会」所属メイドという3つの立場からである。
こうした複数の立場から、研究フィールドのコミュニティに携わっていた経験は、研究者として採取したインタビューデータを分析する際の観点に否応なく影響を与える。しかし、それを論文中にどのように記述するかは悩ましく、客観的で実証的な分析が必要とされることを考えると、適切な箇所に適切に記述することが難しく思われる。もちろん、研究者自身の経験について、オートエスノグラフィーの形でデータとして掲出し、それを分析することは一つの質的方法の調査として認められつつあるが、前述のように「自身の経験を踏まえた上で、フィールド内の他者にインタビュー調査を行い、そのデータを分析する」場合には、また異なる問題系が立ち上がってくるだろう。
また、特に「メイドカフェの「常連」客」のように、研究対象に据える前から研究者自身が当該ポピュラー・カルチャーの「ファンダム」に参加している場合、フィールドワークにおいても技術的に難しい点が複数考えられる。まず、フィールドについて研究対象とする以前の(制度的に整えられた)「フィールドノーツ」が手元に残っていないケースが多い点が挙げられる。そして、これに関連するが、フィールドを研究対象に定めた頃にはフィールドワーカーに必要とされる「よそ者」の視点がすでに欠如してしまっているケースがあり、フィールド内では当然視されているが、外部者からみると特殊な慣習や文化についての記述を逃してしまったり、記述が薄くなってしまったりする可能性が考えられる。
そこで、本報告では、「研究者自身が、研究対象のフィールドにもともとアクターとして携わっていた場合」のポピュラー・カルチャー研究の方法について、自身の実践例を再帰的に振り返りつつ、検討する。ペダゴジーについて考える際にも、学生は自身の「好きな」ポピュラー・カルチャーを卒業論文の研究対象に選ぶ場合が多い。それは必ずしも「悪い」ことではないが、前述したように様々な特有の困難がどうしても立ちはだかる。本報告はこうした学生の指導をする際の参考にもなるだろう。

報告番号245

ポピュラーカルチャーの知の所蔵場所ー海外版Wikipediaにおける「知識しての日本」
成城大学研究機構グローカル研究センター 藤田 哲司

永田大輔・松永伸太朗編著『アニメの社会学』では、アンソニー・ギデンズの「脱埋め込み(離床化)」概念を援用しつつ、近代社会における時間と空間の分離と、メディアが空間的に離れた相互作用を媒介する役割が指摘されている([2020:236ー7])。この概念は、ローカル文化の「知識としての客観化」を意味している。本報告では、日本のポップカルチャーについての社会学的把握へ向けての1つのアプローチとして、アルフレッド・シュッツの知識の社会的構成論を念頭に置きつつ、日本のポップカルチャーが海外版Wikipediaで項目として記載されるとともに高く評価されるという事実、客観化、グローカル化されている事実について報告する。 参照文献:『Wikipediaにおける日本の語られ方ー「知のグローカル化」のアカデミックな解明へ向けて』(東信堂2024(刊行予定)) 藤田哲司 [2010] 「《権力という訳語》は適切か?―“グローカル化”・“時間的連帯”と しての“定訳の権威”の正統性検証行為」『コロキウム』第 5 号 東京社会学 INS. ――― [2011] 『権威の社会現象学 人はなぜ権威を求めるのか』 東信堂. ――― [2012] 「『権威の社会現象学』をめぐって」(第 1 回 日本社会学会招待講演資 料(第 85 回日本社会学会大会(札幌学院大学)). ――― [2014a] 「modern の mode 性というレリヴァンスからみた、「萌え文化」のパイ オニアとしての“権威ある mode”:社会学的術語のレリヴァンスの可視化と再体系化と いう課題へむけて」 (第 87 回日本社会学会大会 (神戸大学)). ――― [2014b] 「レリヴァンス改訂からみた社会学用語の権威」 (『社会学の公共性 と その実現可能性に関する理論的・学説史的基礎研究』(平成 23 年度-平成 25 年度科学研 究費補助金 平成 25 年度成果報告書 研究代表者 出口剛司) 23-32 頁). ――― [2016] 「関連性体系からみた和洋の社会学用語のズレと“統治性バイアス”ー 「辞書」を手がかりとした明治期作成語の再検討一」(第 89 回 日本社会学会大会(九州 大学)) (「国家主導の社会政策への批判 デュルケム社会学の同時代的/現代的意義」 (2016-2020 年度科学研究費補助金(16K17237)助成対象. 研究代表者 流王貴義)). ――― [2023] 「知のベーシックインカムとしての Wikipedia と日本社会学 Wikipediaプロジェクトの可能性――グローカル公共財のアカデミックな構築へ向けて」(平和社会学研究会 ミニ・シンポジウム: 共生・公共性・平和(成城大学)). ――― [2024a] 「知のグローカル化・グローカル化した知識:万人対等主義としてのコスモポリタニズム」『平和社会学研究』第 2 号 東信堂.

報告番号246

日本のラップ音楽における「戦争」表現の分析
京都大学大学院 佐々木 知子

本報告では、日本のラップ音楽において「戦争」がどのように表現されてきたかについて、日本のラップ音楽の歌詞をデータとして検討する。メディア技術の発達により、戦争体験の「記憶の表象」、またその遺品や手記に至るまでが、あらゆるメディアにおいてアーカイブされ、出来事の多面的な「実相」を伝えるために資料化されている(渡邊 2018)。しかし戦争体験をわがことと捉えて想起するためには、記憶を追体験すること自体ではなく、社会集団を記憶の枠組みと捉えて現在の地点から過去を想起する(M.Halbwachs 1950)、記憶との新たな関係性の構築が求められる。そのような関係性構築の可能性を開くメディアのひとつとして、本報告では日本のラップ音楽に注目したい。日本のラップ音楽は、1970年代のアメリカ、ニューヨーク市ブロンクス地区で発展したヒップホップ文化の中から生まれたラップ音楽の影響を受けて、1980年代に始まった。1980年代後半から1990年代にかけて、国内のアーティストによって独自のシーンが形成され、日本の音楽文化に定着してきた。そして2010年代に入って開始された「高校生ラップ選手権」や「フリースタイルダンジョン」に代表される、複数のラッパーが互いに向かって即興でラップを行い、リリック(歌詞)、ライム(韻)、フロウ(リズムや韻律の流れ)を競い合うMCバトル番組が成功を収めたことに後押しされる形で、現在は何度目かの「日本語ラップブーム」の渦中にあるといえる(大和田・他 2017)。リズムに合わせて即興で言葉をつなげるフリースタイルという創作スタイルに見られるように、ラップは現在の状況を即時的に反映させやすい表現方法でもある。そのためラップには、アフリカ系アメリカ人が直面する人種差別や警察暴力などの社会問題を訴える表現手段となってきた政治的側面を有するが、日本のラップ音楽においても貧困、人種差別、犯罪、暴力といった社会問題についての個々人の経験や感情が直接的に描写されてきた。このように社会問題を楽曲として表現することを可能にしてきたラップのメディア性を検討し、日本のラップ音楽で「戦争」を主題に制作された楽曲や、「戦争」を歌詞に登場させる楽曲においてどのように「戦争」が捉えられ、何を表現しようとしてきたかを明らかにする。このような事例の分析は、単にポピュラー音楽のメディア性の一側面の分析に留まらず、文化社会学の一側面として、日本のラップ音楽を通じて戦争の記憶や社会問題がどのように表現され、伝達されるのかという、現代社会における文化的・社会的なダイナミズムの洞察を可能とするものだといえる。

報告番号247

「公共」を冠する葛藤と向き合う——福岡県立大学人間社会学部公共社会学科のあゆみ
福岡県立大学 堤 圭史郎

【1.目的】 福岡県立大学人間社会学部公共社会学科は、旧社会学科から「名称変更」によりカリキュラムを改正し、2009年度にスタートした。全国の大学に改革の波が押しよせる中、本学科も各所より「自己革新」を迫られた。学科の存続も危ぶまれる中で、当時の関係者は学科名に「公共」を冠することを自ら提案し承認され、自ら設定した理念の実現を内外から試されてきた。その中で我々は「公共」を冠することに伴う様々な葛藤も経験してきた。本報告ではそれらの葛藤にどう向き合い対処してきたのかを自己省察的に示しつつ、「公共社会学」を名乗ることの意義と今後の課題について議論したい。 【2.方法】 過去と現在の学生便覧、福岡県立大学(2011)等を基に改正のねらいを示す。開設以降の諸改正の事情は我々の経験に依拠する。その上で、本学科の教育活動を一部紹介したい。 【3.結果】 1992年4月に開設された社会学科のカリキュラムは、構造=機能主義をベースに「コミュニティ科学」「福祉社会論」をテーマに編成されていた。当時の学生便覧には「理論的考察と実証的探求の両者を兼ね備えた」、「研究と実践を有機的に統合することのできるアクションリサーチャーの養成」を目指すとある。これらからは「地域福祉社会学」(九州大学)の影響、そして他ならぬ田川市に設立された大学への社会的期待がうかがえる。当時のカリキュラムについて関係者は「ディシプリン領域(既存の知の習得と展開)重視」だったと述べている。この述懐には、当時のカリキュラムの理念を十分に活かせていなかったことへの反省も込められていただろう。またカリキュラムは、小規模大学にしてはかなり多様な科目が配置されてはいるものの、初学者が段階的に学修できるよう十分に体系化されていなかったこともうかがえた。 カリキュラムの改善が、当時の社会学科が大学改革の波にもまれ直面した問題、すなわち「社会学としての責任」「公立大学としての責任」「学生に対する責任」(同2011)に応えることと強く関わるという認識が、当時の関係者の記録から読み取れる。公共社会学のコンセプトは、カリキュラムを「イッシュー重視」に読み換え有用な教育モデルへと移行するという課題にマッチした。しかし注視したいのは、ブラヴォイが公共社会学を提唱する際に示した、publicsとの対話を基軸にした問題の発見、問題の分析、解決の提示というコンセプトが、これまでの社会学との連続性を非常に強く持っていることである(同2011)。改革が新学科の設置ではなく「名称変更」をすることによりなされたことには、重要な意味が孕まれている。ただ、この事と共に「公共」を冠することにより我々は様々な葛藤を経験することになった。詳細は報告で示したい。 【4.結論】 「公共」を冠する学科として生きていくということは、他方で社会学がその成立以来期待されてきた役割について反省的に対峙させられる経験だと我々は思っている。我々がこの理念や教育目標に対してどこまで向き合い果たし得ているのかと問われれば、甚だ心許なくもなるのだが、報告ではその一端についても紹介させていただきたい。 【参考文献】 福岡県立大学,2011,『公共社会学科開設記念シンポジウム報告書「公共社会学の構想」』.

報告番号248

大学院教育における公共社会学の可能性と課題——尚絅学院大学大学院公共社会学専攻の取り組みから
尚絅学院大学 高木 竜輔

1.目的  尚絅学院大学大学院に公共社会学専攻が2023年度に設置された。本報告の目的は、本専攻の教育上の狙いとその実践を紹介することを通して、大学院教育における公共社会学の可能性と課題を検討することである。 2.尚絅学院大学大学院公共社会学専攻の狙い  本学公共社会学専攻は、公共社会学を冠する大学院として日本初の教育課程である。公共社会学の名称は、2004年に当時のアメリカ社会学会会長 M.Burawoyが提唱した、〈public sociology =市民社会と対話をする社会学〉に由来する。専攻における担当教員は9名であり、一学年6名の入学定員となっている。 Burawoyの提唱した公共社会学は社会学内部の革新にとどまり、隣接科学との関係は明確ではなかった。それに対して本学公共社会学専攻では、環境社会学・災害社会学・地域社会学・教育社会学・情報社会学に加えて、環境経済学・地域経営学・生涯教育論・文化人類学などを専門領域とする教員からなり、社会学を中心としつつも関連する領域との連携に重点を置いている。またBurawoyは、publicを対話の相手として、市民社会や公衆と同義の意味で用いているようだが、私たちはpublicを、対話の相手であるのみならず、公共的関心を有し、市民社会・地域社会等の公共的課題解決の積極的な担い手と位置づけ、公共的な対話の場としての大学院、新たな共同性の創出の場としての大学院教育を目指している。 3.尚絅学院大学大学院公共社会学専攻の教育実践とその課題 本学公共社会学専攻では、公共社会学特論などの必修科目と上記各領域の選択科目を配置している。社会調査法特論を含めた必修科目群の修得により現場の声に耳を傾け、改善策や処方箋を検討しあうという、現場から現場への往還を重ねることを目指している。 本専攻では、〈市民社会と対話をする社会学〉の実践を目指してさまざまな教育プログラムを実施している。1年後期に配置された授業(公共社会学演習Ⅰ)では、各学生のテーマに基づきフィールドワークを実施しているが、そこにおける特徴は2点ある。第一に、メンター(必ずしも指導教員とは限らない)がフィールドワークに同席することである。これは、調査方法というだけでなく、現場との対話の方法の習得も狙っている。第二の目的は、フィールドワークの振り返りを全教員の参加のもとで実施していることである。多様な専門的立場からアドバイスすることだけでなく、授業の場を<対話する市民社会>と捉えて、さまざまな領域との対話する実践を意図している。  初年度2023年度の入学者は2名、2024年度の入学者は4名となっており、その半数は社会人である。入学者において社会人入学者が多いのが特徴である。 教育実践において試行錯誤の日々が続いており、課題も存在する。第一に、多様な目的・関心を持った学生をどのように市民社会の場へ導き、対話する能力を習得してもらうか、教育プログラムにおける実践の蓄積という課題である。第二に、教育実践を継続していく上で市民社会を構成する多様なアクターとの協働関係をどう構築していくか、という課題である。本専攻では隣接市町村の地方公務員のリカレント教育をはかることも意図しており、多様な学生を導く教育実践をおこなっていく上で、大学院としての実践をどのように蓄積していくかが問われている。

報告番号249

公共社会学の教育実践と課題
龍谷大学 川中 大輔

1.[目的]公共社会学教育の課題  本報告の目的は、公共社会学の教育実践における課題を明らかとした上で、求められる展開方向を検討することである。そこで、まず市民参加論の観点から公共社会学とその教育への期待を整理する。次に、その期待に応えていくための教育実践の試みを取りあげつつ、困難さを指し示す。最後に、これから取り組んでいくべき課題を提起したい。 2.[背景]公共社会学への期待  社会問題の解決に難しさをもたらしているものの一つは、複数の意味世界が現場に存在していることである(宮内2024)。「問題」とされている事象への捉え方は関係者の間で一様ではない。どういう位置/スケールから当該事象を捉えているのかで見え方が大きく異なってくる。そのため、何を「問題」と設定するのか、「解決」と言ったときに何が目指されるのか、必ずしも一致しない。市民参加のまちづくり実践は、ここで難所を迎えて葛藤に直面することとなる。この際、周縁化させられていたり脆弱な状況に置かれていたりする人々の「小さな声」がかき消される問題も起こりやすい。  そこで、どのような意味世界が現場でどのように布置されているのかを明らかとし、複数の意味世界の間で共同的な関係を取り結んでいくための道筋を見いだしていくことが求められる(盛山2011)。この探究過程にあって社会学は役割を果たしうるものであり、公衆との対話を通じて公共圏の活性化を目指す公共社会学とその教育への期待が高まることとなる。 3.[手法・結果]公共社会学の教育実践の試みから  この期待の内、公共社会学の教育の試みとして、筆者が担当する龍谷大学社会学部「社会共生実習」の「多文化共生のコミュニティ・デザイン」を取りあげ、参加学生の観察やインタビューからその実際に迫る。  そもそも、公共社会学の実践は容易ではない。なぜならば専門家と市民の間には不均衡な力関係が生じやすいからである。そのため、意図にかかわらず、学術的/俯瞰的な視点から専門家が提示する「課題設定」や「解決手法」に市民が従属する構図となることがある(脇田2024)。公共社会学の教育実践においても、学生が無自覚の内に社会学の理論や概念を現場に当てはめたり、既存のカテゴリーに他者を入れて理解したりする姿勢が見られる。そうした時、現場の人々ははぐらかして対応する動きを見せるが、それらは概して静かな抵抗である。ここで葛藤が生じれば、対話が深まる契機となるが、そこまで至りにくい。地域の人々も学生も、異質性が高い他者との対話や協働には躊躇いがあって、表層的なやりとりとなりやすいからである。  こうした関係性のもとでは、新たな概念や仮説を市民の言葉で共に創りあげることは難しい。そうなれば、新たな秩序を構想する手がかりではなく、現在の秩序の難しさを確認することで学びを終えることになりかねない。 4.[考察]公共社会学の教育の方向性  以上のような困難を踏まえれば、現場での学びほぐし(unlearn)をいかに進めるのか、深い対話を可能とする関係をどう構築していくのか、概念や仮説を形成する能力をどう高めていくのかが、公共社会学教育の実質化に向けての検討課題となると考えられる。

