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第98回日本社会学会大会 11月16日日曜日午前報告要旨

報告番号293

健康・医療 / 労働・交通・産業政策における睡眠障害対策の過程と睡眠障害像の発展――健康づくりの睡眠対策と医療課題としての睡眠障害政策との比較を起点に
一橋大学大学院 澤田雅斗

【1. 背景】睡眠障害は、不眠障害・中枢性過眠症・睡眠関連呼吸障害・概日リズム睡眠・覚醒障害などに大別されるが、睡眠障害は病気によって生活にどのような障害があるのか、それは当人だけではなく政策上重要な課題にもなりうる。とくに、日中の過度の眠気は、睡眠障害がもたらす社会生活上最大の課題となる。眠気は単に注意力が低下したり、作業効率が落ちたりするだけではなく、ときに重大な交通事故・産業事故を引き起こしかねない。そのため健康・医療政策だけではなく、雇用労働・産業政策、さらには運転免許制度など広範な分野に関わる課題にもなりうる。翻って疾病分類からみると眠気の原因は睡眠不足、睡眠時無呼吸症候群、ナルコレプシー等中枢性過眠症など多岐にわたり、各疾患特有の特徴や課題も踏まえる必要があろう。 【2.目的】背景より、睡眠障害に関する政策は健康・医療(特に疾患治療)の文脈からみた課題と労働・交通・産業(特に眠気が引き起こす事故等への対処)の文脈からみた課題が複雑に入り組んでいることが考えられる。本報告では、こうした各種対策の成立過程を、大多数を対象とした健康づくりとしての睡眠対策と、医療課題としての睡眠障害対策を起点に明らかにした上で、本邦における睡眠障害像(とらえ方、睡眠障害の何が問題とされているのか)を描出したい。 【3. 方法】国会議事録、内閣府・厚生労働省・警察庁等の審議会議事録、日本睡眠学会はじめ学協会、患者団体の会誌等をもとに明らかにする。 【4. 結果】1950年代ごろよりナルコレプシーへの公的支援については国会等で審議されてきたものの政策上の進展はみられてこなかった。そのなかで本邦の睡眠障害対策が加速したのは2000年前後である。日本学術会議精神医学・生理学・呼吸器学・環境保健学・行動科学研究連絡委員会が2002年に「睡眠学の創設と研究推進の提言」を出したことがその例である。2003年に発生した山陽新幹線の運転手が運転中に眠り込んだ事故等もあり、その後睡眠時無呼吸症候群への対策が進展してきている。加えて睡眠の問題は、睡眠学の下位分野に、睡眠科学、睡眠医学と並んで睡眠社会学が置かれていること、運転免許制度の欠格条項において、病名ではなく「重度の眠気の症状を呈する睡眠障害」と規定されたことなどをはじめ、常に社会的な影響が言及されており、睡眠障害は医療では解決できない疾患として議論されてきたことがうかがえる。

報告番号294

男性小児がん経験者の「性にまつわる」病の経験
桃山学院大学 笠井敬太

本研究は男性の小児がん経験者を対象とし、彼らの「性にまつわる」病の経験を把握するとともに、彼らがライフコースを移行する過程でジェンダー規範を内面化していく態度を捉えることを目的とする。がんは現代では慢性疾患としての側面を強めており、多くの患者が治療後の生活を送る時代を迎えている。一方でがん治療は「喪失」体験など患者の生活に変化を生じさせる経験となる。がんをはじめ慢性疾患患者の「性」にまつわる研究では、妊孕性の喪失やアピアランスの変化など、婦人科がんを患った女性患者の治療によって生じる変化に注目されてきた。中でも社会科学研究では、身体的な変化がもつ意味について、ジェンダーの視点や性にまつわる社会規範を踏まえた分析がおこなわれてきた。男性患者の場合では、がん経験の中で「感情表出の抑制」や「稼得役割」といった社会規範や役割期待から逸脱することが問題となってあらわれることが指摘されている。このように「喪失」や「生活の変化」に焦点化される成人患者と異なり、本研究が対象とする小児患者は社会的役割を獲得するとともに、他者との相互行為をとおして社会規範を内面化していく存在である。したがって対象者にとってがんの経験は「喪失する経験」だけではなく、「獲得を阻害する経験」にもなりうる。その中でも思春期はジェンダー・アイデンティティの形成や社会的に規定される「男性性」の内面化がおこなわれる時期である。本研究ではライフコースを移行する過程で、曖昧かつ漠然とした形ながらジェンダー規範を理解し内面化していく対象者の姿を捉える。 本研究では、小児がん経験者を対象とした患者交流会Xでのフィールドワークのデータを分析する。患者交流会Xには定期的に参加している男性患者が複数名おり、交流会の場のみでなく、オンラインでも交流をおこなっている。本研究では男性患者のみの交流の場面における20歳以上の対象者6名の「性にまつわる」病の経験についての語りを分析した。その結果、対象者はいくつかの環境要因から自らの性に向き合うことが阻害されることが明らかになった。診察や検査結果の説明の場では自らの身体状況に加え、性について主治医に相談する機会がある。しかしすべての対象者がそれらの場に母親が同席しており、性についての相談がしづらい状況にあった。また家庭内の生活でも治療後のケアは母親が中心的な担い手となり、同様に性についての疑問を表出しづらい環境にあった。また精子凍結保存をおこなったかにかかわらず、すべての対象者からパートナー関係の形成だけでなく、性的な関係を結ぶ際に「慎重になる」態度がみられた。このような妊孕性をめぐる問題は、治療前ではなく治療後にパートナー関係を形成する中で問題化していた。さらに低身長や筋力低下といった「成長・発達が止まる」ことによる葛藤と、対処するための工夫が語られた。義務教育年齢では身長が低いことで周囲から助けられることを受け入れていたが、年齢が上がるにしたがい、シークレットブーツを使用し周囲の男性同級生との差異を隠そうとする対象者の姿がみられた。これらの事例の分析から、治療直後は性についての疑問を表出する機会がなく、その後ライフコースを移行する過程で同輩集団との相互行為をとおしてジェンダー規範から逸脱することに葛藤し、規範的な状態を目指した実践をおこなうことが明らかになった。

報告番号295

高齢社会におけるポストコロナの看護職の働き方――日仏比較考察
千葉経済大学 佐藤典子

世界一の高齢化率(約29%)となっている日本において、団塊の世代(約800万人で人口の18%を占める)が後期高齢者(47兆円を超える医療費の三分の一を費消している)つまり75歳となる2025年には、最大で27万人のケアラー不足になると考えられている。人手不足の中、過重労働を避けるべく、今年に入り、日本各地、国立病院においても看護職は、賃上げを求めデモなどをおこなっている。本発表では、こうした現状を踏まえ、2023年度に採択された、基盤研究C「超高齢社会における看護師の過労と患者らの社会的包摂の日仏研究」の成果の一部を発表する。 2021年のOECDの統計によれば、世界最多の病床数(8000床以上)、人口千人当たりの病床数(12.8床)もトップの日本では、従来の地域包括ケアの取組みだけでなく、訪問看護拡大の動きが見られる。それとともに、長時間労働が問題となっている「医師」の働き方改革の推進(厚労省)が行われており、看護職らへのタスクシフティングが望まれているものの、看護職自身は多重な業務に追われ、過労は常態化、毎年10%前後が離職しており、少子化による18歳人口の減少により、入職する新人看護師数も減少している。そのような中、2020年に始まった新型コロナウィルスによる感染拡大では、世界中の看護職自身が、過労するだけでなく、感染源と見なされることで差別され、「二重の疎外」を受けた。 コロナ禍の2020年9月より1年間渡仏し、フランス国立東洋言語文化学院(パリ・INALCO)のプロジェクトにて、とくに、日仏のケアラ―、看護師の職業観とジェンダー観、世俗看護師発祥の地であるフランスのケアについて現地調査をおこなった。そのフランスは、かつて宗教的な理由から訪問看護や地域に根差したケアをルーツに持つが、90年代から行われていた病床縮小化の影響と医療費削減によって、在宅医療“HAD”と訪問看護を推進しており、コロナ禍でも積極的に利用されていた。 これまでの研究で両国は、➀高齢化に伴う医療・ケアの需要増、②➀に対するケアラーの不足、③賃金の不足などの点において共通点がある。統計や調査を示しつつ、連帯をキーワードとするフランスと利用者および担い手主体の地域包括ケアを目指す日本のポストコロナのケアを比較することによって、こうした困難の社会的意味をどのようにとらえるか考察する。 【参考文献】 佐藤典子著『看護職の働き方から考えるジェンダーと医療の社会学』専修大学出版局(2022) 佐藤典子著『コミュニケーションの困難 生きづらさを考える14考察』専修大学出版局(2024) ※本研究は、基盤研究C「超高齢社会における看護師の過労と患者らの社会的包摂の日仏研究」(研究代表:佐藤典子)として行われている。

報告番号296

胎児治療において母子に期待されている役割――脊髄髄膜瘤の外科的治療から考える
国立健康危機管理研究機構 鈴木将平

【背景】 出生前に判明した胎児の先天的な疾患に対して、救命および機能予後の改善を目的として胎児期に行われる処置を胎児治療と言う。母体が薬を内服する内科的治療や、子宮への穿刺もしくは開腹を伴う外科的治療が存在するが、いずれも母体に対する侵襲が避けられない。そのため、いまだ法的な権利主体ではないが「患者」として扱われる胎児と、意思決定の主体である妊娠女性の自律や身体的負担とのバランスについて、複雑な倫理的・法的・社会的課題が存在する。とくに母体と胎児の利害が衝突する場合を、母体胎児葛藤(maternal fetal conflict)と呼ぶ。 胎児治療を正当化もしくは規制するための条件や、胎児と妊娠女性の道徳的地位については、主に生命倫理の領域で議論が蓄積されている。一方で、胎児治療を社会関係や他の技術との関連から捉える議論はほとんど行われていない。そこで、これまでの生殖医療に関する社会学的な知見および役割理論をふまえ、胎児治療の特徴を分析する。 【対象】 本報告では、脊髄髄膜瘤を例に考察を行う。胎生3~4週前後に神経管の閉鎖不全が原因で起こる先天性疾患を二分脊椎、その重症例を脊髄髄膜瘤という。露出した神経が損傷することで下肢の運動機能、排せつ、性機能の障害の他、後脳ヘルニア、水頭症を併発する。そのため、脊髄髄膜瘤の治療やリハビリには、新生児科、小児科、脳神経外科、整形外科、泌尿器科、移行期支援等が関わり、社会生活の長期的なケアが必要になる。予防として葉酸摂取が推奨されている。 日本人の発症率は、1万分娩に3~4人程度、年間およそ300人程度とされている。国内の調査では、中絶が認められている22週未満に脊髄髄膜瘤が診断されると、3/4が中絶されているというデータがある。新生児期の治療では、帝王切開によって分娩し、1~2日以内に神経を閉鎖するが、機能予後の改善には結びつかないとされている。これに対して、2000年代以降に行われるようになった胎児治療は、妊娠19週0日~25週6日の間に、母体開腹・子宮切開によって、直視下で胎児の神経管を閉鎖し、妊娠を継続するもので、出生後の治療よりも機能予後が改善するとされている。ただし、早産のリスクが高くなる。 【考察】 脊髄髄膜瘤の胎児治療では、胎児の異常が診断されたあと、人工妊娠中絶や新生児治療という選択肢が同時に存在することになる。先行研究によれば、超音波検査等を通じて判明した胎児の状態は、愛着、妊娠女性の家族構成や経済状況、養育の負担などの将来の見通しや不安の中で複合的に評価される(柘植 2009: 73-4; 菅野 2013: 95-6)。このような状況を社会的な地位に対する役割期待から捉えると、妊娠女性には、自己決定の主体である「個人」と、養育者である「母」としてのふるまいが、また、可視化された胎児には、「胎児」として一定期間母胎内にとどまることと、「将来の児」として出生し成長することが同時に期待されていると考えられる。母体胎児葛藤を考える上で、質的に異なる四つの社会的役割の相互依存関係を考慮することが重要になると考えられる。 中田雅彦編,2020『胎児疾患と胎児治療 病態生理、診断・治療のすべて』メディカ出版. 菅野摂子,2013「選択的中絶とフェミニズムの位相」『社会学評論』64(1): 91-108. 柘植あづみ他,2009『妊娠 あなたの妊娠と出生前検査の経験をおしえてください』洛北出版.

報告番号297

貧困によってパートナー形成に不平等があるのか――シングル,恋愛,同棲,結婚の系列分析
成蹊大学 小林盾
University of Oxford Liang Yuqi

1.目的 この報告では,非貧困層とくらべて貧困層グループでは,パートナー形成が不利で不平等があるのかというリサーチクエスチョンを検討する.ここでパートナー形成とは,シングル,恋愛,同棲,結婚という4つの地位の変遷プロセスをさす.男女の組合せは問わない.貧困層はさまざまなライフチャンスで不利となりがちであるが,パートナー形成プロセスについてはともすると見すごされてきた.たとえば内藤(2019,小林他編『変貌する恋愛と結婚』収録)によれば,個人収入がすくないほど交際や結婚経験がすくない.しかし,貧困層とそれ以外とは比較されていない.そこで,貧困層グループほどライフチャンスが限られるため,パートナー形成が不利だろうと仮説をたてた. 2.方法 データとして,家族に関する振り返り調査をもちいる(2022年2~3月実施,全国ランダムサンプリングによる郵送調査,母集団は35~49歳個人,回収率43.7%,研究代表者保田時男).標本のうちN=3,290を分析対象とする.貧困率は14.4%だった. パートナー形成を包括的に理解するには,タイミング(たとえば15歳の恋愛と35歳の恋愛),継続期間(1年間の恋愛と20年間の恋愛),順序(恋愛あとの結婚と結婚あとの恋愛)などを区別する必要がある.そこで,ここでは15~35歳を観察期間とし,パーソンイヤーデータを作成して,系列分析とクラスター分析を実施した(Kobayaish, J. and Y. Liang, 2025, Journal of the Graduate School of Humanities, Seikei University 参照). 3.結果 パートナー経験率から,貧困層グループのうち71.2%が恋愛経験者,62.5%が結婚経験者だった.非貧困層では90.0%,81.1%であった. 系列の記述統計から,貧困層グループほど初恋人年齢が0.8歳おそく,初婚が0.9歳はやかった.恋愛期間は1.4年,結婚期間は1.0年みじかかった(すべて有意な差).順序情報をいかすため距離行列でクラスター分析を実施したところ,シングル期間中心のシングルクラスター(26.4%),シングルから恋愛へ移行する恋愛クラスター(11.5%),シングルから恋愛,さらに結婚に移行する結婚クラスター(62.2%)の3パターンが抽出された. 仮説どおりなら,クラスターの分布が異なり,貧困層だと(恋愛への移行で不利なため)恋愛クラスターと結婚クラスターの合計がすくなく,(結婚への移行で不利なため)結婚クラスターがすくないはずである.比較の結果,貧困層グループほど恋愛クラスターと結婚クラスターの合計が15.7%有意にすくなく,結婚クラスターは14.6%有意にすくなかった.恋愛クラスターは1.2%すくないが,有意な差ではなかった.つまり,貧困層グループでは恋愛への移行と,結婚への移行で不利となっていた. 4.結論 以上から,仮説は支持された.したがって,リサーチクエスチョンには,貧困によってパートナー形成パターンの不平等があり,パートナー形成格差があったと回答できる. パートナーをもつ・もたない,もつならどのようなパートナーシップを選択するのかは,個人が自由に決定するものであり,けっして強制されるものではない.それでも,貧困によって移行パターンに明確な偏りがあったため,多様性だけでなく不平等が発見された.こうした格差は,系列分析によってはじめてあきらかにできた.

報告番号298

「ヤングケアラーの社会問題化」を問い直す――ヤングケアラー政策の「少子化対策」化
京都大学大学院 張瑜淳

1. 目的 近年の日本では、家族のケアを担う子ども・若者である「ヤングケアラー」への注目が高まっている。日本では2011年に国会で初めて言及されたが、2020年12月に初の実態調査が実施され、わずか3年半後の2024年6月には支援強化を盛り込んだ法律が成立・施行された。これは国際的にも異例の速さであり、ヤングケアラー支援が先進的とされるイギリスと比較しても特異性が際立つ。 日本でわずか数年の間に法制化が実現した点は、国際的に見てもきわめて異例なことであり、その背景には特有の政策過程や社会的文脈が存在することが示唆される。なぜ、どのようにして、このような急速な制度改革が達成されたのか。本報告は、この疑問に答えるため、2020年代におけるヤングケアラー政策の展開過程を中心に分析し、それがどのような帰結をもたらしているのかを検討する。 2. 方法 分析にあたっては第1に厚生労働省と文部科学省による合同チームの議事録、国レベルの実態調査報告書、こども白書(子供・若者白書)を含むこども家庭庁の政策関連文書、第2にデータベース「国会会議録検索システム」に収録された関連する会議録、第3に重要な政治アクターの日本ケアラー連盟ヤングケアラープロジェクトの出版物を資料、以上3点を利用した。 3. 結果 2019年当時、ヤングケアラーという課題は国会で十分に認知されていなかったが、2024年には法改正の実現に至るまで政策的進展を遂げた。その重要な転換点となったのが、2021年に始動した「こどもまんなか」改革である。家族ケアによる負担から子どもの権利を保護する必要性は一貫して主張されてきたが、2023年にこども家庭庁の所管となる以前は、主に子どもの発達保障や教育機会の確保が中心的な論点とされていた。これに対し、こども家庭庁移管後は「18歳前後で切れ目のない支援」という理念が掲げられ、2024年の法改正では支援対象が40歳未満の若年層にまで拡張された。その結果、政策の焦点も進学や就職支援にとどまらず、将来的な結婚・出産といったライフコース全体の選択肢確保へと広がりを見せている。 4. 結論 ヤングケアラー政策が急速に法制化を実現したのは,それが単なる「児童福祉政策」としてではなく,「少子化対策」として位置付け直す解釈フレームの刷新を通じて,制度的正当性を獲得してきたのである.しかしその一方、「18歳前後で切れ目のない支援」を前面に打ち出すヤングケアラー政策は、出生率の回復を目指す少子化対策なのか、子どもの権利擁護を中心とする子ども・若者育成支援なのか,その位置付け自体があいまいになりつつあると言わざるを得ない。その帰結として、「家族のケアによって時間が奪われる」という問題はケアラー全体に共通するが、ヤングケアラー支援のみが先行し、他世代のケアラー支援とは断絶した形で成り立っていることがあげられる。このようなヤングケアラーの社会問題化は,こども期からケア経験を有する子ども・若者とケア労働を分離しようとする動きと位置付けられ、福祉レジーム論の視点からはケアサービスの脱こども化志向が見出された。

報告番号299

ルールの中の「地域活性化フレーム」
東京大学大学院 山下瞬

1.目的 本報告では、地域の活性化をめぐる知の枠組みが、人々の志向(思考)を規定しているという「地域活性化フレーム」(渡邉ほか編2023)に着想を得て、我が国の法ルールの中に「地域活性化フレーム」が現れているのか、現れているとして、どのような形で現れているのかを検討することを通じて、法ルールが意図的ないし無意識的に規定しようとしている人々の志向(思考)というものを明らかにするとともに、その対照として、そこから阻害される人々の志向(思考)というものの導出を試みることを目的とする。 2.背景 国や自治体における政策の多くは、法ルールというフレームで提示されることから、ルールづくりとは、言い換えると、「フレーム」をつくりあげる作業であると言うことも可能である。この点、報告者は、ルールづくりを専門とする弁護士である。また、かつては、全国初の手話言語条例の制定に関与するなど地域におけるルールづくりをサポートすることを通じて、地域活性化に取り組んできた。その意味では、無意識的にではあるが、ルールを通じて「地域活性化フレーム」を作り出す側に立っていたと言える。 もちろん、政策を遂行するにあたっては、何らかの枠組みが必要であることから、「フレーム」の形成が政策を推進していく上で重要な機能を果たしていることを否定するものではない。しかし他方で、「地域活性化フレーム」が鋭く指摘するように、人々の多様な実践を、「フレーム」という狭い枠に押し込めて評価し、起こっている現実をゆがめて解釈・提示してしまう恐れや、ときに人びとの多様な生き方を否定し、生きづらさにつながるという問題点が存在することもまた確かである。 その意味では、ルールづくりに携わる者をはじめとして、真摯にかかる課題に向き合うことが必要である。 3.方法 本報告では、地域活性化を目的とするルールに着目し、テキスト分析の手法などを用いて、当該法ルールの中に「地域活性化フレーム」が現れているのか、現れているとして、どのように現れているのかを解明することを試みる。具体的には、概念の定義や政策手法(規制、助成などの政策実現手段のこと)を規定する条文における意味付けや要件効果などを整理して、視覚化・構造化を図るとともに、そこから読み取れるアーキテクト(制度設計者)が枠付ける(あるいは阻害される)人々の志向(思考)というものを分析し、考察を加える。 4.本研究の意義 ルールの中にある潜在的な「地域活性化フレーム」を明らかにすることを通じて、これに包摂されない人々の存在について警鐘を鳴らし、そうした人々をインクルーシブしていく施策などの検討を促していくことは、意義のあることであると考える。

報告番号300

人口減少、北海道の未来は?「消滅可能性自治体」についての考察
日本医療大学 原俊彦

1.「消滅可能性自治体」の論理 人口戦略会議によれば、消滅可能性自治体とは「子どもを産む中心の年代となる20~39歳の女性が2020年から2050年までに50%以上減ると推計される自治体とのことであり、同レポートでは、北海道は179市町村の65%超が該当、全国的に人口減少が著しい地域とされ、特に人口減が深刻で「自然減と社会減の両方の対策が極めて必要」とされる全国23自治体の中に、北海道からは当別町と歌志内市が入っているとの報道があり、自治体関係者は元より地域住民の間に、改めて、諦めと動揺、将来への不安を与えることとなった。人口戦略会議がいう「消滅可能性」とは、再生産年齢の女性人口が半減すれば、現状の出生力(合計出生率)を維持したとしても30年後の出生数は半減する。つまり1世代(約30年)ごとに半減する人口は、遠からず消滅する(正確には0.5の6乗で元の人口の1.5%まで縮減する)という論理に基づいている。この論理自体は正しいが、すでに現在進行中の少子高齢・人口減少の主要な要因は再生産年齢の女性人口の流出や合計出生率の低下にあり、当該自治体には、この動きを緩和・停止・逆転させるための地域活性化が必要だという主張には無理がある。 2.地域人口の減少は止めれられるか?  北海道の過疎地域を見る限り、出生数の減少は人口減少の主要な要因ではなく、今後30年の人口減少の大部分は現在65歳以上の高齢者が亡くなっていく点にある。 つまり、すでに高齢化率が35%を超えていれば、その大部分が亡くなることは避けられない。日本全体が死亡数の増加、多死社会に突入している。今後30年の再生産年齢の女子人口・出生数の減少も大部分はすでに過去に起きた人口移動や出生減の結果であり、一時的な転入超過による改善効果は限られている。また移住者・外国人の受入で死亡数の増加を補うとすれば、現在の住民の30%近くは移住者・外国人と入れ替わるしかない。たとえば、2050年の当別町の高齢化率は53.8%と推計されているが、その大部分が100歳までに亡くなるとすれば、その後、35年間で総人口の53.8%が死亡により消滅する。年平均の粗死亡率CDRは15.37‰となる。一方、年少人口割合は4.3%であり、15歳未満の年少者が15年で総人口の4.3%生まれると考えれば、粗出生率CBRは2.87‰となり、人口減少率(CBRーCDR)は-12.5‰(-1.25%)となる。年率1%を超える人口減少率は人口爆縮(population implosion)的状況といえる。  つまり、年齢構造自体(すでに起きてしまった未来)が人口減少を規定していると考えるべきだろう。同様の事は日本全体の人口についてもいえるのだが。 3.今、必要とされる地域活性化とは?  これらのことを考えると、北海道の大部分の自治体が必要としているのは、若い女性人口の減少を食い止めるための地域活性化などではなく、眼の前で、すでに急激に進行している少子高齢・人口減少にどう対処するかという問題であり、喫緊の課題は、地域自治体間の広域連携を強化し、住民の移動(転入出)を支援し、残された社会資本や人的資本をキーとなる地域に集中し、可能な範囲で地域社会の生活基盤やライフラインの維持に努めることではないだろうか。

報告番号301

「なり手不足」の時代における地方教員の職業再生産
東京大学大学院 三輪卓見

①問題の背景:教員は、家族内の職業継承性が高い職業として知られている。「教員の仕事と意識に関する調査」(片山ほか 2015)によると、およそ6割の公立学校教員が、家族親戚に何らかの教職従事者がいると回答している。  社会階層論や社会的不平等に取り組む教育社会学の分野では、こうした状況が専門職という比較的恵まれた職業階層の再生産であるだけでなく、生まれによる差異の平準化を期待される学校という装置が、ある特定の階層の再生産によって成り立っているという自己矛盾的な状況に対する問題意識などから、教員の職業再生産に批判的なまなざしを向けてきた(中村・松岡編 2022など)。  一方で、現代日本社会においては教員不足が深刻な社会問題になっている。「『教師不足』に関する実態調査」(文部科学省 2022)などで示されているように、一部の自治体では教員配置が基準を満たさない状況が恒常的に発生しているほか、新規採用試験における志望倍率の低下も進んでいる。最終的に誰かが担う必要のある「エッセンシャルワーク」である教職は、いまやなり手について選り好みできない事態に置かれている。  2つの問題を検討するうえで切り口になるのは、地域(非)移動である。教員は世代継承性と同時に土着性の高さでも知られ、そのほとんどは出身地にて就職する(松岡 2022)。吉川(2001)は非都市圏の社会移動において、学業成績に基づくメリトクラティックな移動とは別に、ノンメリトクラティックな論理で成り立つ「ローカル・トラック」の存在を指摘した。また先行研究における教職志望学生についての調査では、彼らの地域志向が家族に対する現代的な規範とも関連する(冨江 2018; 太田 2011)ことを見出している。すなわち教員の再生産は一つの要因によって生じるというよりも、職業選択/地域移動/家族関連行動が一体となって進行しているものとして、事態を把握する必要がある。 ②方法:教員の再生産における職業選択と地域、家族とのかかわりの実態を明らかにすべく、地方県Xにおいて、自身も親も教員である現職者・退職者の複数名に対してライフヒストリー・インタビューを実施した。先行研究が主に教職予定・志望学生を対象とした調査を中心に展開されてきたことを踏まえ、本調査では対象を現職者・退職者とすることによって、大学から教員採用のトランジションが一般的ではないケースなど、より複雑なライフコースを考慮できるほか、就職後の家族関係についても分析に含めることが可能になった。 ③結果:暫定的な結果としては、子どもを教員にするための顕在的な働きかけが必ずしも行われているとは言えないこと、一方で家族内の事情であったり、地元に留まる・戻ることが重要な意味を持っているケースが複数あることが明らかになってきている。 ④結論と展望:職業再生産における家族の影響を論じる際の「家族の影響」とは、特に教員の場合、複数の要素の混合体であると言える。個人の職業選択や移動の自由を保持していくと同時に、人口減少・流出が進む地域において職業を維持していくという2つの課題をいかに取り合わせるかは、重要かつ緊急性の高い論点になりうる。

報告番号302

シングル女性農業者のリプロダクティブ・ライツと地域活性化
千葉大学大学院 長船亜紀子

背景と目的:従来、日本の農業は家業とされ、家族経営と親族継承が中心となってきた。そのため女性農業者は、経営主あるいはその息子の妻として、再生産役割を強く要求されてきた。農村地域では現在も、課題とされる過疎化・超少子高齢化・労働力不足などを同時に解決しようと、「子育て世代」と措定される女性を農業や農村に呼び込む「地域活性化」施策が、国や地方自治体によって講じられている(農水省 2020)。これら女性への就農推進施策により、農家の娘も後継者として期待され、若年のうちから農地を任される様子が見受けられ注目されている。他方で、先行研究の中心的議題となってきたのは、女性農業者の政治的・経済的な地位向上であり、女性農業者のリプロダクティブ・ライツは等閑視されたままである。そこで本研究は、これまで焦点化されることのなかった女性農業者の結婚・出産といったリプロダクションを、実家を継いだシングル女性を対象に、実態を検証することを目的とする。 方法:青森県で農業を営む20~40歳代のシングル女性農業者10名を対象に、2017~2018年にかけて半構造化インタビューを実施し、ライフコース選択について対象者とその家族の意識を分析視角として、実証研究をおこなった。 結果:調査分析の結果、次の点が明らかになった。いずれの世代においても家族を中心とした周囲は、対象者へ幼少期から強く再生産役割を期待し、「家」の存続や産業の維持を最優先事項としていた。さらに農業という職業内においても、性別役割分業を保持する意識が根強くあった。一方で対象者自身は、経営主となって家業に関する決定権を持つことに誇りを抱いていた。よって、男性の配偶者を得ることで経営権が奪われる可能性や、性別を理由に仕事内容が制限されることなど、結婚・出産を前提として要請される性別役割分業を忌避していた。 結論:本研究で明らかになったことは、次の2点である。第1に、家族や周囲が固持する「家」や産業の継承意識は、女性農業者たちの次世代形成アスピレーションを冷却していた点である。第2に、女性農業者たちは後継者の地位を獲得したことで、家族が想定してこなかったリプロダクティブ・ライツを行使し、世襲制脱却をめざす様子が見られた点である。次世代形成を前提に、農村地域を維持し活性化していくという発想は、女性の自己決定権を最優先事項としたうえで再検討することが求められているといえるのではないだろうか。

報告番号303

伝統産業の文化遺産化/アート化からこぼれ落ちる生業の姿――岐阜県の美濃焼の取り組みを事例として
京都大学大学院 水野遼太郎

【1.問題の所在と目的】地域活性化において近年注目を集める方向性の一つに、地域産業の文化遺産化/アート化とでもいうべき潮流がある。風土や歴史に根ざした産業は地域資源として、例えば「保存されるべき価値」を措定する文化財という装置を通して公的に保護され、あるいは美的価値と結びついたアートプロジェクトや芸術祭などを通して新たに再解釈/創造される可能性が拓かれる(木村 2014; 宮本 2018など)。近年の地方が置かれた窮状を鑑みれば、以上の方向性は確かに首肯できよう。他方で、先行研究においてはそうした文化遺産化/アート化によって見落とされる部分や逆機能もまた指摘されている。例えば吉村真衣(2019など)は、地域の生業が保存/振興されゆく過程で外部から取り込まれた価値の序列が地域の主体のあいだに矛盾をもたらす様を描き出した。本報告もまたこうした問題意識を念頭に置いた上で、地域の伝統産業が遺産化/アート化される過程でどのような価値が持ち込まれ、それが生業としての陶磁器産業といかに対立し、あるいは調整されているのかを明らかにすることを目的とする。 【2.対象と方法】本報告では岐阜県東濃地方の地場産業である美濃焼を事例として取り上げる。豊かな粘土層と中世からの伝統技術の集積という地域特性のなかで成立した美濃焼は、明治〜昭和期には重要な海外輸出品目(和食器・洋食器など)として大きな発展を遂げた。しかし、1990年代以降の国際貿易環境の変動にともなってその市場は縮小しており、近年ではミュージアムの開設や国際陶磁器フェスティバルの実施などの文化遺産化/アート化を通じた「活性化」が展開されている。本報告では、以上のような成功事例に加えて、「活性化」されていない領域(従来より主要な品目であった日用食器など、文化遺産化/アート化されにくい生産の現場)にも着目する。これら双方の事例について陶磁器産業関係者へのインタビュー調査を行うことで、住民の生業としての地場産業がいかなる価値体系のなかで成立しているのかを明らかにしたい。 【3.結果と考察】現時点の分析では、「器」という物の特性上、かつて地場産業として地域の雇用や生活を支えた大量生産の工業品でもありながら、他方で美術工芸品としての価値も帯びるという二面性を有していることが明らかになっている。こうした多元的な価値付与のあり方は、生業としての地場産業を文化遺産化/アート化されうる領域とされえない領域へとスムーズに腑分けする素地として働いていると考えられる。報告では、以上のような価値づけが地域住民や各アクターにいかに捉えられているのか、またそれが各地域の集合的なストーリーの形成にいかに結びついているのかについて詳しく論じたい。 【4.参考文献】木村至聖、2014、『産業遺産の記憶と表象――「軍艦島」をめぐるポリティクス』京都大学出版会。宮本結佳、2018、『アートと地域づくりの社会学――直島・大島・越後妻有にみる記憶と創造』昭和堂。吉村真衣、2019、「生業の遺産化と『振興』をめぐる力学――三重県鳥羽市における海女漁の事例から」『環境社会学研究』25: 186-201。

報告番号304

農村における時間構造と「まごつき」・試論
釧路公立大学 北島義和
龍谷大学 渡邉悟史
農林水産政策研究所 佐藤真弓
東北学院大学 金子祥之

近著において報告者らは、現代農村に住まう人々が経験する、「地域活性化フレーム」では捉えきれない状況として「不気味なもの」を提示し、そこにおける人々の「まごつき」に注目することの重要性を指摘した(渡邉ほか編2023)。この考察のバックボーンにあったのは「集成(=アッサンブラージュ)」に代表されるような空間論的な視座であったが、本報告ではこれに時間論的な視座を掛け合わせることを通じて、現代農村に住まう人々のまごつきの実践と、それを不可視化する地域活性化フレームの力を共に捉えていくための枠組みを試論的に提示する。  「このままではいけない」、「残された時間は少ない」といった文言に象徴されるように、戦略的撤退論も含めて農村の地域活性化をめぐる近年の議論に多く見られるのは、軍事的なメタファーを使って時間を資源化しながら、新たな運動を生み出そうとする姿勢である。ただしその運動は、後期近代における時間をめぐってH・ローザが指摘したように(Rosa 2013=2022)、かつての農村近代化論のような、明確な「未来」が設定されてそこへと向かうもの(=古典的近代における時間)ではもはやなくなっており、その時々における臨機応変な方向決定(およびそのためのマニュアル)が重視されている。この意味において、近年の地域活性化フレームは、時間の資源化をおこないながら「後期近代の時間」を農村で展開させていると言えよう。  しかし、ローザの議論が主に都市のホワイトカラーに当てはまるものであることからも分かるように、時間のあらわれ方は空間によって異なる相貌を見せる。特に農村においては、「後期近代の時間」だけでなく、「前近代の時間」や「古典的近代の時間」も依然として影響力を残している。そのため農村に住まう人々は、しばしば競合したり交錯したりするこれら複数の時間やそれに基づく複数のシステムの狭間で生きることを余儀なくされていると考えられる。そしてそこでは、「前近代→古典的近代→後期近代」という支配的な時間構造の変化から取り残された人々や事物が少なからず存在しており、「前近代の時間」や「古典的近代の時間」より予見可能性が少ない「後期近代の時間」の広がりとも相まって、自らの「ホーム」が破綻に向かっているように感じる「不気味なもの」が生み出される確率が上昇することになるであろう。  現代農村に住まう人々の様々なまごつきの実践は、以上のような「複数の時間の狭間を生きる」という枠組みで捉えることが可能ではないかと本報告は考える。農村における時間構造をめぐって、従来の村落研究はしばしば「前近代の時間」に注目して「近代の時間」(古典的近代・後期近代を共に含む)の捉え直しを図ってきたが、この枠組みはそのような「減速主義」は採用せず(よって「加速」も必ずしも否定せず)、加速も減速もしきれずにいる人々をそのまま受け止めることを目指すものである。彼/彼女らの実践は必ずしも創造性や生産性を持つわけではないが、地域活性化フレームが大きな力を有する現状において、それとは異なる「住まい方」の余地も確保されるべきであろう。

報告番号305

学術論文からみる家事労働研究の動向:2014年–2024年
佛教大学 柳下実
東京都立大学 不破麻紀子

1. 目的 日本の家事労働には変化がみられる.総務省による社会生活基本調査の結果によれば,6歳未満の子を持つ夫の家事時間が2011年には12分だったのが,2021年には30分と18分増加し,6歳未満の子を持つ妻の家事時間が2011年には3時間35分だったのが,2021年には2時間58分と37分減少した.国立社会保障・人口問題研究所による全国家庭動向調査の結果では,家事分担割合が2013年には妻が85.1%,夫が14.9%だったのが,2022年には妻が80.6%,夫が19.4%と妻の負担が4.5%減少した.妻の家事時間が長く,家事分担割合が高いものの,夫の家事時間もより長く,分担割合が高くなった. 一方で2010年代以降,「ワンオペ育児」が2017年に流行語大賞にノミネートされるなど,家事労働の遂行・分担に対して社会的関心が高い.結婚したり,子どもを持つことによって家事の負担が女性に偏ることが,未婚化・晩婚化の要因として政策的にも注目があつまる.また,ジェンダー平等の観点から,女性の労働力率が高まる一方で,家事労働の平等化が進まない点が着目されてきた.また,2010年代には利用できるパネルデータが増え,従来の量的な研究は横断データをおもに利用していたのに対し,パネルデータを用いた研究も増え,それによりライフイベントによって家事遂行がどのように変動するのかや,個人の異質性を統制した際にどのような関連がみられるのかが検証された.加えて,2020年から始まったコロナ禍では,働く場所の柔軟化や在宅勤務などが家事遂行・分担に大きな影響を与えたことも知られている. 本研究では,2014年から2024年に日本語で発表された家事労働についての学術論文をおもにレビューした結果を報告する.それを通して,どのような領域で研究が進み,全体としてどのような分野の研究が不足しているのかを示す. 2. 方法・結果 本研究では日本語で出版されたおもに学術雑誌に掲載された論文をレビュー対象とした.論文についてはCiniiを用い,家事を対象とした論文になるよう,除外条件などを設定し,200件程度をリストアップした.そのうえで,掲載された雑誌を学術雑誌・紀要・一般誌・ディスカッションペーパーなどに分類した.レビュー対象はおもに学術雑誌に掲載された論文を対象とする. 暫定的な結果から,いくつかの傾向が明らかになった.量的な分析ではパネルデータの利用が進む一方で,社会生活基本調査のミクロデータを用いた研究が散見される.また,夫婦関係に限定されない未婚者や子どもの家事に着目した研究もみられた.またこの時期には認知的な家事の研究があらたにみられた.従来の研究では,家事について属性による異質性はあまり注目されなかったが,階層や同性のカップルなど属性による違いに着目する研究がみられた.コロナ禍の変化では,在宅勤務や勤務場所の柔軟化の影響を検討する研究がある.また,近年関心が高まっているテクノロジーの利用についての検討もみられた.

報告番号306

育児休業取得経験が男女の家事に与える影響
東京都立大学大学院・日本学術振興会 柳田愛美

【1.目的】本研究は,育児休業(以下,育休)取得が男女の家事頻度に与える影響を,個人内の変化を捉えることのできるパネルデータを用いて検討する.日本ではワーク・ライフ・バランス(WLB)の実現を目的として育休などの制度が整備され,特に近年は男性の育休取得を促すための制度が強化されてきた.しかしながら,男性の育休取得率は依然として低く,取得期間も短い.この背景の一つとして,従来の研究では,日本の企業において依然として長時間働く男性を標準的労働者とみなしていること(e.g., Taga 2016),長期育休の取得者は女性であると想定してきたことを指摘してきた(e.g., 佐藤 2020).つまり,育休制度は運用レベルでジェンダー化され,長期の育休取得者は女性に偏っている.他方,WLBと不可分な家事労働に関して,従来の量的研究においては育休取得との関連が十分に検討されていない.既に子どもがいる夫婦の横断データを用いて,調査時点の収入や労働時間と家事との関連を検討したものが多い.本研究は,育休取得前,育休取得中,復帰後の家事頻度の変化を,男女別に明らかにすることを目的とする.【2.方法】分析には,東京大学社会科学研究所が実施する「働き方とライフスタイルの変化に関する全国調査(JLPS)」の2007年から2017年までのデータ(wave 1および3~11)を用いた.JLPSの対象者は日本在住で20~40歳(2006年12月末時点)の男女である.調査票には,回答者とその配偶者について,調査から1年以内の育休取得経験や家事頻度に関する質問が含まれる.従属変数は食事の用意,洗濯,家の掃除,日用品・食料品の買い物の週当たりの頻度を合算した家事頻度であり,回答者とその配偶者の情報から夫妻別の家事頻度を作成した.独立変数は,観察期間中の妻と夫の育休取得経験である.育休取得前を基準とし,一度目の育休取得中を示す(復帰から1年以内を含む)育休取得ダミー,復帰後ダミーを夫妻別に作成した.統制変数は,妻収入・夫収入・妻労働時間・夫労働時間・妻就業形態・夫就業形態・年齢・子ども数・親同居の有無である.分析手法には固定効果モデルを用いた.【3.結果】主な分析結果は次の通りである.(1)記述統計の結果から,妻の家事頻度の平均は約17,夫の家事頻度の平均は約4であり,家事の大部分を妻が担っている.(2)妻の家事頻度を従属変数とする固定効果モデルによる結果からは,妻と夫の育休取得経験において,妻育休取得ダミーのみが有意で正の係数を示した.妻は育休取得前と比べ,育休取得中または復帰直後において家事頻度の増加がみられるのに対し,夫の育休取得は妻の家事負担の軽減に寄与していないことが示唆された.(3)夫の家事頻度を従属変数とする固定効果モデルによる結果からは,妻育休取得ダミー・妻復帰後ダミー・夫育休取得ダミー・夫復帰後ダミーの全てにおいて,有意な効果がみられなかった.つまり,夫の家事頻度は育休取得経験による変化がみられなかった.以上の結果から,育休の制度上の整備が進んでいても,実際の運用においては男性の働き方が変わらない中で,妻の家事負担のみが助長されることが示唆された.

報告番号307

育児責任と専門職女性の労働時間――JGSS-LCSを用いた職種・性別比較分析
大阪商業大学 LEEHANSOL

【背景】 本研究の目標は、育児責任によって専門職女性の労働時間がどう変わるかを検討することである。多くの女性が働いている現代社会においても、性別分業は根強く残っている。そのため、家族生活における役割は男性より女性の方が大きい(Hochschild and Machung 1989)。一方、専門職労働者には、家族生活よりも職業生活を優先することが期待される(Coser 1974)。よって、家族生活と職業生活から二重負担が生じる場合、専門職女性は役割衝突に直面しうる。そこで本研究は、育児期における専門職女性の役割葛藤に注目し、労働時間を減らすことによって、その葛藤を解消する傾向があるかを分析した。また、対立仮説として、専門職女性はキャリアの継続性を重視するため、育児負担があっても労働時間を維持しようとする傾向があり、労働時間の削減は非専門職女性より少ないかを分析した。 【方法】 データは、JGSS-LCSの2009、2013、2019年の調査を用いた。すべてのデータをプールし、OLS回帰モデルを適用した。クラスターロバスト標準誤差を個人単位で推定した。家族従事者や自営業者は、サンプルから除いた。従属変数は、残業時間を含めた週間労働時間である。統制変数は、年齢、年齢の二条項、雇用形態(非正規雇用/正規雇用)、企業規模、調査年である。独立変数は、性別、未就学児子どもの有無(未婚、既婚・子どもなし、既婚・未就学児でない子どもあり、既婚・未就学児子どもあり)、職種(専門職かどうか)である。さらに、未就学児の有無と職種変数の交互作用項を投入し、非専門職女性と専門職女性を比較した。また、未就学児の有無と性別変数の交互作用項を投入し、専門職女性と専門職男性を比較した。 【結果および結論】 第一に、女性労働者を分析した結果は次となる。専門職女性は、非専門職女性より労働時間が長い。だが、正規雇用かどうかを区分すれば、職業的地位による労働時間の差は消える。一方、未婚者に比べて、既婚かつ子どもがいる場合に労働時間が短い。未就学児でない子どもがいる場合は7時間、未就学児がいる場合は8時間ほど労働時間が短い。育児期における労働時間の減少は、母親が専門職かどうかと関連していない。第二に、専門職労働者を分析した結果は次となる。専門職女性は専門職男性より労働時間が短い。専門職男女における労働時間格差は、子どもがいる女性の労働時間が9時間ほど短いことに起因する。この減少分において、子どもが未就学児かどうかは差異を見せない。本研究を通じて、仕事と子育てからなる二重負担が女性に偏っているという、先行研究の知見が再確認された。一方で、職業的地位が高い専門職女性に対してさえ、母親としての役割が職業上の役割より強調されている可能性が示唆された。 【謝辞】日本版General Social Surveys(JGSS)は、大阪商業大学JGSS研究センター(文部科学大臣認定日本版総合的社会調査共同研究拠点)が、大阪商業大学の支援を得て実施している研究プロジェクトである。JGSS-2009LCSは共同研究拠点の推進事業の助成を受けて実施した。JGSS-2013LCSwave2とJGSS-2019LCSwave3はJSPS科研費JP24330236、JP18H00985の助成を受け、京都大学大学院教育学研究科教育社会学講座と共同で実施した。JGSS-2019LCSwave3データ整備は、JSPS人文学・社会科学データインフラストラクチャー構築推進事業JPJS00218077184の支援を得た。

報告番号308

Understanding Fatherhood and Masculinities: The Case of Gay Men via Surrogacy in Urban China
九州大学地球社会統合科学府 LIHUIFENG

In contemporary China, growing attention has been paid to fatherhood and masculinity in parenting, yet research on non-heterosexual families remains limited. Amid China’s recent policy shift from birth control to birth encouragement, more LGBT individuals are forming families through overseas surrogacy, leading to a “gayby boom” (Wei, 2021). Despite this trend, the masculinity and fatherhood of gay men in such contexts remain underexplored. This study aims to investigate how gay fathers through surrogacy in China negotiate paternal masculinity, and how their practices challenge or reproduce dominant gender norms in the family domain. To understand gay fatherhood and masculinities in the family domain, this study draws on the concepts of caring masculinity and hybrid masculinity. Caring masculinity emphasizes emotional expression, nurturance, and interdependence, contrasting with hegemonic fatherhood (Elliott, 2016). However, some research suggests that in fatherhood practices, caring masculinity often undergoes hybridization with hegemonic masculinity (Scheibling, 2020), resulting in a hybrid masculinity that subtly and insidiously reinforces gender structures and patriarchy (Bridges and Pascoe, 2014). This study is based on fieldwork and semi-structured interviews conducted from August 2023 to September 2024 with 12 gay men who became fathers through surrogacy in Shenzhen, China. All participants were granted anonymity and gave informed consent. The findings reveal a range of experiences and diverse masculinities among urban gay fathers. 1) Most gay fathers rely on intergenerational support, particularly grandmothers, for daily childcare. Although these men often embrace the discourse of involved fatherhood, in practice, they remain primary earners and participate in childcare only on weekends, while grandmothers handle more routine, feminized tasks such as feeding, cooking, and cleaning. 2) Some gay fathers reproduce heteronormative gender roles by aligning parenting role with sexual positioning: “tops” often take on breadwinner roles, while “bottoms” assume feminized domestic responsibilities. 3) Nonetheless, a few gay fathers construct egalitarian parenting models, negotiating earning and caregiving roles based on work schedules rather than gender. In conclusion, this study examined how gay fathers through surrogacy navigate paternal masculinities in China. It argues that gender structures persist in some non-normative families through sexual role hierarchies and gendered intergenerational caregiving. Gay fathers often adopt hybrid masculinity in parenting, which subtly reinforces patriarchy and heteronormativity. At the same time, some gay men construct new fatherhood identities that challenge normative parenthood by diminishing its gendered nature. This inspires broader social reflection on how parenting roles can be decoupled from traditional gender norms and redefined more flexibly. References Bridges, T. and Pascoe, C.J., 2014. Hybrid masculinities: New directions in the sociology of men and masculinities. Sociology compass, 8(3), pp.246-258. Elliott, K., 2016. Caring masculinities: Theorizing an emerging concept. Men and masculinities, 19(3), pp.240-259. Scheibling, C., 2020. “Real heroes care”: How dad bloggers are reconstructing fatherhood and masculinities. Men and Masculinities, 23(1), pp.3-19. Wei, W., 2021. Queering the rise of China: Gay parenthood, transnational ARTs, and dislocated reproductive rights. Feminist Studies, 47(2), pp.312-340.

報告番号309

韓国高齢女性の就業変化からみる高齢夫婦の家事分担
東京大学 金兌恩

1.研究背景 近年、韓国では、高齢化の進行により高齢者をめぐる様々な社会問題についての学問的かつ政策的関心が高まってきた。高齢化の進行に伴い、高齢期が長期化され、高齢期における夫婦関係も長期化され、夫婦関係が変化している。だが、これまでの高齢者に関する研究では、引退者・退職者・死別者・一人世帯を中心に個人を単位として研究が行われ、夫婦を対象にした研究は注目されてこなかった(チェ・ボミほか 2016)。高齢期の家族に関する考察はあったものの、夫婦関係についてはあまり研究されてこなかった(シン・ファヨン 1996)。しかし、2000年代に入り、高齢期の夫婦関係に焦点を当てることの重要性が認識され、活発に研究されるようになった(パク・ハヨンほか 2018)。 高齢期の家事分担に関する先行研究では、高齢夫婦の家事分担について、①収斂仮説(Convergence hypothesis)と②連続仮説(Continuity hypothesis)という2つの立場から説明が行われてきた。収斂仮説は、夫の仕事がなくなることで夫が家事に参加し、高齢期の家事分担における男女差は縮小していくという立場である。一方で連続仮説は、夫の仕事に関係せず、高齢期の家事分担における男女差は継続するという立場である。しかし、これまでの先行研究では、データの制限上横断的な分析である限界から明らかにされてこなかった。そのため、高齢期においてはまだ議論の余地がある。そこで本研究では、前述したような研究背景を踏まえて、高齢女性の就業変化が夫と妻の家事分担に及ぼす影響を検討することを研究目的とする。 2.研究目的 本研究では、韓国の高齢女性における就業状況の変化が夫婦間の家事分担にどのような影響を及ぼすかを明らかにすることを研究目的とする。高齢期は引退や退職を経験することにより労働市場から離れる場合や就業を高齢期にも継続しているとしても労働時間や従業上の地位が変化したりする。そのため、本研究では、こうした韓国高齢女性の就業状況の変化によって高齢期の夫婦間の家事分担にも変化があるかを、それは夫と妻でいかに異なるかを検討する。これにより、高齢期におけるジェンダー格差を考察する。 3.研究方法 3.1.データ 本研究で使用するデータは、韓国女性政策研究院(Korean Women`s Development Institute)が実施した「韓国女性家族パネル調査(Korean Longitudinal Survey of Women and Families: 以下、KLoWF)」データである。本データは、韓国女性のライフステージごとの問題や韓国女性の仕事と家族の調和(Work-Family Life Balance)を理解するために実施された全国規模の調査である。 3.2.分析手法 本研究では、固定効果モデル(fixed effects model)を使用して分析を行う。縦断的なデータを使用しているライフコースの研究では、結婚や出産等のライフイベント及びライフステージにおける特定の経験において起こる変化が、個人における特定の領域にどのような変化をもたらすという問いを検討するため、固定効果モデルを使用している。本研究でもある特定の経験(引退や退職等の就業変化や雇用形態の変化)が、個人の特定の領域(家事労働)にどのような変化をもたらすのかを検討することが研究目的であるため、固定効果モデルを用いる。

報告番号310

Spouse Emotional vs. Instrumental Support: Moderating Effects on the Relationship Between Parenting Stress and Mother’s Mental Health in Japan
慶応義塾大学大学院 王婷
慶應義塾大学 稲葉昭英

This study investigates how two distinct forms of spousal support—emotional support (e.g., empathy, encouragement, advice) and instrumental support (e.g., participation in childcare)—moderate the relationship between parenting stress and mother’s mental health in contemporary Japan. The analysis is guided by established theoretical frameworks including Goode’s (1960) role theory, Pearlin’s (1981) Stress Process Model, and Thoits’s (2011) perspectives on social support and coping. These frameworks suggest that social support—both emotional and instrumental—can buffer the negative effects of role-related stress, particularly for women managing multiple social roles. Hochschild’s (1989) concept of the “second shift” is especially relevant in the Japanese context, where despite increasing female labor force participation, women continue to bear primary responsibility for childcare and domestic work, heightening their exposure to chronic parenting stress. While these theories have been widely applied in Western contexts, empirical evidence from Japan remains limited. In particular, few studies have examined how spouse emotional support and spouse instrumental support may differentially moderate the impact of parenting stress on mother’s mental health. This study addresses this gap by directly comparing the buffering effects of these two forms of support among Japanese married mothers. This study used data from the National Family Research of Japan 2018 (NFRJ18). The sample consisted of 302 married mothers whose youngest child was in elementary school or younger. Key variables included parenting stress, mother’s mental health, spouse emotional support, and spouse instrumental support (measured by spouse childcare frequency). Multiple regression analyses were conducted to examine whether the two types of spouse support moderated the relationship between parenting stress and mother’s mental health, controlling for demographic and family-related factors. In both models, parenting stress was a significant positive predictor of poorer mental health outcomes (Model 1: β = 0.864, p < .001; Model 2: β = 0.446, p < .001). In the spouse emotional support moderation model, the interaction between parenting stress and spouse emotional support was significant and negative (β = -0.183, p < .001), indicating that higher levels of spouse emotional support significantly buffered the adverse effects of parenting stress on mental health. In the spouse instrumental support moderation model, the interaction term was also negative and statistically significant (β = -0.0613, p < .05), suggesting a modest buffering effect. These findings suggest that while emotional support from a partner may play a particularly critical role in mitigating the psychological impact of parenting stress, both emotional and instrumental support are important resources for buffering the negative effects of parenting stress. It is also worth noting that the analysis results may differ between the abstract and the final presentation.

報告番号311

地方での夢追い/地方からの夢追い――バンドマンの音楽活動をめぐる都市・地方比較分析
秋田大学 野村駿

【1.目的】本報告の目的は、「音楽で成功する」といった夢を掲げて活動するロック系バンドのミュージシャン(以下、バンドマン)を事例に、地方における夢追いの実態を都市部との比較を通して明らかにすることである。これまでにも文化や芸術、芸能活動に携わる者たちの実態は多くの事例をもとに描かれてきた。しかし、そのほとんどが都市部で活動する者を対象としており、その知見も基本的には都市モデルである。そこで本報告では、この都市モデルを捉え返す手がかりを得るために、都市で生まれ育ったバンドマンに加えて、地方出身でそのまま地方に留まる者と上京した者とを対象化し、夢追いのあり方の都市・地方比較分析を試みたい。【2.方法】本報告で使用するデータは、筆者が2016年から実施している夢追いバンドマンへのインタビュー調査の結果である。調査は大きく二つに分けられる。第一に、都市部調査である。2016年4月~2020年2月と2021年6月~現在にかけて、東京都・愛知県・大阪府(東名阪)を拠点に活動するバンドマン計57名に対し、インタビューを行った。第二に、地方調査である。2023年11月からは東北六県(青森、岩手、宮城、秋田、山形、福島)で活動するバンドマン計20名にもインタビューを行った。大学進学を機に地元を離れた者が10名おり、地方を起点に「留まる者」と「離れる者」の両方を検討できる。本報告では特に地方調査のデータに依拠して、都市とは異なる地方の夢追いの特徴を明らかにする。【3.結果】まず、夢追いの始まり方に都市と地方では違いがみられた。いずれの地域でもバンドマンたちは中学・高校でバンド活動を開始させるのだが、都市では高卒後にメンバー全員が県内に留まる蓋然性が高いため、同じバンドで活動を続けられるのに対し、地方ではメンバーそれぞれが別の地域に移動するため、どれだけ実績のあるバンドでも解散を余儀なくされていた。そこで、地方に残った者たちは進学や就職を経て同じく地方に留まる者同士で新たにバンドを組み、夢を追い始めていた。次に、地方では活動場所やバンド人口の少なさから自県のみで活動することには限界があった。そこで、同様の課題を抱える隣県のバンドマンたちと積極的にネットワークを形成して、県をまたいだ活動を行っていた。共に地元を盛り上げることが目標とされ、地元の音楽フェスに出演することが夢として語られるなど、かれらの夢や夢の追い方はローカル化されていた。一方、上京した者たちは地方のそうした状況に限界を感じていた。だが同時に、かれらは都市で活動する難しさにも直面する。なぜなら、都市にはすでに一定年数活動を続けてきた都市を地元とするバンドマンたちが緊密なネットワークを形成して存在しているからである。また、活動場所やバンド人口の多さが競争主義的な環境を生み出しており、それまでの協調的な環境から適応し直すことを求められていた。【4.結論】そもそも都市と地方では、バンドマンの活動条件が大きく異なっている。先行研究が描いてきたのは、そうした条件を半ば自明視したうえでの活動状況であった。対して本報告では、地方において独自の力学で夢を追うバンドマンたちの実態を明らかにした。文化・芸術・芸能の活動を検討する際に、無批判に都市モデルに依拠するのではなく、それぞれの活動が行われる地域的文脈にも着目して議論を進める必要があると考える。

報告番号312

なぜ都市の土地に農業が必要とされるのか――公有地の農的利活用に関する研究
一橋大学大学院 菊池隆聖

従来の都市部の土地利用は、行政は法制度に則った適切な土地利用を指導し、民間企業が法制度に基づいた計画・開発を行っていた。特に、土地の農的利活用は、都市農業基本法を根拠に、農地とそれ以外の土地で明確に区別した上で、農地を基礎とした施策を展開してきた。他方で、経済成長期以降、行政の業務を民間に積極的に移行し、公園や緑地など、公有地の利活用を民間が担う委託が行われる中で、各公有地の特色を見出すため、農地以外での農的利活用が注目されるようになった。つまり、土地の農的利活用は、基本的には農地を基にした政策・施策が講じられるものの、行政のコスト削減等を背景に、民間主体で公園や緑地の農的利活用が開始された。しかしながら、近年、元来の土地利用とは異なる形で、行政が主体となり、公有地の農的利活用を実施する自治体も存在する。従来の行政で望まれていた適切な土地利用とは異なり、農的利活用を主軸とした農業公園の設置など、農地などの農的利活用を図る土地とそれ以外の土地で区分けをしていた姿勢とは異なる展開をしている。 そこで、本研究では、従来の公有地利用における公園や公共施設の設置とは異なり、なぜ行政が公有地の農的利活用を図るのか、その構造や背景を明らかにする。本研究の対象地域は、東京都世田谷区の公有地とし、農業公園(元は宅地等)やコミュニティ型農園(元は道路代替地)に着目する。研究方法として、第一に、行政の都市農業・緑地政策に関する資料・文書より法制度の変遷を整理し、「令和6年度固定資産台帳」等のデータを用いた統計分析により、世田谷区における土地利用の実態を明らかにする。第二に、世田谷区担当部署や公有地の運営を担うMPO法人・市民団体に対して、半構造化インタビュー調査を実施する。 データ分析の途上ではあるが、世田谷区における土地利用を概観する。戦後、世田谷区は土地の提供に対して、主に公園開発に注力するものの、年々他の用途にも土地利用が展開されつつある。特に、緑地への利活用は増加傾向にあり、1980 年以降は農業公園や交流農園、農福連携事業用地も、若干の増加傾向にある。地目と現在の土地利用のクロス表によれば、必ずしも元来の土地利用に沿った土地の利活用が実施されているとは限らない。 例えば、公園や宅地が地目の場合も、農業公園に転用されている。加えて、多重対応分析の結果では、地目が公園や畑の場合、公園や農業公園など、土地に公園的機能が付与されつつ、農的利活用がされやすい。一方で、地目が宅地や原野の場合、緑地や広場、遊び場、遊園等に活用される傾向がある。 これらの分布傾向は、土地の面積によって、土地の利活用の方針を決定していると推察される。ただし、これらの分析では、どのような土地や要素によって農的利活用を図る要件や背景は推測し難い。したがって、世田谷区においては、元来の土地利用に基づかない土地の利活用方法も年々増加し、その用途として、土地の面積が大きい場合、農的利活用がされやすい傾向にある。しかし、なぜ世田谷区が従来の土地利用方針とは異なり、農的利活用を主軸とした公共施設の開発に取り組むのかは不明瞭であるため、今後のインタビュー調査を経て、学会当日にその構造や背景を説明する。