報告番号250

社会との対話と交流——千葉大学卓越大学院プログラムの事例から
千葉大学 米村 千代

【1.目的】  本報告では、千葉大学の人文系卓越大学院プログラム「アジアユーラシア・グローバルリーダー養成のための臨床人文学教育プログラム」の事例を通して、公共社会学の課題と可能性について考察する。特に、公共社会学において論じられてきた「社会との対話」について、具体的な大学院教育の実践から検討する。公共社会学の課題と可能性というテーマに関しては、学説史的、理論的な検討も重要であるとは認識しているが、本報告は、公共社会学が掲げた「社会との対話」について具体的な大学院教育プログラムの実践を中心とした報告になることをあらかじめお断りしておきたい。なお、本報告で取り上げる事例は社会学に特化したプログラムではないが、公共社会学における論点に連なる問題関心を共有するものとして、本セッションに位置づけられると考えている。 【2.方法】  本報告は、千葉大学の事例研究となる。卓越大学院プログラムとは、文部科学省の補助金事業であり、2018年から2020年にかけて30件が採択された。「アジアユーラシア・グローバルリーダー養成のための臨床人文学教育プログラム」と題した千葉大学の人文系のプログラムは、デジタル・ヒューマニティーズとアジアユーラシア研究を二つの柱とし、さらに人文社会科学における博士人材のキャリア開拓のためのインターンシップ等の取り組みを行ってきた。補助金事業のもとでではあるが、社会連携の推進と人材育成を通して人文社会科学の学問知を実社会にビルトインすることを模索し進めてきたもので、公共社会学の看板こそ掲げていないものの、実社会との対話や交流を推進するという共通課題を持っていると考えられる。 【3.結果】  本プログラムの特徴である連携の特徴の考察を通して、どのように社会との連携がはかられ、そのことがどのように対話と交流につながっているのかを示す。プログラムのキーワードの一つが連携である。まず、本プログラムは人文社会科学を基礎とするプログラムで、そもそも一つのディシプリンに特化したプログラムではない。履修する院生の専門は、歴史学、人類学、社会学、哲学、心理学と幅広く、工学系のデザインを専門とする院生もいることに加え、千葉大における生命科学系のもう一つの卓越大学院プログラムとも連携した授業を開講している。大学間連携としては岡山大学、長崎大学、熊本大学、国立歴史民俗博物館の連携プログラムであり、大学間で授業や評価基準を共通化するとともに、複数の大学にまたがる指導教員体制を構築している。加えて、人文社会科学の大学院において、企業連携をどのように展開するかがスタート当初からの一つの課題であった。本プログラムでは、まずは企業研究所等から客員教授やアドバイザーを招聘してオムニバス授業や短期のインターンプログラム、アドバイザー制度を構築してきた。 【4.結論】 本プログラムは現在進行中であり、結果や結論はあくまで現時点でのものとなる。大学院教育と社会との対話と交流の記録として、本プログラムの実践を具体的な取り組みから考察し、(広い意味での)公共社会学の課題と可能性に関数する知見を提供する。

報告番号251

公正な社会・世界の実現に向けた公共社会学——「市民社会との対話」再考
釧路公立大学 村上 沙織

20年前「市民社会との対話」を重視した公共社会学が提唱されて以来、公共社会学という概念やその志向性は社会学の世界に定着したといえる。英語圏においては、公共社会学の実践についても議論が積み重ねられてきた。具体的には、抑圧的社会構造を暴き聴衆(audience)の問題意識を高める実証研究、解釈的不正義(hermeneutical injustice)を是正する概念を創造する理論研究、学際的なカリキュラムを通して学生の倫理的判断力・批判的思考力を培う教育が注目を集めてきた。その一方で、公共社会学が対話に臨むべき市民社会に目を向けると、グローバル化・情報化に伴った公共圏の脆弱化が進行しており、世界各国の社会運動においては、異なる社会集団間の対話や連帯よりも細分化や分断が顕著となっている。公共社会学の課題は、多様な人々が人間らしく生きることのできる公正な社会・世界の実現に寄与する「市民社会との対話」のあり方を構想することだといえる。  本研究は、公共社会学の実践者が対話に臨むべき市民社会の聴衆が誰なのかを明確化し、公正な社会・世界を実現するための対話を促進する術を提示する。先行文献のレビューによると、公共社会学の実践者が対話に臨む市民社会の聴衆は概括的に三分類される。第一の聴衆は一般市民である。実践者は、公開講座、大衆向け書籍の出版、マスメディア出演などを通して対話に臨む。第二の聴衆は不正義に苦しむ当事者(例.性的マイノリティ、家庭内暴力被害者、障がい者)とNPO等の支援者である。不正義についての研究と支援活動への協力を通して対話に臨む。第三の聴衆は学生である。授業での対話に加え、コミュニティ・サービス・ラーニング等のキャンパス以外の場での学びの機会を作ることで、多様な市民と連帯しながら対話に臨む。  次に、本研究はこれらの聴衆との対話を公正な社会・世界の実現に資するものとするため、関連文献と実地調査のデータを拠り所として、公共社会学の実践者が取るべき術を以下に提案する。第一に、対話を促進するファシリテーターになるために、自己の立脚している価値観と社会的地位に伴う特権性を認識し、傾聴のスキルを身に付ける。また、政治・道徳哲学(正義論)を学び、公正な社会・世界の実現に必要な要因を理解する。第二に、言説に平等なる尊厳(equal dignity)に依拠した倫理的概念を組み込む。これにより、社会集団間の格差を喫緊に是正すべき公共的問題と定義しつつ、不正義に苦しむ社会集団が他の社会集団の被る不正義を矮小化してしまう社会的分断を抑止する。第三に、実証研究・理論研究を通してあたりまえに潜む矛盾を明らかにし、研究結果の共有を以て聴衆の批判意識 (critical consciousness)を高める。特に、不正義に苦しむ当事者の経験・声に焦点を当てる研究は、抑圧的社会構造の変革に繋がるパラダイムシフトに資する可能性があるだけでなく、当事者を知の創造者たらしめることでエンパワメントにも寄与する。第四に、インターセクショナリティと関係の社会学(relational sociology)の視点を持って公正教育(social justice education)を行うことで、不正義は被抑圧・特権特性の分布に規定された人間関係の帰結であることを伝える。これにより、聴衆が無意識にでも抑圧的社会構造の維持に加担している事実を示し、受動的同情(passive empathy)ではなく社会変革のための積極的な行動を促す。

報告番号252

公共社会学の可能性
尚絅学院大学 田中 重好

公共社会学の課題は大別して、「社会学の公共性の回復」と、「公共性概念を手掛かりにした社会現象の分析」にある。本報告では、第二の課題を取り上げ「公共社会学」の今後の可能性について検討する。  公共性は広義には、中心的な社会のルールであり、社会秩序を支えている。  そうした社会秩序においてキー概念であるにもかかわらず、公共性の概念は、多義的である。その点を踏まえると、第一に「公共性の何を問うのか」という問いに簡単な回答を与える必要があり、次に、公共性の多義性をどう考え、どう整理するかを示さなければならない。  最初に、「公共性の何を問うのか」は、公共性の「形」と、公共性の形成「過程」に注目する必要がある。公共性という抽象的な概念は、公共の価値・意識・感情という不可視的な次元から、公共的な活動(公共政策と事業、社会運動)、制度・組織(公的制度、公的組織)、物財(公共財、公共空間)という可視的な次元から成り立っている。さらに、公共性は最初から一義的に定義されているものではなく、社会変動の過程で変化し続けてきた。例えば、西欧の近代のなかで市民的公共性が形成され、それが、さまざまな挑戦を受けて大きく揺らいで、「社会的分断」を生み出してきた。このように、公共性の議論の広がりを整理できる。  では、公共性の多義性をどう整理し、その上で、公共性概念を手掛かりに社会どう分析できるのか。  公共性概念が多義的であるのは、二つの理由がある。公共性概念が「社会が作り出した/構築した考え方」であり、歴史的に変化し、共時的にも文化社会間で異なる意味をもっている。簡単な例を示せば、日本と中国では「公」は権力者を意味するが、西洋では「Public」は「公衆」を指している。こうした「構築された公共性」を通時的、共時的に捉えて議論することが必要となる。 第二の多義性は、研究者の定義する公共性が多様であり、共通の意味内容として研究者間で共有されていないためである。通常は、こうした多義的なキー概念を一義的に収斂させるべきだと考えられるが、むしろ、公共性は、「構築されたもの」としても、研究者が下す定義としても、それを一義的に制限することは無理であるばかりか、この概念の本来の性格(「形成過程にある公共性」)と、それがもつ有効性(「論争的な性格」)を押し殺すことになる。むしろ、その多義性をうまく生かすことが必要なのだ。公共性概念を使って、社会現象をどう分析できるのか、その具体例を示すことは報告当日に紹介する。 では、公共性研究が社会学全体にどういった可能性を持つのであろうか。家族内のDVが私的空間に閉じ込められてきたことの反省から公的規制の対象とされたこと、都市における公共空間の管理と利用の問題、地球温暖化を防止するための公共的な取組など、これらはすべて、公共性概念で共通に議論できるテーマである。このように個別の社会学的研究にとって、公共性研究は共通のプラットホームを提供し、その結果、社会学全体の「横櫛」となる可能性を秘めている。根本的にはこれらはすべて、社会の秩序が持続可能であるためには、公共性がどう形成され、維持されなければならないのかという問題に他ならないのである。

報告番号253

外国ルーツの子どもの多様性——豊岡および神戸の調査から
神戸大学 白鳥 義彦

本報告は、兵庫県豊岡市および神戸市で進めてきている、外国にルーツを有する子どもの育ちに関する調査研究をもとに、外国ルーツの子どもの多様化について検討しようとするものである。  まず、外国にルーツを有する子どもの一つのあり方である国際結婚について考えると、農村における年長の日本人夫と若い外国人妻との結婚が注目され(武田里子『ムラの国際結婚再考』2011、賽漢卓娜『国際移動時代の国際結婚―日本の農村に嫁いだ中国人女性』2011)、「文化交流型」に対置される「南北型」国際結婚の類型が提示された(藤井勝・平井晶子編『外国人移住者と「地方的世界」』2019年)。近年においては、地方においても「文化交流型」に類型化されるような国際結婚が普通に見られるようになってきている印象がある。  また、2023年6月末現在における中長期在留者数は293万9,051人、特別永住者数は28万4,807人で、これらを合わせた在留外国人数は322万3,858人となり、前年末(307万5,213人)に比べ、14万8,645人(4. 8%)増加している。在留カード及び特別永住者証明書上に表記された国籍・地域の数は195(無国籍を除く。)である。上位10か国の人数は、(1)中国788,495人(+26,932人)、(2)ベトナム520,154人(+30,842人)、(3)韓国411,748人(+436人)、(4)フィリピン309,943人(+11,203人)、(5)ブラジル210,563人(+1,133人)、(6)ネパール156,333人(+16,940人)、(7)インドネシア122,028人(+23,163人)、(8)ミャンマー69,613人(+13,374人)、(9)米国62,425人(+1,621人)、(10)台湾60,220人(+2,926人)となっており、中国、ベトナム、ネパール、インドネシア、ミャンマー等からの人数が増加していることがわかる。また、在留資格別では、(1)永住者880,178人(+16,242人)、(2)技能実習358,159人(+33,219人)、(3)技術・人文知識・国際業務346,116人(+34,155人)、(4)留学305,916人(+5,278人)、(5)特別永住者284,807人(-4,173人)となっている。(出入国在留管理庁、https://www.moj.go.jp/isa/publications/press/13_00036.html)。在日外国人の人数の増加に応じて、国際結婚ではなく外国人の両親からの子どもが地域で暮らすということも普通のこととなってきている。  さらに、これまでの調査の中では、小中学校の段階で、日本で教育を受けるためにいわば「留学」のような目的のために来日しているという語りも見出された。  このように外国にルーツを有する子どもの育ちについては、国際結婚の両親か外国人同士の両親かということや、地方圏か都市圏かということや、通学する学校の規模や、来日の目的等、様々な観点からその多様性を見出すことが可能である。本報告ではそうした多様性のなかでの子どもの具体的な育ちのあり方や、支援のあり方の諸相を検討する。

報告番号254

「神戸市の公立小中学校における日本語指導 が必要な児童生徒の受け入れ状況——教員に対する聞き取り調査から見えてきた問題の所在
神戸大学大学教育推進機構 グローバル教育センター 黒田 千晴

目的 本報告は、神戸市の研究助成「大学発アーバンイノベーション神戸」を受けて実施した研究課題『「外国ルーツの子どもたち」支援を軸とした多文化都市創生のための実証的研究』(研究代表者:佐々木祐)の成果の一部を発表するものである*。本研究では、近年急速に外国人住民が増加しつつある神戸市における「外国ルーツ」の子ども・若者たちの教育や就労の状況を検証し、今後の支援の在り方を検討することを目的に、市内公立小中学校及び外国ルーツの子どもを支援する団体等に調査を実施した。本発表では、神戸市の「日本語を母語としない児童生徒」への支援体制を踏まえたうえで、日本語指導が必要な児童生徒(以下、子どもと記す)の受け入れに際し、小中学校の教育現場でどのような課題が生じているのか、教員を対象とした聞き取り調査の結果をもとに考察する。 方法 調査の前段階として、神戸市教育委員会事務局の協力を得て、市内の公立小中学校で「特別の教育課程」(日本語指導を必要とする児童生徒に対して、教育課程の一部の時間に替えて在籍学級以外の教室で行う教育の形態)を実施している学校の情報を得た。本情報に基づき、近年、日本語支援実施校が急増している3つの区と、実施校の増加がみられる1つの区を対象地域に定め、それらの区の学校に調査協力を依頼、承諾が得られた22校に聞き取り調査、5校に書面調査を実施した。調査は、2023年11月から2024年3月にかけて研究代表者・研究メンバー複数名で実施した。本発表で分析対象とするのは、聞き取り調査を実施した22校の教員(日本語指導担当教員 、教頭、校長など)へのインタビューデータである。なお、神戸市では、2020年度(令和2年度)より神戸市教育委員会事務局に「こども日本語サポートひろば」を設置し、日本語指導支援員や母語支援員の学校園への派遣やオンライン指導、転入時の日本語能力測定、指導計画の支援作成を行っているほか、教員を対象とした研修を実施している。調査では、神戸市の支援体制を踏まえたうえで、調査対象校に在籍している日本語指導を必要とする子ども及び外国ルーツの子どもの学習・生活状況やこれらの子どもに対する指導・支援の実施状況について質問した。 結果・結論 教員への聞き取り調査の結果、様々な課題が浮かび上がってきたが、それらは、(1)学校教育現場をめぐる構造的問題(外国籍の子どもの就学義務の取り扱いに起因する問題、教員不足、業務過多など)、(2)神戸市の支援制度の運用に関する課題(市教育委員会と現場の教員、支援団体等との連携など)、(3)神戸市の地域特性に由来するすると思われる課題 (同一学区内での階層差、出身国・地域の多様化など)に分けられることが明らかになった。発表では主として(2)と(3)に焦点を当て、神戸市における外国ルーツの子どもの教育支援の改善に資する提言を試みる。 *『「外国ルーツの子どもたち」支援を軸とした多文化都市創生のための実証的研究』研究代表者:佐々木祐(神戸大学)、研究メンバー:平井晶子(神戸大学)、白鳥義彦(神戸大学)、梅村麦生(神戸大学)、齊藤美穂(神戸大学)、黒田千晴(神戸大学)、小林和美(大阪教育大学)、嶺岸匠(神戸大学院生)、野中康生(神戸大学院生)、研究協力者:石動徳子(神戸市教育委員会事務局)

報告番号255

外国ルーツの子どもたちの高校進路選択における中学校の役割——兵庫県神戸市立中学校と教育支援機関への聞き取りから
神戸大学 梅村 麦生

要旨  近年の日本で増加を続けている「外国ルーツの子ども」の教育に関して、依然として大きな課題であるのが、「進学格差」である(参照、樋口・稲葉2023;鍛治2023他)。  ただし、特に2010年代以降、同年代の他の子どもたちのみならず、「外国ルーツの子ども」たちもまた、全体として見れば高校や大学への進学率が年々上昇していると指摘されている。中でも高校等への進学率は、国籍や親の階層、そして来日年齢などの違いによる差が小さくなく、日本の中学生の99%近くが高校等に進学するという全体の割合に比べれば低い数字となるものの、各自治体でおこなわれている調査では、「外国ルーツの子ども」もまた、9割近くが高校等に進学していると報告されている(参照、額賀2023;オチャンテ2023;田巻2023他)。  しかし、彼・彼女らの高校等への進学率の上昇を受けても、より大きな問題として残っているのが、進学先の高校等の偏りである。一部の自治体では全日制の高校で外国人特別選抜が実施されているものの、特に定時制高校や通信制高校が大きな受け皿となっており、また全日制の中でも、職業科や入試偏差値が相対的に低い高校への偏りも指摘されている。 そうした高校での教育が重要な意義をもっていること、また外国ルーツの子どもたちの進学先としても大きな役割を果たしていることは言うまでもないが、他方で必要な日本語支援が十分に受けられなかったり、生活環境や志望するキャリアなどとのミスマッチによる中退率の相対的な高さといったことも、現状では伝えられている。  そこで本報告では、「外国ルーツの子ども」たちがどのように高校等への進路を選択しているのかを検討するため、その高校進路選択に影響を与えていると考えられる一つの契機として、中学校での進路指導に注目する。取り上げる対象は主に、兵庫県神戸市「大学発アーバンイノベーション神戸」2022年度~2023年度研究課題『「外国ルーツの子どもたち」支援を軸とした多文化都市創生のための実証的研究』(研究代表者:佐々木祐、神戸大学)内で実施した兵庫県神戸市の公立中学校と支援団体への聞き取り結果に基づく。 文献 樋口直人・稲葉奈々子,2023,「「外国人の子ども」から四半世紀を経て」樋口直人・稲葉奈々子編『ニューカマーの世代交代――日本における移民2世の時代』明石書店,7-19. 鍛治致,2023,「外国にルーツを持つ高校年齢層の教育と家庭背景の国籍別比較――国勢調査(一九八〇―二〇一五)でみる長期推移」岸政彦・稲葉圭信・丹野清人編『岩波講座社会学 第3巻 宗教・エスニシティ』岩波書店,195-213.) 額賀美紗子(研究代表者),2022,『外国につながる生徒の学習と進路状況に関する調査報告書――都立高校アンケート調査の分析結果』東京大学大学院教育学研究科,(https://researchmap.jp/misakonukaga/published_papers/40320512/attachment_file.pdf) オチャンテ,村井・ロサ・メルセデス,2023,「移民第2世代のキャリア形成支援における展望と課題――コミュニティにおける実践の記録」樋口直人・稲葉奈々子編『ニューカマーの世代交代――日本における移民2世の時代』明石書店,127-151. 田巻松雄,2023,「栃木県における外国人生徒の進路状況――13 回目の調査結果報告」『宇都宮大学国際学部研究論集』56: 27-38,(http://hdl.handle.net/10241/0002000021.)

報告番号256

外国ルーツの子どもをとりまく今日の学校文化と教員の実践――神戸市の事例から
神戸大学大学院 野中 康生

“【目的】

 本報告の目的は、神戸市における外国ルーツの子どもの育ちを支える小中学校の教員たちが、今日的な学校文化との交渉のなかで子どもたちの多様性を尊重する実践をいかにして創出しているのかを明らかにすることである。ニューカマーの子どもたちをめぐる先行研究では、日本の学校に特徴的な「一斉共同体主義」の文化が教師たちの実践によって維持される過程が描かれてきた(cf. 恒吉 1996; 児島 2006; 奥井 2024)。一方で教員たちは自らが観察した生徒文化に歩み寄る形で「現場の教授学」を構築しており、「学校のコンサマトリー化」が進んでいるとの指摘があるなど(伊佐 2010)、学校文化をめぐる議論は必ずしも一枚岩ではない。

【方法】

 久冨善之の整理による学校文化の構成要素としての①制度文化、②教員文化、③生徒文化、④校風文化、⑤地域・家庭など外在的要素、といった観点から、兵庫県神戸市「大学発アーバンイノベーション神戸」2022年度~2023年度研究課題『「外国ルーツの子どもたち」支援を軸とした多文化都市創生のための実証的研究』(研究代表者:佐々木祐、神戸大学)内で実施した神戸市内の公立小・中学校と支援団体への聞き取りデータを分析する。

【結果】

 第一に、児島明が指摘する「差異の一元化・固定化」戦略は、マジョリティの児童生徒たちがもはや「一斉共同体主義」的な学校文化の担い手たりえない(と教員が認識する)今日において積極的に採用される必要がなくなっていた。第二に、教師たちは生徒の多様性を、「やる気」などの個人の資質に還元するのではなく、神戸市域に特徴的な同一学区内での階層差といった社会的カテゴリーに帰す文化を形成していた。そのなかで子どものルーツも、日本語指導加配という制度文化も手伝って集中的なケアが必要とされる課題として認識されていた。第三に、上記のような生徒文化・教師文化・制度文化に基礎づけられた校風文化が育まれ、外国ルーツの子どもたちを尊重する学校文化が安定的に再生産される学校がある一方、各学校が活用できる資源の制約から校風文化を形成する取り組みには現場によって差が生じていた。

【結論】

 本報告は教員の語りに焦点を当てたものであり、データの制約をともなう。しかしそのことを鑑みたうえでも、外国ルーツの子どもをとりまく学校文化の様相は同時代的な社会状況と不即不離であり、また彼らへの手厚い支援に対する社会的合意をいかにして形成していくかという意味でも、外国ルーツの子どもの支援は学校内部の問題としてではなく、「社会の問題」として取り組む必要がある。

【文献】

伊佐夏美,2010,「公立中学校における『現場の教授学』――学校区の階層的背景に着目して」『教育社会学研究』86: 179-199.

久冨善之,1996,「学校文化の構造と特質――『文化的な場』としての学校を考える」堀尾輝久,久冨善之ほか編『<講座学校 第6巻> 学校文化という磁場』柏書房,7-41.

児島明,2006,『ニューカマーの子どもと学校文化――日系ブラジル人生徒の教育エスノグラフィー』勁草書房.

奥井亜紗子,2024,「学齢期の子どもたち――学校からのまなざし、家庭からのまなざし」佐々木祐・平井晶子編『1%の隣人たち――豊岡発!外国人住民と共に生きる地域社会』昭和堂.

恒吉僚子,1996,「多文化共存時代の日本の学校文化」堀尾輝久,久冨善之ほか編『<講座学校 第6巻> 学校文化という磁場』柏書房,215-240.”


報告番号257

複数の文化背景を持つ子ども支援の現状とその課題 ―神戸市・豊岡市外国ルーツ子ども調査データの比較を通じて
神戸大学大学院 佐々木 祐

【目的】  近年の外国人住民増加の一つの要因は、その根本的な見直しが叫ばれている技能実習生をはじめとする短期滞在外国人労働者によるものであるが、それと並行して日本社会において中長期的な展望のもとに生活し就労し子育て・教育を営む外国人住民も確実に増加している。また、人数だけではなく、出身国・地域や在留資格・職種、将来設計や日本社会への統合の度合いなど、詳細にみてみるとその背景や戦略も多極化している。こうした状況の一方で、政府の統一的な移民政策の不在は地域に生きる外国人住民とそれを支える諸団体・組織に過大な負担を強いている。本報告では、とりわけ外国にルーツを持つ子どもの学習・生活支援を行う団体を対象に、それが当事者、スタッフ、関係諸機関との連携(あるいはその不足)のもとにいかに機能しているのか、またその課題や陥穽の所在を探る。 【方法】  利用するのは、神戸大学文学部社会学教室が2022-23年に実施した神戸市外国ルーツ子ども調査と、2019-2021年の豊岡市外国人住民調査のデータである。歴史的にみても比較的外国人住民の多い神戸市であるが、それぞれの区・地域においてその内実(比率・構成)には大きな差異が見られる。支援に取り組んでいる市内十数団体への聞き取りをもとに、まずはその具体的な実践の諸様相を明らかにする(とりわけ地域差および学校・行政との関係)。また、日本語指導が必要な児童生徒の在籍する市内小中学校を対象に実施した調査データも援用し、より立体的な分析を試みる。さらに、非集住地である豊岡市での事例、特に多方面かつ包括的な支援の様相とその機能に関する分析を一つの参照枠として、現在進展しつつある事態のさらなる明確化を試みる。 【結果】  限定的な事例をもとにした分析ではあるが、外国人住民の複数性に基づく教育・生活戦略の差異、就労状況や移民文化に起因する移動性、出身国と日本の「学校文化」のコンフリクト、また各支援団体の目的・背景や地域特性・立地による実践の多様性・偏差、さらに学校や他団体との関係性といったテーマに対して実証的な解(への手がかり)が与えられる。 【結論】  過度な一般化をする目的はもちろんないが、他地域・事例においても生起している諸問題を解きほぐすための一つ道筋を示したい。また、これはただ単にいわゆる「ニューカマー」の子どもたちのみに関係する議論なのではなく、在日朝鮮人・韓国人をはじめとする「オールドカマー」のこれまでの実践、また家庭環境や発達段階など様々な背景を有する子どもたちと地域社会がどのように関係してゆくべきかという問題系にも接続しうるものとして提示しておきたい。 【文献】 榎井縁,2021,「多文化共生の教育に関する研究動向」,『教育学研究』88巻3号,p.455-462. 清水睦美他編著,2021,『日本社会の移民第二世代——エスニシティ間比較でとらえる「ニューカマー」の子どもたちの今』,明石書店.

報告番号258

日本語支援が必要な外国ルーツの子どもの育ち ——地域のNPOと大学の連携の在り方を巡って
大阪樟蔭女子大学 呉 知恩

日本では少子高齢化による労働力不足とグローバル化、情報化の進展を背景に、在留する外国人が増加し、2023年度6月末には322万人となり、「出入国管理及び難民認定法」が改正・実施された後の108万人(1990年末)と比べると約3倍になっている。  この間、日本語学習者の拡大と多様化が進み、外国籍の子ども人口は、1990年には14万人だったが2022年は21万に増え、年少人口に占める外国籍の子どもオの割合も0.6%から1.5%へ増加した(国立社会保障・人口問題研究所『人口統計資料集2023年改正版』)。 父母の両方またはどちらか一人が外国籍である場合の出生数は、2000年以降概ね3万5000人ほどで推移しており、全出生数に占める外国ルーツの子どもの出生数の割合は、1987年年には1.3%だったが、除々に上昇し、2021年には4.4%になっている。  外国人児童生徒の増加や、保護者の国際結婚などによる日本国籍の児童生徒の増加により、公立学校に在籍する日本語指導が必要な児童生徒は4万人を超え、その数は増加傾向にある。政府は2018年に「外国人の受入れ・共生のための総合的対策」を取りまとめ、外国人児童生徒の教育について今後一層充実化を図ることとしている。これらを踏まえ、文部科学省では、公立学校における帰国・外国人児童生徒に対するきめ細かな指導・支援体制を整備する自治体への補助事業において、多言語翻訳システムなどICTを活用した取組や、2026年度に日本語指導が必要な児童生徒18人に対し1人の教員が基礎定数として配置されるよう改善を図り、日本語指導補助者や母語指導員の派遣に対する補助を実施している。  文部科学省により、日本語の支援が必要な児童生徒についての調査は実施されているが、外国にルーツのある子どもの生活実態に関する国レベルの全国的調査は行われていない。外国にルーツのある子どもの生活実態について、保護者の国籍を特定できる東京都調査・世田谷区調査・中野区調査・千葉県松戸市調査データを統合して分析した千年よしみ(2023)によれば、ひとり親の割合は外国にルーツのある子どもが2倍高いこと、低収入の世帯の割合が高いこと、最も貧窮度の高い層の割合は外国ルーツの子どもが日本人の2倍高いことなどが明らかになっている。  本報告では大阪府の中核都市である東大阪市における外国人、外国人親子の日本語支援を行っている地域のNPO団体を対象に、大学の国際交流事業や授業を通した連携の在り方について検討し報告する。東大阪市において地域の地域で外国人を対象とした日本語支援を25年間行っているあるNPO団体(H)、外国人住民と関わる人や外国にルーツを持つ親子へのサポートを活動目的に設立されたあるNPO団体(T)、外国籍の児童生徒の不就学問題の解決に取り組んでいるあるNPO団体(K)の活動に関わった大学教員として大学教員と大学生の関わり方、見えてきた課題について報告し、日本語支援を中心に外国にルーツのある子どもと家族の支援について大学の教育研究機能を活用した地域NPO団体との連携について議論したい。 参考文献・資料 ・文化庁 『令和4年度日本語教育実態調査 国内の日本語教育の概要』 ・千年よしみ(2020)「外国ルーツの子どもと家族の多様性 ―生活困難と親の就労―」、独立行政法人労働政策研究・研修機構、第128回労働政策フォーラム 資料  

報告番号259

熊本県における中国ルーツ児童への支援ニーズに関する実証的研究
社会理論・動態研究所 伊吹 唯

1. 目的 山脇 (2024) が指摘するように,外国ルーツの子どもたちが必要とする支援 (ニーズ) として何が適切かという点については,先行研究において充分な検討がなされていないと考えられる。そこで本研究は,散在地域である熊本県に在住する4歳から7歳の中国にルーツを持つ子どもとその子どもの養育者 (中国語を母語とする) を対象とし,「家庭内における子どもと養育者の間の言語使用に関するポリシー (Family Language Policy, 以後FLP)」 (King el. al 2008),家庭内での言語使用の実態,子どもの継承語 (中国語) と現地語 (日本語) のパフォーマンスの3点を調査し,外国ルーツの子どもたちに対する言語支援のあり方を決定する際に考慮すべき点を,バイリンガリズム,第二言語習得,会話分析といった学際的な立場から実証的に洗い出すことを目的としている。 2. 方法 FLPに関しては,養育者との半構造化インタビューを用いて調査する。 養育者と中国ルーツの子どもの家庭内言語実践に関しては,両者の自然会話をビデオカメラおよび録音機器によって1年に4回 2 時間程度記録し,マルチモーダル会話分析 (言語と身体動作の両方を分析する) を行う。 子どもの日本語のパフォーマンスについては,文部科学省初等中等教育局国際教育課により作成された「外国人児童生徒のためのJSL対話型アセスメント(DLA)」を実施し,中国語のパフォーマンスについては,日本語版のDLAを翻訳・参考とする中国語版DLAを利用する。 3. 結果 上述の調査は,現時点では未着手であるため,本セクションでは,予想される結果について述べる。 家庭内使用言語管理の指針となるFLPと家庭内言語実践の実態の間には齟齬があり,子どもが,養育者が期待する言語的パフォーマンスを見せない可能性が充分考えられる。たとえば,「家族同士の会話では中国語を原則として使用する」というFLPが規定されていたとしても,現実の家庭内言語実践では,養育者が中国語で話しかけたものの,外国ルーツの子どもは「中国語と日本語が混在」した応答をすることが予想され,その子どもは,養育者が想定する中国語のパフォーマンスを示さない可能性が充分あると考えられる。この養育者の期待と実際の言語的パフォーマンスの「ずれ」に関しては,本調査においては,先に述べたDLAによって計測される。このような結果が観察されたならば,支援団体が実施するニーズ調査に対する養育者の回答は,実態に即していない可能性が充分に考えられる。 4. 結論 外国ルーツの子どもたちに対する言語的支援を確定するためには,養育者へのニーズ調査だけでなく,FLPと実際の家庭内言語実践の調査が必要であることが示唆される。 【参考文献】King, Kendall. A., Lyn, Fogle, and Aubrey, Logan-Terry, 2008, “Family Language Policy,” Linguistics and Language Compass 2 (5): 907–22. /山脇佳,2024,「移民の子どもの教育支援に関する研究の成果と課題―教育社会学領域を中心に」『中京大学大学院社会学研究科社会学論集』23: 145-59.