報告番号313

互いに見知らぬ人々による集合的な空間変革――都市社会学の新たな研究領域としての可能性
筑波大学 桐谷詩絵音

【目的】本発表は、古典的都市社会学が提示していた問題関心を出発点に、その後の都市研究の発展の中で十分に解明されてこなかった「互いに見知らぬ人々による空間変革」という領域の重要性と可能性を提示する。【既存領域の検討】初期都市社会学は、互いに見知らぬ人々が集まり、計画を超えて独自の空間へ造りかえる過程として都市を動的に捉え、村落とは異なる都市の本質を見いだした。G. Simmelは、互いの身体を近接させながら共在しているにもかかわらず精神的に隔絶されているという実感のギャップこそが都市人に自由を感じさせると指摘し、人々が都市で自由を感じる最も決定的な場面を、互いに見知らぬ人々が集まり行き交う都市空間に求めた(Simmel 1957=1976)。シカゴ学派のR. Parkも、雑多な人々が交わりながらも互いに未知である空間として都市を捉え、それゆえ都市では各個人が居心地の良い環境を見出すことができるという解放性を指摘した。同時に、人々が計画や統制の範囲を超えて活動する中で、単なる地理的地区が独特の「感情、伝統および歴史をもつ一地域」に変わる(Park 1916=1978)ことを重視し、互いに未知の人々が既存の空間を変革する可能性を示唆した。つまりSimmelとParkは、「見知らぬ人々が集まる」ことで、国家や企業の統制を外れて「空間を変革する」過程に、村落とは区別される都市研究の本質的課題を見出した。その後、M. Castells(1977=1984)やH. Lefebvre(1974=2000)、D. Harvey(2012)など新都市社会学は、人々が行政や資本に対抗して独自の空間を創りだす社会運動をマクロに論じた。これは、国家や企業に対抗しつつ人々が「空間を変革する」局面に注目する都市社会運動研究として発展していったが、都市空間に働きかける主体としては組織的に団結した集団が重視され、都市の「見知らぬ人々が集まる局面」は十分に深められなかった。一方、Goffman(1963)やJ. Jacobs(1961=2010)、L. Lofland(1998)は、都市人たちの無自覚な協働による街路の秩序形成や、都市の見知らぬ他者との共存秩序の創出過程を議論してきた。これは、「見知らぬ人々が集まる」という都市の本質的局面に注目する相互行為研究・都市計画研究として発展したが、日常的な秩序が反復される構造的局面が重視され、人々が独自の仕方で「空間を変革する」可能性はあまり考慮されなかった。【考察と結論】つまり、「見知らぬ人々が集まる」局面と「人々が空間を変革する」局面の重なりに位置する、「見知らぬ人々が都市空間を変革する」現象は、都市研究の領域が分化・発展するなかで間隙として残され、十分に分析されてこなかった。しかしこの現象は、都市を見知らぬ人々の集まる空間として認識しつつ、空間が新たに変革される動的な過程に注目する点で、都市社会学の根本的な問題領域の一つだったはずである。この現象の探求は、空間を変革する社会運動が都市の見知らぬ人々の相互作用の中でどのような影響を受けるかや、逆に日常的な雑踏など一見すると安定的な人々の集合がどのように空間を変革する可能性をもっているかなど、都市研究・社会運動研究・消費社会研究を架橋する分野の開拓に繋がる。

報告番号314

「生きている選択」としての都市再開発――プラグマティズム的観点からの検討
同志社大学 栗原真史

1980年代以降の東京都心地域においては都市再開発が相次ぎ、従来の業務地区や工場・港湾にとどまらず、多くの住民が暮らす居住地域においても広がり浸透してきた。素朴な見方としては、ひとが住まう地域でわざわざ再開発のような大規模な変化を引き起こす道理はないようにも思われる。それにもかかわらず、現地の人々はなぜ都市再開発を受け入れるのか。本報告では、東京都千代田区・神保町地区周辺でフィールドワークに基づき、2000年前後に実施された大規模な市街地再開発事業の足元とその周辺に住まう人々の語りを素材としながら、人々が再開発を受容するに至った背景とその文脈を明らかにする。 都心地域における再開発の受容という問題を解くためには、安定した生活のルーティン・パターンの営まれている静的な地域という前提から離れ、「すでに起きている変化」の中で再開発がどのような問題に対応するレパートリーとして流通し用いられるのかを捉える必要がある。本報告では(古典的)プラグマティズムに依拠しながら、このような推移しつつある動的状況に埋め込まれたものとして行為選択を捉える分析視角を提示したうえで考察を行う。都心住民のあいだでは開発を正当化するイデオロギーのようなものが強固に共有されているわけではない。しかし人々は「すでに起きている変化」と「その対応として引き起こす変化」のあいだで対比を行い、それらの実践的帰結のせめぎ合いからなされる行為選択のなかで特定の変化への傾向を深めていくことになる。 本報告ではこのような人々の具体的な対比の実践からなされる行為選択を「生きている選択living option」と呼び、そのなかで再開発への支持がどのように維持・強化されているのかを分析する。具体的には、1980年代以降の都心地域の文脈ですでに問題となっていた「地上げ」と「個別建替え」という2つのレパートリーと都市再開発との対比に注目する。土地市場の急速な変動と建物更新の圧力が高まるなかで、都心住民は様々な問題に対処せざるを得ない状況に置かれることとなった。他方で、すでに起きた変化から課されるリスクやコストの問題への対処について熟考するなかで、さらなる変化としての都市再開発を下支えする論理が導き出されていくことになる。 移り変わる地域において複数の変化の可能性を生きることやそのなかである程度の不確実性を引き受けざるを得ないことは現地に住まう人々の日常となっている。プラグマティズム的観点から地域の中で行われる対比を具体的に記述することは、都市再開発を上からの押しつけでも現実主義的な諦めでもない行為選択として描く作業であると同時に、問題の対応を別の仕方で探求するための道筋を開く契機にもなり得る。

報告番号315

ただ乗りを社会関係資本として活用する地域コミュニティの可能態
三隅一人

1.目的 本報告では、有限責任都市コミュニティの論点をふまえ、災害と地域社会という分析観点から、地域共有物(地域生活に必要な公共財・コモンプール財)の管理を分業・分担しながら行う社会システムとして、地域コミュニティを捉える。管理の分業・分担は、地域共有物ごとに貢献者とフリーライダーが入れ替わりながら存在する形態でもある。しかしながら、こうして常態的に存在するフリーライダーは、それぞれどこかで貢献者の顔ももつので、その温存はいわば社会関係資本のストックとして、多くの地域共有物の同時供給不足が起こる災害時などの備えの意味をもつ。 ただし上記のことは無条件に言えるわけではない。第一に、地域コミュニティが必要に迫られたときに日頃はただ乗りしている人が貢献をなすには、社会関係資本の後押しが必要である。また、人びとが多くの社会集団に関与して集団間のつなぎ目になる橋渡し社会関係資本が多ければ、それぞれの社会集団で他の人が地域共有物の管理に関与していることが見えやすくなり、全体としてお互いさまの互酬性意識がもたれやすくなる。本報告の目的は、上記2つの条件の吟味を通して、ただ乗りを社会関係資本として活用する地域コミュニティの実際の有り様をみることである。 2.方法 データは、報告者が2024年6月に調査会社に委託してオンラインで実施した「九州調査」を用いる。複数パネルの九州在住20~70歳男女モニターを対象に、目標回収4,400とし、想定回収率から逆算して無作為抽出した57,321人に対して調査依頼を配信した。有効配信56,253件、回収4,427票(回収率7.9%)で打ち切りとした。 社会関係資本の測定概念の工夫として、一般化された互酬性規範の浸透に関する社会認知の他に、受援が社会構造の恩義の蓄積を生む点に着目し、忘れがたい被助力の記憶と、恩返し意識をみる。自治会を中心に管理している地域共有物へのただ乗りを分析軸にするので、自治会関係の団体参加も活動関与もない人びとをもって自治会フリーライダーとする。また、橋渡し社会関係資本(関係基盤の交差)を、自治会関係以外で参加している団体数と関与している活動数でみる。主要仮説は次の2つである。第一に、自治会フリーライダーであることが地域共有物管理への協力を抑止する効果は、社会関係資本の働きで弱められる。第二に、橋渡し社会関係資本があると、全体的な互酬性意識がもたれやすい。 3,結果と議論 第一仮説では被説明変数として、快適で安心な暮らしに関わる8種類の取り組みの1つ以上をしているか否か、地域や町全体の防災・減災に貢献していると思うか否か、および、架空の話として災害時の避難所運営に協力するか否かを用い、二項ロジスティック回帰分析を行う。第二仮説では、地域の状況に関する質問から互酬認知と互酬充足を変数化し、それらと橋渡し型社会関係資本との関連をクロス表で分析する。その結果、第一の仮説、第二の仮説ともにおおむね支持される。とりわけ橋渡し社会関係資本としての自治会関係以外の関与活動数は、両仮説にまたがる中軸的な要因として留意される。分業と分担により皆がどこかでただ乗りし、それを互いに寛容する有限責任の地域コミュニティは、多様な社会参加が培う社会関係資本を伴うことで、その可能態が一定の現実性をもってみえてくる。

報告番号316

京都出町のエスノグラフィ――エスノグラフィという方法、あるいは「アート」と「バザールワールド」について
日本学術振興会特別研究員(PD) 有馬恵子

本発表は、2025年7月に青土社より上梓する書籍『京都出町のエスノグラフィ−−−−ミセノマの商世界』について報告する。 本書は、京都市北部「出町」と呼ばれるまちにおける、〈もの〉の交換を通じて発生する社会関係と、自律的・共同体的な関係性に着目し、それらが行われる「店」と店を取り巻く様相を商世界〈バザール・ワールド〉として明らかにした。本書では、鰹節店、呉服店、貸自転車店、喫茶店、路上の喫茶店/八百屋/焼きいも屋、行商人、テキ屋、ツアーガイドなどが登場する。「滅びゆくもの」とされてきた店とまちを、〈もの〉というミクロな世界から捉え返す。複雑でポリフォニック(多声的)な状況に光をあてると、滅びゆくものとみなされていたような小さな店は、多様な者らの職の選択肢にもなっている。あるいは、都市に取り残された「空き家」や「空き地」は、まるで野原にひらかれた自然発生的な市のように、店を目指す者らが自生し、ニッチなものを扱うことのできる「穴場」へと移り変わりつつある。都市化のベクトルが行き詰まり、あるいは周縁部・中心部に空隙が生まれゆく「スポンジ化する都市」の只中で、その間隙を縫うように、店や〈もの〉が、これまでとは別の仕方でまちのスキマを埋めてゆくのである。 方法として本書は、時間や場所を横断して対象を捉えるマルチサイテッド・エスノグラフィとオート・エスノグラフィ、すなわち「私」という視点からの自己省察に基づく記述方法を用いている。具体的には、「ミセノマ」に生きる人びとの技芸〈アート art〉を切りだし、そこに「私」の経験に基づいた〈アート ART〉をトレースした。ひとりひとり、あるいはひとつひとつの店と店のものが織りなすパルスを重ねあわせてゆく。そのことによってミセノマのアートとそれを営む人びと、それらが蓄積することによるまちの姿を浮かびあがらせて鮮明に描きだす。その最終的な目的は、のれん、スキマ、イカサマ、穴、即興、共生、協働、敵対、黙認、撤退、通力、魔力といった異なる位相に見えるものの中につなぎ目を見つけて、縫いあわせることで、京都出町の商世界を描くことにあった。 発表は、①「まち」というメゾミクロな範囲と「アート」というミクロな単位を重ねあわせる際のエスノグラフィという方法論の可能性、②あるいは「スポンジ化する都市」という巨視的な視点に対して、「穴場、スキマ、間隙」というミクロな視点から問い直す、という本書で挑戦した「アート」という枠組みに関連する説明を予定している。

報告番号317

ハウジング・ムーブメントとしてのシェルター・コミュニティスペースの研究――空間形成による自治が「安全」と「共生」にもたらす影響
立命館大学 富永京子

生活困窮者自立支援法の制定以降、現在、日本では100超の民間団体や自治体がシェルター/セーフハウスを運営している。このような場の困難として、包摂・支援の対象の少なからぬ人々がDV被害者や若年層であるため、住所等を秘匿し支援対象者を隔離することで被支援者の「安全」を担保する必要性、一方で被支援者の社会復帰や孤立緩和には他者との交流や対話といった「共生」が必要な点がある。この「安全」と「共生」は支援の負担を特定の専門職に限定せず、より社会一般にケアを開いていく上でも両立すべき要素であるが、支援対象者の安全保護の観点から、実務上の両立が困難だというジレンマがある。 本研究では、この課題に対処するために「空間形成」をもってゆるやかな安全性の担保と共生を実現する過程を、北海道・兵庫県において、民間シェルター/セーフハウスとコミュニティスペースを運営する団体の事例から明らかにする。これらの事例では、明文化されたルールや規制を設けるのではなく、たとえば布や板といった仕切りを柔軟に使うことにより他者の視線に対する恐怖感を減らしながらコミュニケーションする方途を模索したり、また植物や動物といったケアを要する生き物と住まうことで人の関与を促したりといった形で運営を工夫してきた。また外観に関しても、アパートなどを借り上げるのみならず居住者らの「手入れ」が可能な空間的可塑性を残す事例も見られる。家具の配置を変える、物を移動する、持ち込む、外観を変更する、といった空間への介入を、支援者(専門職)・被支援者・地域住民の三者が行うことで、三者の水平な関係構築と多様な人々の共生が可能になり、また、そのようにしてできた関係性をもとに、就労支援などに発展する例も見られる。 このような、シェルター/セーフハウスとコミュニティスペースに見られる「空間形成による自治」を、本報告ではハウジング・ムーブメント、特にDIYやセルフビルドを用いた自治の研究から分析する。それにより、場に参加する人々が空間形成を通じて行う、自治を形成するにあたっての特に「試行錯誤」の過程を明らかにすることができる。自治を形成する上で、人々が柔軟に・可塑的にものごとを決める側面は実態的には見られるものの、必ずしも自治(Autonomy)や予示的政治(Prefiguration) における先行研究では必ずしも重要視されてこなかった。そのため本研究は、社会運動における自治・予示的政治研究に貢献するとともに、言語的なコミュニケーションの側面が重要視されている社会運動論に対し、空間・地理的な視点からの示唆を提供する。

報告番号318

非正規滞在者との「つながり」を問い直す――支援者の経験に着目して
慶應義塾大学大学院 中村翔

本報告では,非正規滞在者への支援の経験に焦点を当て,非正規滞在者と支援者のあいだに生まれる「つながり」の意味を問い直すことを目的とする。 滞在権を持つことが許されない移民や庇護希望者(本報告では両者を合わせて「非正規滞在者」と呼ぶ)に対する脅威化や悪魔化の言説は,今や世界的な現象となっている。もっとも鮮明な事例に,2024年のアメリカ大統領選挙において,ドナルド・トランプがハイチからの非正規移に対して「ペットを食べている」と発言したことが挙げられるだろう。しかしこのような脅威化言説は,日本においても例外ではない。たとえば,出入国在留管理庁が2025年5月23日に発表した「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」では,「不法滞在者」は「我が国の安全・安心を脅かす外国人」と位置づけられており,非正規滞在者の脅威化言説は政府機関にも広く共有されている。 こうした状況において,非正規滞在者との「つながり」を築くことがますます困難になっていることは,いくつかの意識調査の結果を見ると明らかである。たとえば,2023年に改正入管法をめぐる国会審議が行われたさいの世論調査では,法改正の賛成が47%と,反対の24%を上回っていた(テレビ朝日 2023)。脅威化言説は如実に非正規滞在者の他者化に寄与しており,それはまさに今日,私たちが直面する「分断社会」という状況,すなわち「異なるカテゴリーの人々のあいだで利害対立や不平等が生じていると同時に,それらの人々のあいだで交流・接触が減少し,相互への敵意が増長し,相手への想像力が衰退している状況」(塩原・稲津編 2019)を生み出している。 この現況を踏まえると,非正規滞在者と支援者との「つながり」を問い直す作業は,「われわれ/他者」という二項対立の本質化を乗り越えるためのあり方を模索するためにも,いっそう重要な意義を持つ。そこで本報告では,支援者が非正規滞在者の支援に携わろうとしたきっかけや,支援活動で得た経験を探求することで,両者のあいだに築かれる「つながり」の意味をあらためて考察したい。この問いにアプローチするために,本報告では支援者5名(報告時点で変更の可能性あり)への半構造化インタビュー調査の結果を参照する。調査は本要旨執筆時点では継続中であるため,ここでは暫定的な知見を示すにとどめておく。支援者の語りからは,非正規滞在者や入管被収容者を「自分たちとは異なる存在」と認識しながらも,同時に「変わらない部分がある」と感じている様子がうかがえた。この「変わらなさ」によって築かれる「つながり」は,非正規滞在者を「われわれ」と同一視するものではなく,むしろ他者であることを認識しながらも,なおその他者に応答しようとする関係の開かれとして読むことができる。本報告の最後では,分析で明らかとなった「つながり」の意味を他の議論に接続させつつ,分断を乗り越えるための他者との関係のあり方についても簡潔に検討を加えるつもりである。 (参考資料) 塩原良和・稲津秀樹編,2017,『社会的分断を越境する:他者と出会いなおす想像力』青弓社. テレビ朝日,2023,「2023年5月調査」(2025年6月15日取得,https://www.tv-asahi.co.jp/hst2020/poll/202305/).

報告番号319

反差別の実践としての多文化教育の再検討――いま学校で、何が私(たち)を踏みとどまらせるのか?
慶応義塾大学大学院 宮下大輝

多文化共生と学校教育は切っても切れない関係にある.2006年に総務省が発表した「地域における多文化共生プラン」を待たずとも,在日コリアンの教育問題に取り組んできた教員組織においては1990年代中頃にはすでに「多文化共生教育」という語が掲げられ(山根 2021),「日本のなかの差別や排外意識を克服」することを目指す教育実践が追求されてきた(全国在日外国人教育研究協議会 2010).近年では,文部科学省が作成に関わる文書においても多文化共生の語が明記されるようになっている(東京学芸大学先端教育人材育成推進機構外国人児童生徒教育推進ユニット 2023).しかしながら,そこにおいては多文化共生の必要性が「キャリア教育」や「多様性の尊重」などと組み合わされる形で説明されてはいるものの,反差別や人権教育のための枠組みとして語られることはない.一方,アメリカを中心に発展した概念である「多文化教育」は,全ての生徒を対象にした基礎教育かつ学校改革のプロセスであるとされる(Nieto 2004).社会正義を志向するその特徴から,報告者は多文化教育を,生徒や教師が社会の中の不均衡な権力構造を認識し,差別に挑戦していくための教育であると捉えている.多文化共生の必要性が叫ばれる今,こうした多文化教育の一側面から日本の学校における教育実践を批判的に問い直すことはできないだろうか.報告者は,大学院に所属する社会学の研究者という立場性を持ちながら,外国にルーツをもつ生徒が多く在籍する公立高校での教育活動に参加してきた.同地において2022年4月から継続しているフィールドワークの中では,エスニックマイノリティをめぐる差別的な語りに遭遇する機会も少なくない.そこで,本報告では報告者によるフィールドノーツによる記録を手がかりに,オートエスノグラフィー(Adams, Jones and Ellis 2015)の手法を応用しながら,教育実践者としての「私(たち)」が,学校において表出する差別に対峙する時に直面する困難さについて分析してみたい.そのうえで,今日の日本において,多文化教育の考え方が反差別の実践としていかに効力をもちうるのか検討する. [文献] 山根俊彦,2021,「多文化共生教育の再構築のために――マジョリティの変容をめざす実践に着目して」横浜国立大学大学院都市イノベーション学府2021年度博士論文. 全国在日外国人教育研究協議会,2010,「紹介」,全国在日外国人教育研究協議会ホームページ,(2025年6月1日取得,http://www.zengaikyo.org/?page_id=5). 東京学芸大学先端教育人材育成推進機構外国人児童生徒教育推進ユニット,2023,『高等学校における外国人生徒等の受入れの手引』,(2025年6月1日取得,https://www2.u-gakugei.ac.jp/~knihongo/feature/upload/koko_nihongo_tebiki.pdf). Nieto, Sonia, 2004, Affirming Diversity: The Socipolitical Context of Multicultural Education (4th edition), Boston, MA: Allyn and Bacon.(太田晴雄・フォンス智江子・高橋三千代訳,2009,『アメリカ多文化教育の理論と実践――多様性の肯定へ』明石書店.) Adams, Tony E., Jones, Stacy Holman and Ellis Carolyn, 2015, Autoethnography, New York: Oxford University Press. (松澤和正・佐藤美保訳,2022,『オートエスノグラフィー――質的研究を再考し、表現するための実践ガイド』新曜社.)

報告番号320

右派ポピュリズム政党支持者の実践としての多元主義の否定――スペインを事例に
東京大学 池北眞帆

近年、右派ポピュリズム政党が主張する多元主義の否定に抗うことは困難な課題となっている。その困難さの理由は、第一に、2000年ごろから世界各地の極右勢力の台頭が「主流化」したことと関係がある(Mudde 2021: 19-20)。第二に、多元主義を否定するための言説が複雑化したことである。 一方、政党・政治家と政党支持者個人の主張は必ずしも一致しない。本報告では、多元主義の否定をめぐる政党・政治家の主張をふまえつつも、右派ポピュリズムの支持者がいかにして多元主義に否定的な実践を実行に移しているのか(あるいは行っていないのか)検討する。本事例において、政党が下院議会議員選挙において第三の勢力となった現在、政党の地位は確立されつつある。また、支持者の多くは社会で周縁化された存在とは言い難い。支持者の生活実践を把握すること、また、その上で彼らも含めた共生のあり方を模索することが、今後より一層重要な課題となってくるのではないか。上記の分析を通じて、最終的に「部分的なつながり」(ストラザーン 2015)を生み出す共生のあり方について論じる。 報告者がこのような関心を持つのは、右派ポピュリズム政党について論じた既存の先行研究において、日常レベルでの支持をめぐる支持者の実践を理解する試みが十分になされてこなかったことにある。たとえば、社会学の代表的な研究として、A.R.ホックシールド(2016)による米国のティーパーティ(Tea Party)支持者を研究対象としたエスノグラフィを挙げることができる。同作品の重要なテーマの一つが、政治をめぐる社会の分断と相手への共感であった。人生の大半をバークレーの進歩的な陣営で過ごしたという社会学者が、彼らが支持に至るまでの生い立ちや感情に迫り、その共感を試みた点が、本書の特筆した点である。一方、「分断」「共感」という言葉を使用する一方で、日々の生活における研究対象者と周囲との分断の内実、すなわち特に対立を伴う相互行為の実践的側面については問わなかった点が本書の課題として挙げられる。 本報告では、2023年にスペイン北部の地方都市において報告者が行った、右派ポピュリズム政党支持者へのライフストーリーの聞き取りとり及び、参与観察のデータを使用した。結果・考察は以下のとおりである。(1)政党の支持者であっても、多元主義の否定にかんする政党の主な主張とは正反対の主張を含む考えを有していたり、また状況に応じて実践が変化したりするなど、政治的な考えが「多重的」(モル 2016)に存在していた。(2)同じ政党の支持者間で、支持の背景、理由、関与の度合いの差異に依拠する「摩擦」(モル 2016)が観察された。(3)支持者の「多重的」な側面によって、場所や場面に応じて、多元主義の否定をめぐって即興的に周囲との「部分的つながり」(ストラザーン 2015)を作り出す場面が見られた。 引用文献 ストラザーン,マリリン, 2015, 大杉高司・浜田明範・田口陽子・丹羽充・里見龍樹訳『部分的つながり』水声社. ホックシールド, アーリー・ラッセル, 2018, 布施由紀子訳『壁の向こうの住人たち――アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』岩波書店. モル, アマネリー, 2016, 浜田明範・田口陽子訳『多としての身体――医療実践における存在論』水声社. Mudde, Cas, 2019, The Far Right Today, Medford: Polity Press.

報告番号321

「ろう者らしさ」はいかに主張されたか――D PROの活動の分析を通じて
立命館大学大学院 種村光太郎

戦前から現代にかけて、聞こえる人(聴者)たちは耳の聞こえない人たちに対して抑圧をしてきた。それは、聞こえない人たちの多くが話せない人であり、そのような「劣った人々」を音声中心の生活を営む聴者社会――つまりマジョリティ社会――で円滑に生活させるために、聞こえない人にとって不十分にしか獲得されない発音の訓練や、補聴器による残存聴力を活用したコミュニケーション、読唇術などを強いて、音声日本語の獲得を目指した教育を行ってきたために生まれたものである。しかし、そのような聞こえない人を「劣ったもの」として見る見方や、聴者の利便性に合わせたコミュニケーション方法を強いることは抑圧であるとして、1995年にろう者の木村晴美と、聴者の市田泰弘は、ろう者ならではの文化やろう者が使う自然言語としての「日本手話」の存在を主張する「ろう文化宣言」を発表した(市田・木村1995)。「ろう文化宣言」は、従来「聞こえる/聞こえない」という関係で捉えられていた聴者とろう者の関係を、「言語的少数者でない/言語的少数者である」と新しく定義したことで「ろう者」アイデンティティの基礎を作った。 既存の当事者運動や研究に対する「ろう文化宣言」の影響は大きく、聴者が知らない「日本手話」を用いるろう者(以下、「日本手話」話者)の実態を明らかにする研究へと展開した(金澤2013)。しかしその一方で、「ろう文化宣言」の提言などに代表される言語文化的な「ろう」という言葉の広がりにより、聞こえない当事者内部で「言語・文化的」な視点に馴染めない当事者を生み出す事態も生じている(種村 2025)。 特定のマイノリティ集団がマジョリティに対して 自身のアイデンティティや文化を認めさせる運動を 展開する際、特定の「らしさ」を意図的に本質化するアイデンティティ・ポリティクスが、意図せず「らしさ」にそぐわない「マイノリティ集団内のマイノリティ」を抑圧する事態は、しばしば指摘されてきた(e.g.松田 2009)。このマイノリティ内部で生じる抑圧の構造を解きほぐすためには、そのカテゴリーの本質化の原点がいかなる背景のもとで主張され、維持されているか、そして現代においてカテゴリーの本質化がそぐわない場面を検討することが必要である。 そこで本報告では、「ろう者」が言語的少数者であるという観点の運動の原点を辿り、その運動の意義と現代的な課題を検討する。具体的には、D PROという団体の活動における「ろう文化宣言」の位置づけの記述し、当時の社会における「ろう文化宣言」の意義と、現代における「ろう文化宣言」のもたらした「カテゴリーの本質化」の限界を検討していきたい。調査方法は、1990年代のD PROという団体が発行・記録している会報などの一次資料の分析、および団体の関係者や「ろう文化宣言」の著者市田泰弘やD PROの関係者へのインタビュー調査である。 【参考文献】 金澤貴之,2013,『手話の社会学――教育現場への手話導入における当事者性をめぐって』生活書院. 木村晴 美・市田泰弘,1995,「ろう文化宣言――言語的少数者としてのろう者」『現代思想』23(3): 354-362. 松田素二,2009,『日常人類学宣言!――生活世界の深層へ/から』世界思想社. 種村光太郎,2025,「ろう学生への情報保障の歴史研究――全日本ろう学生懇談会を事例として」『Core Ethics』21:165-76.