報告番号260

Revisiting cosmopolitanism from a postcolonial perspective


報告番号261

Beyond Eurocentrism: Decentering Global Sociology through the Lens of India


報告番号262

ʿAbd al-Raḥmān Ibn K̲h̲aldūn’s State Theory and Decentering Global Sociology


報告番号263

The Modernization Project and the Changing Time Perception in East Asian Societies: Towards a Framework of De-westernized Comparative Historical Sociology


報告番号264

Memory Activism to Commemorate the Massacre of Koreans after the 1923 Great Kanto Earthquake in Japan


報告番号265

触れることの現象学
無所属 落合 仁司

目的  触れること、触れられること、それによって感じられること、感じることは人間の相互行為、互酬行為において本質的だ。人間は触れる、感じられる能動者であると同時に触れられる、感じる受動者である。触れること、感じることは、たとえばモーリス・メルロ=ポンティの『知覚の現象学』『眼と精神』『見えるものと見えざるもの』に見られるように、現象学が好んで取り上げて来た対象だ。しかしこの対象は、人間は能動者 agent であると同時に受動者 patient である相互行為の根幹に関わり、社会学の対象としても基本的だ。本論は、この触れることと感じることという互酬行為の根幹を、代数幾何と複素解析幾何によって表象することを試みる。触れることの現象学的数理社会学の試みである。 方法  触れることと感じることは現象学の本質的な対象であると共に精神分析の本質的な対象でもある。触れることと感じることは精神分析の対象とする愛の技芸 art d’amour の本質だ。いま精神分析の基本概念を援用し、触れる能動者、触れるものを、ドーナツの輪である複素トーラスで、感じる受動者、感じるものを、突起を持つ曲線である楕円曲線で表象しよう。精神分析でいう、触れる能動者は、口唇、肛門、陰唇等の複素トーラスであり、感じる受動者はクリトリス、乳首、ファルス等の楕円曲線だからだ。(舌をどう考えるかはなかなか複雑な問題だが。) 結果  触れる能動者と感じる受動者が複素トーラスと楕円曲線で表象されるならば、代数幾何 géométrie algébrique と複素解析幾何 géométrie analytique complexe の関係、いわゆるGAGA原理が援用できる。すなわち複素トーラスと楕円曲線は複素解析同型、複素トーラスから楕円曲線への楕円関数と、楕円曲線から複素トーラスへの逆関数である楕円積分が存在する。したがって触れる能動者と感じる受動者は複素解析同型、触れる能動者が感じる受動者に触れることは楕円関数で、感じる受動者が触れる能動者を感じることはその逆関数である楕円積分で表象される。触れる能動者と感じる受動者の互酬行為は複素解析同型として表象されるのである。 考察  さらに一歩踏み込めば複素トーラスはリーマン面の、楕円曲線は代数曲線の特別な場合だ。すなわち複素トーラスと楕円曲線の関係に言えることは、リーマン面と代数曲線の関係に拡大できる。リーマン面とは1次元複素解析多様体に他ならず、代数曲線とは1次元代数多様体に他ならない。複素解析多様体と代数多様体の関係、それがGAGA原理の最も一般的な主張である。それでは触れる能動者と感じる受動者はどのような概念に一般化されるのか。触れる能動者と感じる受動者の互酬は人間の相互行為の基本型であるだけに、その一般化は人間の相互行為のどこまでを射程範囲に収められるだろうか。

報告番号266

セクシュアリティ研究における触覚的快楽——マスターベーションする身体と男性向けアダルトビデオ
東京大学 服部 恵典

【1.目的】 セクシュアリティ研究は、他者とのスキンシップや性行為、あるいはマスターベーションなどにおける触覚的快楽をいかに扱うことができるのか。 触覚には、「『触れる』と同時に『触れられる』という相互性の契機」があることが指摘されている。しかし、マスターベーションはこの相互性が自己に閉じた行為である点に特徴がある。たとえば、自己の指は他者に触れるかのように自己の性器に触れ、同時に指もまた性器に「触れられ」ており、他方で自己の性器は他者に触れられるかのように自己の指を想像し、同時に性器もまた指に「触れて」いる。本報告は、この「コミュニケーション」がいかにして可能になっているかについて、アダルトメディアの機能に着目しながら明らかにすることを目的とする。 【2.方法】 本報告は、マスターベーションに必要な想像を与えるアダルトメディアのなかでも、特に男性向けアダルトビデオに焦点を当てる。 男性向けアダルトビデオの特徴として指摘されてきたのは、カメラアイ・登場人物の目・視聴者の目が重ね合わされる「主観的映像」のうち、登場人物が男性である場合の「男性主観」映像である。本報告はこれに加えて、先行研究を踏まえ、主観的な客観視=「半主観的映像」を議論に導入する。 【3.結果】 男性向けアダルトビデオはまず、女優と目が合うこと、女優から語りかけられることで視聴者と女優との1対1関係が夢想される、男性の主観的映像が特徴である。しかし他方で、快感を感じる男性身体に同一化するためには、男性身体が画面に映らなければならず、半主観的映像の要素も含む。そして、決して両立しえないはずの男性の主観的映像と男性の半主観的映像をキュビズム的に両立させる、アダルトビデオ独自の技法が確認される。 また、女性の身体を中心に映すという男性向けポルノグラフィの特徴は、女性の半主観的映像として視聴者に解釈可能である限り、視聴者を女性への同一化に誘導する映像だといえる。 【4.結論】 男性向けAVは、映画と同じようには半主観的映像が男性への同一化に必要なわけではないが、「内面」ではなくマスターベーションに必要な皮膚の「表面」に同期するために、半主観的映像が効果的に用いられている。 もちろん、男性向けポルノグラフィが、「視線」をめぐる権力のジェンダー不均衡な配分を最も如実に表す場であるという指摘は、いまだに価値を持ち続けている。しかし、ポルノグラフィ視聴の現実は視覚的快楽だけでなく、視聴者の身体性まで含めて議論する必要がある。特に触覚的快楽の可視化に着目することで、個人のかけがえのなさを「異性愛男性」的欲望へと切り縮める男性ジェンダー化の権力作用をより緻密に捉えられるとともに、別様な主体化への可能性も見出すことができる。

報告番号267

触覚と食べること
追手門学院大学 松谷 容作

クロアチア出身でウィーンを拠点として活動するパフォーマンス・アーティスト、マルコ・マルコヴィッチは、『Southeast sadness in Central Europe』 (2021)などの作品において、よい香りを放ち、色鮮やかな花を食べるというパフォーマンスを実践する。パフォーマンスが進むにつれて、マルコヴィッチの口から花弁の絞り汁と唾液が混ざった赤や紫の血液のような液体が漏れ出てくる。そして次第にマルコヴィッチの表情や姿勢は強く歪んでくる。ついには吐き気が誘発されて苦しそうな声が発せられるのである。花の酵素が身体を刺激し、身体を変化させていくのである。以上のようなパフォーマンスを通じて、マルコヴィッチは、権力や資本主義への抵抗、一体化する被害者と加害者の姿を表現しようとする。 ところで、通常「食べること」は味覚を通じて、またときとしてそこに嗅覚が加えられて、語られるであろう。だが、マルコヴィッチのパフォーマンスを参照してみると、味覚(そして嗅覚)から「食べること」を捉えることは、その営みの部分的な側面を掬い上げているに過ぎないということが理解できる。そのパフォーマンスでは、花やそれが砕かれて染み出す様々な酵素、唾液、口腔、喉頭、食道、胃などの接触的な絡み合いが前景化されており、その意味で味覚に代わって「食べること」において軸となるのは触覚であろう。 食べることは身体に様々な物質を、他の存在の生を自らの内に注入しそれらに触れることであり、また同様に様々な物質あるいは他の存在の生から触れられることである。そしてそのことを通じて身体が変容することである。さらには、哲学者のエマヌエーレ・コッチャは『メタモルフォーゼの哲学』で食べることを次のように語る。「生は身体から身体へ、種から種へと移動し、そのときの自分の形態に完全に満足することはけっしてない。食べることはこうしたことにほかならない。すなわち、ただ一つの生、あらゆる生きものに共通で、身体のあいだや種のあいだを循環することのできる生しか存在しないという証である。それはつまり、自然、種、人格といういかなる障壁をもってしても、唯一の形態、唯一の種、唯一の身体のなかに永遠に留まるよう生に強いることはできない」(エマヌエーレ・コッチャ『メタモルフォーゼの哲学』, 松葉類・宇佐美達朗訳, 2022年, 99頁)。コッチャにとって食べることは、多種との接触的な絡み合いを通じて、それらの形態を越えた事物と生の途切れのない流れに加わり、その一部になることでもあるのだ。 本発表では、以上のような触覚を軸とした「食べること」と生のあり方を、様々な表現などを通じて検討していく。

報告番号268

触発するアセンブリ——台湾ひまわり運動の事例から見る集合的主体性の創発
東京大学大学院 黄 釋樟

【背景】 2010年代に公的空間を占拠する社会運動が世界規模で出現している。オキュパイ・ウォールストリート(アメリカ)、ひまわり運動(台湾)、ポスト311反原発運動(日本)などが挙げられる。これらの運動の多くは、政党、組合、カリスマ的な指導者などがなく、都市のコモンズを占拠する運動であるため、さまざまな論者は「アセンブリ」(Negri and Hardt 2017 ; Butler 2015)で運動の参加者を呼ぶことを提案し、「直接民主主義」(Graeber 2013)としてその新たな運動形態の特徴と新自由主義における意義を議論してきた。その中で、アセンブリで構成される社会運動はしばしば、権力機関と対峙する1つの集合的・政治的主体として捉えられるが、権力機関と対峙する主体的位置を作り出すためには、通常は一定の合意に基づく連帯性に依拠せざるを得ないにもかかわらず、アセンブリにおいては意図的な合意があらかじめ存在しないという矛盾する事象がしばしば観察されている。このようなアセンブリにおける集合的主体性を説明するためには、社会運動の参加者を一貫した行動原理として捉える従来の理論を刷新する必要がある。というのも、アセンブリでは意図的な合意が存在しないため、運動参加者の行動ないし運動の方向性は場当たりの言語的・身体的コミュニケーション、または非コミュニケーション的出来事に大きく左右されている。【目的と方法】したがって、本稿は2014年に台湾の立法院に占拠する「ひまわり運動」を1つの事例として、参加者の行動を特定の合理性に従うものとして捉える代わりに、運動において必ずしも参加者の合意のもとで行われているとは限らないさまざまな出来事が、いかに参加者の間身体的な感覚の形成を促し、結果的に集合的主体性を可能にしたかを考察する。【結果】本稿は、①ひまわり運動という名前すらなかった初期の立法院の占拠運動では、立法院の中に参加者が閉じ込められることにより、日常的な秩序を一旦無力化させるヘテロトピア的な空間が形成され、運動の拡大につながった。②運動が拡大し、物資的、人員的に立法院の中が囲まれる体勢が形成されたあと、立法院の外に雑多な人々が各自の主張や活動を持ち込むことにより、道路や立法院の外の空間を共有する実感が培われ、徐々に個としての境界性を超えた互助的なコミューンが形成した。③立法院の中の参加者が徐々に発信する司令塔に変貌した時点で行政院を占拠する出来事が突発し、警察、軍隊、治安部隊などの暴力機関に対峙する際に手を繋ぐ非暴力的な抵抗を示すことによって、さらに参加者の連帯性の強化と運動の脱中心化が同時に起きた。という3つのエピソードを通しアセンブリにおける集合的主体性を裏付ける間身体的な感覚のあり方を明らかにした。そこで、ひまわり運動のように公的空間を長時間占拠する社会運動では、占拠された空間における複雑な営為そのものが行為遂行的に社会運動になるため、運動を理解するためにはその空間に行われる複雑な営為へのアプローチが必要とされることを再確認した。【参考文献】◆Butler, J., 2015, Notes toward a Performative Theory of Assembly. Harvard University Press. ◆Graeber, D., 2013, The Democracy Project: A History, a Crisis, a Movement. New York: Spiegel & Grau. ◆Hardt, M. and Negri, A., 2017, Assembly. Oxford: Oxford University Press.

報告番号269

「非芸術」的資源と小劇場演劇——ローカルな価値の空間におけるアーティストの活動継続
立命館大学大学院 柴田 惇朗

本研究は、非芸術的起源を持つ資源を活用し、芸術作品を制作する京都の小劇場演劇人の活動に焦点を当て、芸術と資源の関係性を考察するものである。具体的には、アーティストがどのように「非芸術」的な資源を取り込み、独自の芸術作品を生み出しているのかを分析することを通じて、ローカルな価値の空間におけるアーティストの活動をより深く理解することを目的とする。 現代の芸術社会学において、アーティストの定義はしばしば曖昧であり、その曖昧さはアーティスト自身のアイデンティティ形成に複雑な影響を及ぼしていることが指摘されている。ブルデューの「界」の理論は、アーティストが特定の階層化原理に基づいて活動する様子を描くものであり、これが彼らの作品制作やキャリア形成に大きな影響を与える。この理論的枠組みを用いることで、アーティストが従う規範や価値観がどのように形成され、変化していくのかを明らかにすることを目指す。 本発表において扱うアーティストにとって、界の存在は先行研究において想定されるものとは異なる特徴を持つ。筆者が調査を行う京都の小劇場演劇の一部においては、独自の報酬システムが構築されてきた。例えば、学校や企業とのワークショップなどに見られる芸術の職業化は、アーティストの活動を支える重要な要素となっている。このような活動を通じて、アーティストは自身のスキルや知識を実践に応用し、新たな価値を創造している。一方で、小劇場界全体として「タコツボ化」が指摘されるように、美的・様式的な正統性に関しては公演制作集団の単位や周辺団体と共有するローカルな基準が主に採用されている。これにより、個人の経験を超えた「聖典・カノン」のような作品群や美的理論が空洞化している状況が確認される。このような中間的な価値基準が希薄な界においてアーティストが活動する領域について「ローカルな価値の空間」として概念化する予定である。 このように、彼らは必ずしも芸術界の中心ではなく、周辺の非芸術的な領域と多くの接点を持ちながら、アーティスト(集団)としての活動を維持している。本発表の中心となるのは、京都の小劇場演劇において「非芸術」的起源を持つ資源を取り込み、芸術作品を生産するアーティストたちの実践である。彼らの実践は「非芸術」の世界との接点を持ちながら、独自の経験や解釈を通じたローカルな価値の空間の構築を行うものである。 アーティストが非芸術をいかにまなざし、自身の活動のために利用しているのか。このようなフィールド独自の資源獲得を巡る実践を詳細に分析することを通じて、本発表は社会の中のアーティストを理解するための新たな視角を提供することを目指す。

報告番号270

「売れること」の困難——バンド活動の「プロ化」における時間的予見の剥奪を事例に
京都大学大学院 新山 大河

【目的】本報告はバンドマンが音楽活動を生業にする際の時間的見通しの立たなさから、クリエイティブ職業のキャリア形成における不安定性・予測不可能性に関する論理を明らかにする。先行研究はクリエイターが「やりがいの搾取」を受ける劣悪な就労環境と、クリエイターの主体性・自発性によってそれが受容される過程を明らかにしてきた。しかしその関心が短期的な就労の理解に留まっているため、作品制作が繰り返されていく不安定就労の継続(キャリア形成)過程については、重要な局面にもかかわらず看過されてきた。したがってクリエイターが作品制作を繰り返し、キャリアを形成していくことで「プロ」になる過程(professionalization)に着目する必要がある。 【方法】クリエイティブ職業の中心的存在とされる芸術分野のなかでも、就労環境が不安定であるポピュラー音楽に関わるバンドマンは、市場経済の影響や営利追求への要請を強く受け、とりわけ変化の激しい就労環境に置かれている。本研究では流動性の高い音楽市場において、大手音楽事務所やレコード会社に所属し、「プロ」として音楽活動に従事した経験のあるバンドマンへ半構造化インタビューをおこなった。 【結果】第一に、バンドマンが「プロ」としてキャリアを形成していくには、音楽プロダクションからの契約に関する打診(スカウト)を待たねばならない状況に置かれていることが確認された。またスカウトの待機はバンドが人気を博し音楽活動へ没入していくと同時に、商品価値としての「若さ」が日々目減りしていく焦燥のなかでおこなわれていた。第二に、スカウトの待機において、バンドマンはさまざまな生活上の困難に直面することが確認された。音楽プロダクションからのスカウトの待機に際して、バンドマンはさまざまな工夫をこらし副業(音楽活動以外)もしくは学業と、音楽活動の両立を図ろうとしていた。しかしバンドの稼働はメンバー個人の扱えるスケジュールの範疇を越え、両立は破綻を迎えていた。またそのような状況下において音楽活動を続けるためには、借金や連日連夜の危険運転など、社会生活に支障をきたした状態で音楽活動へ従事する必要があった。音楽プロダクションからのスカウトを待機する経験は、出口が見えず宙吊りになるなかで、さまざまな生活苦へ対処し続けることであるといえる。第三に、音楽プロダクションとの契約における時期・所属先の選択不可能性が確認された。音楽プロダクションと契約を交わすまで不確実な時間を過ごしてきたバンドマンは、時期・所属先といった契約に関する要望を妥協し、生活の再編を迫られたり決定権を放棄したりすることで、「プロ」としてのキャリアを形成していた。 【結論】本報告ではバンドマンのキャリア形成が、創作活動を生業とする「プロ」へ近づいていくにもかかわらず、それが時間的予見の剥奪による社会生活の破綻といった逆説のなかで経験されていたことが明らかになった。新自由主義が加速する現代社会では社会保障が希薄化し、とりわけ非正規就労が一般的である芸術家や建築家などのクリエイティブ職業は、労働者としての権利が毀損されやすいことが指摘されてきた。本報告は積極的に不安定就労の継続過程へも視野を広げて、クリエイティブ職業に従事する人々の就労の不安定性を検討する必要があることを示唆するものである。