報告番号322

リサーチ・ベースド・アート実践における調査倫理の検討
東京藝術大学大学院 山田ゆり

リサーチ・ベースド・アート(以下RBA)は、参与観察や質的調査、フィールドワークなど、人文社会科学の調査手法を取り入れた作品制作を特徴とする現代美術の一形態である。1980年代以降、現代美術における「民族誌的転回」と呼ばれる世界的な動向が生まれ、アーティストによる調査行為が国内外で一般的なものとなった(山本 2019)。これまでBishopによりRBAの美学的分析はなされてきた(Bishop 2023)反面、調査手法自体の実践的な研究や倫理的な議論の整備は乏しいまま、個人の感覚や経験に依存する実践が主流となってきた(登 2024)。とりわけ調査対象者との同意形成や成果の共有などについては、作品の変容可能性や多義性という特性上、既存の調査倫理からの応用が難しい。瀬戸内国際芸術祭における杉本博司の作品など、いくつかのケースでそうした作品に関わる人々と制作活動の倫理的な摩擦が報告されている(宮本 2011)が、実際には非可視化されたより多くの問題が起きている可能性がある。  本発表の目的は、そうした表現活動における調査倫理を明確にし、その遵守のためにアーティスト側から実践可能な取り組みについて検討することで、より質の高い表現活動と社会貢献の両立に資することである。また、アートベース・リサーチ等芸術を用いた調査手法の発展にも寄与する可能性を探る。今回は国内外の著名アーティストの事例、またアーティストである筆者自身の実践を研究対象とし、芸術実践における調査特有の倫理的課題について論じる。  方法として、①RBAにおける社会学、文化人類学のリサーチ手法(質的調査、参与観察)からの影響を概観し、特に既存の社会調査における調査倫理のあり方との比較を行う。②前項の内容を前提として、国内外の調査行為を制作の主軸に置く著名作家の主要事例、また筆者自身のアーティストとしての実践の分析を行う。特に調査過程・表現・同意形成に関する出来事を分析対象とし、まずGillian Wearingの被写体との協働的な実践、Harun Farockiの被写体と編集の関係に言及した制作行為について論じる。それを踏まえ、筆者が制作者として行っている福島県西会津町の町民へのリサーチ、またドイツ−日本間の留学経験者へのインタビュー調査の二つの事例における調査対象者と筆者の関係性を分析する。それにより、芸術活動における調査手法の実態と課題について検討する。③最後に、RBA特有の倫理的問題への解決手段を、近接領域であるアートベース・リサーチの手法・事例(Leavy 2025)、ミュンスター彫刻プロジェクトにおける芸術家と市民の同意形成のための取り組みを参照しながら考察する。  以上の内容より、RBAにおける調査倫理は、予め設定された規範によって担保されるのみならず、制作過程において調査対象者との関係性を築く中で、対話を通じて不断に共同構築され続けるものであると明らかになった。そのためには、アーティスト自身が芸術表象の特性(作品の変容性・多義性)を対象者に明確に伝え、両者が共通の理解のもとに表現と調査の方向性をすり合わせるプロセスが不可欠である。今後の課題として、大規模な芸術祭のような説明機会がある場と異なり、個人のアーティストが小規模に活動する場合の、対象者との同意形成の場作りの可能性を検討していきたい。

報告番号323

いかにしてアート実践と社会調査分析を統合するか?――2つのアプローチからABRの可能性を論ずる
京都産業大学 金光淳

アートベース・リサーチ(ABR)は、意識変化、社会変革を促すために、「心を揺さぶる」実践的アート効果を利用し、遊び心に欠け、行き詰まりの見られる「メインストリーム社会学」研究に一石を投じる野心的アプローチである。これは「リサーチ(=実験)」そのものが「アート実践」となり、同時に「アート実践」が「リサーチ(成果)」となりうる点でユニークな双対性を有し、また社会関与的アート(SEA)でもある。今回の発表では、その実例報告により今後のABRの可能性を議論する。 第1の例は、「リサーチ(=実験)そのものが「アート実践」である場合である。具体的には、空洞から青空の開幕見える静寂な内部空間に水滴が溜まり、それが床面を流れるという「作品を展示する」豊島美術館前(それ自体がアート建築)で行ったアート作品鑑賞調査である(金光 淳, 2023)。まず鑑賞者に豊島美術館のイメージを(連想ネットワークで)言葉で視覚化してもらい、次に豊島の産業廃棄物の水溜りの写真を見せる。その後に再び、豊島美術館のイメージを言葉で視覚してもらい変化を見る。ほとんどの場合、認知は大きく変わるわけだが、ここでは社会調査者(リサーチャー)自体が触媒となり「一種のアーチスト」として鑑賞者(でもあり被調査者)として、社会調査という「アートイベント」の参加者となる。ここでは論文自体は「アート実践」の報告書である。鑑賞者による効果の違いも明らかにされる。 第2の例は、「アート実践」がリサーチ(成果)となりうる場合である。具体例として、有名な社会学的理論(スモールワールド理論)に基づいて行うメールアート実験である。これは1960〜70代にFluxusアーチストによって重用されたメールアートを、ターゲットに向けて到達する目的を持って連鎖していくアート実験に改変したものである。このメールアートによる「アート作品作り」では「特定のテーマ」に基づいた問いかけが行われ、参加者はこれに答えながら、「メール内容」を太らせていく。これはコラボラティブ・アートでもあり、この「協働アート作品」自体は、社会ネットワーク分析の対象となり、政治意識を刺激しつつ、メールがどのように繋がっていくかというスモールワールド理論を検証する「リサーチ=実験」の対象でもある。このような実験を学生の間の電子メールで行なったアート実験(昨年の日本社会学大会で発表した)がこれに相当する。また今年の岡山芸術交流のパブリックプログラムとして行われる予定の、手動伝送的メールアート・イベントもその例である。実は、ここでも「アートイベント」への参加者の変化もモニター(リサーチ)されており、「アート作品」としてのメールアートのチェーンは「リサーチ」の結果として計量分析され、展示したものは「アート作品として鑑賞できる」という複雑な関係にある。 このような複雑なアート実験は、従来のABRを優に超えており、十分に「計量化」され、「アートの効果」も評価・測定できるという意味でも統合的である点で、ABRの新たな可能性を示唆していると言える。

報告番号324

あなたのライフを作品にする――パブリック・スカラーとしてのABR
慶應義塾大学 岡原正幸

Keio ABRは、2015年11月に結成され今年10年を迎えます。慶應義塾大学社会学研究科の岡原ラボが、ABR実践に注力したユニットで、研究室の大学院生8名と共に組織したアクション・グループです。各種学会での発表、セッションやシンポジウムの企画、そしてもちろん、国際美術展やアートプロジェクトへの参加、地域への社会連携実践など、Keio ABR Festival開催など、夥しいアクションを行なってきました。論文や書籍も多数であり、この国の社会学におけるABRを文字通り孤軍奮闘して率いてきたわけです。 ここ数年は、いろいろな学問分野の若手がABRに関心を持ち、また「オートエスノグラフィと詩的探究」というグループが結成されたりと、大学院ゼミで10年前、学部ゼミでは25年前から、岡原が声高に推奨しつつも、外からは際物扱いされてきたABRへの関心や眼差しは大きく変わりました。  このKeio ABRのリーダーである岡原が、定年退職をするにあたり、ある一つのクラファン(慶應義塾大学とReady Forの連携)企画を、Keio ABRが提案し、465万円の資金を集めることができ、日本全国でパブリック・スカラーとして人々の社会学的実践が7本の作品に結実しました。 この報告は、この企画についての総括的な発信となります。この企画の発端は「生と感情の社会学」という授業でした。 私が「生と感情の社会学」の授業を受けて衝撃的だったのは、ある他者のライフを描いた演劇を見たときである。それは非常にアート的で文学的だったが、主人公の女子高生の心情がよく表現されていて、彼女は私自身なのではないかと、演劇を通して無意識に私は彼女の生を追体験し、彼女のライフを自分のライフになぞらえて、感受していた。彼女の本音が明らかになったとき、私も自分の中で何かを見つけたような、そんなエンパワーされる経験をした。(熊澤あいみ 2022年度文学部卒業) 2年半に及ぶ活動はこの11月に成果発表、年度末までにカタログ制作で一応終えます。本プロジェクトの説明です、 自分のライフストーリーをシェアし、それを素材に演劇的な身体表現を行う。これまでにない新しい形で自分のライフを共有したり、人のライフに触れたりすることで、平凡だと思っていた自分のライフに価値や美しさ、尊さを見出す不思議な体験。 ひとはひとのライフの証人になることで自分自身もエンパワーされる。 ひとはひとに自分のライフを語ることで、そのひとからの承認をうけてエンパワーされる。これは、アートベース・リサーチ(ABR)を用いた新たな研究方法です。 7つの作品企画は *オートエスノグラフィック・ポエトリー 九州地域で実施 *コロナ禍の医療従事者の語り 関東東北地域で実施 *『1973』同年生まれの3人の女性のライフを撮る(京都、富山、東京)協働的オートエスノグラフィック・シネマ *ライフストーリーシネマ 3本のショートムービーオムニバスと1本の長編ドキュメンタリー(『Three Faces』『ホモ・アフェクトス』) *パフォーマンス・エスノグラフィ 大阪地域で実施 ライフとパフォーマンスアート *ダンスとライフ 名古屋で実施 *『早稲田をめぐり、語りに出会うツアー』 東京で制作される5人のライフをめぐるツアーパフォーマンス 上記作品群6月時点でタイトル確定は『1973』のみです。

報告番号325

ライフの演劇化
慶應義塾大学大学院 熊澤あいみ

本報告は、慶應義塾大学クラウドファンディングにて2023年夏に成立した企画「あなたのライフを作品化する」のなかで、主に東京に在住の5名のライフの語りをベースにした演劇作品『(仮題)』の参加者=研究者=表現者=オートエスノグラフィストである私が、感じたこと、考えたことなどを報告する。 「あなたのライフを作品化する」の研究概要は、同じテーマセッションの岡原報告に譲り、ここでは7つの企画群の中で、演劇作品として構想された『(仮題)』を取り上げる。 岡原正幸が担当する慶應義塾大学文学部専門科目「感情社会学」は公開授業とされていて、卒業生や通信教育課程で学ぶ学生も履修可能だった。また2024年秋は、旧三田図書館を芸術公社(相馬千秋)が改装して作られた「みなとコモンズ」の開館とあいまって、相馬と知り合いだった岡原は授業を教室やキャンパスではなく、みなとコモンズで実施する。この授業では、参加者30名が自分のライフイベントを素材にして、そのライフイベントで経験される感情に関心を向けつつ、簡単な演劇作品を数名のグループで制作し発表することが内容だった。そしてここに参加していた4名が岡原に誘われ、クラファンの企画作品として立ち上がることになる。岡原自身もライフの提供者となり「5人ライフを演劇化する」というプロジェクト名で作業が進行される。途中で、岡原が理事長を務める一般社団法人岡原ゼミのメンバーにも声がかけられ、劇団岡ゼミというユニットで活動が開始された。 作業工程は、定期的にメンバーが集まり、順番に自分のライフの語りを繰り返し行う。語り手は自分の人生を自由に語る。聞き手は1回目は傾聴、2回目、3回目以降は質問も適宜挟まれるようになった。5人がそれぞれライフストーリーの聞き取りを行いつつ、当初は、戯曲化して、舞台で上演することを目的に、稽古合宿なども想定されていた。だが、それぞれのライフを一つの物語の流れで交差させてしまうことでライフの個別性が消失すると考え、表現形式が練られた。結果、早稲田大学の文化祭期間中にキャンパスに偏在する5人がそれぞれ自分のライフを朗読し、鑑賞者は、ツアーとして早稲田キャンパスを巡るという形になる。早稲田祭という熱狂の中で、小声で語られる人生を人は聞き取ることができるのか? この報告では、上演当日の映像、5人のうち1人の朗読、そして私の考えを語ることで、マルチモーダルに本作品を探る。

報告番号326

COVID-19のパンデミック中に医療職として従事していた者達の語り
慶應義塾大学 金澤悠喜

本報告は、アートベース・リサーチ(ABR)を用いて、COVID-19のパンデミック中に医療職として従事していた者達の語りを作品とした研究報告である。本研究は、あるクラファン(慶應義塾大学とReady Forの連携)企画の1つとして開始された。慶應義塾大学社会学研究科の岡原ラボがABR実践に注力したユニットであるKeio ABRが提案し、クラファン企画が立ち上がったものである。 医療の世界は、患者にとっては非日常であるが、医療従事者にとっては日常である。人の生死に関わり、人のライフストーリーの変化に直結し、それに寄り添う中で感情が揺さぶられることも多い。葛藤・悲観・歓喜・喪失・恐怖などを内面に抱えていても、医療従事者としての義務感や使命感のもと、表に出すことなく日常生活を送っている。そのような医療従事者が、抱えている感情や経験を内に閉じ込めず、ABRを用いて表現していくことで、人々がエンパワーできるのではないかと考えている。 COVID-19のパンデミックでは、医療従事者が注目されるようになり、ニュースやドキュメンタリーで医療従事者のライフストーリーが紹介されるようになった。しかし、COVID-19のパンデミックが落ち着けば、注目されることはない。そこで、本研究では、COVID-19のパンデミックを振り返りながら、医療従事者各々の日常の経験や思いを語り、さらに医療従事者同士が語り合い、その語り合いから派生した気持ちが揺さぶられた思いなどを表現してもらった。 COVID-19のパンデミック中の医療従事者は、ロックダウンにあっても勤務し続け、医療を提供するために従事することは変わらなかった人たちである。語りには、COVID-19のパンデミックだったから非常に大変になったということよりも、日常で患者と接する中で、生きるということ、死ぬということ、自身とは違う環境や価値観の違う方々に接するということ、育つということ、老いるということ、患者の家族にはなれない立場であるということ、などの医療環境下の中での社会だからこそ経験している医療従事者のライフストーリーが語られた。COVID-19のパンデミックだからどうこうではない、日常の心の葛藤、心的外傷などへの対処を通して、心の安寧、セルフマネジメントを行い医療に従事していくありようが表現されたのである。 医療従事者として、患者の個人情報を守りながら語られる内容も、医療従事者ならではの語りであった。医療従事者としての責任を全うしながらも自らの思いを語る医療従事者、その語りを聞きつつ反応する医療従事者が、共感し合い、エンパワーしていく様相が大変興味深く表現された研究と言える。参加した医療従事者のエンパワーしていく様相を他の医療職や、医療を目指す者、あるいは、いつか患者となり得る者、患者やその家族であった者達が、見たり聞いたりすることによって、さらにエンパワーされる可能性が高いと考えられる。

報告番号327

存在しない語り手――ライフストーリードキュメンタリーにおける人称の再構築
東京藝術大学大学院 小田浩之

2024年、社会学者・岡原正幸氏から、氏のライフストーリーをテーマとしたドキュメンタリー映画の制作依頼を受けた。本報告は、ABR実践の中で試みたナラティブ構造について報告するものである。 本作の制作において、単なる「ありきたりな人生談」に終始しないこと、そして作家(映画監督)のヴィジョンを作品に投影することを基本方針とした。そのために、ナラティブ・ストーリーテリングの手法を積極的に導入したが、結果として映像表現における「語り」の問題に直面することになった。つまり「人称」に関する映像表現上の構造的問題である。 映像においては主語、述語といった構文設定が成り立たない(小栗 2005:31)。特に「語り手」が誰であるかは常に不明確である。岡原氏が自身の人生を語っていても、カメラを介することで、その語りは一人称として機能しなくなる。 この問題に対して、本作では一人称的語りが成立しない構造を逆手に取り、存在しない語り部による二人称的語りを用いるという実験的手法を採用した。 岡原氏自身、氏が執筆した戯曲の中で、現在の自分(僕)と過去の自分(私)を同時に登場させる二人会話劇(『あるいは、わすれもの』)や、四人の自分自身を登場させ、過去をリレー形式で循環して語る朗読劇(『最初の給料日』)を執筆している。 これら岡原氏の戯曲から着想を得、岡原氏の分身を「メタ的存在」として設定し語らせた。そして岡原氏によりこれまで語られることのなかった“あの人”も登場させ、岡原のライフを語らせている。この語り部達を通じて、映画の作り手である作家の視点が岡原氏の人生へと入り込み、作家の内面とのシンクロナイズを図る構造を模索した。 この二人称的語りというナラティブ実験は、ライフストーリードキュメンタリーの語り構造に新たな可能性を示した。対象本人による語りをそのまま記録する従来のドキュメンタリー形式では、語り手=主人公=発話主体という構図が暗黙の前提とされることが多いが、それは録画された時空の中の括弧付きの語り手でしかない。そうでなければカメラを構えているのは誰か?カメラの前では誰も本質的な主体にはなれないのだ。 本作ではそのあやふやな前提を意図的に暴き、解体し、語られるべき人生と語りの声とが分離された構造を成立させた。 この手法によって、岡原氏の人生が持つ個別的な真実と、語り部を代理人とした作家の想像力や価値観とが重なり合う空間が創出された。語り部による二人称的な語りは、観客にとって「語り部と岡原氏との関係性」を常に意識させ、なおかつ、その言葉と内容は、リアルなのか、フィクションなのか、という問いを常に投げかける装置として機能し、ライフストーリーのフィクショナリティを批評的に浮かび上がらせる。 また、語り手を、現在存在しない人物とすることで、ドキュメンタリーそのものが持つ「記録」と「物語」の境界に潜む潜在的なフィクション性を露出させた。 本作は、作家のヴィジョンを媒介としながら語られる岡原正幸のライフストーリーであり、ABR実践における「語り」の再考に寄与した実験となった。 本編は長編であるため、本セッションでは、本編に挿入される岡原氏の戯曲パートを抜粋して上映する。(監督:小田浩之、出演:岡原正幸・山城力/影) 参考文献『映画を見る眼』小栗康平(日本放送出版協会, 2005)

報告番号328

韓国系ニューカマー第二世代が大学進学に至る過程
京都大学大学院 韓在賢

【背景と目的】近年、移民第二世代、特にニューカマー第二世代の研究の増加が目立つ。その中でも教育達成に関する研究の蓄積は分厚くなっている。しかし、本研究の対象となる韓国系への研究関心は十分に注がれてこなかった。そもそも、統計上、日本最大のマイノリティである「在日コリアン(オールドカマー)」の陰に隠れてしまい、正確なデータを取ることができないという問題はあるものの、韓国系ニューカマー第二世代は、日本人の子どもとほとんど同等の教育達成を果たしていることで、日本社会に適応しているとみなされてきたためである。また、清水ほか(2021)によれば、ホスト国文化志向型(メリトクラシー型)やハイブリッド型が大学進学に至りやすいと考えられてきたが、韓国系はアイデンティティにかかわらず高い学業達成を果たしていた。そこで、本報告では、移民をルーツにもつ人々には難しいとされてきた大学進学を、韓国系ニューカマー第二世代がどのように果たしてきたのか、彼らの教育過程に着目して明らかにする。また、そこにエスニックな教育資源(韓国語教育など)がどのように彼らの進路選択に作用したのかも明らかにする。樋口・稲葉(2018)が指摘するように、外国をルーツにもつ子どもたちの大学進学率は上がってきているものの、「学校歴」には大きな差があることが指摘されている。報告者の調査では、日本の難関国公立大学や難関私立大学、韓国の難関大学に通っている者が多数見られ、高い学校歴を果たした過程を明らかにすることができる。 【方法】2023年6月から2025年現在にかけて行ってきた生活史調査をもとに、分析を行う。18歳から40歳の若者に限定したが、対象者の中には、日本の一条校(一般的な公立、私立、国立学校)を通ってきた者、韓国系の学校に通った者、インターナショナル学校に通った者などが含まれている。彼らの語りから聞いた親の教育戦略、および学校での経験が、彼らの大学選択や入試での戦略にどのように結びついていったのか、語りをもとに分析する。 【結果・結論】親の学歴の高さもある程度指摘できるが、親が低学歴であっても子供は高学歴化している様子が見られた。高校から大学への移行に関しては、通っている学校の特色(進学校、推薦利用者が多い学校など)によって、入試の戦略が異なる様子が見られた。つまり、日本人と同じような進学選択をしており、特にアイデンティティのあり方によって進路が異なる様子は見られなかった。しかし、韓国系に特有な進路も見られ、比較的外国籍の生徒が多く在籍する高校や韓国系の高校(中学)に通った経験を持つ者、日本の中高一貫校に所属していた者も見られ、日本人だけではない環境、もしくは日本人がいたとしてもある程度選別されているような学校を選ぶ傾向にあった。これらは、子どもがいじめに遭わずに勉強できる環境を整えたり、韓国語の習得を家庭だけでなく学校にも頼ったりする親の戦略だと捉えることができる。また、その学校が持っているノウハウなどを利用して、韓国や日本の有名大学に進学していく様子が見られ、高校が持っている進学ルートが韓国系の高学歴化を担っていると考えられる。

報告番号329

クルド人集住地域における複数の線引き――クルド人支援団体が開く日本語教室の記録から
東京大学大学院 澁谷理子

埼玉県川口・蕨市には、2023年末時点で1,200人の在日トルコ国籍者が住んでいる。このほとんどが、トルコ系クルド人であると見られており、埼玉県川口・蕨市はトルコ系クルド人の集住地域となっている。クルド人は、難民申請をしている人が多いことが特徴で、1,200人の在日トルコ国籍者のうち、難民申請中の人々の多くが保持していると考えられる「特定活動」の在留資格を持つ者は839人に上る。トルコ国籍の難民申請者は、日本ではそのほとんどが不認定となり、在留資格を失う。それ故、川口・蕨市には、統計に表れてこない在留資格を失った非正規移民も多く住んでいることが予想される。 近年、クルド人を取り巻く状況には変化がみられている。一つ目の変化は、2023年に国会を通過し、2024年に施行された改定入管法である。この改定入管法により、これまでは難民申請中であれば一律に強制送還はされなかったが、3回目以降の難民申請者の送還が可能になった。さらに、学齢期の子どもがいる家庭には、一定の条件のもと、家族一体で在留資格が降りる特例措置も取られた。そのため、ある家庭には在留資格が付与され、ある家庭には付与されないという事態も起こった。このような事情から、クルド人が在留資格を意識させられる場面は増加し、在留資格を保持しているかという、滞在の「合法/不法」の線引きが生まれた。 二つ目の変化は、ヘイトスピーチの高まりである。入管法改定の議論が国会で行われた時期と同時期から、クルド人に対するヘイトスピーチが繰り返しなされるようになってきた。具体的には、クルド人は「不法滞在者」、「ルールを守らない」などというヘイトスピーチが行われている。そうしたヘイトスピーチへの対抗という文脈の中、「地域に溶け込もうと頑張っているクルド人もいる」という言説が生まれ、「いいクルド人」と「悪いクルド人」の間に新たな線引きがなされている場面が見受けられた。 本報告では、クルド人集住地域にてクルド人支援団体が開く日本語教室で、筆者が2023年11月から約2年に及んで継続的に参与観察を行なった記録に基づいて報告する。そして、上記の近年の変化を念頭に入れつつ、クルド人集住地域、クルド人支援団体において複数の線引きがいかに作用・交差しているのか、またそれへの抵抗がいかになされているのかを分析する。加えて、2年という時間軸の中で、クルド人支援団体の中でいかなる変容が見られるかという点にも着目する。

報告番号330

「高度人材」の影にある現実:日本のIT業界における中国人派遣労働者の制度的ジレンマ
東京大学大学院 卜新哲

【背景と目的】 日本のソフトウェアエンジニアに対する人材需要の高まりを背景に、高度な技能を有する中国人IT労働者の受け入れが増加しており、このような中国人の多くが、「華派」または「華人派遣」と俗称されるエスニック・ネットワークに基づいたIT系派遣会社(主にSystem Engineering Service(以下、SES企業)を介して、日本の労働市場へ参入する傾向にある。このような「華派」の外国人IT人材受け入れモデルは、越境的な雇用メカニズムとして日本に着実に浸透しつつあるが、学術的研究は限定的である。そこで本報告は、華派関係者に対する調査をもとに、華派に所属する中国人労働者が直面する困難や葛藤を示す。さらに、華派モデルにおけるフォーマル・インフォーマルな制度的構造が移民制度やIT産業の構造と重なる中で、こうした困難を生んでいることを明らかにする。 【方法】 本研究は2024年から2025年にかけて報告者が実施した、来日中のIT系派遣労働者16名を対象とした半構造化インタビューのデータを主たる資料とする。対象者は、SES企業である「華派」を通じて、システム・インテグレーター(SIer)やその下請け企業へと派遣される形で就労している。加えて、派遣企業の経営者・人事担当者・マネジメント層にもインタビューを行った。本報告では特に華派の問題が典型的に現れているCの事例を中心に扱う。 【結果】 華派を経由して来日した中国人労働者は、制度上は「高度人材」として分類されるものの、その地位と著しく乖離した待遇や職務内容にいることを示している。多重下請構造の中で、元請けとなる日系SIer企業は、外国人IT派遣労働者を「柔軟に代替可能な安価な労働力」として捉えており、昇進機会は乏しく、担当業務も単調で機械的なものに限定される傾向が強い。一方、華派企業側も労働者を「流動的で収益性の高いリソース」として扱っている。 労働者たちはこの構造的な問題を理解しつつも、華派に対する依存を深めていた。Cもまた、華派の就労環境や搾取的構造に対する不満を抱きながらも、同組織にとどまる決断をしている。Cは日本での永住を最終目標としているが、正社員としての直接雇用は困難であるため、華派を日本社会に滞在するための足がかりとしている。さらにCが所属する華派企業は高度外国人材に対する加点制度の対象であるため、永住を最終目標としているCにとって大きなメリットとなる。 しかし、こうした華派がもたらす恩恵は、逆説的にインフォーマルな制度的抑圧を支えている。Cは華派からの支援を受けることにより、「恩恵を受けている以上、中国人として中国人のルールに従うべきだ」といったエスニックな同調圧力に晒されていた。その結果、たとえ労働条件に不満があっても、コミュニティからの排除を危惧し、法的手段による自己防衛や企業への異議申し立てを断念し、忍耐を強いられていた。このように、Cの事例は将来的な希望と制度的な拘束とが交錯するなかで、自発性と強制性の狭間で、不平等な労働関係が「甘美な罠」として日常的に再生産されている実態を示している。 【考察】 Cの事例は日本の政策的枠組みにおける「高度人材」が、移民制度、産業構造、華派の受け入れモデルによる多重の制度的構造の中で、低価値な労働力として利用されていることを示唆している。「高度人材」という表現はこのような現状を覆い隠している可能がある。

報告番号331

日本における中国籍移民の家族形成と就業
立教大学 李雯雯
立命館大学 筒井淳也

【1.目的】 本報告の目的は、全国調査データを用いて日本在住の中国籍移民の家族形成と就業の特徴を、国籍間比較を通じて検証することにある。永吉(2022)は、人的資本や社会関係資本の蓄積の視点から在日外国人の階層的地位達成を検証し、その就業が政策や労働市場など制度的制約を強く受けること、日本語能力や就業経験の向上がもたらす上方移動が極めて限定的であると指摘した。他方で、外国人住民の増加や滞在の長期化に伴い、あらためて日本人との比較可能な量的データを用いて外国籍住人の就業や結婚をめぐるライフコースを検証する必要性もでてきている。ただ、比較可能な量的データの制約から、こういった研究は依然として限られている。本研究では、日本人を対象とする全国調査と在日外国人を対象とする調査を統合し、共通の変数構造を構築した上で、国籍・性別・世代・教育・婚姻状態・同居家族といった要素と就業形態との関係を検証し、移民の家族構成と就業との関連を明らかにすることを試みる。 【2.方法】 分析には、日本人を対象とした「第4回全国家族調査 (NFRJ18)」と、在日外国人を対象とした「くらしと仕事に関する外国籍市民調査」を統合した個票データを用いた。いずれの調査も2018年に実施されており、時点の整合性に優れた比較が可能である。本分析では、日本、中国、韓国・朝鮮、フィリピン、ブラジルの6国籍に着目した。就業形態を「正規雇用」「非正規雇用」「自営業・経営者」などに分類したうえで、性別・年代層・学歴・婚姻状態・同居家族を統制変数として多項ロジスティック回帰分析を行った。 【3.結果】 分析の結果、国籍によって有意な就業形態の違いが見られた。とりわけ韓国・朝鮮籍では経営者の割合が高く、中国籍でも短大以上の学歴を持つ層で経営者の割合が有意に高い傾向がみられた。一方、フィリピン籍ではパート・アルバイト就業が顕著であり、大学以上の学歴を有する層でもこの傾向は変わらなかった。また、未婚および離別者は既婚者と比べ、パート・アルバイト就業の割合が一貫して高かった。全体的に移民の派遣・契約・嘱託就業の割合は高く、中国籍の高学歴層ではこの傾向が弱いが、他国籍では学歴による緩和効果が見られなかった。また、就業形態におけるジェンダー差は、中国籍を含めて日本人と有意な差が見られなかった。 【4.考察】 以上の結果から、在日外国人の就業構造は国籍や学歴、婚姻状況と密接に関連していることが示された。とくに、東アジア諸国出身者においては経営者としての自立的な就業形態が比較的多く、フィリピンやブラジル出身者では非正規雇用への集中が確認された。このことは、「就業」と「家族形成」が分離された生活戦略をとっている移民層の存在を示唆しているが、他方でジェンダーの面では日本人との顕著な差がみられなかった。特に日本での高等教育を経験する割合が高い中国籍においても、日本人と類似した性別分業がみられることが示唆された。 【参考文献】 永吉希久子,2022,『日本の移民統合————全国調査から見る現状と障壁〔第2版〕』明石書店.

報告番号332

実践経験としてのエスニック・メディア――接触領域の「耕し方」とその継承のかたち
東京経済大学 町村敬志

本報告の目的は、エスニック・メディアの制作とそこからの離脱を経験したアクターたちの行路をたどることにより、移動者/定住者の接触領域を経済的・政治的・文化的に「耕す」実践としてのメディア形成が、グローバリゼーションやデジタル化などメディア・エコロジーの劇的変容の下でどのような軌跡をたどり、形を変えながらいかに継承されてきたかを明らかにすることにある。 【1.背景と課題】 エスニック・メディアは、貧困や抑圧に対し越境による打開を求めた移民が異郷で作り出したローカルなメディアに淵源がある(Park 1922)。1980年代から展開した「グローバリゼーション」は、モノ・ヒト・資本・情報の越境的な移動を増大させ、移住者メディアは再び注目を集めた(Riggins 1992;)。日本も例外ではなかった。しかしインターネットの普及とともにメディア環境は劇的に変化した(Yu & Matsaganis 2019)。エスニック・メディアは、移動インフラ、移住者の苦悩や理想、抵抗や欲望の表出回路、利益追求と起業の手段、移住者の異化・同化を促す対極的装置、ポストコロニアルな心性や揺れる心情を映し出す鏡、遠隔地ナショナリズムの揺籃など複合的役割を果たした。状況が変化してもこれら役割の意義は失われない。では何が代替したのか。そもそもエスニック・メディアに関わった人びとはどこに行ったのか。 【2.方法】 報告者は、インターネット台頭前に叢生したエスニック・メディアについて、所在を確認するアーカイブ的調査を実施した(1990年代)。それらを含むメディアの軌跡を確認するため、元・現制作者を対象とするインタビュー調査を新たに実施した(2023~25年)。在日コリアン、ブラジル人、ペルー人、日本人など20名あまりを対象に、制作に至る経緯、環境変容への対応と持続努力、撤退とその後の行路などを尋ねる半構造化インタビューを実施した。 【3.結果】第一に、エスニック・メディアは移住者にとって目標ではなく通過点であった。そこでは、出身社会/ホスト社会の接点に生起する情報を立場や条件に応じて選り分け、序列化し、象徴的に再呈示する技法(「編集」)が育まれた。第二に、短命ではあったが、水面下には、応分な知識・スキル、資本・労働、インフラ・流通手段、報われることの多くない実践へと自らを投企させる動機などの条件が存在した。それらは、「編集」経験と併せ、「何とかやり抜く」技芸として担い手に内在化された。第三に、資金力ある非営利組織やニッチ企業が支える例外を除くと、旧来型メディアはほぼ姿を消した。しかし蒔かれた「種」は多様な形で継承され、移住者/ホスト社会の接触領域を肥沃なものとする役割を果たした。第四に、蒔かれた種が成果を残すかどうかは、担い手が、環境変化に応じたマネジメント力やデジタル化対応力をもつか否かに依存していた。第五に、これら力は(出身国/日本の)出身階層や教育歴、世代、言語、支援により差があり、集団間の生活機会格差を生み出した。 【4.討論】エスニック・メディアの役割の一部はSNSによって代替された。SNSは「編集」行為の汎用化という点で断絶ではなく継承という面をもつ。ただしマイクロメディアが生み出す「小さな」公論形成の試みが連帯を促進するのか分断を助長するのかは、丁寧な分析が必要である。(科学研究費基盤研究(課題番号22K01921)助成)

報告番号333

地域社会に根ざした多文化共生の可能性と課題――宮城県石巻市における住民インタビュー調査から
仙台青葉学院短期大学 小野寺修

近年、日本の基礎自治体では外国人住民の増加に伴い、多文化共生の重要性が高まっている。一部の自治体を除いて、ほとんどの自治体で人口が減少するなか、もともと外国人住民が占める割合が高くない非集住地域でさえも、外国人住民の存在に期待する自治体が増えてきている。しかし、こうした取り組みは一律に設計されがちであり、地域社会ごとの特性や住民の実感を十分に反映していない場合も多い。そのようななかで、基礎自治体レベルでの多文化共生のあり方が問われていると考える。とりわけ、住民の日常的な関係性や生活課題に根ざした支援の構築は、全国一律の施策だけでは対応が難しく、地域社会ごとに異なる文脈に即した実践が求められている。そこで、本研究では、宮城県石巻市において実施した日本人住民および外国人住民へのインタビュー調査を通じて、地域社会ごとに求められる多文化共生のかたちを明らかにすることを目的とする。 調査方法については,2023年6月から2024年8月にかけて、宮城県石巻市在住の日本人住民と外国人住民を対象に、半構造化によるインタビュー調査を行った。石巻市を対象地としたのは、東日本大震災からの復興には外国人住民の存在が不可欠であったことが理由である。基幹産業である水産業を中心に、特に技能実習や特定技能で働く外国人たちによって支えられている。 分析の結果、石巻市における日本人住民による外国人住民との共生のための取り組みとして、漁船漁業を中心とした水産業においては、地域性を活かして外国人住民との社会的なつながりの構築を試みている。その過程には外国人住民を東日本大震災からの復興に必要な労働力とする捉え方から、ともに地域で生活する住民であるという受容意識への転換が図られ、社会的包摂に取り組む事例もみられた。また、技能実習制度を本来の目的に沿った見直しや捉えなおしに取り組む日本人住民の姿もあった。技能実習生が日本で得た技能を母国の発展に活かすための取り組みでは、帰国後のキャリアアップに寄与するための人材を育成するという外国人住民とのかかわりから、技能移転の内発的発展(二階堂 2021)の可能性が見受けられた。母国への帰国後のことまでを念頭に置いた取り組みが、結果として外国人住民が、石巻で継続的に安定して職に就き、地域に定着することにもつながっている。 外国人を人手不足というマイナス部分を補っていく存在としかみなさないとする従来の考え方からの転換点を迎えている。人口減少が深刻な東北地方においては,豊かな自然や伝統産業を活かした地場産業が各地域にあり、非集住地域における地域創生に外国人住民の定着や定住が今後ますます重要になる。そのためには、それぞれの地域社会における取り組みを参考にしながら、地域社会ごとの特性を活かした取り組みが求められると考える。

報告番号334

A social well-being study on the impact of childhood relationships and family on human development
亜細亜大学 石田幸生

【1. Aim】 This research report is part of studies examining the impact of childhood relationships and family on human development. Individuals living in today’s modern society are surrounded by various and intimate relationships, which are vital part of social life. However, intimate relationships have a constantly changing nature in terms of its quality. Which experiences and characteristics of family relationships during the early years of life and childhood can positively impact mental health strengths such as happiness and emotional satisfaction? Which family relationships and characteristics positively impact personality strengths such as self-esteem and self-determination? What is the essential significance of face-to-face conversation and direct interaction in such relationships? What important factors contribute to long-term positive and intimate relationships within a family? Examining the above questions in depth will provide insight into the impact of childhood relationships and family on human development as studied in social well-being research. 【2. Data&Methods】 This study focuses on family and intimate relationships, as well as the social experiences and social exchanges shared within them. Specifically, the study will focus on a literature review and qualitative research on parent-child relationships among others. Family relationships and characteristic childhood experiences will be clarified through various qualitative data analysis. The possibility of corresponding issues will be investigated. 【3. Results】 This study identified several important factors that positively impact children’s lives. One factor is having at least one adult who is always around, paying attention, and taking care of the child. A family is both a socio-group that comes together to accomplish various working task and a psyche-group that comes together for the pure joy and happiness itself. Rather than choosing one or the other, it is important to pay attention to both functions. Having at least one understanding close person can help overcome future difficulties and disagreements. It is important to have someone who can positively influence the child’s human development and their long-term relationships. However, depending on only one person can lead to codependence, which may become a problem that can significantly impact one’s life. To avoid this, it is important to have more than one person to support within. 【4. Conclusion】 Intimate relationships are shaped by social context, personal circumstances, and the process of growing up. Families are one’s innate destiny, and relationships we establish depend on the choices we make and how we interact with each other. The characteristics of families and intimate relationships during childhood have a significant impact on social wellbeing, including long-term health, happiness, and personal human development in life.

報告番号335

大学休学・留年経験者の質的研究――両者の経験に対する意味づけの差異に着目して
東京大学大学院 近森由佳

本研究は,大学学部の休学経験者と留年経験者にインタビュー調査を行い,両者にとってそれぞれの経験に対する意味づけの差異を明らかにすることを目的とする. 日本では,大学から職業への移行に関して,新規学卒一括採用という移行システムを背景として,日本の大学は入学するのは大変であるが卒業は簡単といわれてきた.そのため,大学在学中の多様な進路,具体的には,退学・留年・休学・転学等は,社会学的研究の中でも,相対的に進展が遅れてきた領域である(小方 2021). 一方,トロウ, M(1976)の高等教育システムの発展段階論によると,高等教育システムの拡大は学生の多様化をもたらし,学生の多様化によって中退や休学は増加する.すなわち,高等教育制度の段階において,エリート型,マス型,ユニバーサル型へと移行するごとに中退や休学は増加するというのだ.加えて,修業年限での卒業・修了にとどまらない就学形態としては,留年や転学もトロウの議論の延長線上にあると考えられる(立石・小方 2016). 日本の高等教育システムの段階はユニバーサル型に突入しており,理論的には中退や休学も増加するということになろう.本研究の対象となる休学についてだが,令和5(2023)年度,全国の国公私立,短期大学,大学院及び高等専門学校の正規生における休学者数は89,201人で,学生数に占める休学者数の割合は2.95%であった.上位の休学理由には,海外留学,精神疾患,経済的困窮などが挙がる(文部科学省 2024).休学や留年をすることの影響に関して,留年について進級や卒業に必要な単位が不足するため,学生にとっては学費や就職面への影響があるという(小方 2021).実際に修業形態や年収への負の影響があることも指摘されている(太田・萩原 2016).ただし,休学は,留年と異なり,その発生自体で影響を問うことは難しいという議論もある(小方 2021).休学と留年,当事者にとってどのような差異があるのかは検討されてきていない. そのため,本研究では休学経験もしくは留年経験がある大学生にインタビュー調査を行い,当事者にとっての休学・留年経験に対する意味づけを明らかにする.当事者の主観による休学と留年の影響の比較を行うことを目指す. <参考文献> 小方直幸,2021,「Ⅲ 大学を出てから 6 退学・留年・休学・転学」,橋本鉱市・阿曽沼明裕編著,『よくわかる高等教育論』: 30-1. トロウ, M., 天野郁夫・喜多村和之訳,1976,『高学歴社会の大学――エリートからマスへ』東京大学出版会. 立石慎二・小方直幸,2016,「大学生の退学と留年――その発生のメカニズムと抑制可能性」『高等教育研究』19: 123-43. 文部科学省,2024,『令和5年度 学生の中途退学者・休学者数の調査結果について』 太田聰一・萩原牧子,2016,「大学卒業時の選択の短期的,長期的効果――ストレートvs大卒無業vs留年vs大学院2年進学」『Works Discussion Paper Series』15: 1-17.

報告番号336

「やりたいこと」言説は若者に何をもたらしてきたか――社会的背景の変化に着目して
関西学院大学大学院 和藤仁

本報告では、若者論においてしばしば注目されてきた「やりたいこと」言説について、その質的変容を時代背景の変遷に注目して検討する。 「やりたいこと」言説は、主に学校から職業への移行(トランジション)の文脈で注目されてきた。そのきっかけは就職氷河期であり、若者の就職難と労働観の変化との関連において検討されてきた(寺崎 2009)。橋口(2006)は、就職難によって学卒無業者(以降「フリーター」とする)となった若者による「やりたいこと」言説について、以下のように整理している。橋口は、論考執筆時点での「やりたいこと」言説研究を①脱近代・脱学校グループ②困難グループ③ごまかしグループ④進路指導グループの4つに分類している。①脱近代・脱学校グループに関しては、上野(2001)における脱近代的青年像の議論であるため他のものとは質的に異なるとした上で、そのほかの研究群は、どれも概ね就職氷河期における就職難がもたらした社会的移行の困難に紐づけられたものとして整理がなされている。近年の研究(野村 2023など)でも、若者が「やりたいこと」の実現を目指す過程でフリーターとなる様子が示されている。 一方でフリーターに限らないトランジションにおいても、その語用と機能については検討されてきた。妹尾(2015)では、就職活動における「やりたいこと」と内定獲得との関係について、就職活動開始前に「やりたいこと」が明確化しているかではなく、活動の過程で明確化されることが内定獲得と関連していることを明らかにした。さらに妹尾(2023)では、就活生の志望先選定において語られる「やりたいこと」が、どのような機能を果たしているかを明らかにした。以上から「やりたいこと」言説は、トランジション経験にまつわる言説として、そして、その経験に付随する困難性に付随する形では注目されてきたと整理することができる。 しかし、未だ検討が不十分な点もある。それは、「やりたいこと」が語られる社会的背景への目配せである。例えば、2025年現在就職難はすでに過ぎ去り、労働市場は概ね売り手であると言えよう(リクルート 2024)。近藤(2024)が2013年卒までを就職難と位置付けているように、2014年度卒以降は(コロナ禍に見舞われていた一時期を除いて)売り手市場の様相が一貫している。大卒就職市場における就活生は、正規雇用獲得はすでに所与のものとして考えている(妹尾 2023)。ここから、現在の若者が語る「やりたいこと」とその機能は、その昔就職氷河期下に用いられたそれとは質的に異なっているという可能性は十分に指摘されうるだろう。 以上から本報告では、若者の語る「やりたいこと」言説とその質的変容について、先行研究の整理と具体的な事例の検討を通して示す。本報告の意義は、若者の不安定なアイデンティティを検討する際に用いられる「やりたいこと」言説研究がもたらしうる示唆について、現在的な適用範囲を示すという点である。

報告番号337

「青春」概念はどのように用いられてきたか――フィクション作家コミュニティの語りを中心に
熊本学園大学 佐川宏迪

1.研究の目的 本発表では1960年代に焦点を当てつつ、フィクション作家コミュニティにおいて「青春」という概念がどのように用いられてきたのかを検討する。三浦雅士は、近代日本文学とそれを取り巻く社会状況に目を配りながら「青春の規範とは根源的かつ急進的に生きることにほかならなかった」(三浦 2001 :438p)と述べている。そして「1960年代を最後に、青春という言葉はその輝きを急速に失って」いった(三浦 2001 :8p)。他方で、石岡学(2024)が指摘するように、かつて長い学生時代を享受できる男性エリートの特権であった「青春」は、若年者一般に適用可能な普遍的概念となった。石岡は、(主たるものではないが)その要因のひとつとして文学や映画という1960年代まで「かつての青春」が描かれた主要コンテンツにかわってテレビドラマがその影響力を増したことを挙げている。ここでの「かつての青春」は「暗さや悲劇性、逸脱性」を含み、現実においても「『革命』などの政治性」と結びつく概念であった(石岡 2024: 49)。先行研究からは、「青春」概念は1960年代に変容していること、また「青春」概念の変容を考えるにあたってメディアコンテンツが鍵となりうることが示唆される。そこで本発表では「青春」概念が1960年代(およびその前後)においていかにして変容したのかという点に迫る。 2.方法 本発表では、先行研究の知見をふまえ、文学や映画、テレビドラマ等のコンテンツの作家(や評論家)から構成されるフィクション作家コミュニティの語りに注目する。これは、文学や映画、テレビドラマといった複数のコンテンツの作家が混在するコミュニティにおいて、作家たちがいかにして「青春」をとらえていたかに迫ることができると考えたためである。本方針に適合する主たる分析資料として『シナリオ』(1946年6月創刊、泉書房 発行)を採用し、対象とする時期を1960年代(とその前後)としたうえでテクストを分析する。分析に際しては、概念分析のアイディア(小川豊武 2014a・2014bなど)を参照する。 3.結果 対象とする時期に点在する「青春」をめぐる特集における論考や座談会を中心に分析を進めるなかで、象徴的と思われるテクストをいくつか抽出している。たとえば、1960年代半ばまで、「(本来あるべき)青春」は「既成の価値・秩序への挑戦」といった概念と結びつけられている。しかしながら他方で、「ツイストを踊り狂う」といった行為が「青春」に該当するか否かという点で異なる立場の論考が同じ特集に掲載されたり(1962年4月号)、「小市民的な、消極的な満足とか幸福というテーマで作る」青春映画を認めたくはないが現に存在はするのだという座談会での映画監督の語り(1968年1月号)など、規範性を帯びて存在していた「(本来あるべき)青春」が、有効でなくなりつつあることを示唆するテクストも見られる。本発表では、これらのテクストの分析によって「青春」概念が拡張されていくプロセスに迫る。 4.結論 作家コミュニティにおいて、規範性を帯びた「青春」と若者の現実との隔たりがどのように評価され、いかにして「青春」概念が拡張されていくのか、本発表のポイントはここにある。本検討を通じて、「青春」が普遍化し、多くの人びと(若者一般)の規範となっていくことはいかにして達成されるのかといった点についても議論したい。

報告番号338

なぜ女子高生は制服のスカートを短くするのか?
明治学院大学 合場敬子

1目的 関東圏では、女子高生が制服のスカートを短くしていても、今では特に目新しいことではなくなっている。しかし、彼女たちがどのような理由からそれを行っているのかという問いは学術的には探求されてこなかった。一方で、学術研究以外の資料においては、セクシー説(自分をセクシーに見せるため)とトレードマーク説(女子高生であることがブランドになり、そのブランドをわかりやすく表現できるトレードマークが、制服のスカートを短くすることになった)が有力である。本研究では、女子高生へのインタビューと参与観察を通して、この二つの説の妥当性とそれ以外の理由を考察する。 2方法 2018年4月から2019年2月まで、神奈川県の私立の男女共学の高校での参与観察と女子高生32人のインタビューを行った。本研究の実施方法は、筆者が所属する大学の研究倫理委員会から適切であるとされ、またインタビューは保護者の同意書を提出した生徒を対象に行った。 3結果 スカートを短くしている女子生徒は26人、短くしていない女子生徒は6人だった。南風高校ではスカートの「適切な長さ」を、膝小僧が完全に見える程度としていたが、この長さを一部の女子生徒はそもそも長いと認識していた。スカートを短くしている理由は数人が複数挙げており、自分の周囲のクラスメートや友達が折っていたから、自分のスカート丈が「適正な長さ」よりも長かったから、高校生のスカートは短いものだから、親や親族から勧められたから、スカートを折らないと夏暑いから、見栄えを良くするため、その以外の理由というものであった。スカートを短くしていない女子生徒の中にも、スカートを短くしようと思ったことがある生徒がおり、さらにその中で、高校生のスカートは短いものだから、という認識を共有する生徒がいた。 4結論 「親や親族から勧められたから」という理由は、「女子高生は短いスカートをはくものだから」ということを、女子生徒本人だけでなく、彼女たちの親や親族も共有していることを示している。「見栄えをよくするため」という理由は、女子生徒が、女子高生のスカートは短いもので、それが良いものであるという認識から行っていると考えられる。「自分の周囲のクラスメートや友達が折っていたから」という理由は、本人を取り巻く他の女子生徒が少なくとも短い制服スカートを肯定する認識を持っていたのでスカートを短くする実践を行っていたと思われる。そのため特にスカートを短くしようとは思っていなかった女子生徒も、周囲の短い制服スカートというファションを見て、それに同調するようになったと思われる。女子生徒が語ったいずれの理由にも、セクシー説を支持する理由は含まれていなかった。一方「女子高生は短いスカートをはくものだから」という認識は、短い制服スカートが自分が女子高生であることを示す重要なアイテムであることを意味する。これはトレードマーク説に類似している。しかし、インタビュー協力者の女子生徒たちの語りからは、女子高生であることがブランドになっているという認識は把握できなかった。

報告番号339

「日本仏教とジェンダー」の現在地――SDGsゴール5「ジェンダー平等を実現しよう」は仏教界内部にも十分に向けられているか
立教大学 丹羽宣子

本報告の目的は、近年の現代日本仏教のジェンダー問題への取り組みについて、特に持続可能な開発目標(SDGs)のゴール5「ジェンダー平等を実現しよう」との関連から再検討することである。 SDGsは2015年9月に国連総会で採択された持続可能な開発のための17の国際目標であり、その下に169の達成基準(ターゲット)が決められている。日本国内では政府による基盤整備の他、多くの企業が積極的にSDGsを経営に導入するなど、17の目標と169のターゲットの達成に向けて様々な取り組みがなされている。 宗教界でもこうした動きと連動する活動がなされてきた。例えば、2018年に開催された第29回WFB(World Fellowship of Buddhists)世界仏教徒会議日本大会で採択された「東京宣言(慈悲の行動)」では、7つの目標の一つに「SDGsの実現」への支援が挙げられた。公益財団法人日本仏教会はSDGsの具現化を進める方針を掲げ、2020年8月に公開WEBシンポジウム「仏教とSDGs 現代における仏教の平等性とは〜女性の視点から考える〜」、同年10月「仏教とSDGs 現代ににおける仏教の平等性とは〜LGBTQの視点から考える〜」を開催した。特にこれ以降、各宗派において「ジェンダー」や「LGBT・LGBTQ」に関する研究会や研修などが増えたように見受けられる。 本報告では、こうした仏教界の取り組みについて整理しつつ、同時に1990年代以前から展開されてきた女性仏教徒当事者による教団内ジェンダー平等を求める活動との関連について検討する。当事者からの求めとSDGsの理念に基づく様々な施策が結びつくことが本来求められるはずであるが、資料を整理すると、必ずしも「地続き」で展開されたものではないことが示唆される。教団内・寺院内のジェンダー不平等への取り組みは十分なされているか、ジェンダー平等やLGBTフレンドリーなメッセージは内部にも十分に向けられているのか、SDGs採択から10年を経た現在からこうした課題について検討したい。 例えば、LGBT当事者への取り組みがある。「一切の生きとし生けるものは、幸せであれ」という仏陀の教えは多種多様なあり方を尊重するとして、仏教界はLGBTフレンドリーなメッセージを発することは多い。2023年には全国日蓮宗青年会が東京レインボープライド2023に初出展し、全日本仏教会もレインボーステッカーを寺院の門や掲示板に提示する取り組みを進めている。墓や戒名、葬儀などに苦しい思いを抱えているLGBT当事者は多いと言われているなかで、意義の大きな活動である。 一方で、現代の日本仏教は世界で唯一、寺院が僧侶の家族によって営まれ、父から子への世襲継承が常態化している。こうした寺院のあり方は異性愛主義が前提となっているが、こうした仏教界内部の課題についてはほとんど議論や提言がなされていない。また、跡継ぎを求められる妻のプレッシャー、寺院内性別役割分業などについては、1990年代半ば頃から盛んに女性仏教徒らから異議申してがされ続けてきた課題である。外部に向けての発信だけでなく、内部からの声にどれだけ応えることができるのかが問われている。

報告番号340

日本の福音派若年信徒の恋愛をめぐる葛藤
京都大学大学院 石丸灯

【1.目的】本報告では、日本の福音派若年信徒に実施したインタビュー調査から、結婚を見据えた交際の場でなされる交渉や信仰の構築を考察する。米国ではブッシュ政権以降、一部の先鋭化した福音派による政治への影響が問題化されている。米国の状況を受け、日本の福音派でも同性愛や人工妊娠中絶などの問題を巡って対立が表出してきている。日本社会ではここ数十年の間に婚前の性交渉が忌避されなくなり、恋愛が必ずしも結婚を前提とするものではなくなった。一方で福音派においては本質主義的・相補主義的な男女観が残存し、恋愛は結婚を前提としたものと認識されている。また、婚前に性交渉をしてはならないと教えられる。このような状況で、福音派信徒は恋愛や結婚の場において社会で支配的な規範との葛藤を経験すると考えられる。特に若い信徒にとっては、このような恋愛・結婚観の違いは重大な問題として表出するのではないだろうか。本報告では、日本の福音派研究がいまだ断片的なものにとどまることを踏まえ、福音派若年信徒が恋愛において経験する葛藤や困難に焦点を当て、当事者がどのようにこれらの経験を解釈しているのか考察する。【2.方法】10代から30代の未婚信徒を対象に半構造化インタビューを実施する。福音派信徒である報告者の機縁を利用してスノーボールサンプリングをおこない、対象者を集める。【3.分析】分析にあたって、伝統主義的宗教とジェンダーに関する先行研究の知見を参照する。第一に、米国のミレニアル世代福音派信徒は交際中や性的境界線が交差する場面で混乱や罪悪感、アイデンティティの衝突を経験するという指摘がある(Leonard Hodges and Bevan 2023)。本報告では地域的な差異に着目し、信徒人口がきわめて少ない日本の文脈でこれらの論点を再検討する。第二に、福音派信徒の経験を支配的男性性やインターセクショナリティの観点から分析した研究(Diefendorf 2015; Irby 2014)の知見から、ジェンダーがどのように福音派信徒の経験に作用しているのか考察する。最後に、福音派研究では‟doing religion”の概念を用いて人々の日常生活における信仰実践を動的に描く試みがなされてきた(Avishai 2008)。本報告ではこれらの知見を踏まえて得られたデータを分析し、ジェンダーとセクシュアリティが交差する場で当事者がどのようにして信仰を実践し、信仰を構築していくのか考察する。 [参考文献]Avishai, Orit, 2008, ““Doing Religion” In a Secular World Women in Conservative Religions and the Question of Agency” Gender and Society 22(4): 409-433. Diefendorf, Sarah, 2015, “After the wedding night: Sexual Abstinence and Masculinities over the Life Course” Gender and Society 29(5): 647-669.Irby, Ann, Courtney, 2014,” Dating in Light of Christ: Young Evangelicals Negotiating Gender in the Context of Religious and Secular American Culture” Sociology of Religion 75(2):260-283.Leonard Hodges, A., & LaBelle, S. (2023). Teaching God’s design: exploring the rhetorical and relational goals of evangelical leaders during premarital education about sex. Communication Education 73(1), 64–83.

報告番号341

1980-90年代における胎教・育児本のスピリチュアリティ
大阪公立大学 橋迫瑞穂

1980年代から1990年代にかけて、数多くの胎教や育児に関する書籍や雑誌が出版されてきた。この背景にあるのは、都市化、核家族化の進行に加えて、情報社会化、さらには少子化といった日本社会の変化があり、これらの社会的要因によって、妊娠・出産・育児をめぐる実践的かつ個別的な情報が必要とされるようになったことが挙げられる。特に、「高度経済成長期」を経て日本が経済的な躍進を遂げるなか、これまで以上に、「優秀な」子どもを産んで育てることに重きが置かれるようになった。そのため、産婦人科医や助産師といった医療関係者だけでなく、男性の経営者、教育研究家などが胎教本や育児本を相次いで出版するという現象が現れた。そのなかには、スピリチュアリティの要素を含んだ著作も少なからずみられた。 本発表は、主に80年代から90年代に出版された胎教本と育児本にみられる言説を分析し、当時の母親たちに寄せられた社会的圧力、男性が期待していた子ども像を明らかにする。 企業の経営者が胎教本や育児本の執筆に積極的に取り組んだ例として、例えば教育研究家を名乗る七田眞が挙げられる。七田は「左脳教育」を打ち出して子どもが、勉強ができるような賢さを身に着けるだけでるだけでなく、情緒豊かで世界をけん引できる存在に育つこと、さらには超能力といった人知を超えた能力を開花させることを期待した。七田の胎教や育児観は2000年代の「スピリチュアル・ブーム」にも大きな影響を与えている。 また、80年代でもっともこの分野に影響を与えたのが、ソニー元会長である井深大である。井深は世界に通用するための人材を作る必要があると訴え、そのためには胎教から育児をスタートすることが重要だと主張した。そして、そうした主張は母親に重責を負わせる内容であると同時に、「日本人」であることのプライドを強調するような文化的なナショナリズムへと接続していった。他にもこうした書籍は数多く出版されていて、そのなかでは「自然」な育児が子どもを心身ともに強く育てると主張しながらも、「脳科学」を組み込む形でその可能性をより強調してきた。 こうした書籍のなかでは胎児や子どもの成長に神秘性や神聖性を見出す、「スピリチュアル」な言説が数多く使われていることが挙げられる。「スピリチュアル」な言説は胎児や子どもの価値を強調するだけでなく、「より良い」子どもを産み育てる「母」という存在にも価値づけを行う役割を担っている。さらに、育児を通して「世界」に働きかけることができるということ強調してきた。同時に、こうした胎教や育児観は母親に対して保守的な抑圧を強いるものであり、時に優生思想的な思想を育むものだったのである。

報告番号342

1958年-1986年の『女性自身』における「働く女性」
国際基督教大学大学院 加藤穂香

【目的】1950年代後半から1960年代前半にかけて相次いで創刊された女性週刊誌は、オフィス勤務の若年女性たちを対象読者と捉えた(石田 2006: 216)。とくに光文社が発行する『女性自身』(1958年創刊)は、1963年に、それまで使われていた「ビジネスガール(BG)」という呼び名に代わる「オフィスレディ(OL)」という言葉を生み出し(坂本 2019: 126)、誌面では、オフィスで「働く女性」向けの情報を提供した。また1970年代後半から1980年代にかけての日本では、労働や雇用における女性たちの待遇や男女間の格差に関する議論が進められ、1985年には「男女雇用機会均等法」が制定された。このような時代背景のもと、本報告では1950-1980年代の『女性自身』において、「働く女性」がどのような存在として取り上げられていたのかを誌面の分析から明らかにする。 【方法】『女性自身』の創刊年である1958年から、男女雇用機会均等法が施行された1986年までの各号の目次を参照し、「ビジネスガール(BG)」あるいは「オフィスレディ(OL)」という言葉が入っている記事や連載を収集した。さらに誌面に求人広告がある場合は、それらも収集した。記事や連載で取り上げられる「働く女性」と、実際に求人募集されている「働く女性」の職業や属性の違いに注目しながら、女性が働くことについて、どのような切り口から何が語られているのかを質的に分析した。 【結果】まず、BG/OLに関しては、メイクやファッションなどによる「見た目」の管理方法や、職場での立ち振る舞いのマナー、限られた給与で生活を効率的にやりくりするための実用情報が頻繁に取り上げられていた。「BG一年生」「OL一年生」といった言葉が誌面に登場することからも示されるように、先輩の女性社会人や、男性社会人などから新社会人にアドバイスをする記事もあった。一方で、職場における差別やハラスメントなどについては、個人の「職場での悩み」として取り上げられることも多く、「働く女性」をめぐる構造的課題の扱いやその深度には記事によってグラデーションがあった。そして時期が進むにつれ、多くの求人広告が登場し、ときにレディースコミックに出てくるような若い女性のイラストつきで読者の「憧れ」を刺激する形で、コンパニオンなどの事務職以外の仕事の求人広告が打たれていた。 【結論】女性週刊誌は、若い女性たちが、「働く女性」となっていくための情報を提供していた。女性週刊誌における「働く女性」は、堅実な生活を送るよう勧められる一方で、職場/社会において「魅力的な」対象となることを期待されていた。ただし女性週刊誌は女性向けファッション誌とは異なり、必ずしも特定の「働く女性」像を誌面で提示しているわけではない。女性週刊誌における「働く女性」の多様な扱われ方こそ、当時の「働く女性」たちの間の複雑な階層関係を示していると言える。 【参考文献】石田あゆう, 2006,『ミッチー・ブーム』文藝春秋. 坂本佳鶴惠, 2019, 『女性雑誌とファッションの歴史社会学:ビジュアル・ファッション誌の成立』新曜社.