報告番号271

家族総出の夢追い? ——バンドマンの家族関係と格差
秋田大学 野村 駿

【1.目的】  本報告の目的は、「音楽で成功する」といった夢を掲げて活動するロック系バンドのミュージシャン(以下、バンドマン)を事例に、夢追いにおける家族との関わりを類型的に把握し、アーティストと家族、そして格差に関する議論を展開することである。これまでにも文化・芸術領域を中心に、表現や創造を行うアーティストと家族との関係は問われてきた。例えば、夢を持てる/追える出身階層の高さや活動を支える家族の存在、あるいは活動を中断する契機としての家族などである。しかし、それらはいずれもアーティスト内の差異を十分に考慮してこなかった。そこで本報告では、夢を持てる/追えるという一つの「特権性」の先に、さらに夢を追い続ける中で生じる家族との関わりの差異を描き出し、そこにもう一つの「特権性」を捉えて、アーティストの活動が孕む格差の諸相を明らかにする。 【2.方法】  本報告では、報告者が2016年4月から実施しているバンドマンへのインタビュー調査のデータを用いる(20~32歳で計44名)。主たるフィールドは愛知県で、これまで150~250人収容の小規模ライブハウスを中心に、バンドマンの活動状況を観察するとともに、許可の得られた者に対し、原則個別にインタビュー調査を行ってきた。本報告ではこのうち、定位家族との関わりに関する語りを分析した。 【3.結果】  まず、バンドマンの夢追いに対する家族の態度は、「明確な賛成」と「明確な反対」を両極とするスペクトラムとして把握できた。つまり、家族がライブイベントに参加するなど明示的な応援を取り付けているバンドマンがいる一方で、夢追いを否定され、バンド活動からの離脱を促される状況にある者たちがいた。他方で、その間には、「時に賛成、時に反対」と家族の反応が一貫しないタイプや、我が子の自由に任せるなどして明確な反応がない場合もあった。  バンドマンたちは、こうした家族との相互作用の中で異なった対応を見せるものの、いずれもある一つの帰結を導いていた。つまり、「明確な賛成」のもと家族のさまざまな資源を夢追いに動員して活動へのさらなる動機を得ている者がいるとすれば、時に「勘当」も辞さないほどに、「明確な反対」をする家族との関係が悪化してもなお家族を見返すべく活動を続けたり、一貫した/明確な反応がない中でそれでも「家族は応援してくれているはずだ」と意味づけて精力的に活動を展開したりする者がいる。いずれも夢を持ち、それを追い求めることができるという点で、一定の階層的背景を有するが、その後の夢を追い続ける中にあっては、家族との関係を起点としたさらなる格差が確認できるのである。 【4.結論】  たしかに、夢を持てる/追えるかどうかの不平等の意味は大きい。そもそもアーティストの道に進めない若者がいる。しかし、本報告で見出されたのは、その先においても家族との関係性がバンド活動の取り組みを左右して、さらなる分化をもたらしうる側面であった。かれらの活動状況は、決して一様ではないのである。アーティストの活動をめぐっては、文化社会学を中心に、その諸相が捉えられつつある。しかし、その内部の差異については、別の観点を挿入することが有効だろう。今後の研究は、さまざまな観点を取り入れて、アーティストの活動やかれらの置かれた状況における分化や分断を捉えていくことが必要であると考える。

報告番号272

女性現代美術作家におけるキャリアの継続困難性——育児との両立に着目して
公益財団法人かすがい市民文化財団 浅井 南

1 目的 本報告の目的は、育児に起因する女性現代美術作家のキャリアの継続困難性について、報告者が関わった美術ワークショップの事例を紹介しながら考察することである。報告者はこれまでに、若手現代美術作家がキャリアを継続させるために主体的かつ戦略的に自らを不安定な立場に置くことを、「戦略的不安定化」と概念化して説明してきた(浅井 2022)。本報告では、キャリアを継続させようとする女性作家がどのような戦略のもとに育児と作家活動の両立を図っているのかを検討し、子どもをもつ女性作家が直面するキャリアの継続困難性について明らかにする。 2 方法 本報告では、ワークショップ講師を務めた女性作家のインタビューデータを主に用いる。なお、ワークショップは2022年と2023年に同じ内容でそれぞれ1日ずつ行い、作家へのインタビュー調査は2023年12月に行った。また、報告者はワークショップを主催した文化施設で学芸員として勤務しており、ワークショップで制作する作品の試作段階から当日の運営に至るまで、全体的に関わりながら参与観察も行った。 3 結果 現時点で得られている知見は、次のとおりである。 第一に、ワークショップの準備期間や本番当日のスケジュールを確保するために、作家は自分の都合だけではなく家族のスケジュールも細かく調整し、仕事をする時間を捻出していた。第二に、作家は家族に仕事の価値を理解してもらい、協力を得るための説明として、仕事内容に見合った収入が得られるかどうかを重視していた。第三に、子どもも含めて家族全員の体調管理に細心の注意を払うなど、子どもを確実に預けられる環境を整えたうえで仕事に集中できるよう努めていた。 4 結論 子どもをもつ女性作家は、作家活動に必要な資源の獲得と育児の見通しを同時に立てなければならない状況に置かれており、それがキャリアの継続困難性につながっているということが示唆された。育児の見通しを立てるということは、家族と予定をすり合わせる必要があり、作家として不安定な立場を引き受ける戦略の取り方とは馴染まない。つまり、育児をしながらキャリアを継続させようとする際には、「戦略的不安定化」は戦略として成立せず、それまでとは別の戦略を立てる必要に迫られる。 本報告で示した事例のように、獲得できた資源の範囲内で仕事を選択することも、キャリアを継続させるための戦略の一つと考えられよう。それゆえ、育児と作家活動の両立を目指すなかでキャリアの継続困難性に直面することは、個人的な選択の結果として自己責任のように捉えられがちである。しかし、その背景には美術業界の構造として助成や支援の制度が新人作家の発掘に偏っていることや、フリーランスであるが故に産休・育休制度がなく活動休止や復帰がしづらいという社会的背景が指摘できる。

報告番号273

中国人の芸術移民を考える——日本で芸術活動をする中国人コミュニティへの調査を事例に
埼玉大学 陳 海茵

【目的】 本研究は、日本で芸術にかかわる活動をおこなう中国出身の新世代移民を対象に、その移住プロセス、日本での社会生活、芸術活動、経済活動において抱える諸問題を明らかにし、それに対する対象者自身の理解の仕方や対処方法を考察する。 1980年代から、中国人芸術家や芸術関係者のなかには、表現の自由と民主主義を追い求めて日本や欧米諸国に拠点を移し、世界的に著名になったアーティストも多い。 芸術活動に関わる一定のキャリアと収入を証明して「アーティスト活動ビザ」を取得した、いわゆる「プロフェッショナル」のほかにも、近年では、「経営管理ビザ」を取得して日本でギャラリーを創業する者や、留学生や中国人家庭の子どもを対象とした芸術教育に従事する者、収入を伴わない芸術活動に与えられる「文化活動ビザ」で短期的に日本に居住する者など、多様な目的と方法を通じて日本で生活し、芸術とかかわっている。 芸術家の海外移住に関する研究には、藤田(2008)や高橋(2018、2019)がある。先行研究では、芸術家たちが画一的な成功/失敗の図式にとらわれず、複数のキャリアや多様な「プロ」の在り方の可能性を前提にしながら、海外生活と芸術活動を両立させていることが指摘された。先行研究の知見を踏まえ、本研究では日本移住を目指す目的、手段、情報が複雑化・多様化した時代に、国境を超えて芸術に携わる中国人のネットワークに焦点を当てていく。 【方法】 本報告では、SNSで自身の芸術活動や日本移住について発信している中国国籍の芸術従事者にコンタクトを取り、そこから更にスノーボール式にインフォーマントを募った。日本で芸術関連の職業に就く中国人インフォーマント10人程度(現時点)に聞き取り調査をした。基本属性のほか、質問項目は主に、1)移住の経緯とプロセス、2)SNSをはじめとするメディア利用の特徴、3)来日前と来日後のギャップ、4)今と将来の芸術活動に対する考えなどである。 【結果】 芸術に関わる分野で日本へ移住する中国人のうち、留学ビザを取得して日本の美術大学や音楽大学、専門学校を卒業し、そのまま日本に継続して滞在することを目指すパターンが多かった。インフォーマントの一人は、日本に残る理由として、ポジティブな意味での「人間関係の希薄さ」を挙げた。芸術の仕事で安定した収入を得にくく、中国に帰国すると親族や友人から画一的な成功/失敗の物差し(結婚、就職、出産を含む)に直面することが、当人を日本滞在の選択に向かわせた。また、「人間関係の希薄さ」を補う方法として、中国版のSNSを活用し、日本での生活や活動(たとえば「〇〇公募展に参加」、「日本のギャラリーで個展を開催」、「〇〇美術大学院&奨学金に合格」など)を発信し、コメント欄やDMを通じて幅広い情報交換と人間関係構築のきっかけを作り出している。 【結論】 本研究は、萌芽的段階のものであり、今後はさらにインフォーマントを増やして調査を継続していく必要があると考える。本研究では日本に着目して分析したが、他国と比較して日本を選択する理由などをさらに考察する必要がある。また、近年は中国の移民専門エージェント会社を経由するケースが増加しており、来日前と来日後のギャップを生み出す要因にもなっている。アートワールドの多様なアクターに着目した議論に展開していきたい。

報告番号274

1940~50年代生まれの中国女性のライフヒストリー ——社会主義的近代化推進期における女性の社会参与について
名古屋大学 坂部 晶子

本研究は、中国における社会主義的近代化の時期(1950年代~1970年代)から改革開放期以降の転形期(1980年代~)への転換の時期およびそれ以前に焦点をあてる。新中国以降上からのトップダウンで進行していた、中国女性の労働への参加プロセスを再構成することで、社会における公共性と私的領域の自律性の連関を解明することを試みる。中国における市民的公共性は、国家の枠組みに包摂されたかたちでの人びとの主体的活動という側面をもっているが、このような中国社会の状況を準備したのは、社会主義政策の実施された1950年代から70年代にかけての人びとの動員と社会編成に関連していると想定されるためである。  中国における家族とジェンダーにかかわる領域を分析する先行研究として、アジア各国の家族を比較検討した落合恵美子らの近代家族論がある。そこでの分析を見ると、近代化によって誕生した近代家族の特徴である、核家族化や子ども中心主義、情緒的な結合といった要素は共通しつつも、欧米や日本などの近代家族とは一部異なる様相がみられることがわかる。とくに大きいのが、男性は公共領域、女性は私的領域というかたちでの性別役割分業が進展するというのが、落合らの近代家族論の要諦であったが、中国ではこの男女の役割分業と女性の社会的領域からの排除という事態は、あまり当てはまらないと考えられる。中国建国初期の社会主義時代において、政策的に男女双方の労働への参与が推奨され、社会あるいは国家への貢献が期待されていたからである。  先行研究などからこれらの時代背景を概観すると、近代初期に工場労働などの雇用というかたちでの労働が増加し、家や家族が生産単位でなくなり、職住分離が一般化する。そこで生じるのが公私の分離である。資本主義社会では家内領域と公共領域の分離に伴い、再生産労働の無償の担い手として主婦が生み出されたが、社会主義的近代においては公共食堂や託児所などのかたちで再生産領域の社会化も進められた。これは必ずしも成功裡に進行しておらず、またすべての再生産をカバーできたわけでもないが、特徴的なのは、公私分離とはいっても公的領域の比重の高さがあった。  本研究では、1950~70年代における中国の社会主義的近代化推進期を、上述のような時代背景として想定したうえで、そこのなかで実際に自らの人生を生きた女性たちの社会参加や仕事および家族への意識などについての聞きとり調査を試みている。(変革期の)中国女性の仕事や家族へのかかわりや位置づけの仕方を再構成することで、中国社会における公共領域と私的領域の関係性について分析するための端緒としておきたい。

報告番号275

コロナ禍のライフスタイル移住——日本から韓国への移動を事例に
立命館大学大学院 今里 基

1 目的  ライフスタイル移住とはライフスタイルの転換を目指して異なる文化圏や田園などへ移動する形態を指す(長友 2013)。しかし、2020年のCOVID-19(以下コロナとする)によって世界的に厳格な移動制限が行われた結果、生活の質の向上や新しい生き方を求めるといった、いわば「不要不急」の移動は当然のごとく、避けるべきものとなった。ところがコロナ禍において、韓国政府は大幅な制限や隔離を行いつつも、新たな留学生を受け入れ続けた。この結果、人口統計を見る限り、コロナ禍に2021年から2022年にかけて、韓国の日本人の留学生は過去最高の数となった。このように厳格な入国/移動の制限がありながらも、韓国へ留学/移動を希望する日本人がいたこと、あるいはしなかったことは事実である。本報告は、コロナ禍の2020年から2022年にかけて韓国に移動をした人々のライフストーリーに関するインタビューから、なぜこの時期に移動する決断をしたのか。あるいはしなかったのか。岸政彦(2016)がいう一見不合理な行為選択の背景にある合理性やもっともな理由を意味する「他者の合理性」から、彼/彼女らのこの時期に移動することに対する行為について、語りから分析を行う。 2 方法  本報告ではコロナの時期に移動を検討し、厳格な入国制限開始直前に留学を開始した者も含め実際に移動した3名、しない決断をした1名に対するインタビューの語りを分析に用いる。 3 結果  インタビュー協力者は、コロナ前からなんらかの形で韓国や韓流コンテンツに関心を持っていた。しかし、いずれもコロナが契機となって行く、行かないの判断をすると語る。例えば、ある男性はコロナ中に募集されていた韓国での日本人の求人について、「今がチャンス」だと感じ、応募したり、航空関連の仕事をしていた女性は、仕事の環境が大きく変化した中で「今こそキャリアアップさせたい」と思い、留学に関しては制限をしていなかった韓国への決断を果たした。逆に韓国の大学への留学の準備をしていた女性は、既に専門学校で韓国語の短期留学を果たしていたが、短期留学で韓国への関心そのものは冷めてしまい、「海外の大学卒業」という資格を得るという戦略の下、準備を進めていた。しかし、コロナが長期化する中で、あっさりと日本の大学への編入へ切り替えた。 4 結論 これらの事例はコロナ禍当時を顧みれば、多くの人は「今行かなくてもいいのでは」あるいは「適切な判断だった」と考える行為である。しかし、今回の協力者は「普通」の時期だったら、おそらく就職や留学に対する判断はまだ先であったかもしれないし、あるいは今頃韓国でキャンパスライフを送っていたかもしれない。しかし、彼/彼女らはコロナだからこそチャンスととらえ、「合理的」に判断をし、韓国へ移動した。本研究は移民研究において、移動が可能だった国へのプル要因の事例を社会学的に考察したものとして意義があると考える。 【参考文献】 岸政彦(2016)「質的調査とは何か」『質的社会調査の方法―他者の合理性の理解社会学―』岸政彦・石岡丈昇・丸山里美著、pp.1-36有斐閣

報告番号276

ロシアのウクライナ侵攻と日露家族
大阪経済法科大学 武田 里子

1. 目的: 日本には9,952名のロシア国籍者が居住している(2022年末)。在留資格「日本人配偶者等」(1,047人)と「永住者」(4,321人)から日露家族は4千前後と推計される。日露家族に日本で子どもが生まれ、駐日ロシア大使館に出生届を提出すると、子どもの日本国籍は喪失する。この運用は2つの国籍確認訴訟で原告が敗訴したことにより確定した。ひとつは2017年最高裁判決(対象は2002年ロシア国籍法、以下「1次訴訟」)、もうひとつは2022年東京高裁判決(対象は1992年ロシア国籍法、以下「2次訴訟」)である。日本政府がその行為を「自己の志望による外国籍取得」(国籍法11条1項)とみなすためである。こうした状況下で2022年2月ロシアによるウクライナ侵攻が始まった。本報告の目的は、ロシアのウクライナ侵攻が日露家族にどのような影響を与えているのか、そして日本社会にはどのような対応が求められているのかを考察することである。 2. 方法 2023年8月、2つのFacebook (Russian-speaking Community in Japan/yaponomama)に協力を呼びかけ、「日本国籍とロシア国籍のカップルで子どものいる人」を対象にウェブアンケートを実施した。本報告では、寄せられた回答37件と条件に該当しないロシア人から寄せられた情報、ならびに関係者からの聞き取り、2つの国籍確認訴訟の資料をもとに日露家族の問題状況を分析した。 3. 結果: 日本生れの子どものなかには、ロシア大使館に出生届を提出し日本国籍を喪失していても、日本旅券を保持している者もいる。そうした子どもとウクライナ滞在中に侵攻が始まり、慌ててロシア国籍を離脱したり、兵役の不安からロシア国籍を離脱した者もいる。ロシア単一国籍である者が、その国籍を離脱してしまえば法的には無国籍になる。本調査から確認できたことは次の4点である。第1に当事者も問題状況の把握が十分ではないこと。第2に1次訴訟以降はロシア国籍の取得を断念している家族が多いこと。第3に子どもが日本国籍を喪失していると分かっていても、法的身分の正規化に踏み出せない家族が相当数いること。第4に2次訴訟の認知度が低いため、2002年以前に生まれた子どもは日露の重国籍を維持できていると誤解している可能性が高いこと。90年代生れはすでに20代後半に達している。そうした人びと(日本国籍喪失者)が外国籍者と結婚し子どもがいる場合、その子どもは日本国籍を取得していなかったことになる。対処が遅れれば遅れるほど問題は世代を超えて複雑化していく。本調査を通じて問題のフェーズが変化していることが確認できた。 4. 結論: 今後も外国法の変更により日露家族と同様の問題が国際家族に生じる可能性がある。この問題に対処する論点は、第1に法定代理人(親)の代理行為に子どもの国籍を喪失させる行為が含まれるのかという問題。第2に外国政府が国外で生まれた子どもの存在を認知するための条文の書きぶりによって、日本政府がその国籍を生来取得か後発的取得かを判断している問題。第3に子どもの権利条約の批准国として現行の運用が許されるのかという問題である。以上から、国籍法11条1項問題は当事者の「法の不知」に留めることなく、日本社会の今後のあり方として議論すべき課題であることを提起したい。

報告番号277

タイの無国籍アカ・ストリートチルドレンによる生活実践と生き延び戦略——チェンマイ市の事例から
関西学院大学大学院 長谷川 愛

【1.目的】 本研究報告では、タイ社会において、マジョリティであるタイ国籍を有すタイ人のストリートチルドレンとは違う背景を持つ、無国籍のアカ族ストリートチルドレンに焦点を当てる。彼らはミャンマーから越境あるいはタイ国内の山岳から移動して、北部の地方都市チェンマイ市のスラムに移住した。タイ国法律上、タイ国内でも県境を越境する自由さえ制限される山地民の彼らは、国境の安全保障を脅かす者および不法移動・不法労働者と見なされてきた周縁者であり、ストリートでの物乞いや花売りにより生計を立てる都市最下層、かつ子どもという社会的弱者と位置づけられる。このような周縁化された存在としてタイ社会で30年暮らしてきた彼らは、日々の暮らしや自身の国籍問題などにどのように向き合い乗り越えようとしてきたのだろうか。本研究報告の目的は、無国籍のアカ族ストリートチルドレンが、タイ社会の変容と共に彼らも成長していく中で、タイ人ストリートチルドレンにはない国籍問題という縛りのある彼ら独自の生活実践と生き延び戦略を、明らかにするものである。 【2.方法】 本報告の研究方法は、90年代後期から発表者が現地NGOにてボランティア活動および修士時代の研究を通じて出会った当時3歳~10代のアカ族ストリートチルドレンを対象に、彼らの「語り」の分析、および参与観察を通じて分析を行う。出会った当時は3歳~10歳前半の彼らへの参与観察と聞き取り調査に始まり、現在30~40代になり、就労・結婚し家庭を持つ彼らへの追跡調査もおこない、現在の彼ら自身が人生を振り返る「語り」も含め、課題を乗り越えようと様々な実践を行い語る数名の事例から考察を行う。 【3.結果】 彼等は幼少の頃から、麻薬の密売・常習者である親の育児放棄や生活手段として扱われていくうちに、未就学のまま花売りや物乞い或いは売春で現金を得て、人身取引や暴力または性的虐待が日常化した生活世界に身を置く。そのようなアンダーグラウンドな生活実践を送るなかでも、衣食住を得るために子どもなりの工夫や処世術を編み出していく。その後NGOの支援を受けて学校教育を得て、現在30~40代になり家庭を築き親になった彼らは、タイ社会に根をはり安定した暮らしを送るために、新しいステージの生き延び戦略を展開している。時に、NGOにサポートを求め、地域の人間関係や職場で出会ったネットワークを駆使し、過去のNGO施設育ちの経験を活かし、ある者は大学進学という選択を行い、その時々の時代や状況に応じて機会を活用していく生き方が認められた。 【4.結論】 チェンマイ市には、90年代からタイ人ストリートユース、およびアカ族ストリートチルドレンが現れた。一括して彼ら2つのグループをストリートチルドレン問題/現象として説明するには、かなり特徴や生活世界にも違いがあるため、同様に論じることはできない。今回の報告で焦点を当てるアカ族ストリートチルドレンは、幼少の頃から過酷な生活実践と、創造的な生き延び戦略とが融合された生活世界を生きてきたことが分かった。その融合性を見ることで、現在の彼ら自身の生き方への深い理解が可能となる。 以上

報告番号278

右派ポピュリズム政党支持をめぐる独自の文化——スペイン・ボックス支持者のエスノグラフィ
東京大学大学院 池北 眞帆

【目的】右派ポピュリズム政党の支持者がどのようなきっかけで、なぜ、日々何を考え、感じながら生活し、政党を支持しているのか。そのような研究上の関心に応えるため、エスノグラフィックな研究方法が有効であることは、社会学の分野においても主張されてきた。Hochschild(2016)は、米国のティーパーティ(Tea Part)支持者6名それぞれの「あたかもそのように感じられる」ストーリーを「ディープ・ストーリー(deep story)」として掘り下げた作品である。同作品は、右派ポピュリズムを下支えする人々を対象にしたエスノグラフィの代表作であると言えよう。本報告は、2013年末に設立し、2018年ごろから台頭し始めたスペインの右派ポピュリズム政党「ボックス(VOX)」支持者を研究対象としたエスノグラフィである。報告の目的は、支持者を対象にしたエスノグラフィを書くことを通じて、政党支持をめぐる意味世界について論じることである。報告では、支持者の意味世界に接近するために、具体的に以下の二つの課題を設定した。それらは、(1)各個人が支持者になる過程を注視し、そこから彼らの意味世界を論じること。(2)支持をめぐる生活実践のありようを論じることの二つである。このような研究をおこなう理由は、スペインの右派ポピュリズムをめぐる研究において、支持者のリアリティと向き合う必要があると考えるからである。国内外の学術雑誌を見れば、供給側(政党・政治家側)の言説分析、需要側(有権者)の投票行動の計量分析などが重要な研究課題であることがわかるが、既存の研究からは、人びとが求めている「本音」は見えてこない。 【方法】データは、2023年4月から8月までの期間、スペイン北部の地方都市(レオン市)において発表者が行った、支持者へのライフストーリーの聞き取りとり及び、参与観察を主に使用した。それらもとに、支持者がいかにしてボックス支持をめぐる意味世界を築いているのか、分析と考察を行った。 【結果・結論】調査の結果、研究対象とした支持者は、各自がボックス支持者として独自の文化を形成していることが明らかになった。「文化」といっても、「ボックスの支持文化」と固定的にとらえられるものではない。それは、各支持者が、各自が歩む人生の中で作り上げてきた価値観を反映したものである。そして、周囲との相互作用の中で、日々、周囲の文化を借用したり拒絶したり(モース 2018)ながら、自己の定義、再定義を繰り返して各支持者が作り上げていく、政党支持をめぐる独自の文化である。 【引用文献】Hochschild, Arlie Russell, 2016, Strangers in their Own Land: Anger and Mourning on the American Right, New York: The New Press.(布施由紀子訳, 2018, 『壁の向こうの住人たち――アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』岩波書店.) モース, マルセル, 2018, 森山工訳『国民論他二篇』岩波文庫.

報告番号279

Cross-country analysis of the relationship between anti-capitalist attitudes and participation in environmental movements: 1990-2022
Chung-Ang University 鄭 茶英

This study examines how the growth of anti-capitalist attitudes in environmental discourse have been related to the individual’s participation in environmental movements. Environmental movements have not only quantitatively expanded but also qualitatively diversified. Starting from nature conservation, which has a relatively indistinct ideological bent, the movement has grown to encompass both moderate approaches seeking solutions within system and radical currents demanding reflection and changes in capitalism. While environmental movements increasingly engage in policy-making processes and explore market mechanisms for resolving environmental issues, voices criticizing the limitations of green-capitalism and market-based solutions have also gained strength. This study arises from an understanding that existing empirical research on individuals participating in environmental movements does not fully encompass the growing diversity of the movements and its participants. This study aims to analyze participation in environmental movements beyond traditionally studied socioeconomic or demographic attributes and post-materialist attitudes, focusing on anti-capitalist attitude that is notable, but have not empirically studied, within various currents of environmental activism. Given that the growth of anti-capitalist ideologies has evolved in a different context from post-materialism, which is premised on capitalistic accumulation, it is expected that anti-capitalist attitudes may provide an additional explanation for participation in environmental movements. This study explores how anti-capitalist attitudes relate to the participation in environmental movements, how this relationship has evolved over time, and whether anti-capitalist attitudes emerge as a substitute for or coexist complementarily with post-materialist attitudes. This study uses data from the World Value Survey. Using all waves with the core variables, from Wave 2 to the most recent Wave 7, it analyzes data for nearly 30-year period from 1990 to 2022. As the dependent variables “membership in an environmental organization” and “experience participating in environmental protest” are both binary variables, this study uses logistic regression. This study includes weights and VCE in the statistical model to minimize cross-country bias, to improve representativeness, and to compensate for cross-country heterogeneity for more accurate estimates. The results show that the relationship between anti-capitalist attitudes and environmental activism participation is relatively recent. In Wave 7(2017-2020), anti-capitalist attitudes statistically significantly increased the odds of being a member of an environmental organization. In Wave 6(2010-2014), anti-capitalist attitudes were not significantly associated with membership in an environmental organization, but significantly increased the odds of having participated in environmental protests, a more individual and direct collective action. Furthermore, this relationship does not appear to be a substitute for post-materialist attitudes, but rather coexists alongside them. Given the increasing reflection on system itself within today’s environmental movement landscape, an empirical analysis of the relationship between anti-capitalist attitudes and participation in environmental movements can contribute to a more comprehensive and multidimensional understanding of individuals’ engagement in environmental activism. With longitudinal analysis of the impact of anti-capitalist attitudes over time, this study tries to identify trends and assess long-term effects. Practically, recognizing the diversification of participants in environmental movements can help to shape mobilization strategies, understand various social backgrounds and motivations, and explore possibilities for solidarity with other social movements.

報告番号280

1966年のひのえうま出生減の要因
大阪大学 吉川 徹

1966(昭和41)年は、十干十二支のひのえうま(丙午)にあたっていた。江戸期以来、60年周期で廻ってくるこの年に生れた女性については、婚姻にかかわる迷信が存在している。その影響を受けて、1966年の妊娠が回避され、出生数が著しく減少した。 この年の出生数は1,360,974人で、人口統計をとりはじめた明治以来最低となり、前年比で約463千人減、比率にすると4分の3以下に落ち込んだ。しかし翌年の出生数は約575千人増と回復し、人口ピラミッドに1年だけの切り欠きを残すことになった。 本研究では、この1966年のひのえうま出生減について、その特性を資料から精緻に調べた。その結果、従来注目されてこなかった以下の特徴が見出された。 〇 昭和のひのえうまの切り欠きの深さは、前後の年に25万人の赤ちゃんが振り分けられたことにより「水増し」されていた。 〇 ひのえうま出産を避けるために、結婚のタイミングがずらされることはなかった。 〇 人工妊娠中絶や死産がこの年だけ増えた事実はない。 〇 親の社会階層や年齢には、この年に限った特別な傾向はみられない。 〇 この年の第一子比率は、史上最も高い。 〇 翌年の早生まれがたいへん多い。 〇 過去のひのえうまとは異なり、女子の出生数は少なくない。 〇 ひのえうまの人口減は、地域差をもちつつも日本全国で生じていた。 〇 新生児中に第一子割合が高い地域ほど、出生減が顕著であった。 これらの事実を踏まえ、いかなる要因によってこの年の人口減が生じたのかを、文化論的視座から検討した。この言説が全国的に流布した経緯については、新聞、雑誌記事から、過熱ぎみのメディア報道により、この年がひのえうまにあたることが、国民的に知られていたことが明らかになった。さらに寿命の延びのため、明治のひのえうま女性が昭和初年に被った厄難を知る旧世代が多く生存していたことも、出産回避の要因となっていることが示唆された。 さらに、いかなる手段を用いてこの1年に限って出生が抑制されたのかについて、その方法と普及状況を検討した。その結果、周産期保健制度と届出制度がこの時期に整えられたため、出生年月日の操作を行うことはほぼできなかったことと、出生抑制の主たる手段は、政策として推進されていた受胎調節(避妊)であったこと、そしてその普及に受胎調節実地指導が力を発揮していたことが明らかになった。 これらを総合し、ひのえうま出生減のその背景にある社会学的構造を分析する。昭和のひのえうまの背景には、近代大衆社会におけるメディア報道による情報拡散がある。そのうえで、台頭していたリプロダクティブ・ヘルス・ライツを擁護する活動と、全く正反対の家父長制的イデオロギーへの従属が、意図せざる形で連携したことにより、この年の出産回避が想定外に拡大したことが結論付けられる。 最後にこのことが、2年後の2026年に迫った令和のひのえうまにどのような示唆をもつのかを議論する。