報告番号343

アジアのテレビ広告におけるジェンダー役割――日本・中国・台湾・韓国・タイ・シンガポールの国際比較研究
京都産業大学 ポンサピタックサンティピヤ

【1.目的】 本研究の目的は、日本・中国・台湾・韓国・タイ・シンガポールのアジアのテレビ広告におけるジェンダーと労働役割の現れ方の類似点あるいは相違点を考察することである。そのうえで、テレビ広告におけるジェンダー役割に関する研究に再検討を加え、新たな知見を加えたいと考える。 これまでのテレビ広告におけるジェンダーをめぐる先行研究には、いくつかの問題点がみられる。まず、これまでの先行研究の多くは、アメリカ合衆国を中心に、西欧社会の広告におけるジェンダーを研究したものがほとんどであり、アジア諸国を対象にしたものは、いまだ多くはない。また、従来の広告におけるジェンダー研究においては、当該の社会のジェンダー構造がテレビ広告に直接的に反映されているという観点でとらえるものが目立つ。この点からも、今後、現実のジェンダー構造の反映という単純な図式的見方を超える必要がもとめられていることは明らかだろう。 【2.方法】 2024年8~10月の期間にわたり、アジア六か国において最も視聴率の高い3つのチャンネルで、プライムタイムに放映された番組(9回:金・土・日)から広告サンプルを収集した。そして、ジェンダー役割に関する項目に基づいて、各国の分析したデータをSPSSプログラムで統計分析を行った。 【3.分析結果】 広告内容分析した結果、まず、すべての国ではナレーターが男性である広告の割合が、女性ナレーターの広告を大きく上回っている。ただし、国とナレーターの性別の間には有意な関係が見られる。また、性別により年齢層の異なる主人公が広告に起用されていることがわかった。つまり、広告に登場する若い女性は、男性よりしばしば多く登場する。 主人公の性別の割合の側面から見れば、広告の中で登場する男性と女性の主人公の割合は違いが見られる。また、主人公の性別と労働役割について、六カ国の広告に見られる働く男性と女性の割合には、有意な関係があることが明らかとなった。 さらに、これらの六つの国の広告における男性と女性の職種と職業に従事する以外の役割には違いが見られることがわかった。次に、各国のテレビ広告における男女の役割について、男女の違いが見られることが明らかになった。また、テレビ広告における男女の職種についても有意な違いが見られる。そして男女の職業に従事する以外の役割について、違いが見られる。 【4.結論】 以上のように、アジアの広告におけるジェンダーの配置は、欧米のこれまでの広告におけるジェンダー研究の成果と、ほぼ一致している。たとえば、ナレーターの男女比についても、男性が女性を大きく上回っている。広告で重視されているのは若い女性なのであり、女性は家庭内の役割が多く、男性は、家庭外の役割に従事することが多い。 さらに、これらのアジア国々における働く男性と女性の割合、および、男女性の職種と職業に従事する以外の役割には違いが見られることが明らかとなった。一般的な傾向としては、広告に登場する働く男性の割合は女性より高い。 しかし、各国の分析結果から、ジェンダー役割の平等性の描かれ方のパターンはいくつか存在していることが明らかになった。ジェンダー役割の平等性や新しいジェンダー・イメージが誕生していることがわかる。したがって本研究の分析結果はアジアの広告における性ステレオタイプ描写が少しずつ減少している傾向が見られる。

報告番号344

1960年代の現代やくざ映画とジェンダー
京都産業大学 東園子

[目的・方法] 日本映画史、また、戦後の日本の大衆文化において重要なジャンルの一つに、やくざ映画がある。やくざは日本の大衆的な物語に頻出するモチーフの一つであり、日本映画の初期からしばしば題材にされてきた。だが、やくざ映画が一つのジャンルとして集合的に受容されたのは、当時の五大映画会社の一角を占める東映が1963年よりやくざ映画を量産した影響が大きいと考えられる。東映を中心に製作されたやくざ映画は深夜興行等で人気になり、当時の日本映画界を席巻した。「男になること」にこだわり(斎藤 2004)、主に男性客から支持されたやくざ映画は、当時の日本社会における男性性を考えるうえでも重要である。 東映のやくざ映画は、1960年代は戦前の日本で義理と人情を重んじるやくざを描く任侠路線が中心だったのが、1973年の『仁義なき戦い』のヒットを契機に、戦後の実在のやくざをモデルに義理人情をかなぐり捨てたやくざの抗争を描く実録路線が中心となった。任侠路線と実録路線では、男性や女性の描き方も大きく変化している。 ただ、1960年代の東映のやくざ映画は戦前を舞台とする作品ばかりだったわけではない。東映やくざ映画最大のスター・高倉健の三大人気シリーズの一つ、「網走番外地」シリーズのように、公開当時の現代を舞台にした作品もあった。本報告は、やくざ映画の作品、ポスター・予告編・映画館主向けに映画の内容や宣伝ポイントを解説したプレスシート等の宣伝資料、映画雑誌の記事、関係者の著作等を資料として、1960年代の東映の現代もののやくざ映画をジェンダーの観点から分析する。 [結果・結論] 1960年代の東映の現代もののやくざ映画は、典型的な任侠路線の作品と比べて主人公が義理と人情の間で葛藤する要素が弱い傾向がある。また、女性に対する性暴力が描かれるなど、任侠路線の作品より性的な要素も多くなる。現代もののやくざ映画は、こうした後の『仁義なき戦い』等の実録路線に通じる面が見られ、任侠路線から実録路線への変化は、現代もののやくざ映画が媒介となっていたのではないかと考えられる。 【文献】 斉藤綾子、2004「高倉健の曖昧な身体」『男たちの絆、アジア映画――ホモソーシャルな欲望』平凡社 ※ 本研究は日本学術振興会科学研究費の助成を受けたものである(JP 17K17858「やくざ映画の分析を通した戦後日本社会における男性イメージの変化の考察」)。

報告番号345

日本現代のフェミニズム・アート――受容と批評
慶應義塾大学 バスマノワクセニア

“2025年に世界経済フォーラムが発表したジェンダー・ギャップ指数において、日本は118位という結果であった。一方、美術業界におけるジェンダーの現状はどうであろうか。2022年の「表現の現場」調査報告によれば、美術界では女性が学生、非正規のキュレーター、契約職員といった「受け手」の立場に多く就いているのに対し、男性は館長、美術大学教員、芸術祭の審査員など、意思決定権を持つポジションに集中しているという構造的な不均衡が明らかにされた。ジェンダー平等を標榜する芸術祭も存在するが、多くの展覧会や美術賞においては、依然として深刻なジェンダー不均衡が残っている。 このような状況下で、フェミニズムやジェンダーを主題とする美術団体は、どのような存在として位置づけられ、どのように受容・批評されているのか。本発表では、ケーススタディおよびインタビュー調査に基づき、日本社会におけるフェミニズム・アートや、より広く政治的な芸術実践を行う美術運動の受容とその変遷に注目する。 フェミニズム・アートは、1960〜70年代のアメリカで誕生した芸術運動である。この用語を最初に導入したのは、アメリカのフェミニズム・アートの先駆者であるジュディ・シカゴであり、「女性のエンパワーメントを目指す芸術的実践」と定義している(Chicago, 2021)。また、美術批評家のグリゼルダ・ポロックは、フェミニズム・アートを「男性中心的な美術史および美術実践の伝統への介入であり、女性の経験と能動性に基づく表現の場を確立しようとする試み」と述べている(Pollock, 1981)。 1990年代以降は、インターセクショナリティ(交差性)の観点がフェミニズム・アートに取り入れられ、作家の性別にかかわらず、ジェンダー、身体性、アイデンティティに関する問いや批判、再構築が重視されるようになった。そのため、ノンバイナリーやインターセックス、男性であっても、フェミニズムの理念に共感することで、その実践に参加することが可能となっている。 このように、フェミニズム・アートとは、単に女性によって制作された作品を指すのではなく、表象および制度に内在する権力構造を問い直し、変革を目指す、意図的かつ批判的・政治的な芸術実践である。 結論としては、男女差別的な構造や経験に対して問題提起する作品に関しては、美術業界および社会において一定の理解が進みつつある。他方で、慰安婦問題や戦争責任といったより明確な政治的主題に触れる作品については、「美術ではなく社会運動である」といった認識が根強く、美術としての評価や理解が進まない状況にある。また、社会的にもセンシティブな問題として忌避されがちであり、フェミニズム・アートにおける「政治性」が、未だ十分に受容されていないことが浮き彫りになっている。 参考文献: Chicago, J.The Flowering: The Autobiography of Judy Chicago. Thames & Hudson USA, 2021.  Pollock G., Parker R. Old Mistresses: Women, Art and Ideology. 1981.
Kunimoto, Namiko. The Stakes of Exposure: Anxious Bodies in Postwar Japanese Art. Minneapolis: University of Minnesota Press, 2017.
Yoshimoto, Midori. “Women Artists in the Japanese Postwar Avant-Garde: Celebrating a Multiplicity.” Woman’s Art Journal, vol. 27, no. 1 (2006): 67–81.
Shimada, Yoshiko. “The Defiant Fringed Pink: Feminist Art in Japan.” Asia Art Archive, August 21, 2019. https://aaa.org.hk/en/ideas-journal/ideas-journal/shortlist-the-defiant-fringed-pink-feminist-art-in-japan (最終閲覧日:2025.06.19).
徐潤雅(ソ・ユナ).「富山妙子における『新しい芸術』の模索 ─ 敗戦後から1960年代までを中心に─」『東洋文化』第101号、2021年、31–50頁。
竹田恵子(2022)『日本現代美術界におけるポストフェミニズム』年報カルチュラル・スタディーズ
千野香織(1999) 『女?日本?美?新たなジェンダー批評に向けて』慶應義塾大学出版会。
中嶋泉.「日本戦後美術のジェンダーを考える」『言語文化』第29号、2012年、247–263頁。”

報告番号346

よりよく生きるために遊ぶ――「ホームレスがサッカーすること」を支援するNPOの象徴闘争
一橋大学 糸数温子
一橋大学 鈴木直文

本研究は、スポーツを社会変革の手段として再定義し、スポーツと社会的包摂をめぐる研究領域に新たな視座を提供する共同研究の一環である。本研究では、ピエール・ブルデューの社会学理論(界、象徴闘争、実践感覚)を用いて「ホームレスがサッカーすること」を支援する実践において顕在化する「スポーツによる社会的包摂」の正統性(légitimité)をめぐる象徴闘争の構造を記述することを目的とする。 ブルデューは、人びとが価値(資本)や評価基準をめぐって繰り広げる権力闘争を「象徴闘争」と呼んだ。例えば、「ホームレスがサッカーすること」を支援する組織は、「何がよき支援か」「なぜ・どのようにサッカーが社会的包摂に資するのか」といった認識をめぐって、いかに自らの語りがその正統性を持つか、そこで有用と見なされる価値(資本)を多く持つかを競い合う。ブルデューは、そうした闘争が行われる自律的な活動領域を「界(champ)」、そのなかで状況に即して適切に対応するセンスのことを「実践感覚(le sense pratiq)」、そして界の内外で他者との「差異」を際立たせ、自らの優位性を示す実践のことを「差異化(distinction)」と呼んだ。 スポーツと社会的包摂に関する研究は、スポーツの社会変革の(不)可能性をめぐる懐疑と応答の中で、制度的・政策的文脈に即した理論とその効果についての実証を蓄積してきた。特に、国連が推進する「開発と平和のためのスポーツ」の潮流以降、スポーツが社会的包摂の手段として成果をあげる一方で、新自由主義的な統治手段と結びつくリスクが警戒されるなど、その功罪が指摘されてきた。しかし、スポーツによる社会的包摂ならびに「ホームレスがサッカーすること」の代表的な実践例であるHomeless World Cup(HWC)は、社会的排除を経験する人びとが、サッカーを通じて人間関係や再出発の機会を得るという感動的な物語や映像を通じた言説構築に重点を置いている点が注目されている(糸数 2019)。そのため本研究では、こうした言説の編成に注目し、「ホームレスがサッカーすること」をめぐって支援組織がどのようにその価値を共有する界の形成を試み、その界の内外でいかなる象徴闘争を繰り広げているのかを検討することで、スポーツと社会的包摂がいかなる価値の構築によって排他的な社会構造の変革を(不)可能にするかという象徴的・言説的次元の問いに取り組む。 本研究では、HWC日本代表を派遣するNPO法人ダイバーシティサッカー協会(DS協会)を対象に「観察的参加」の手法を用いた定性的調査を実施した。予備的考察の結果、DS協会は「ホームレスがサッカーすること」を通じて「仲間外れを生まないスポーツの居場所を広げる」という言説を用いて社会的支持を得る過程で多様な葛藤を経験している。例えば、第一に、サッカー界における男性中心的なアソシエーション型の階層性に対し、「遊び」としてのスポーツを強調し、序列から距離を取ろうとする。第二に、支援界における自立支援を前提とした就労支援へのスポーツの有用性という言説に対し、「遊び」が誰にでも開かれたものであることを強調し、ワークファーストな規範的言説と距離を取る。こうしたDS協会の差異化は、スポーツによる社会的包摂の正統性をめぐる象徴闘争として捉えられる。

報告番号347

認定 NPO 法⼈クリエイティブサポートレッツの 「表現未満、」プロジェクトに関する⼀考察
立教大学大学院 和久井碧

本発表は、認定NPO法人クリエイティブサポートレッツの「表現未満、」プロジェクトを考察するものである。認定NPO法人クリエイティブサポートレッツ(以下レッツ)は、静岡県浜松市で2000年に設立された、福祉事業を運営するアートNPOである。 障害者のアート活動は近年、注目が高まっている。日本国内では、2018年の障害者文化芸術活動推進法の施行や、東京2020オリンピック・パラリンピックを契機に、障害分野とアート分野の連携は数多く見られるようになっている。近代日本の歴史の中で、障害者の行う芸術活動として注目された事例としては、早くは1938年の「特異児童作品展」に遡ることができる。同展は山下清を含む千葉県の八幡学園の児童の作品が取り上げられ社会的な注目を集めたものである。これは近代日本において障害者の芸術活動が初めて注目を集めた展覧会であるとともに、戦後「裸の大将」として有名になる山下清が初めて注目を集めた展覧会でもあった。同展は戦前日本の美術界にも反響を巻き起こし、当時の美術家らが雑誌『みづゑ』において座談会を開催したほどである。そこでは、彼らは作品に感動しつつも、障害児らの作品を真の芸術として受け取らないといった論調が大勢を占めていた。一方、一般大衆の関心としては、朝日新聞報道において、「白痴」児童も美術を通じて国役に立つことができるといった論調で捉えられていた。 戦後の日本において、障害者の芸術が再び大きな注目を集めるきっかけとなったのが、2008年のパリのアル・サン・ピエール美術館で開催されたアール・ブリュット・ジャポネ展である。同展の大成功の報道をひとつのきっかけに、日本において障害者の芸術作品を表す言葉としての「アール・ブリュット」が知名度を上げていくことになる。現在日本においては、アール・ブリュットは、イコール障害者のアートとして捉えられる状況となっている。2010年代以降大きな流れとなる「アール・ブリュット」は、純粋性や原初性という言葉を用いつつ、障害者を包摂しようとしながらも、(健常者の)芸術に対する「アール・ブリュット」というサブシステムを構築することで、それ自身の文脈において障害者をある意味で排除していることになってしまうのではないか。 しかし、そこに収まらない活動もある。レッツはその活動を「表現未満、」と名づけ、日々社会へ発信している。「表現未満、」とは、「だれもがもっている自分を表す方法や本人が大切にしていることを、とるに足らないことと一方的に判断しないで、この行為こそが文化創造の軸であるという考え方」のことである(「表現未満、文化祭公式パンフレット」)。さらにこう続く。「そして、「その人」の存在を丸ごと認めていくことでもあります。良い、悪いといった単純な二項対立ではなく、お互いがお互いのことを尊重しながら、新しい価値観が生まれ、ともに生きる社会を皆で考えていく。それが、「表現未満、」プロジェクトの願いです。」このように評価されているプロジェクトであるが、これまでその経緯等は研究されてこなかった。そこで、今回、「表現未満、」がどのようにして始まり、活動を展開してきたのか、フィールドワークとインタビュー調査をもとに明らかにする。

報告番号348

スクール・カースト概念をめぐる文化的な闘争――ガガガ文庫と『このライトノベルがすごい!』を事例として
東京家政学院大学 岡村逸郎

1 目的 本報告の目的は,2010年代以降の日本でスクール・カースト概念をめぐる文化的な闘争がいかにして生じたのかを,ガガガ文庫と『このライトノベルがすごい!』を事例として明らかにすることである. 2 方法 『このライトノベルがすごい!』(2008年版‐2025年版)で物語の要約が記される順位に入った257作品のうち,ガガガ文庫から刊行され,中高生を主要登場人物にする12作品(93冊)の青春小説を収集した. 3 結果 教育社会学や若者論のスクール・カースト研究では,スクール・カースト概念が文化的に展開された現象が扱われない.本報告では,ライトノベルを,市場や教育制度に依存しつつも固有の論理と自律性のもとで駆動する,文学場の下位場として位置づける. ライトノベルには,主人公を底辺に序列化する文化がもともとあった(『AURA』).『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』は,スクール・カースト概念をシリーズのなかで展開した.青春小説には,学校に付随する制度的な出来事(部活動,文化祭,生徒会選挙,受験,卒業式など)を,長期の物語を描く際の横の軸として活用する文化がある.スクール・カースト概念は,この軸に加え,語り手の視点から人間関係の序列を端的に記述する際の縦の軸として展開された. 本作を受け,複数の作品が書かれた.①学校外の空間をおもな舞台とすることでスクール・カースト概念から距離をとる作品(『妹さえいればいい。』),②階層上昇の物語を駆動するトリガーとしてスクール・カースト概念を使う作品(『弱キャラ友崎くん』),③高カーストの生徒を主人公にすることで差異化を図る作品(『千歳くんはラムネ瓶のなか』),④メタフィクションのなかでスクール・カースト概念を扱う作品(『現実でラブコメできないとだれが決めた?』),⑤本作を継承しつつ別の要素から差異化を図る作品(『負けヒロインが多すぎる!』)だ. 4 結論 スクール・カースト概念は,青春小説におけるリアリティと青春小説の卓越性を構成する際に活用の方法が争われる,賭け金とされてきた.しかし,スクール・カースト概念にもとづく青春小説が学校空間に内閉される物語形式をとる問題もある. スクール・カースト概念にもとづく青春小説は,学校空間における被害経験を物語化することで,現実に対する救済の物語として機能してきた側面がある.だがライトノベルというジャンルの衰退が指摘され,学校空間から離脱してそれに抗う物語が支持を集める現状を鑑みると,学校空間に内閉されたスクール・カースト概念をいかに再構築できるかが,青春小説の今後を決める1つの試金石となるだろう. [文献] 團康晃,2025,『休み時間の過ごし方――地方公立中学校における文化とアイデンティティをめぐるエスノグラフィー』烽火書房. Dubois, Jacques, 2000, Les romanciers du réel: De Balzac à Simenon, Paris: Éditions du Seuil.(鈴木智之訳,2005,『現実を語る小説家たち――バルザックからシムノンまで』法政大学出版局.) 山中智省,2025,「『面白ければなんでもあり』な活字コンテンツの展開――ライトノベルの確立に寄与した雑誌群とその戦略」永田大輔・近藤和都編『雑誌利用のメディア社会学――文化を可能にする「工夫」』ナカニシヤ出版,126-41.

報告番号349

死の消滅に抗する技法――クリスチャン・ボルタンスキーの作品を事例に
関西学院大学 藤井亮佑

目的 本報告では、近代社会が科学や経済合理性を重視し、死を物象化し、死の意味を無化することによって死を社会的に処理する一方で、死や死者を公共空間に表象する社会的意義やその可能性について、現代芸術家クリスチャン・ボルタンスキーの死をテーマとする作品を例に検討するとともに、死に対する社会的対処の拮抗がどのような社会的状況を意味するのかについて論じ、現代社会における死や死者との関係について明らかにすることを目的とする。 方法 所有物に公共性を与える手法として、博物館や美術館への文化財の保存および市民への公開を捉える。そのうえで、これまでに2018年の国立国際美術館(大阪)での展覧会や2022年の瀬戸内国際芸術祭(豊島)のような公共空間で展示されたボルタンスキーの作品群をめぐるフィールドワークによって資料を収集した。またボルタンスキーに関する文献調査によって、死者を想起させる芸術作品の制作をめぐる背景を把握した。これに加えて作品鑑賞によって起こる死をめぐる意味作用の論理について、学術理論をもとに考察していく。 考察 公共空間での展示が美術作品にある知を一般化するという点では、死を表象する芸術作品にある知も一般化される。これには一見、個人的な経験が入り込む余地がないように見えるが、ボルタンスキーの作品における死んだという事実が存在するかどうか不明な多数の人間の写真が示すのは、作品の虚構性こそが鑑賞者に対し意味を見出させる余白を生み出していることであると考えられる。こうした意味が空虚なモノと人間の意味作用の論理について、ロラン・バルトの写真論や記号論、ジャン・ボードリヤールに写真論などをもとに、写真に写る客体の世界に起因する他者性の誘惑が、鑑賞者個人に一般化されえない体験を与えることを考察する。 結論 ボルタンスキーの作品での狙いは、死の意味の一般化や死を記号化することではなく、モノそれ自体の真正性を保存・公開するのでもない。むしろ人間がモノに意味を見出すためには、他者的なるモノを冒険しなくてはならない、ということがボルタンスキーの作品には意図されており、作品それ自体が残ることよりも、物語や寓話または神話といった作品をめぐる知識の伝達への期待がある。さらにボルタンスキーはホロコーストへの反省を込めて、作品に無名の個人の死を表象し、鑑賞者がおのずと身近な個人の死を解釈することを期待している。これらから、他者性の消滅への抵抗が、死の消滅への抵抗と重なる点を指摘する。

報告番号350

アイドルドキュメンタリー配信は何を映すか――裏局域のコンテンツ化をめぐって
中部大学 田川隆博

アイドルドキュメンタリーは、ステージの外を映すものとして、特に近年ネット配信で盛んに作られてきている。本研究はそのアイドルドキュメンタリーのネット配信に着目し、その機能や意味を考察しようとするものである。 オーディション番組を軸として、これまでアイドルドキュメンタリーはテレビで多く制作されてきた。それとネット配信の違いはどこにあるのか。テレビはスポンサーがついており、より大掛かりになるし、さまざまな制作のプロが関与する。一方、アイドル事務所が主たる配信者であるネット配信の場合、テレビには取り上げられないさまざまなアイドルがそこに出現する。テレビで主人公になることはほとんどないアイドルであっても、ネット配信であれば、自らを主役とした物語構築ができる。コストもテレビに比べれば低い。 アイドルドキュメンタリー配信は、大きく分けてオーディション、追跡型、舞台裏密着型、内省型、日常型などに分けることができる。共通するのはステージパフォーマンスではない部分を中心に映像化される点である。歌やダンスのパフォーマンスを見せるステージをゴッフマンにしたがって表局域、ステージまでの準備やステージにかける思い、アイドル活動への意識など、ステージに現れる裏の領域を裏局域と呼ぶなら、アイドルドキュメンタリー配信は裏局域を積極的に公開してファンの支持を得ようとする意味で裏局域のコンテンツ化と表せるだろう。本研究はそうした裏局域のコンテンツ化の機能や意味を考察するものである。アイドルドキュメンタリーを扱う研究において、テレビを中心とした「番組」については言及されてきたが、「配信」についてはほとんど言及されていない。公式Youtubeチャンネルを中心とした「配信」というメディア特性や、プロデュースと運営が一体化したブランディング戦略など、アイドル運営がファン獲得のために行うことがダイレクトに観察される点において、「配信」の分析はアイドル文化の考察に貢献できると考える。本研究では、特に注目を集めた実際のオーディション配信を中心に取り上げ、努力と成長する参加者がどのようにアイドルとしての表象を獲得し、視聴者の共感と結びついているのかを考察する。 オーディションはアイドルやメンバーになりたいと願う参加者の「本気」が見られる場であり、涙はその瞬間の「真実」を強く喚起する。涙は練習や苦労、成功や失敗といったドラマのピークに位置づけられ、視聴者はその涙を通じてドラマの登場人物(=アイドル)と感情的に接続する。それはアイドルの「本気」がもっとも表出する瞬間であり、涙は視聴者とアイドルの感情をつなぐ「共感のインターフェース」として機能することになる。もちろんこのリアルな感情の可視化が常に自然発生的であるわけではないだろう。ドキュメンタリーでは、涙の瞬間が編集やナレーションによって強調されることもあり、そうした「演出されたリアル」は、視聴者の共感をより強固にする効果もある一方で、離反のトリガーにもなりうる。 ドキュメンタリーにおける涙のシーンはSNSやファンコミュニティで言及され、共有され、語られ直される。涙によって「この人を応援してきてよかった」「これからも支えたい」という感情が強化される。つまり、涙は共感だけでなく応援する共同体の再生産にも関係しているといえるだろう。

報告番号351

壮年期における努力――報酬不均衡と世代内職業階層移動
立教大学大学院 鳥居勇気

【1. 目的】 階層移動が主観的ウェルビーイングや精神的健康に与える影響について、古くから数々の理論の提唱と実証研究がなされてきたが、有意な推定結果を理論通りに得ることができなかった(null results)研究は少なくない。近年では、この状況に対処するために、推定手法(Luo 2022)や分析に用いる変数(Präg et al. 2022)を見直す動きがある。一方で、階層移動による主観的ウェルビーイング等への影響を媒介する要因について十分に検討されておらず、分析方法以外の要因がnull resultsの問題に関係している可能性について不明瞭である。本研究では、社会経済的地位による健康格差の中心的な要因のひとつであると考えられており、かつ過去の職業経験が評価・判断基準に影響していると予想される努力–報酬不均衡に着目し、世代内職業階層移動が労働負荷や報酬量の評価に与える影響を明らかにすることを目指す。 【2. 方法】 2023年1月に35歳から54歳の調査会社ウェブ登録モニターを対象に独立行政法人労働政策研究・研修機構が実施した「仕事と生活、健康に関する調査」(JILLS-i)第1回調査のうち、有職者(男性9,093名と女性7,616名)のデータを使用した。従属変数はJ. Siegristの努力–報酬不均衡尺度の短縮版とし、説明変数は初職および現職のOeschの階級分類として、Mobility Contrast Model(Luo 2022)によって初職から現職への世代内移動の影響を推定した。 【3. 結果】 初職が管理/技術的専門職の場合、事務職や生産労務職、サービス職へ下降移動すると、努力(仕事量などに関する負担感)が減少する一方で、報酬(賃金の多さや職の安定性、上司や同僚からの評価など)について減少は見られなかった。これに対して、同じ専門的職業であっても、初職が社会/文化的専門職の場合は、下降移動時の努力–報酬不均衡に関する優位性は見られなかった。 【4. 結論】 本研究は、努力–報酬不均衡の観点から、階層の下降移動による心理的悪影響を相殺しうるメカニズムが存在する可能性を示した。初職が管理/技術的専門職の場合と社会/文化的専門職の場合で、努力–報酬不均衡に対する世代内移動の影響のあらわれ方に違いがあったが、これは職歴や職業スキルによって、転職先での評価のされ方が異なっているためであると予想される。 【文献】 Luo, L. 2022, “Heterogeneous Effects of Intergenerational Social Mobility: An Improved Method and New Evidence,” American Sociological Review, 87(1): 143-73. Präg, P., N.-S. Fritsch & L. Richards, 2022, “Intragenerational Social Mobility and Well-being in Great Britain: A Biomarker Approach,” Social Forces, 101(2): 665-93. 【謝辞】 本研究におけるデータの利用は、独立行政法人労働政策研究・研修機構の第5期プロジェクト研究サブテーマ「経済社会の変化と労働者の生活、健康、ウェルビーイングに関する研究」への参加によって認められている。

報告番号352

高齢期における孤独感に及ぼす富の影響
東京大学 白波瀬佐和子
東京大学 石田浩

1. 研究の背景と目的 高齢期にはいると、富が格差に与える影響は顕著となる。2022年「国民生活基礎調査の概況」(厚生労働省 https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa22/dl/03.pdf)によると、65歳以上世帯主世帯の平均貯蓄額は1,625万円であり、30代世帯主世帯の717.8万円に比較して倍以上である。一方、貯蓄高の増減についてみてみると、65歳以上世帯主世帯の4割が「貯蓄が減った」と回答しており、その76%が日常生活への支出を補うために貯蓄を崩したとしている。平均値としての貯蓄高は高齢者ほど高いが、特に引退後の所得保障が貯蓄によって補填されている暮らしぶりも見えてくる。 本稿では、貯蓄が高齢期の孤独・孤立に与える影響に着目する。世界保健機関(WHO, 2021)や内閣府(2023)においても、高齢層の孤立感の上昇や孤立について言及している。その一方で、高齢期にはいり、孤立・孤独の程度がどの程度変化するのかについての十分な検討はできていない。本研究においては、高齢期の配偶関係や経済状況の変化を考慮して、孤独・孤立感の変化・違いについて、パネル調査を用いて検討する。 2. 方法 本研究では、2010年以来、当時の50歳以上85歳未満の日本に居住する男女を対象に2年ごとに実施してきた「中高年者の生活実態に関する継続調査(JSSP)」7ウェーブまでを活用する。第7ウェーブでの分析対象者は、65歳以上(男性822人と女性850)とする。本分析の結果変数は0から3に尺度化した孤立感(「まったく孤立を感じない(0)」から「つねに孤立していると感じる」(3))である。処置変数として貯蓄額と持家有無を投入し、年齢、所得、仕事の有無、有配偶の有無、子ども数、主観的健康度を共変量として加えた。分析手法は、ハイブリッドモデルである。同モデルを用いて、孤独感について、個人の間の違いと個人内の変化(加齢等)による違いに分けて、富(持家と貯蓄高)の効果を明らかにする。 3. 結論 分析の結果、孤独感への富の影響にはジェンダー差が確認された。男性高齢者の間では、持家の有無と貯蓄は孤独感に有意な影響を及ぼしており、特に貯蓄の程度は、個人内、個人間ともに明らかな影響が認められた。貯蓄を多く保有する者は孤立感に苛まれることが少なく、また貯蓄高が低下すれば孤立感が高まる傾向が確認された。一方女性高齢者の間では、持家が孤立感の程度に影響を及ぼす一方で、貯蓄高の高低は有意な効果を示さなかった。ここでの重要なポイントは、富の保有程度のみならず、富の中身(貯蓄か、持家か)が孤立感に及ぼすメカニズムが男女で異なることである。その違いが何を意味するのか、考察を進める。

報告番号353

過去の健康問題が現在の社会経済的地位と生活に与える影響――ウェブ調査データを用いた分析
東北学院大学 神林博史

1. 目的 職業的地位や収入などの社会経済的地位(SES)と健康の関係については、SESが健康に与える影響に焦点があてられることが多かった。しかし、SESと健康の因果関係は双方向的であり、健康がSESの不平等を生み出す「不平等の原因としての健康」の側面を無視することはできない。 不平等の原因としての健康を検討するためには、過去の健康状態を把握する必要がある。その方法は様々だが、比較的容易なのは、健康問題によって生じた不利の経験(たとえば健康上の理由による離職)の有無を測定することである。しかし、この種のイベントは出現率が高くないため、通常の社会調査の枠組では詳細な分析に耐えうる十分なケースを確保することが難しかった。 そこで本研究では、過去に深刻な健康問題を経験した人をオーバーサンプリングした調査データを用いることで、健康が社会経済的不平等、あるいはライフコース上の様々な問題に与える影響を検討する。 2. 方法 本研究では、以下の方法で過去に深刻な健康問題を経験した人をオーバーサンプリングしたウェブ調査データを用いる。 調査対象者は20歳から69歳の男女(調査会社保有のモニタ)である。調査の冒頭で、過去の健康問題に関するスクリーニング質問を行った。質問は「健康上の理由による長期欠席または休学」「健康上の理由による長期欠勤または休職」「健康上の理由による離職」の3つの経験の有無である。これらのいずれか1つでも経験のある回答者を過去に深刻な健康問題を経験したグループ(A群)、どれも経験もない回答者を深刻な健康問題を経験したことのないグループ(B群)に分類した。A群は通常の調査では出現率が低いので、このグループの対象者をオーバーサンプリングした。B群は性別および年齢で割付を行い、各層のサイズが等しくなるよう調整した。サンプルサイズはAB各群1,500、計3,000である。調査は2025年2月に実施した。調査にあたっては、東北学院大学人間対象審査委員会による倫理審査を受けた。 3. 結果 AB両群はそのままでは基本属性の分布が異なるため、傾向スコアマッチングによる調整を行った。従属変数は、標準的なSES項目に加え、ライフコース上の様々な不利の経験(希望した就職ができなかった、希望した結婚ができなかった等)、意識項目(生活満足感、生活状況、格差意識等)である。分析の結果、多くの項目においてA群がB群に比べて有意に不利となることがわかった。また、3つのスクリーニング質問の効果を個別に検討した場合、最も強い効果を持つのは健康上の理由による離職であった。 4.結論 過去に深刻な健康問題を経験することは、単にSESだけでなく、より広範にその後の人生に様々な不利をもたらしうる。同時に、不利に対する健康上の理由による離職の効果が強いことは、離職を抑制するような介入を行うことが、不平等の緩和に有効であることを示唆している。 謝辞:本研究は、日本学術振興会科学研究費補助金(23K01755)の支援を受けた。