報告番号281

人びとは地域の歴史にどのように関わって来たのか——滋賀県における郷土史団体の歴史と現状
東京国際大学 高田 知和

報告者は、これまで数年間にわたって、「地域の歴史は、誰がどのように書いてきたのか」をテーマに考えてきた。そこでは、地域社会の歴史を書いてきた者としてまず歴史学の専門家を取り上げ、主に彼らの手になる自治体史を批判的に検討した。次に、専門家でも何でもない普通の地域住民たちが自地域の歴史をまとめることも多々あり、それらは字誌とか大字誌などと呼ばれるので、そうした地域史誌について検討してきた。 しかしこれらの一方で、周知のように、その地域に居住するいわゆる郷土史家が全国にはおびただしくいて地域の歴史を書いてきたし、彼らが中心になってつくった郷土史団体も、地域の歴史に常に深く関わって来た。だが近年、郷土史家たちは減少し、郷土史団体も会員が減少かつ高齢化し、活動は沈滞を余儀なくされていると言われている。とはいえ、これまで歴史学分野では、そこに専門家としての歴史学がどのように協働できるかという点への論考は少なくなかったが、郷土史団体そのものについてはあまり論じられてこなかった(後述の如く郷土史家を語ることと郷土史団体を論じることとは必ずしも同一ではない)。【目的】そこで本報告では、社会集団を研究対象にしてきた社会学の特性を生かしながら、このような郷土史家や郷土史団体を取り上げ、特に後者の経緯と現状について考えていきたい。【方法】具体的には滋賀県内の郷土史団体を取り上げる。この団体では会報を出すことで会誌代わりにしているので、1959年に設立されて以来の会報を主な資料として、今日に至るまでの会の変化とその意味を明らかにする。【結果】設立されてから今日まで65年以上を経るなかで、会の性格は大きく変わった。当初は突出した郷土史家が中心になって郷土の歴史研究と文化財保護の主張が主であったが、やがてまちづくり・地域づくりの要素が入ってきて、今日では行政の文化財担当課と連絡を取り合いながら生涯学習的な活動を行うようになっている。【結論】一般に地域の歴史文化の一端をこれまで担って来た郷土史団体は、滋賀県においても、会員の高齢化などのため活動が停滞したり休会状態に陥っているものが見られる一方で、本報告で見てきた団体は一定の会員数を保持している。だが、今日ではそもそも地域の歴史への関わり方が非常に多様化している。それは、一般の人びとが地域の歴史に関わるための回路が行政によっても他の団体によっても多数準備されていることや、情報入手の容易化もあって個人で活動して個人で地域の歴史を発信していく人が増えているためである。また、郷土史団体には自分で研究を深めたい郷土史家的な人がいる一方で、地域の歴史に触れている程度で満足という大勢の会員がいる。本報告で対象としてきた郷土史団体が変化してきたのも、そうした広範な会員の希望を満たしていくためであった。郷土史団体にも色々あるが、長く活動し続けるための方策の一つが、本報告で明らかにして来た団体に見て取れるといえるだろう。 〔参考文献〕高田知和「自治体史の社会学―地域の歴史を書く・読む・見る―」(『年報社会学論集』第22号、2009)、同「地域で地域の歴史を書く―大字誌論の試み―」(野上元・小林多寿子編著『歴史と向きあう社会学―資料・表象・経験―』ミネルヴァ書房、2015)、同「地域史と住民―肯定的な記録としての地域史誌―」(『都市問題』第113巻第4号、2022)

報告番号282

「本人、酒のみ素行悪し」——『失業対策事業就労者調査』(1955年)における貧困化の過程の描き方
筑波大学 森 直人

【1.目的】 本研究は、調査の実施から個票の産出に至るまでの過程を追尾できる貧困調査の資料を題材に、調査者が対象者とのやりとりを通じて、どのようなカテゴリーやその運用方法のもとで貧困化に至る人生の軌跡を理解可能なものとして描き出すのか、その一連の活動の連鎖のなかにみられる表現形式の使用法に注目した分析を行う。貧困調査は、社会問題としての貧困への対策・支援の根拠を提供する。貧困は、その対象の同定と分類に規範的判断や道徳的評価がからむため、調査の実施プロセスにおいても、ある対象者がなぜ・どのようにして貧困に陥ったのかという過程を説明する実践が、規範的・道徳的な妥当性・正当性を帯びるよう志向しつつ組織化される必要がある。本研究はこの組織化の手続きと道徳的志向との関連を明らかにする。 【2.方法】 東京大学社会科学研究所社会調査部門が1955年に実施した『失業対策事業就労者の職業歴・生活歴調査』の個票を検討対象とする。東京都飯田橋の公共職業安定所に登録された日雇労働者のうち失業対策事業適格者を対象に、「調査手引」および「調査票」にもとづき職業歴・家族歴・住居歴を中心に生活歴を聞き取った記録が「ケース・レコード」と「ケース・レコード整理票」として収録されている。 本報告はそのなかの「事例129」に焦点をあてる。事例129は、聞き取り終了直後には調査者に「非常に実直の人」と思われていたが、その妻に会って話を聞いてみると、「毎日の出面は妻に渡さず」「飲酒」「素行」「借金」の点で「疑点が多い」と認識を改められたケースである。こうした事情のもとでなされた事例129のケース・レコードおよび同整理票の記述と、他の事例のそれとの比較をとおして、貧困化過程の記述・説明実践にみられる道徳的性格を明らかにする。 【3.結果】 ケース・レコードは、調査者-対象者-ノート整理者という異なる相互行為上の課題に直面した複数の参与者による作業の連鎖によって産出されたテクストであり、「形式的に標準化された_生活史」として読むことができる。「生活史」として読むことができるのは、それが、①時系列に整序された出来事からなる〈歴〉、②出来事の理由・動機・経緯にあたる〈契機〉、③出来事をめぐる〈挿話〉の3つの要素からなることによる。②は道徳的帰責の焦点となりえ、そうであるがゆえに真偽をめぐる「疑点」ともなりえる。 同時に、ケース・レコードが「形式的に標準化された」ものとして読めるのは、それが調査者によって語る/聞き取る事項を指定することで作成された「調書」であることによる。「標準化」は複数の事例相互の比較可能性をもたらす。調査の意図が「貧困化の要因=理由」の析出にあるとしても、対象者による個々の〈契機〉の語りに(目的)動機の要素が入り込むこと、さらに、それらの連鎖として記述される「生活史」に個々の〈契機〉を超えた一貫性を見出しうることが、対象者の超状況的な「人格」性の理解可能性をもたらす。この条件のもとで、異なる事例の「人格」を比較対照する視線が構成されることになる。 【4.結論】 貧困化の過程の記述が、本人に帰責できない要因=理由によることを明らかする意図のもとにあっても、それが標準化による比較可能性を志向し、他方で対象者の語りが道徳的志向を帯びるもとでは、その記述は対象者に帰責される人格性への道徳的評価となりえる。

報告番号283

近代日本における住まい/手づくり/ジェンダー——木檜恕一の家庭工作論を通して
目白大学 溝尻 真也

【1.目的・背景】 本研究は木檜恕一が提唱した家庭工作の検討を通して、戦前の日本で住まいの維持・補修がどのように語られ、またその担い手として誰が想定されていたかを明らかにするものである。木檜恕一(1881-1943)は大正~昭和初期に活躍した家具デザイナーであり、欧米の椅子式生活を普及啓蒙した人物としても知られている。また1922年に創設された東京高等工芸学校(現千葉大学工学部)教授として木工技術者の養成に努めた教育者であり、さらに国民生活の合理化を目的とした半官半民組織である生活改善同盟会の一員としても活動した。この木檜恕一が、生活を合理化するために身につけるべき素養として提唱したのが、住まい手が自身で家の維持・補修や日用品の製作を行なう家庭工作と呼ばれる営みであった。 【2.方法】 本研究では木檜恕一の自伝『私の工藝生活抄誌』や、彼が立ち上げた学術団体である木材工藝学会の学会誌等に掲載された木檜の著作の中から家庭工作に関連する記述を収集・分析し、そこにどのような思想が含みこまれていたかを明らかにした。 【3.結果】 1921~23年にかけて欧米に留学した木檜は、現地の人びとの生活様式に衝撃を受けるとともに、住まい手が自身で家の維持・補修や日用品の製作を行なっている姿に感銘を受け、これを家庭工作と呼んで日本での普及を企図するようになる。帰国後、木檜は自身の著作やラジオ放送、学校教育・社会教育などを通して家庭工作の意義と方法を説いた。彼が呼びかけた対象は、住まいの維持・管理役を担うべき良妻賢母として位置づけられていた女性たちであった。彼女らに向けて、木檜は生活を「科学化」すると同時に「芸術化」することで生活改善が実現すると語り、その手段として自ら住まいを観察し自身で必要なものを手づくりする家庭工作の重要性を主張した。 【4.結論】 木檜恕一が提唱した家庭工作は、その後さまざまな場面で展開されるようになる。特に家政教育の場において家庭工作の重要性が強調されたこともあり、家庭工作は女性が担うべき行為として位置づけられ、戦後の家庭科教育のカリキュラムの中にも組み入れられた。こうした変遷からは、戦前~戦後の日本において、住まいの維持・補修を誰がどのように担うべきかをめぐる思想の系譜を見て取ることができるだろう。一方、高度経済成長期以降になると、家庭工作は日曜大工とも呼ばれるようになり、急速に男性の趣味として位置づけられるようになっていく。この1950年代以降に起きた変化については、今後の課題としたい。 【主要参考文献】 本多真隆,2023,『「家庭」の誕生―理想と現実の歴史を追う』筑摩書房.  柏木博,1995=2015,『家事の政治学』岩波書店.  木檜恕一,1942,『私の工藝生活抄誌』木檜先生還暦祝賀實行會.  小山静子,1999,『家庭の生成と女性の国民化』勁草書房.  溝尻真也,2023,「家庭工作から日曜大工へ―日本におけるHome Improvementイメージの変遷」『生活学論叢』42,1-14.  祐成保志,2008,『〈住宅〉の歴史社会学―日常生活をめぐる啓蒙・動員・産業化』新曜社.

報告番号284

日本におけるモダン語としての「スピード時代」についての一考察
早稲田大学大学院 増田 拓弥

【1.目的】本研究は、1930年前後に「モダン語」として使用された「スピード(時代)」という言葉の使用方法とその広がりをとらえることで、この言葉を用いることで当時の人々が何を表現しようとしていたのかを解明することを目的とする。 明治後期から大正前期において、日本では生活文化の勃興とそれを需要する中間層の増大により、消費的文化が都市部を中心に形成された。これに続く大正後期から昭和前期は、それまでの消費的文化を継承しつつも、アメリカ的生活様式の流入によるモダニズムが都市中間層を中心に形成され、モボ・モガやエロ・グロ・ナンセンスが流行した。こうした中で、「モダン語」と呼ばれる造語が情報メディアを媒介にして広がったが、その中に「スピード」や「スピード時代」がある。1930年前後における消費的文化の高速度性について主眼に置かれた研究は、大宅壮一や平林初之輔といった同時代人のテクストを除けば蓄積が少ない。現在、モビリティ研究の発展を始めとして、近代を特徴づけるものとしての、人びとの移動やその(加)速度についての社会学的研究が行われてきている。そこで本研究では、日本において近代(モダン)的な様相が表出した時代において、移動することやさまざまなものが加速していくことを、「スピード(時代)」という単語でどのように捉え、表現しようとしていたのかを探究することを目的とする。 【2.方法】「速度」「速力」「スピード(時代)」といった単語がどのように使用されていたのかを、国会図書館デジタルコレクションや各新聞社の検索機能などを使用し言説を収集、分析を行った。 【3.結果】それまで「速度」や「速力」といった表現は、新聞や小説といった媒体ではあまり用いられていなかったが、1920年代後半に出現頻度が高くなる。そして1930年前後に「スピード」という英語由来の表現でも用いられるようになり、さまざまな「スピード」が上昇していったことを「スピード時代」と形容していくようになる。具体的には、市電や自動車といった交通メディアの速度上昇だけでなく、モガをはじめとした文化における流行や恋愛遍歴の移り変わりの速さも言及されていた。一方で、こうした状況を退廃的と評したり、上昇していくスピードから離脱したいという願望も現れる。こうした状況は1930年代後半まで継続するが、1945年までに次第に「スピード」という単語は用いられなくなっていった。 【4.結論】「速度」や「速力」といったいわば抽象的な単語は、鉄道や自動車といった自然から乖離した科学技術メディアのひろがりによって頻度が増加していったと考えられる。そして「スピード」という単語の使用は、その抽象的な概念の広がりと、流線形という概念が盛んに用いられていたアメリカの消費文化の流入とその流行が強く影響していると考えられる。速度が速いことそのものが消費文化の中で称揚され、その構図が都市を中心に日本においても展開されていく。高速度性は、加速しなければならないことに対する憂鬱さを孕みながらも、モダンな文化として消費され、「スピード時代」を現出していたといえる。この高速度そのものがモダンな価値を持つことは、その後の日本社会において、新幹線のような科学技術メディアを整備する力学にもなっているといえるだろう。

報告番号285

「男女交際」と新しい民主社会の構想——文部省社会教育局の純潔教育施策を対象に
東京大学大学院 朱 瑩

【1.目的】 終戦直後の純潔教育は社会秩序の「混乱」を対処するための時局対策として提起された。ところが、1955年社会教育局は「純潔教育の進め方(試案)」を通達し、「いわゆる時局対策としての教育施策ではなく、少なくとも人間教育の本質的な課題としての純潔教育を考えよう」(文部省 1955[1967]: 118)と位置づけし直した。先行研究は終戦から1955年までの資料を中心とする分析が多いが、1950年代末から日本の民主化という課題と絡めて「男女交際」が語られることに、その重要性を看過すべきではない。したがって、本研究は1950年代末から1960年代までの純潔教育施策において、青少年のセクシュアリティ問題に対する認識と、それに伴う期待を記述した上で、理想的な社会像に関する言説の編成を明らかにする。【2.方法】 本研究は文部省による指導資料を対象に言説分析を行う。文部省の中で、主な担当部署として社会教育局と初等中等教育局が純潔教育施策に関わっていたが、本研究は分析の第一段階として社会教育局の資料をまず分析する。文部省社会教育局による資料のなか、一般向けの出版物である『男女の交際と礼儀』(1959年版)、『性と純潔――美しい青春のために』(1959年)、『男性と女性――若い人々のために』(1962年)、『性についての正しい考え方 青少年の性に関する問題』(1964年)を分析の対象とする。【3.結果】 文部省社会教育局は青少年のセクシュアリティをめぐって、肉体的にはすでに「大人」だが精神的にはまだ「子ども」であることを問題視した。そして、肉体と精神の調和が必要とされ、その具体的なやり方は、男女交際による相互補完と純潔教育が教える「正しい」性に対する理解だという。最終的には、責任感のある、自立的、判断力がついていることが理想像とし、これらの素質に基づいて理想的な結婚と生殖の達成が期待された。【4.結論】 文部省社会教育局の主張において、(1)性欲と生殖という意味での個としての人間の身体、(2)人格や主体という意味での個としての人間の精神、(3)そして親密関係という意味での私的な人間関係、という一見独立した人間像が提起された。しかし、個人はあくまで社会問題の影響を受けた結果か、新しい民主社会の市民という構築された理想社会の構成要員かに回収されていくのである。【文献】文部省,1967,『社会教育における純潔教育の概況』.【附記】本研究は村田学術振興・教育財団(M24AC015)の助成を受けた研究成果の一部である。

報告番号286

ワークフォース開発(就業労働開発)のローカルガバナンスの形成過程 ——シアトルエリアのケーススタディを通じて
福山市立大学 前山 総一郎

【目的】 クリントン政権下で福祉改革と並行して,1998年にワークフォース投資法(WIA法)が制定され,全米の各州や自治体に「ワークフォース開発(就業労働開発)のローカルガバナンス」が導入された。これにより,各州は「州ワークフォース開発実施計画」を策定し,州の就労支援機関やコミュニティカレッジ,他の機関の公共的連携のもと,地域ごとの学生や転職希望者に対する職業教育,訓練,雇用斡旋を実効的かつ有機的に推進する枠組み(ローカルガバナンス)が定められた。20年余年を経た現在,人的資源を効果的に投資する米国地域経済の基盤として高く評価されている。 このガバナンス体制が,単なる形式にとどまらず,実質的なものとなり得たのはなぜか,どのような実効的なプロセスであったのかを,ヒアリング調査を通じて明らかにする。 【方法】  手法として,まず全米の6つの駆動エリアの一つであるシアトルエリアをテストケースとし,当時関わった人(M.Kurose氏)に対して半構造化インタビューを行う。かつワシントン州の担当局(E.Papadakis局長)へのヒアリングを通じて,現在の成果と課題を確認する。同上のプロセス形成の把握について,R.Gilothの文献により情報の補強がなされる。  具体的には,➀形成されたガバナンス形成の起点,②組織構造と仕事の基盤の特性,③ガバナンスの公共化と制度強化の経緯という,キーポイントを確認する。 【結果】 以下の三点が明らかになった。 1)1990年代末の革新市長と自治体の政策がガバナンス形成の起点として大きな影響を与えた。具体的には,シアトル市で当時Norman Rice市長の革新的な政策発想により「就業労働開発」の新たな姿が目指されて,その社会実験としての「シアトル就労イニシアチブ機構」(Seattle Jobs Initiative/SJI)が設置され,就業に向けた人材開発とマッチングを公共的なガバナンスで初めて取り組んだ。 2)その際,シアトル「シアトル就労イニシアチブ機構」では,既存の職業訓練エージェンシー(CBO)だけでなく,産業関係者やコミュニティカレッジなどのステークホルダーを巻き込む取り組みが進められ,複数の団体が協働で就業支援業務を統一的に実行できるための「セクターチーム構造」と「ケース管理」や「職業訓練基準」の開発が進められた。 3)「シアトル就労イニシアチブ機構」は時限措置であったが,2001年の機構の閉鎖も,そのガバナンスの原型が,州の公共政策にかかわる「シアトル-キングカウンティ・ワークフォース開発法定協議会」(Seattle King county Workforce Development Council/SKCWDC)へと,上記の構造と基準とともに引き継がれ,公共政策のガバナンスとして実質的に定着した。 【考察】 1990年代末の市政革新と「シアトル就労イニシアチブ機構」により,就業労働開発が進み,州の政策へと引き継がれたことが明確となった。 他方で,米国での他の駆動エリア(セントルイス,ミネアポリスなど)やその他のエリアにおいての「ワークフォース開発のローカルガバナンス」の実態についての比較研究が求められ,また本研究成果の上に今後取り組むことが可能となった。さらに,日本の現状(大学,自治体,商工団体,ハローワークが政策連携を欠く状態)との比較研究の基盤ができたと捉えている。