報告番号354

住宅所有と主観的ウェルビーイングの格差
公益社団法人国際経済労働研究所 山本耕平

【目的】本研究は、近年は社会階層論の観点からも研究が進んでいる住宅所有の不平等に関連して、それがもたらすアウトカムに着目した研究の試みとして、住宅所有の有無によって主観的ウェルビーイング(以下SWB)に差はあるのか、またその差はどのような条件によって拡大ないし縮小するのかを、定量的なデータ分析によって検討するものである。住宅所有の有無によるSWBの差に関してはすでに研究の蓄積があり、住宅所有者のほうがSWBが高いことが多くの研究において示されているが、それに比べるとどのような条件下で持家がSWBを高めるのかを検証したものは少ないと指摘されている。また、住宅所有の効果はそれぞれの社会における住宅の意味や住宅政策などの文脈にも依存するため、【方法】データとしては、社会経済的地位に関する変数を多く含み、79歳までの高齢者のデータが利用可能な2015年「社会階層と社会移動に関する全国調査」(2015SSM)をおもに使用した。持家率がおおむね50%を超える40歳以降の回答者を分析対象として抽出し、SWBの指標としての生活満足度(5段階評価)を従属変数、持家ダミー(一戸建てかマンションかに関わらず持家ならば1、借家・賃貸ならば0)を独立変数とし、性別、年齢、学歴、配偶者の有無、世帯年収、居住地の地価、回答者の主観的健康度を統制した線形重回帰モデルを推定した(N=5301)。先行研究の知見から交互作用の存在が示唆される年齢、居住地の地価、世帯年収に加え、主観的健康度についても持家ダミーとの交互作用を確認した。【結果】上記の変数を統制しても、持家に住む回答者のほうが有意にSWBが高かった。年齢と主観的健康度については持家ダミーとの交互作用項を追加することでモデルの改善が見られ、住宅所有によるSWBの差は高齢の回答者においてとくに大きいことと、主観的健康度が悪いことによるSWBの低下が持家の回答者ではやや抑えられることが示された。持家ダミーと年齢との交互作用については、補助的に1995SSMとの合併データの分析もおこない、世代効果よりも加齢効果として解釈できることを確認した。【結論】分析結果から、住宅所有の不平等がその結果としてSWBの格差を生み出していることと、持家でないことによる不利が特定の層において大きくなることが示唆された。加齢による差の拡大をどのようなメカニズムによって説明できるかなど、さらなる検討が必要な点も残っているため、当日はそれらの点についても議論したい。【付記】本研究はJSPS科研費JP23H05402の助成を受けた。データの使用にあたっては2025年SSM調査管理委員会の許可を得た。

報告番号355

高齢者家族の資産不平等――その趨勢と国際比較
日本学術振興会、学習院大学 新田真悟

【目的】資産不平等は社会階層研究において長らく重要なテーマであり、所得の不平等よりも深刻であることが知られている。資産は労働市場だけで蓄積されるわけではなく、世代を超えて継承されるため、世代間移動という社会階層研究の古典的な課題と照らしてもその意義は大きい。先行研究は全年齢層を包含して資産格差の水準や趨勢、およびその国際比較や形成メカニズムなどを検証してきた。 しかし、高齢期において資産不平等がどの程度なのか、またそれが時間とともに拡大するのか、縮小するのかについて、十分な研究蓄積があるとはいえない。必ずしも労働市場で収入を産み出すわけでない高齢者にとって資産は生活水準を直接左右する主たる構成要素である。それにくわえて、高齢者の資産は子孫に継承されうるため、高齢期における資産不平等の水準と趨勢を知ることは社会全体の不平等を知る一助にもなる。 さらに本研究では、高齢期の資産不平等の趨勢をコホート「間」の変化とコホート「内」の変化に分解する。同じ高齢期においても、近年のコホートは労働市場の二極化や非標準的な家族形態の拡大を経験している。また、近年のコホートはより多疾患併存症を持ちやすく、また健康の学歴差も大きい。一方で、同じ高齢期でも、65歳と85歳とでは資産の状態に差異が生じることが想定される。引退、孫の誕生、配偶者との死別などのライフイベントを高齢期のなかで経験し、また親族の介護や自身の老衰による健康状態の悪化などの変化が生じる。コホート「間」の変化は現役期の不平等の拡大を反映する仕方で高齢期の資産不平等を拡大させる一方、コホート「内」の変化は医療費の捻出による資産の取り崩しなどによって高齢期の資産不平等を縮小させることが想定される。 高齢期の資産不平等とその趨勢は、国によって異なることが想定される。たとえば、年金、医療、福祉が充実している国では多疾患併存症や老衰による医療費の支払いが抑制され、結果として資産の取り崩しや蓄積機会の逸失をしにくくなる。また、抵当権の柔軟性に代表されるような住宅市場の設定も国による資産不平等に大きく寄与している。本研究では国際比較の視点も取り入れて高齢期における資産不平等とその趨勢を検証する。 【方法】分析に用いるデータはGateway to Global Aging Data(以下、Gateway)である。Gatewayは米国のHealth and Retirement Study(HRS)との比較可能性を注視した、各国でおこなわれている高齢者を対象とした社会調査を統合したデータである。Gatewayは住宅資産、金融資産、負債のそれぞれについて情報を収集している。分析においては60歳以上の者がいる世帯を対象に、住宅資産と金融資産の総額から負債を減じて純資産を作成した。 【結果】記述的分析の結果、ほとんどの国で高齢期の資産不平等は縮小または安定的に推移している一方、米国のみで拡大していることが明らかになった。資産不平等の縮小/拡大は、コホート内の変化よりもコホート間の変化によって主に引き起こされており、とくに住宅資産において不平等の縮小/拡大が確認された。東アジア諸国、特に中国と韓国では、高齢期の資産格差が比較的高い水準にあることも明らかになった。 【謝辞】本研究はJSPS科研費 JP24KJ1919の助成を受けたものです。

報告番号356

世代間の階層移動が排外主義的態度の形成に及ぼす影響
立教大学大学院 具弦俊

【1. 目的】 本研究の目的は,親世代より低い社会階層へ移動した経験が,日本人の排外主義的態度の形成に与える影響を検証することである.近年の研究では,親世代に比べて社会経済的地位の低下が移民への排外主義的態度の形成と関連する可能性が指摘されてきた(Paskov et al. 2021; Gugushvili et al. 2025).しかし,日本においては階層移動の経験と排外主義的態度の形成との関連について十分な検討が行われていない.したがって,本研究では世代間の階層移動と外国人への排外主義的態度の関連を明らかにする. 【2. 方法】 データは,2015年以降のJGSSデータを合併して用いる.15歳時点の父親の職業および本人の現職のISCO-08をもとに職業階層を三分類に再構成したうえで,各階層の変数と,親世代と本人の階層を比較した階層移動変数(上昇・維持・下降)を主な変数として用いる.従属変数は,「外国人増加の賛否」を問う設問にもとづき,賛成を0,反対を1とするダミー変数である.年齢,学歴,婚姻状況などの社会人口統計学的変数を統制し,階層的要因が排外主義的態度の形成に及ぼす影響をより明確にする.なお,分析ではロジスティック回帰分析を用い,さらに階層移動のそのものの効果を検討するため,Diagonal Reference Model(以下DRM)による補足分析を行う. 【3. 結果】 ロジスティック回帰分析の結果,排外主義的態度に対する階層移動の効果は,男女いずれにおいても統計的に有意ではなかった.すなわち,単に親世代と比べて社会経済的地位が上昇あるいは下降したという経験そのものは,外国人への排外主義的態度の形成を一律には説明できないことが示唆された.一方で,特定階層間の移動に着目すると,有意な連関が示された.女性では下層から中間層への上昇移動が排外主義的態度を強める効果を持ち,男性では上層から中間層への下降移動が,排外主義的態度を弱める効果を持つことが確認された.加えて,DRMによる分析では,とくに女性において到達階層の影響が態度形成に強く作用していることがわかった.これらの結果から,排外主義的態度の形成には,単なる階層移動の有無や方向よりも,階層間の位置関係が重要であり,こうした効果は性別によって異なる可能性が示された. 【4. 結論】 本研究は,日本における世代間の階層移動が排外主義的態度の形成に与える影響を分析した.階層移動の有無や方向そのものは,排外主義的態度に有意な影響を与えていないことが示された一方で,特定の出自階層と到達階層の組み合わせによっては,男女別に異なる有意な効果が確認された.とりわけ,女性における上昇移動(下層から中間層)では排外主義的態度が強まり,男性における下降移動(上層から中間層)ではむしろ排外主義的態度が弱まるという従来の知見や理論的仮説とは異なる結果が得られた.これにより,階層移動と排外主義的態度の関係は一様でなく,より複雑なメカニズムを通じて形成されている可能性が示唆された.したがって,階層移動と排外主義的態度をめぐる今後の研究では,移動の方向や程度だけでなく,出自階層と到達階層の組み合わせ,ならびに性別との交互作用などを考慮した多角的な視点が求められる.

報告番号357

廃材が資源になるとき――空き家リノベーションにみる価値生成の社会過程
神戸学院大学 松村淳

1. 問題の所在と目的 2025年現在、空き家の総数は900万戸を超え、深刻な社会問題となっている。こうした空き家を活用する取り組みの一つとして、「空き家リノベーション」が注目されている。 我が国では「新築信仰」が根強いが、建設コストの高騰により、新築住宅の取得は容易ではなくなっている。そのような状況下で、代替手段として選ばれてきた空き家リノベーションであるが、近年ではコスト面のみならず、空き家という資源を活用するという観点から、積極的に選択する人々も増えている。さらに、リノベーションの際に、建物の解体時に発生する廃材を建材として再利用する事例も見られるようになってきた。 本報告では、こうした廃材が建材としてどのように「市民権」を獲得してきたのかについて、ANT理論を参照しつつ、廃棄物と社会の関係性の変容という視点から再考する。 2. 対象と方法 発表者は、神戸市内で進行中または既に完成した複数の空き家改修プロジェクトを対象にフィールドワークを実施した。神戸市に拠点を置く建築・大工集団Nは、手がける物件において廃材を積極的に用いており、意匠として“見せる”ための素材としても活用している。また、同市内ではNを含む複数の建築事務所や工務店などが廃材の利活用事業を展開しており、回収した廃材を保管するストックヤードを近隣の同業者と共同で運営している。手掛けた建築家ストックヤードなどについては見学会やSNS等を通じて積極的に発信し、廃材アップサイクルへの理解を呼びかけている。 3. 結果と考察 本発表では、廃材を活用した空き家リノベーション事例や、それに関連する業者の登場を通じて、廃材を取り巻く人とモノの再配置の過程を考察した。 現在、「廃材」を取り巻く環境は大きく変化している。世界的な循環型社会への転換やSDGsの推進といった潮流の中で、廃材は「廃棄物」から「資源」へとその位置づけを大きく変えつつある。ユーザーにとって、廃材を選択することは循環型社会への貢献を実感できる行為であり、コスト面でも一定の利点がある。建築家にとっても、廃材の活用は「建築〈界〉」での差異化や卓越性の手段としても認識されつつある。廃材をアップサイクルしたことを 前面に打ち出した建築物やプロダクトも次々と発表されており、それらは廃材を新たな価値を生み出す素材として象徴づけている。 このように、廃材が「市民権」を得ていく過程は、人間的および非人間的要素が複合的に動員されながら進行しており、そのダイナミズムを確認することができた。

報告番号358

地域産業の資源ガバナンス――陶磁器業の地域比較分析
順天堂大学 太田有子

1. 目的 本報告は、特定の地域を拠点として発展した産業と資源をめぐるガバナンスについて分析し、持続可能な地域産業のあり方について検討するものである。近年、地域産業の衰退が懸念されているなか、既存の資源を利用しつつ、越境的な交流活動の拠点として地域の産業と地域社会の発展につながる活動が生じている。地域の産業活動の様々な資源を活用し、地域外の関係人口の関与や若年層の移住・海外の専門家の受入れ等による越境的な交流活動を通じて地域の活性化をはかる試みが行われている。地域再生事業の一環として行政機関から支援を受けている事例や、産業活動に関わる資料・史跡を公開し、観光資源として活用する取り組みも見られる。地域における産業資源の活用に関する研究は行われているものの、各事例の地域的多様性の背景や持続可能な資源の活用の条件については、必ずしも研究の対象となっていない。本研究では、行政と民間事業者、地域住民の関係や地域外の関係人口の関与が、当該地域の既存の産業資源の活用にどのような役割を果たしうるのかといった点を中心に地域の産業資源のガバナンスのあり方について検討する。陶磁器業に関連する資源の利用をめぐる活動を中心に、複数の地域間の比較分析の報告とともに産業資源の活用を通じた持続可能な地域のあり方について考察する。 2. 調査方法 持続的に陶磁器業が発展した地域として佐賀県有田地域、長崎県波佐見地域を拠点とした陶磁器業に関連する諸資源を活用した活動の分析結果を報告の予定である。当該地域において、産業活動に関わる資源の保全・管理・活用について行政、地域産業従事者や市民がどのように関与し、地域外の関係人口はどのように当該地域の産業資源の活用に関わっていたか、地域産業の資源に関わる活動、活動主体の関係性や越境的な交流活動について分析する。地域の産業活動に関する資源の保全・公開に関する取り組みを中心に分析を行い、地域における産業資源をめぐるガバナンスについて検証する。 3. 結果 地域の比較分析を通じて、特定の産業活動に関する資源の保全・利用をめぐる諸活動と関係性とともに各地域の産業資源をめぐるガバナンスの地域特性が見られた。行政が積極的に関与し、地域外からの資金調達や技術交流を仲介する事例がある一方で、民間の事業者や市民が地域の再生に積極的に関与している事例も見られた。いずれの場合にも既存の産業資源を活用した当該地域の活動の活発化につながり、既存の産業活動を担っていた地域の事業者とともに、行政の支援や地域外からの人材・技術の流入は、既存の資源の活用とともに地域の再生に寄与していることが示されている。 4. 結論 地域の産業資源を活用した地域の再生の取り組みとともに、資源ガバナンスの地域特性が明らかになっている。陶磁器業の発展した地域の比較分析を通じて示された地域の特性は、特定産業を中心に発展してきた地域が発展するための条件や産業資源の活用のあり方を検討するうえでも意義があると考えられ、今後の持続可能な資源のガバナンスと地域のあり方について考察する。

報告番号359

地酒の「地産地消」と地域間関係
近畿大学 辻竜平

長野県諏訪地域は水資源に恵まれ,昔からいくつもの酒蔵が存在してきた.現在,諏訪市内には真澄,横笛,本金,舞姫,麗人の5つの酒蔵が存在し,下諏訪町には御湖鶴,岡谷市には,豊島屋(神渡・豊香),高天といった酒造が存在している. 本研究では,諏訪地域の地酒について,その市町村の住人が,自分の市や町の酒蔵の酒がより積極的に飲んでいるか(地産地消されているか)を検討してみたい. データは,2023年2月から3月に諏訪地域の6市町村において実施されたランダムサンプリング調査「御柱祭に関わる調査」(代表,辻)を用いる.諏訪地域の酒蔵の代表的な酒をあげて,「ふだん飲まれる日本酒の銘柄」を複数回答可で尋ねている. そこで,それぞれの銘柄について,どの市町村の居住者によく飲まれるかをχ2乗検定と残差分析を行ったところ,8つの銘柄(ただし,神渡と豊香は同じ酒造なのでまとめて1銘柄とした)のうち6つで,有意に飲まれる,あるいは,飲まれない銘柄があることがわかった. このうち,特に目立つのが,岡谷市で,地元岡谷市の2銘柄を有意によく飲む一方,諏訪市の3銘柄(真澄,本金,舞姫)を有意に飲まないことがわかった.逆に,茅野市では,岡谷市の2銘柄を有意に飲まない.その他,富士見町では諏訪市の真澄が有意に飲まれ,諏訪市では同市の本金が有意に飲まれ,下諏訪町では同市の御湖鶴が有意に飲まれることがわかった. ここから,岡谷市の人々は,独特の嗜好性を持ち,特に地元の酒かそうでないかにこだわる人が多いようである.また,下諏訪町の人々も,地元の御湖鶴を一択で愛飲している.諏訪市以南の人々は,諏訪市の銘柄をやや嗜好しているようである.このように,地理的に3つの酒文化圏(岡谷市,下諏訪町,諏訪市以南)があるように思われる.このことは,コレスポンデンス分析を行っても明確に現れる.人々にとって,酒蔵が物理的にどの市町村に位置しているかが,何を飲み何を飲まないかを決定しているようである. 「地産地消」は,地元のものを地元にて消費するという意味合いで用いられることが多いが,本分析の結果から見ると,自分の居住地域の酒を好んで飲むことに加えて,他の地域の酒を忌避することによって,銘柄と消費地のパターンが形成されていることがわかる.本調査では,ふだん飲む銘柄を複数回答可で挙げてもらっている.だから,地元の銘柄を愛飲すると,別の地域の銘柄を飲まないといったゼロサム的なことにはならないので,この結果はアーティファクトではない.「地産地消」は,地元のものを消費しようという積極的な意味合いと,近隣の市町村のものを忌避するという消極的な意味合いが合わさって成立している可能性が示唆された.

報告番号360

日本の市民セクターを捉える新たなレンズ――市民的コモンズ概念のリアリティと論点
駒澤大学 李妍炎

【市民的コモンズ概念の提起】 日本社会における市民セクターはNPOやソーシャルビジネス、社会起業家や社会的企業などの概念で語られてきたが、市民セクターの根っこ、土壌を捉える新たなレンズとして、分厚い伝統の蓄積を有しつつも最先端の発想と仕組みを示唆する「市民的コモンズ」の概念を提案したい。 コモンズに関する数多くの先行研究を踏まえ、本研究では6つの項目から市民的コモンズの概念を構築している。 1.土台:何らかの価値の共有、モノや空間などの具体的で媒介となりうる資源の発見と可視化及びそのコモニーング過程がある 2.利用目的:個人の生き方と暮らし方の価値表現、人と自然/人と人との関わり方を反映した生活実践、生業を取り戻す実践など幅広く多様 3.内部の関係性:立場を超えた多様な参加者、自治、相互性、コアの部分の継続性 4.規範とルール:市民がイニシアティブをとる、非強制的参加(出入り自由)、公正さ、協治、可変的ルール(変化への適応性) 5.市場との関係:市場システムを相対化、脱成長志向(成長最優先、商品化、エンクロージャーへの抵抗) 6.社会的価値:コモン的権利の主張、排他性を克服したオープンなコミュニティ、多様な異なる者どうしによる協治システムの成立、自生する社会秩序の可能性 簡潔にまとめると、市民的コモンズとは「具体的な資源を媒介とするコモニーングの過程であり、多様な目的を持った多様な人々が関わり、オープンなコミュニティづくりによってエンクロージャーに抵抗し、市場システムで切り捨てられてきた価値の再構築を行い、自生する社会秩序を志向する協治の仕組み」だと定義できよう。 【事例から市民的コモンズ概念のリアリティを読み解く】 この概念は効果的なレンズとなるのだろうか。本報告では、資本主義市場システムにおいて価値が低下し、放置されがちな地域資源の価値を再発見/再構築する市民的実践の事例を市民的コモンズ概念を用いて考察してみる。 1.地方の森林資源に目を向け、放置されてきた森のコモニーングを進める「NPO法人いとなみ」。 2.都市部の自然資源に目を向け、「まちの緑」のコモニーングを進める「シモキタ園藝部」。 3.「銭湯のある暮らし」の価値を再発見し、そのコモニーングに取り組む「小杉湯となり」。 【市民的コモンズをめぐる論点】 事例から市民的コモンズ概念のリアリティを提示したうえで、市民的コモンズをめぐる主要な論点を3つ提示し、事例から得られる示唆を提示する。 論点1:多様な人々のかかわりとオープンなコミュニティ―コミュニティのオープンさをどう保持するか 論点2:自治への志向性と協治の仕組みづくり―自治と協治がいかに成立するか 論点3:エンクロージャーへの抵抗と価値の再構築:私有化と商業化に対する姿勢 【結論と今後の課題】 本研究の結論をまとめた上で、上記3つの論点をさらに詳細に展開した市民的コモンズ概念の課題群を提示し、今後の調査研究の方向性を示す。

報告番号361

日本社会における少数言語の言語継承について――日本在住ウイグル人を中心に
公益財団 モラロジー道徳教育財団 アブドゥラシィティアブドゥラティフ

Language is not merely a means of communication but the foundation of culture, history, and identity. Language inheritance is cultural inheritance itself (Fishman 1991¹; McCarty 2003²). It goes beyond the simple transmission of words to encompass the preservation of culture, religion, historical memory, and identity. This presentation focuses on the actual practices and challenges of language inheritance among Uyghurs residing in Japan, with the aim of elucidating how linguistic identity is formed and transmitted. Through interview surveys with thirteen Uyghur households in Japan and observations of language use on social media and in educational settings, we paid attention to three points. First, the frequency of mother‐tongue use within the home and the linguistic gap between the parent and child generations. Second, the utilization of Uyghur and the support systems in local community contexts. Third, the influence of school education and broader Japanese society on mother‐tongue inheritance. The maintenance of a minority language depends most crucially on mother‐tongue use at home (Fishman 1991³). Our findings revealed that Uyghur is spoken primarily by the parent generation; the children are mostly Japanese‐dominant bilinguals or even Japanese monolinguals. Parents reported that “even if our children can speak Uyghur, their reading and writing skills are low,” suggesting that the transmission of literacy in the heritage language is especially difficult. On the other hand, many families are accessing overseas Uyghur content via social media—especially Telegram and YouTube—so that digital spaces have become new arenas for language inheritance. Moreover, Uyghurs in Japan are not only maintaining their language at home but are actively sharing their culture and language through local events and exchange gatherings. Language is maintained when it is used across multiple “domains” such as home, religion, education, and media (Fishman 1991⁴). However, in Japanese society children have few opportunities to use Uyghur at school or in public spaces, and there is little institutional support, revealing a lack of resources for effective language inheritance. In summary, Uyghur language inheritance in Japan takes place multilayered—in the home, in education, in the community, and online—but faces many challenges. Going forward, it is necessary to create more learning opportunities for the younger generation, strengthen collaboration between schools and local communities, and reconceptualize language inheritance not as the sole responsibility of individuals and families but as part of respecting cultural diversity in an increasingly multicultural Japanese society.

報告番号362

山村集落をめぐる「他出子」と「他出子の子ども」それぞれの関わりの差異――浜松市天竜区佐久間町Z集落を事例として
静岡文化芸術大学 舩戸修一

【研究の背景と目的】 本報告では、中山間地域である浜松市天竜区佐久間町Z集落をとりあげ、この集落の「他出子(集落から転出した子ども)」および「他出子の子ども」への調査票調査を踏まえ、Z集落への関わりや意識の差異を明らかにする。昨今、農山村では「限界集落」が指摘され、集落の消滅も予想されている。 しかし、人口減少や高齢化が進んでも他出子が定期的に通い、実家の生活を支援することによって集落が維持されている現実がある。その他出子だけでなく、その子ども(集落に居住する親からみれば「孫」)も頻度は他出子ほどではないが、通っている事実が散見される。これまでの「他出子論」では「他出子の子ども」についてはほとんど言及されず、今後の農山村集落の維持可能性を考える場合、他出子だけでなく、「他出子の子ども」の実態についての研究も求められる。 かつて農業や林業で栄えたZ集落は、2024年9月現在、世帯数14戸、人口35人、高齢化率は約62%である。その全世帯への聞き取り調査から他出子は、24人、他出子の子どもは19人いることが分かった。 【データと方法】 報告者は、2024年、Z集落の他出子および他出子の子ども全員を対象に調査票調査を実施し、Z集落へ通う頻度や目的、Z集落の共同作業や祭礼への参加意識、将来的なZ集落への居住意思などを明らかにした。 【結果】 Z集落の他出子では、年間3~4回通っているという回答が最も多かったが、他出子の子どもでは、年間1~2回通っているという回答が多かった。他出子では、実家の生活支援という回答が最も多かったが、他出子の子どもでは遊ぶためという回答が最も多かった。他出子では、将来的なZ集落での居住を考えている人が2人いたが、他出子の子どもでは考えている人は全くいなかった。しかし、他出子の子どもの中には、祖父母と定期的に電話やメールを通じて連絡を取り、集落の共同作業や祭礼への参加を希望する回答も少なからず見られた。 【考察】 これまでの「他出子論」では血縁・地縁による人間関係を重視し、「世帯」ではなく「家族」で分析する視点が提示されてきたが、今後の農山村集落の持続可能性を考察するうえで、家族の一員である「他出子の子ども」についても研究対象とするべきである。本報告で明らかになったように、集落とかかわりをもつ/もとうとする家族がいる。今後、身近な人々との関係を見直し、着実にかかわりをもち続けることが重要である。

報告番号363

日本語教師の国家資格化と地域の日本語教室の運営への影響
大阪樟蔭女子大学 呉知恩

1.研究の背景 日本における少子高齢化による労働力不足を背景に、2010年以降、「出入国管理および難民認定法」が何度も改正され、就労に関する新しい在留資格が創設された(「技能実習」(2010年施行)、「技術・人文知識・国際業務」(2015年施行)、「高度人材(高度専門職)」(2015年施行)、「特定技能」(2019年施行))。 2.研究目的 日本に在留している就労目的の外国人の増加に伴い、日本語学習者に日本語を教える日本語教師の役割が重視されるようになった。国は「日本語教育の推進に関する法律」(令和元年6月28日公布・施行)に続いて「日本語教育の適正かつ確実な実施を図るための日本語教育機関の認定等に関する法律」(以下、「日本語教育機関認定法」と略す)を制定し、令和6年4月1日から施行されている。後者の法律の制定の目的は、(1)日本語教育機関認定制度の創設、(2)日本語認定教育機関における日本語教育を行う者の国家資格制度(「登録日本語教員)の創設を柱とする。 本研究では、新たに制定された「日本語教育機関認定法」が地域の日本語教室にどのような影響を与えるのかについて、地域の日本語教室の日本語教師への調査を通して明らかにすることである。 3.研究方法 大阪府東大阪市において外国人を対象とした日本語教室を運営するあるNPO団体のボランティアへの聞き取り調査を中心とする。 4.研究結果 文化庁の「令和4年度日本語教育実態調査報告書」によると、国内における日本語教育実施機関・施設等数は2,764、 日本語教師等の数は44,030人、日本語学習者数は219,808人となっている。日本語教育機関は法務省告示機関(いわゆる「日本語学校」)が697(25.2%)と最も多く、平成27(2015)年との比較で2倍増加している。日本語教師のうち49%(2万1568人)は日本語学校ではなく、地域の日本語教室などで教えるボランティアであり、非常勤は36.1%(1万5891人)、常勤はわずか14.9%(6571人)に過ぎない。20代の日本語教師は全体の5.4%(2380人)にとどまる。若い世代が参入しない理由として、雇用形態の不安(国勢情勢の変動による留学生数の変動を補填する「調整弁」としての非常勤雇用)、雇用環境の構造的問題(日本語教育機関認定法で規定されている日本語学校に勤める教員の担当授業時数の制限、および日本語学校における教師の仕事の多重性、それに関連する日本語学校の適正性の選定基準)などがあげられる。 「日本語教育機関認定法」の新制度が対象とするのは、日本語学校とそこで働く教師のみであり、地域の日本語教室で働く日本語教師は必ずしも国家資格を取得する必要はない。地域の日本語教室は外国人が日本人と交わり、日本語を学ぶ一つの接点として、日本語だけではなく生活相談の窓口にもなり、自治体も日本語教室を通じて外国人や外国人コミュニティに関する情報を得る場として技能している。 日本語教師の国家資格化は、日本語教育の標準化(日本語教育の参照枠としてタスクベースの教育方法の導入)・質保障を志向する一方で、50代、60代のシニア世代のボランティアで支えられてきた地域の日本語教室を置き去りにする可能性があることが示された。

報告番号364

オートエスノグラフィ、解釈学的循環、自閉スペクトラム
 落合仁司

1 目的  オートエスノグラフィは、私から出発する社会学の方法論として近年注目を集めている。オート、自己が自己の属するエスノ、社会・文化をグラフィ、記述・表現することによって、自己のアイデンティティを社会的に構成し承認させようとする試みである。本論は、このオートエスノグラフィを、解釈学的循環の中に位置付けることにより、その方法論的射程を明らかにすると同時に、自閉スペクトラムのオートエスノグラフィという具体的な表現を通じて、この方法の実践的可能性を検討したい。 2 方法  オート、自己が自己の属するエスノ、社会・文化をグラフィ、記述・表現することは、自己が自己の属する物語を創作・表現するという再帰的な解釈学的循環の只中にある。解釈学的循環は、近代解釈学の創始者シュライエルマッハーに始まりディルタイ、ハイデガー、ガダマーを経てリクールに至る解釈学の歴史の中で、常に核心を占めていた。すなわち自己が自己の属する全体を理解・解釈することと自己自身を理解・解釈することが相互に再帰的な関係であらざるをえない自己再帰的循環である。したがってオートエスノグラフィもまた、自己再帰的循環であることを避けえない。オートエスノグラフィは解釈学的循環であることを踏まえて、自閉スペクトラムのオートエスノグラフィを試みよう。 3 結果  米国精神医学会診断統計マニュアルDSM-5によれば、自閉スペクトラムは、①社会性の障害、②反復的な行動を2大指標とする。しかし自閉、オーティスムは、自己再帰的循環そのものではないのか。自己が自己の物語を創作・表現する解釈学的循環、自己再帰的循環にあっては、他者あるいは他者と共有することが期待される規範は後景に退く。自己の物語の根拠は自己であって他者ではない。これがたとえば医師としての他者からは規範を遵守しない社会性の障害と見える。また自己が自己の物語を創作・表現する循環において、創作・表現という行動は自己再帰的、反復的であらざるをえない。これが医師には限定的な行動の反復、固執と見える。自閉スペクトラムは、医師という他者・社会から見れば病理だが、当事者自己から見れば解釈学的循環という人間の根源的な存在の仕方そのものではないのか。 4 考察  本論は、オートエスノグラフィは解釈学的循環であり、解釈学的循環は自閉スペクトラムだと述べて、オートエスノグラフィを貶めたいのではない。逆である。自閉スペクトラムのオートエスノグラフィは、自閉スペクトラムが解釈学的循環という人間存在の根本的な在り様なのだと言いたいのである。それがオートエスノグラフィの効果と言えよう。