報告番号287

アニメーターはいかにして職業的な安定を見いだすのか——「仕事のジャンル」と(非)表象的希望
長野大学 松永 伸太朗

【1.目的】  本報告では、日本のアニメ産業で働くアニメーターのキャリア形成の語りを通して、クリエイティブ労働に従事する労働者がいかにして自らに適した仕事を見つけ出していくのかについて議論する。既存の研究では、クリエイティブ産業で働く労働者は雇用保障が不安定であるにもかかわらず強いアントレプレナーシップが求められ、安定したキャリアを築くことに困難を抱えていることが指摘されてきた。しかし近年は、一面的に搾取を描く議論への批判から、クリエイティブ労働者が厳しい労働・生活条件のもとでも「希望」を持つ場合があることについて、それを可能にする非公式的なコミュニティや労働市場における競争を相対化する実践などの諸条件を描こうとする研究が展開している(Alacovska 2019)。本報告はこうした研究文脈に日本におけるアニメーターの労働を位置づけ、労働現場に生起している「希望」のあり方を明らかにする。 【2.方法】  2013年から実施してきたアニメ制作者86名へのインタビュー調査から得られたデータを用いて、アニメーターが長期的なキャリア形成を可能にしているメカニズムについて本報告で考察する。とくに、「希望」について当事者が認識するその具体性と主体感の(無)関連性に着目するCook and Cuervo(2019)の視点を参照しつつ、アニメーターが職業的なキャリア展望を持つにあたってどのようなスキルの獲得や仕事経験を重要視しているのかについて分析する。 【3.結果】  第一に、アニメーターの労働過程がもつスキル上の特徴がキャリア形成と関連していた。アニメーター一般に求められるスキルとして「動きを作る」スキルが存在するが、実際にはアニメーターはこのスキルを単一的に高めることを目指すというよりは、さまざまなジャンル分けを仕事のなかで学び見いだすことによって、自らが安定的に仕事を続けられるスキルを身につけていた。第二に、アニメーターがそれぞれに得意とするスキルは具体的な人間関係のなかで理解されるものであった。保有するスキルを理解し、それに合った仕事を紹介してくれる同業者やスタジオで働く管理者との関係を持つことが、アニメーターの職業的な安定に貢献していた。このことは、単なる作画の巧拙だけではなく、作品制作上のスケジュールに影響を及ぼさないかなどスムーズな協働が可能かどうかが関係性のなかで理解されるという点とも関連していた。 【4.結論】  全体として、スキルの認識や仕事をめぐるジャンルや関係性については、初期キャリアの時点ではアニメーターも意識を向けていないことが多く、仕事の経験を積むにしたがって業界における立ち位置や仕事の獲得の仕方について、当初想定していた仕事への関わり方などを相対化しながら確立していき、結果として「希望」を徐々に作り上げていることが明らかになった。こうした知見は職業生活における日常的な実践と職業上の将来展望が分かちがたく存在していることを意味している。 【参考文献】 Alacovska, Ana. 2019. “‘Keep Hoping, Keep Going’: Towards a Hopeful Sociology of Creative Work.” The Sociological Review 67(5):1118–36. Cook, Julia, and Hernán Cuervo. 2019. “Agency, Futurity and Representation: Conceptualising Hope in Recent Sociological Work.” The Sociological Review 67(5):1102–17.

報告番号288

プラットフォーム労働におけるアルゴリズムの活用と労働過程の同型化
広島大学 申 在烈

【1.目的】本研究の目的は、プラットフォーム企業の労働過程が同型化される変化を確認し、プラットフォームによる一方的な労働過程の変化がプラットフォーム労働者の労働条件に与える影響を検討することである。 【2.方法】プラットフォーム労働における同質化のプロセスを理解するために、本研究ではウーバーイーツと出前館で配達員に送られている資料を集め、労働条件と労働過程の変化を追跡した。また、配達員を対象に半構造化インタビュー調査を行って詳細な労働条件の変化を確認した。インタビュー調査は、2022年から2024年の間に、15人の配達員に対して実施した。インタビュー対象者には事前に、インタビューは1時間程度かかると伝えていましたが、一部の配達員は自主的にさらに会話を続け、最長で4時間にも及ぶ時もあった。インタビューは1回のみの場合もありましたが、ほとんどの参加者は6か月から1年おきに2回以上のインタビューに参加した。労働過程の動態を理解するために、特定の重要な情報提供者には2年間にわたり、電子メールやインスタントメッセージを使用して繰り返し連絡を取ったた。 【3.結果】2020年に出前館とウーバーイーツが競争的に配達地域を拡大する際、両社の労働過程は完全に異なった。ウーバーイーツはアルゴリズム統制を行っていましたが、出前館は官僚的統制を行っていました。具体的には、ウーバーイーツではアルゴリズムを利用してプラットフォーム会社が配達タスクを配分したが、出前館ではアルゴリズムを利用せず、一斉配分後の早押し方法で配達タスクを割り当てていた。また、ウーバーイーツではアルゴリズムによりブラックボックス化された報酬体系を運営したが、出前館では報酬の基準を明確に示したため、配達員は自身が得られる報酬額を明確に計算できた。しかし、コスト削減と経営の合理化を目指した出前館では、段階的にアルゴリズムを導入する一方、労働過程全般をウーバーイーツと類似な形で再構築した。結果的に2020年には真逆の労働過程であったウーバーイーツと出前館の労働過程が2024年には同型化されて、違いがなくなった。加えて同型化に伴い、出前館でも不透明性と不確実性が増加した。 【4.結論】本研究では、プラットフォーム企業が段階的にアルゴリズムを導入する動態を確認しました。興味深い点は、アルゴリズムを導入するたびに、競争している企業のシステムに似てくることです。結果的に労働過程と労働条件も少しずつ似てくることが確認できました。また、出前館でのアルゴリズム導入過程を検証することによって、アルゴリズムがプラットフォーム労働におけるプレカリティを増加させる主な原因であることも明らかにした。アルゴリズムは、情報を曖昧かつ不明瞭に処理することで、不確実性と情報の非対称性を生み出していることを確認できた。 【謝辞】本研究は、日本学術振興会科学研究費補助金(20K20787、23K12625)の支援を受けた。

報告番号289

ゲノミック評価がドライブする乳牛と牧場経営の共進化——動物組織研究による調査分析
小樽商科大学 筈井 俊輔

人新世の議論が人文学及び社会科学で活発化しているが、こと我が国における組織・経営研究では議論さえ始まっていないのが現状である。これは株主資本主義経済における組織化の「平常運転」(Wright et al., 2018)に因るのかもしれない。しかし、原因の一端は、創造的破壊(Schumpeter, 1942)や、二人以上の人間による諸力の体系(Barnard, 1938)等、人間(社会)中心的な学術的体系それ自体の方向付けにもあろう。そこで本研究では、動物組織研究(Tallberg & Hamilton, 2022)を掲げて組織論の「動物的転回」(Buller, 2014)を試み、仕事の組織化のメカニズムを問う。このことによって、これまで不安定で不確実なものとして自然科学に任せきりにしてきた自然や動植物を組織研究の中心に位置づけ、人新世の組織論構築への足掛かりを作る。本報告では、動物組織研究の実証的な研究として、酪農業におけるゲノム検査に基づく牛群改良と牧場経営の変遷に関する調査分析について報告する。なお、データ収集は主にインタビューとフィールドワークによって行い、インタビュー対象は酪農家、乳牛品種改良の専門家、獣医師とした。 我が国の乳牛の品種改良は、1950年の家畜改良増殖法制定後、農林水産省やその関連組織が中心になり根気強く進められてきた。だが、2013年に個体のSNP検査に基づくゲノミック評価サービスが開始されて以降、品種改良を取り巻く状況は大きく変わった。結論を先取りすれば、品種改良と各牧場の牛群改良がこれまで以上に切り離せない関係になった。牛群改良とは、牛の集団(牛群)としての能力を高める牧場経営の一つの改善活動であり、基本的には高い能力の血統を残し、低い能力の血統を淘汰する方法で行われる。本来、牛群改良は、牛を経産牛に育つまで飼養して初めて分かる個体能力を基に行われてきたが、SNP検査によって個体能力は子牛の段階(研究所では受精卵の段階)で判明するようになった。すなわちSNP検査は、牛群改良のスピードと進捗状況の把握を劇的に向上させた。さらに全国の検査結果は、ゲノミック評価成績ランキングという形で定期的に公開されるため、酪農関係者はいち早く能力の高い雌牛と種雄牛候補を取引きすることが可能になった。そこで酪農家もまた、より高い評価値を目指して牛群改良に取り組むため、言わば、「ゲノムのエコノミクス」が成立することになった。このようなゲノムのエコノミクスは、繁殖から飼養管理、労働形態、酪農業のコミュニティ文化も巻き込むうねりを作っている。本報告では、ホルスタイン種と牧場経営の種を越えた絡み合いについてさらに詳しく説明する。 参考文献 Barnard, C. I. (1938). The functions of the executive. Harvard University Press. Buller, H. (2014). Animal geographies I. Progress in Human Geography, 38(2), 308-318. Schumpeter J.A. (1942) Capitalism, Socialism and Democracy, Routledge. Tallberg, L. & Hamilton, L. (2022) The Oxford Handbook of Animal Organization Studies, Oxford University Press. Wright, C., Nyberg, D., Rickards, L., & Freund, J. (2018). Organizing in the Anthropocene. Organization, 25(4), pp. 455-471.

報告番号290

労働組合のメンバーシップと外国人労働者
労働調査協議会 長谷川 翼

1.目的 外国人労働者の受け入れが進展する一方、日本の労働組合の組織率は低位にとどまり、外国人労働者もさることながら、労働者全体の代表性の問題に直面している。外国人労働者の多くが周縁的な労働市場に位置づけられていることと、日本の主要な労働組合がそのメンバーシップを特定の雇用形態に対して認めることから、両者の接点は限定的だった。実際に先行研究では、個人加盟ユニオンを中心とした支援活動や、外国人労働者自身の組織化の過程を分析対象としたものが多い。しかし近年、企業別労働組合に外国人労働者が組織化されるケースが確認できる。本報告では、企業別労働組合のメンバーシップと外国人労働者の関係を整理したうえで、両者の関係からいかに外国人労働者が組織化していく過程について説明を行う。 2.方法 ①先行事例として欧州の国際比較研究を参照し、外国人労働者の受け入れに対する労働組合の対応について概観する。そして、日本における労使関係への適応について検討する。 ②産業別労働組合UAゼンセンの加盟組織を主に対象とした調査をもとに、いかにして外国人労働者が労働組合のメンバーシップの中に包摂されていくのかを説明する。 3.結果・結論 ①労働組合は、既存のメンバーシップに含まれる労働者を守る利益集団的な側面と、社会的正義の追及や国際主義といった理念を併せもつ。その中で労働組合は、国内の労働市場の変動を防ぐ観点から受け入れ政策に対する「賛成/反対」、そして受け入れた労働者に対する労働組合への「包摂/排除」、そして包摂した労働者に対する措置を「平等/特別」にするかといった段階的なジレンマに直面する。日本においてナショナルセンターは、外国人労働者受け入れ政策が本格化してからこの30年間、国内労働者の雇用と労働条件の安定を前提としたうえで、限定的な受け入れを行うべきという立場を維持してきた。こうしたナショナルセンターレベルでの政策的立場は、日本の労使関係が企業別労働組合を中心とする組織構造を反映した結果でもある。 ②従来の企業別労働組合のメンバーシップが正社員を中心とする中、UAゼンセンの運動を背景に非正規労働者の組織化を進める中で、外国人労働者がその中に含まれるケースがみられる。すなわち、労働組合への包摂は主に、準内部労働市場に参入する留学生等の増加と、産業別労働組合主導の非正規労働者を含む未組織労働者の組織化に伴うメンバーシップの拡大によって生じている。 企業別労働組合の中に外国人労働者が包摂される一方で、今後は組織化した外国人労働者に対する取り組みが課題となるだろう。

報告番号291

相対的ディーセントワークとしてのセックスワーク——大阪でのインタビュー調査から
立命館大学 武岡 暢

本研究では日本のセックスワーカー(以下「ワーカー」と略)がセックスワーク(以下「SW」と略)とSW以外の仕事(以下では「昼職」とする)をそれぞれどのように評価しているのか、そこにどのような特徴があるのかを記述的に示すことを目指す。ワーカー自身によるSWの評価は、主として(1)ダーティワーク論と(2)SW論に関連づけられるべき主題である。(1)ダーティワーカーの仕事への評価は、仕事の客観的条件と主観的評価の関係という、より一般的な研究課題に示唆を与えるものであり、(2)ワーカーがいかなるものとしてSWを経験しているのかはその政策上の位置づけに関わる。先行研究では主に移民や低学歴のワーカーがSWの高い収入、勤務時間の柔軟性、自律性などを評価する全般的な傾向が見られ、他方でミドルクラスのワーカーは仕事の楽しみや性的快感を肯定する態度を取ることが指摘されている。また、ワーカーの階層にかかわらずそれらの利点は他の仕事では到達困難であると見なされていた。日本での限られた先行研究でも概ね同様の観察がなされているが、「昼職」との比較は限定的である。  本研究では大阪のワーカー9名(元3名、現役6名)に対して、学歴や職歴、ならびに「昼職」、SWそれぞれへの評価について半構造化インタビューを実施した。  インタビューの結果、SWを肯定的に捉える要因は先行研究の低階層ワーカーとおおむね一致していたが、インフォーマントの学歴や、職歴上の就労先の安定性といった点はむしろミドルクラスワーカーに近い点も見られた。つまり本研究のインフォーマントは先行研究の低階層ワーカーに比べて高学歴で、安定した就労の職歴があったが、しかしその職歴を極めて否定的に評価しており、そのことがSWへの肯定的評価と相即していた。  先行研究において低階層ワーカーがSWをそれ以外の仕事と比較して高収入とか自律的であるとか評価してきたのは、代替選択肢である他の就労先の待遇がそれらの条件を欠くと見なされていたからである。しかし今回、大阪の調査で観察されたのは、それとは異なる比較であった。すなわち、インフォーマントにとっての「昼職」がたとえ正規雇用で、収入も雇用保障も担保されていたとしても(本研究では実際そうであったわけだが)、暴力や過重労働、人間関係の問題やキャリアの見通しの暗さ等の極めて重大な問題を抱え込んでおり、SWがそうした重大な問題のない、相対的なディーセントワークとして高く評価される事態を帰結していた。  SWが「昼職」との比較において相対的にディーセントであると見なされるかどうかについては、当然のことながらSW、「昼職」いずれについてもどのような職種、どのような事業所に準拠して比較がなされるかに依存するであろう。なぜ、いかなる職種や事業所において仕事が肯定的に(あるいは否定的に)評価されるのかについて詳細に検討することが今後の課題と言える。それには仕事の評価に際して考慮される各要因——賃金、労働強度、人間関係、やりがい等——間の関連も関わってくるであろう。

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