報告番号365

「ひきこもる言葉」の評価と意義と活用法――オートエスノグラフィーの面白さ・つまらなさ・怪しさ・誠実さ
神奈川大学 藤谷悠

本発表では、発表者自身が当事者性を持つひきこもりという社会課題に関する研究について、オートエスノグラフィーという手法をいかに用いてきたのかを具体例として振り返りながら、オートエスノグラフィーの面白さ・つまらなさ・怪しさ・誠実さについての考察を展開する。発表者はこれまでの研究において、オートエスノグラフィーを単体で用いたことはなく、その他の研究手法(主に生活史調査法)との組み合わせによって使用してきた。それは、オートエスノグラフィーが学術的な方法論としてはいまだに不安定なものであり、十分に信頼のおけるものではないという認識を持っているからである。しかし、たとえば今まさに自宅でひきこもっているひきこもり当事者の言葉のように、外部や他者との接触手段を持たない人々がその「声」を発信する手段として、オートエスノグラフィーという手法は有効であるように思える。ただ、そうして発信された当事者のオートエスノグラフィーの文章は、切実であるはずの抱えている思いに反して、「凡庸なもの」だと評されることもある。要するに、文章としての読み応えがなく、ありきたりでつまらないということである。これは「面白い文章とは何か」という普遍的な問いに関わることであるが、いずれにしろ文章のプロではない当事者が記述したオートエスノグラフィーが、何かしらの評価基準に晒される場が存在する。なぜそのような事態になるかといえば、それはその他の文章との比較の中で評価されることになるからであろう。学術の場であれば、たとえば生活史調査で得られた語りを書き起こした文章や、あるいは専門家によって記述された考察文などがその比較対象となるだろう。これらの文章が一堂に介したときに、どの文章が面白く、どの文章がつまらないのか、といった評価を下すのは、その場を構成する人々である。つまり、評価の場が異なり、評価する側の人々が異なれば、何が面白いかつまらないかの評価は変わりうる。本研究を通じて、オートエスノグラフィーがどのような場でどのような評価がなされるのかという問いを立てながら、その意義と活用法についての考察を行う。また、その評価に関わる要素としての、オートエスノグラフィーによって紡がれる言葉の怪しさと誠実さについても考えを進める。オートエスノグラフィーは、筆者が自分自身を対象として記述する行為である以上、常にその客観性が問われうる。いくらでも自由に嘘や偽りや誇張を盛り込めてしまう、あるいは都合の悪い事実は包み隠すことができてしまう状況がある中で、読者がそれを懐疑的に怪しむのは当然のことである。それらを踏まえた上で、いかに誠実なオートエスノグラフィーを記述することができるのか。そして、その誠実さとはいかなるもので、その効能とはどのようなものか、なぜそれがオートエスノグラフィーの記述に重要なものなのか。それらの問いについては、伊藤亜紗による「誠実さの効果」をめぐる議論を参照しつつ、試論を立てていく。

報告番号366

オートエスノグラフィーを補完する試み――フィールドワーク、インタビュー、参与観察
慶應義塾大学 上岡磨奈

報告者は1992年より芸能活動を開始し、俳優およびアイドル、そのスタッフとして断続的に芸能活動を行う当事者、活動をサポートする者として仕事を受けてきた。これらの経験について記述した論考およびインタビュー記事、当時の日記、スケジュール帳、出演を記録したメディアを資料としたオートエスノグラフィー(以下AE)を主な調査および記述する手法の一つとして採用し、芸能者の労働環境およびキャリアについて調査研究を行っている。本報告では、同研究にAEを取り入れた経緯とその課題を取り上げ、AEの社会科学的な信頼性を担保する手段としてフィールドワーク、インタビュー調査、参与観察の併用は有効なのかを検討する。 同研究の出発点は、調査者自身の芸能者としての経験を通じて感じた抑圧および困難、またそれに対する疑問であった。例えば、芸能活動は経済活動には直結しないのか。それは当然のことなのか。時間の制約が厳しく、明文化されない規則が数多くある中で、自分自身の身体や生活、感情を優先しないことが当たり前なのか。芸能活動を離れることによってそうした環境が芸能界に特有の規範であることに気が付く瞬間があった。そしてその気付きは、自分自身が俳優やアイドルという立場で過ごしていたからこそ、得られたものであり、芸能界の外部では必ずしも共有されていないことがわかった。つまり同研究にそうした「私」(上岡)の存在は欠くことができない。それは芸能活動の構造的な問題に対して、かつての「私」は声をあげる当事者であり、「私」が抱えた困難こそが本研究の出発点だからである。 そうした「私」の視点を記述する手段として同研究ではAEを採用し、芸能活動の経験者、内部者である自身の視点から活動実践を内省しているが、以下のような課題も浮かび上がる。①「私」の記憶は確かであるか、②「私」の経験に代表性はあるか、③「私」の困難は「私」の個人的な経験か。いずれもAEという手法に関連する論点であり、AEに対する批判的な検討、分析的AEの実践にも共通する。同研究ではフィールドワーク、インタビュー調査および参与観察を併用することで、「私」の経験を外部の視点から省察する過程を加えた。これらの調査は、独立した調査であると同時に、「私」の知見が土台となっているという意味でも、「私」の問題意識や個人的な経験について調査協力者との対話を通じて確認するという意味でも、AEの一貫であり、連続した調査となっている。しかし同時に社会科学的な信頼性にのみ焦点を当てるべきか、またそうした信頼性を何らかの方法で担保することは果たして可能なのか、という問いも浮かび上がる。 本報告では、同研究で指摘する労働問題に「私」はどのように折り合いをつけ、その後向き合うようになったのか、そうした振る舞いに潜む問題性に対峙する経験(エピファニー)を提示しつつ、補完的な他の調査がどのように何を補うのか、AEの方法論が直面する課題と実践について検討する。

報告番号367

語り合いから生まれる自己理解――オートエスノグラフィーにおける対話的インタビューの試み
大谷大学 大川ヘナン

本発表では、オートエスノグラフィーに基づく研究において、自己の記述に加え、当事者同士のインタビュー(語り合い)を取り入れることで、自己理解をより深めていく可能性について検討する。  大学院に進学した当初、私は「研究」という営みを十分に理解していなかった。しかし、研究したい対象は明確だった。それは、ブラジルルーツの若者たちの大学進学に関する問題である。ブラジル国籍を持つ若者の大学進学率は、他のエスニックグループと比較しても困難に直面していることが明らかにされている(樋口・稲葉 2018)。それは私自身の経験とも重なっていた。私の周囲で大学に進学したブラジルルーツの若者はごくわずかであり、知人との会話の中でも、大学進学の難しさがたびたび語られていた。だからこそ私は、なぜブラジルルーツの若者たちにとって大学進学がこれほど困難なのかを探究したいと思った。  しかし、調査を進めるなかで、先行研究を読み、他の当事者や保護者の話を聞くうちに、私は新たな問いに直面することになる。それは、「なぜ私は進学できなかったのか?」あるいは「なぜ私は進学できたのか?」という、相反するようでいてどちらも切実な問いである。私は高校卒業時に大学進学を果たせなかったが、2年後に大学へ進学している。ブラジルルーツの若者の進学について研究を進めながらも、自身がなぜそのような進路をたどったのかを、明確に言語化できずにいた。  オートエスノグラフィーという方法と出会ったのは、まさにこうした自己矛盾と向き合っている最中だった。私はブラジルルーツの若者について研究しているが、ただ客観的で中立的な立場から他者を分析する存在にはなり得なかった。インタビューの過程でも、たびたび「ヘナンさんはどうだったんですか?」という問いを投げかけられた。そうしたやり取りを重ねる中で、インタビューはいつしか、私が問い、相手が答えるという一方向の形式ではなく、質問者と回答者が交互に入れ替わるような、対話的な語りの場へと変容していった。  オートエスノグラフィーとは、調査者自身が研究の対象となり、自らの主観的な経験を描写しつつ、それを自己再帰的に考察する研究手法である(井本 2013)。従来の研究が「対象への理解」を重視してきたのに対し、オートエスノグラフィーでは、主観的かつ感情的な記述を通した「自己理解」が求められる(劉 2018)。すなわち、自身の経験が社会の中でいかに形成され、その経験を通して自らが何を感じ、どのように生き、選択してきたのかを問う手法である。そのため、オートエスノグラフィーにおいては、いかに深く自己の記憶と感情に潜っていけるかが重要となる。これは決して容易な営みではなく、むしろ客観性や中立性を重視すればするほど困難な手法となる。  さらに、自己の経験は必ずしも言語化できるものではない。感情がたしかに存在しているにもかかわらず、その感情にふさわしい「名前」がわからない、ということも多々ある。本発表では、そのような捉えどころのない経験や感情を、当事者同士の語り合いの中でともに見出していく、オートエスノグラフィーのもう一つの側面に光を当てたい。インタビューを、単に調査協力者から情報を聞き出すための手法ではなく、自身の人生をより深く理解するための実践として捉え、その可能性を探究する。

報告番号368

〈開示舞台〉の展開を「人生の串団子モデル」で捉え直す――AE実践は理論といかに接続できるのか
大阪大学大学院人間科学研究科 水野唯衣

本発表は、自己について深く語ることを繰り返してきた発表者自身の経験を、藤川(2017)の「人生の串団子モデル」「舞台遍歴モデル」によって描き出そうとするものである。自己を語る経験、それを可能にする場(舞台)の広がりが、筆者自身にとっていかなる意味を持っていたのかを考察する。また、自身のオートエスノグラフィー(以下AE)記述をモデル化することへの葛藤を提示し、議論の端緒としたい。発表者はこれまで、「語り合い」という対話実践における自己語り経験について、喚起的AEとインタビューを用いて研究を行ってきた。本発表では特に、発表者自身の2年半にわたる自己語り経験を切り出し、再分析を行うことで、喚起的AEを他者に共有可能なモデルとして提示することを試みる。分析に用いるのは、藤川(2017)の「人生の串団子モデル」「舞台遍歴モデル」である。このモデルでは人生を、時間的・空間的に連なる複数の舞台(複数の相互行為の場)を渡り歩くイメージでとらえる。舞台同士は相対的に独立しているため、各舞台でどのような役柄を演じるかはその都度決まるが、他方でこれらの舞台は、諸舞台を渡り歩く自らの身体に刻み込まれたハビトゥスによって相互に接続されるため、複数の舞台において自己によって演じられる役柄の間に類似性が生じる。個々の舞台を団子で表すなら、それらをハビトゥスが串となって縦横に接続しているのである。私たちはそれぞれの舞台で、「演じたい役柄」「演じることができる役柄」「演じるべき役柄」が一致したときに「ユーフォリア」の感情を得るが、この感情を求めて舞台を渡り歩くのである。「居場所」とは、そうした感情を得られる舞台のことであり、「本当の自分」とは、そのときの役柄であるとされる。このモデルで考えると、筆者にとって「語り合い」との出会いは、新たな舞台の追加として描くことができる。それは〈開示舞台〉的なものとして機能する。しかしそれは、それまでの人生で演じたことのない舞台であり、強い緊張感や葛藤を伴う舞台としても立ち現れる。さらに、その舞台の浮き沈みは、ハビトゥスによって「語り合い」舞台と接続された周囲の舞台(〈家族舞台〉や〈友人舞台〉)にも伝導し、ときにその安定を揺るがすことにつながっていく。他方、互いに深い語りを許すような「語り合い」の特殊ルールのもとで開示を繰り返すことで、開示すること、語ることは身体知化し、新たなハビトゥスが形成される。その中で次第に「語り合い」舞台は、上述の条件を満たす「居場所」となっていく。形成されたハビトゥスは、舞台を超えて用いられ、既存の舞台を新たな〈開示舞台〉に変えて居場所化することも、新たな〈開示舞台〉を創出することもある。そして、〈AE舞台〉もそのひとつだと言える。本発表では暫定的に、以上のようなモデルを提示する。しかし、AEを記述する際、変化し続ける自身と、理論やモデルとの距離をいかにとらえるかは、課題であり続けた。記述が「当てはまる」のか、記述を「当てはめにいっている」のか、という葛藤。同時に、既存の理論で説明し、経験を固定化することへの違和感も生じた。AE実践は、理論といかにして付き合っていけばよいのだろうか。【参考】藤川信夫. (2017). 人生の調律師たち―動的ドラマトゥルギーの展開 春風社

報告番号369

LiD/APDと共に生きるとは?――協働オートエスノグラフィーによる当事者性の探求
大阪大学 中井好男
京都精華大学 中岡樹里

本報告は、聞き取り困難症(LiD)/聴覚情報処理障害(APD)を有する報告者が対話を通してLiD/APDとしての互いの経験を探る協働オートエスノグラフィーである。LiD/APDは、音声は聞こえていてもそれを言葉として理解する際に困難を抱える症状である。一般的な聴力検査では聴力に問題が見つからないことから、特に障害として取り上げられることはなかったが、聴覚情報処理の研究が進む中で、LiD/APDとしてその存在が認められるようになった。その症状は、たとえば、騒音の中では人の言葉が理解できない、多くの人が話す環境の中では話し相手の言葉を理解することが難しい、歌の歌詞が聞き取りにくいなど、多岐にわたる。また、原因についても、ADHDやASDなどの発達障害のほか、聴覚的注意や記憶といった認知機能の偏り、心理的な問題など、さまざまなものがあることが指摘されている。ただし、制度上は障害として区分されておらず、診断を受けたところで障害認定をされ障害者手帳が交付されるというものではない。  報告者らはこのLiD/APDの診断を数年以内に受けた当事者である。この両者が対話をもとにした協働オートエスノグラフィを行うことで、症状などの類似点や相違点が明らかにはなったが、特に診断を受けたことで生まれた当事者性にまつわる違いが検討すべきポイントとして浮かび上がった。報告者らは、診断を受けて当事者であることを自認するとともに、自己開示や必要な配慮の表明を通して当事者になってきた経験を有する。しかし、上述のようにLiD/APDは障害として認知されるものではない。特に名称も昨今では聞き取り困難症(LiD)にシフトしている。このような医学的にも社会的にも曖昧な症状に関して診断を受けて当事者になった両者には次のような変容が起きている。報告者Aは、これまでの困りごとに説明がつき、整理はされたものの、自身の中にLiD/APDと診断された新たな自己が生まれるとともに、そこに他者性がまとわりつくようになることで、自身の中で分離し始めている感覚を待っている。一方で、報告者Bは、自身の聞き取れなさへの意識が高まる一方で、当事者であることを自己開示することへのためらいを持ち続けている。それはおそらく両者が「障害」にまつわる憂慮を抱いているためである。視覚言語である手話で育った報告者Aは、情報処理の過程で視覚優位になる傾向があることが検査でわかっており、LiD/APDを障害と見ることが、ひいては自身の発達過程に深く関わる手話までも障害の範疇におさめてしまうことになるのではないかと考えている。対して報告者Bは、当事者であることを自己開示することで被り得るネガティブな影響を危惧するほか、診断基準に該当するかどうかや診断の有無が当事者間に区別だけではなく、分断までも生み出す可能性を有しているのではないかという懸念を抱いている。本報告では、このように不確実性をともなうLiD/APDという症例を持つ当事者となる経験を探り合うことで見えてきた問題について報告し、議論をすることを目指す。

報告番号370

葛藤の記述が捉える構造的課題――シュタイナー学校のフィールド調査を事例に
津田塾大学大学院 飯島陽良

(1) 目的  メインストリームの教育とオルタナティブ教育の狭間にある緊張関係をどのように記述するか。それは報告者が自身の体験に基づく違和感の正体を探る過程であり、その過程はオートエスノグラフィー的試みであったといえる。本報告では、このような研究過程の一様ではないあり方によってフィールドの内実を描くことが、マクロな構造的課題の根底としてのミクロな構造的課題を描き出す可能性を検討する。 (2) 方法  報告者は2023年6月から2024年10月にかけて、シュタイナー学校の卒業生、保護者、教員を対象とした聞き取り調査と参与観察を実施した。本調査は報告者がかつて通ったシュタイナー学校をフィールドとし、卒業生であり調査者であるという二重の状況を携え、足を運び、調査対象者としての知人やその知人に会った。調査開始当初はシュタイナー学校を卒業後、大学に入学したのちに出会って感じた漠然とした違和感の正体が、自身が体験したオルタナティブな教育実践を取り巻く様々な事象のなかにあると見ていた。こうしたことから、フィールドを通して報告者自身の体験を内省し、再びフィールドを見ることで、調査対象が抱えるオルタナティブな教育実践の場における構造的ジレンマの問題を捉えようと試みた。 (3) 結果  調査対象者の語りからは、オルタナティブな教育実践の場の関係者らが、各々に内面化されたメインストリーム的価値観や規範と、オルタナティブとしての学校・教育のあり様との狭間で葛藤する状況が窺えた。調査対象者らの体験においてオルタナティブな教育実践の課題として語られた内実は、単なる運営面での制度的限界を表すものではない。それは、メインストリーム的規範に抗おうとするオルタナティブというあり様そのものがもつジレンマが限界性として立ち現れている状況を浮き彫りにしている。このことは、空間の利用、教室・学校運営、教員の養成、カリキュラム編成といった要素化されたオルタナティブ教育のイメージと、その内部で関係者らが体験している事象との緊張関係が生じていることを示唆する。オルタナティブとしてのあり様を再現するかのようなオルタナティブな教育実践の場においては、当事者が葛藤するという体験も伴うといえるのではないだろうか。また、関係者らがオルタナティブというあり様に付与されたジレンマを体験するということは同時に、報告者自らも当事者としてジレンマの構造に埋め込まれている状態であることを意味していた。 (4) 結論  以上の結果は、オルタナティブな教育実践に目を向けてきた先行研究においてはあまり言及されてこなかった、オルタナティブというあり様が関係者らを取り巻く教育実践の場においても内面化されている構造的ジレンマの問題を浮かび上がらせた。そしてこのことは、調査対象としてのフィールドがかつて日常であった者による内実の記述によって、すなわちミクロな視座から構造的問題を描き出すことによって、あたりまえのこととして見落とされがちであるマクロな構造的問題に根ざした内実に辿り着く可能性を示唆しているといえるのではないだろうか。

報告番号371

ふざけ合いの根底にある関係性――フリースクールにおける実践の協働的理解
大阪大学大学院 藤阪希海

【目的】 本研究は、大人と子ども両方の視点から、フリースクールAにおける実践を捉えることを目的とする。フリースクールとは、不登校や多様な学びのニーズを背景として設置・運営された民間施設であり、日本では2000年代以降に広がってきた。フリースクールについては、これまでにもその実態を探求する質的・量的調査が行われてきたが、管見の限り、大人側の視点からの分析に偏重している。その背景としては、「未熟」であり言語化に困難を伴う子どもの活動が、学術において周縁化されてきたことが考えられる(Boylan & Dalrymple, 2009)。 【手法】 様々な種類のAEの中でも協働的AEは、力関係の不均衡性を批判的に捉えつつ、研究者と協力者がともに主観性を探求するものである(Chang et al. 2012)。それゆえ、子どもという、公的な場で発言する機会を得にくい立場にある人々を含む場の実態を明らかにすることに適した方法だと言える。本研究においては、関西にあるフリースクールAにおける実践に着目し、そこの生徒やスタッフとの関わりを通じて、彼らが参加しやすい調査形態を協働的に選出した。予備調査を実施したうえで、生徒と実施形態を相談しながら写真コンテストを企画・運営した。写真コンテストでは生徒とスタッフの両方が応募者・審査員となり、フリースクールAの実態を切り取る写真を選出した。実施に至る過程や写真コンテストに応募された写真を記録したことに加えて、審査過程における会話を録音した。また日常的に、研究者はスケッチブックを開いてフリースクールAについて字や絵で表現し、それを見た生徒から得られたコメント等も記録・録音した。スタッフやボランティアに対しては、インタラクティブ・インタビューを複数回にわたり実施した。得られたすべてのデータは、編集してフリースクールAで独自に発表する予定であり、本研究で取り扱うのはその一部である。未成年の場合は、本人による賛同書と保護者からの同意書を得られた人から得られたデータのみ、本研究の分析対象としている。 【結果】 生徒とスタッフらによって「Aらしい」と評価された取り組みは、必ずしも倫理的に称賛されるものではなかった。例えば、写真コンテストで大賞に選ばれたのは、スイカ割りをするために目隠しをして棒を構える生徒1人に対し、他の生徒がスイカとクマのぬいぐるみをすり替え、ボランティアと生徒でその様子を伺う一場面を撮影したものであった。その一方で、スタッフやボランティアのみが参加するインタビューでは、大人と子どもの権力勾配に留意し、生徒の意志を尊重しながら関係性を構築しようとする発言が多く見られた。またボランティアからは、Aに関わり始めた当初、場に馴染めるよう生徒に助けられたというエピソードも得られた。このことから、Aのスタッフやボランティアは日ごろの関りの中で生徒の選択を大事にしており、生徒と相互作用的に関係性を構築していた。生徒たちは、このことを意識しているとは限らないが、そういった関係性を前提としてAでの活動に参加していることが明らかになった。 【文献】 Boylan, J., & Dalrymple, J. 2009. Understanding Advocacy for Children and Young People, Open University Press. Chang, H., Ngunjiri, F. W., & Hernandez, K. A. C. 2012, Collaborative Autoethnography, Left Coast Press.

報告番号372

『ディスタンクシオン』第2章を読みながら多重対応分析の可能性を考える――ブルデュー派混合研究法の可能性 (1)
津田塾大学 藤本一男

本報告は2部構成である。第一に、多重対応分析(MCA)と混合研究法との関係を説明する。MCAは、調査票に基づく複数のカテゴリカル変数(Active変数)を表す多次元空間を次元縮減し、少数次元で情報の大部分を保持しながら各カテゴリの関係を空間に配置する。個体は平均値等に還元されることなく個体空間に点として保持される。この性質を生かして。個体の配置と回答者のインタビュー内容を合わせて解釈することが可能になる。このような構造は、定量的分析でありながら、個人の文脈的特性を保持しつつ解釈を行うという混合研究法の一つの実現形態である。実際、ベネットら(2009=2017)や磯・平石・森・藤本(2025)の研究に、その実例を見ることができる。 第二に、MCAを「関係論的アプローチ」として捉える視点を考察する。MCAはしばしばブルデューの理論と関連づけられるが、もちろん単にMCAを用いるだけで「ブルデュー的」分析になるわけではない(Le Roux & Rouanet, 2000, 2010)。報告者は、MCAにおいて変数カテゴリ間の関係がどのように空間化されるかに注目し、変数の関係性を描く技法としての特徴を指摘してきた(藤本 ,2020)。しかし、MCAの位置づけを「変数の社会学」に対置する形で明確に提示するには至っていない。重要なのは、MCAという統計手法の外部にある理論的視座、すなわちブルデューの「関係論的」思考による変数の考え方であり、変数で構成される概念である。ブルデューは『ディスタンクシオン』第2章で、線形アプローチ(たとえば回帰分析)がもたらす抽象化や関係の切断に批判的であり、対応分析のような手法こそが関係性を空間的に表現できるとする。その鍵を握るのが「交差配列構造」(une structure en chiasme)というアイデア、経済資本と文化資本の構成比や総量という関係性を空間的に示すMCAの変数設計が接続される。こうすることで資本は実体としてではなく関係概念として構成される。社会調査で得られる変数はしばしば実体化されがちだが、MCAはその誘惑から離れ、理論的構成概念を反映させた空間的表現を可能にする。この意味で、MCAはブルデュー的関係論に整合的な経験的技法として位置づけられる。 ■文献 ブルデュー,1979=1990,2020,『ディスタンクシオン I』,1973=1994『社会学者のメチエ』藤原書店 磯直樹『認識と反省性』法政大学出版 Iso, Hiraishi, Mori, Fujimoto, 2025, Habitus and the relationship between youth culture and transition: A Bourdieusian analysis of musical culture and inequality in Japan, JJS, 藤本一男,2020,「対応分析は<関係>をどのように表現するのか」『津田塾大学紀要』 Greenace ,2017=2020,(訳:藤本一男)『対応分析の理論と実際』オーム社) Le Roux, Rouanet,2010=2021,(訳:大隅・小野・鳰)『多重対応分析』

報告番号373

スポーツ空間分析とインタビュー調査から見るスポーツ参加の不平等の分析――ブルデュー派混合研究法の可能性 (2)
立命館大学 平石貴士

本報告の目的は、現代日本におけるスポーツ参加の不平等の社会的条件について、ブルデュー派の理論枠組みから分析することである。研究方法は、2023年「文化と不平等」調査のデータを用い、MCA(多重対応分析)とインタビュー調査を組み合わせて行う、ベネットらの『文化・階級・卓越化』などで使用されたブルデュー派の混合研究法を採用する。音楽やスポーツなど相対的に自律した「嗜好の空間」あるいは社会全体の階級構造を示す「社会空間」を、MCAで構築し、サプリメンタリ変数により社会的属性や文化実践との対応関係を調べる。またインタビュー対象者をこれらの空間上に投射し、位置関係からその語りを分析する。昨年度は音楽空間と社会空間における音楽嗜好を分析し、2024年スポーツ社会学会ではスポーツ空間の分析を行った。本報告では報告済みのスポーツ空間の再解釈に加え、新たに社会空間へのスポーツ参加の変数の投射と、それらの空間上における43名のインタビューの分析を行う。ここでの「スポーツ参加」とは、定期的な実施、観戦、メディア接触を意味する。分析は、経済資本・文化資本・ハビトゥスの視点から行う。秋吉(2021)は、日本における政府や民間によるスポーツ関連の調査を整理した上で、日本のスポーツ社会学では量的分析が少なく、特定種目に関する質的研究が主であると指摘する。そこで本報告では、スポーツ種目間の関係を分析する空間的視点に立ち、その空間のなかで階級、資本、ハビトゥスを捉え、スポーツ参加を分析することを課題とする。本報告の調査では、『社会生活基本調査』を参考に実施種目を調査し、実施の変数とし、笹川スポーツ財団の調査を参考に「好きなスポーツ選手」を調査し、観戦の代理変数とし、それに現地でのスポーツ観戦頻度、スポーツ関係読書、DAZN契約の変数を加えて、MCAによりスポーツ空間を構築した。分析の第1軸は、スポーツ参加の積極性による対比、第2軸は観戦志向(野球やサッカーなどスペクテイター型スポーツの実施と観戦の嗜好)と実施志向(ヨガ、サイクリング、筋トレ等の観客を求めない実施の嗜好)との対比であった。世帯年収や学歴は参加傾向と相関し、特に観戦志向は経済資本との強い結びつきが見られた。社会空間では、テニス、ゴルフ、武道、ヨガ、登山の実施や海外選手嗜好が資本量の多さと関係し、テニス、ゴルフは経済資本寄り、武道は学歴資本との関係が強い。一方、格闘技実施や朝倉未来への好み、釣り実施は空間下方に位置づけられた。インタビュー分析では、スポーツ空間の下方に位置し、例えば大谷翔平を「好みでない」とする人に、家庭内虐待や東京大学卒といったハビトゥス形成の特殊な条件が見られた。スポーツ空間構築では現在での実施や嗜好に焦点を当てるが、インタビューにより、過去の学校経験や職業選択といった「社会的軌道」が明らかになる。これは相対的に自律した嗜好の空間の解釈を補強する。また社会空間の分析は、語られた言葉を社会空間における人生軌道上に読み取る手がかりとなる。ヨガやジョギングのように成人後でも始めやすい種目がある一方、剣道のように学齢期から継続し、就職後も実施を続ける事例のインタビューは、学校制度に支えられた参入障壁が存在することを示唆する。これらの分析は、スポーツ参加においても、経済資本、文化資本、ハビトゥスの視点が有効であることを示す。

報告番号374

読むことの空間の分化と文化資本――ブルデュー派混合研究法の可能性 (3)
東京藝術大学 磯直樹

【目的】 『読書世論調査2020年版』の調査結果によれば、本以外の媒体で何かを読むことは「読書」とは捉えられていない。例えば、「雑誌を読むこと」は38%、「漫画を読むこと」は31%、「本を立ち読みすること」17%、「本を朗読したものを聞くこと」17%、「SNSやインターネット上の文章を読むこと」は14%が、これらの行為が読書であると捉えている。本に書かれていることと同じ内容を紙の本以外のメディアで読むことはよくあることである。本報告では、「読むこと」として上記の行為も全て含めた考察を行う。 本研究の目的は、現代日本の文化と不平等に「読むこと」がどのように関わるのかを解明するために、調査データを多重対応分析の特性を活かした混合研究法で分析することである。現代の日本において、読むことが「教養」と関わり、その背景には社会的不平等があることは、竹内洋(2003)や福間良明(2017)らによって論じられ、日本でも研究が蓄積されてきた。海外においても、読むことの不平等との関わりに関する研究の蓄積があるが、本報告では特に『文化・階級・卓越化』(Bennett et al. 2009)における読むこと(reading)の分析が重要である。本報告では、この研究が先行研究として最も重視する『ディスタンクシオン』(Bourdieu 1979)も参照しつつ、読むことはいかなる意味において文化資本であるかを問う。 【方法】 2023年に関東地方で実施した「文化と不平等」に関する郵送調査、および2023年から2024年にかけて実施したインタビュー調査のデータを分析する。郵送調査データは「読むこと」に関わる質問項目を「アクティブ変数」として投入して多重対応分析(MCA)を行い、読むことの空間を構築する。そこに他の種類の質問項目をサプリメンタリ変数として投入し、読むことの空間にプロットする。こうして、この空間がどのような差異化=分化原理から構成されているかを明らかにする。さらに、インタビュー協力者を個体としてその空間にプロットする。こうして位置付けられた諸個人のインタビューを解釈しながら、読むことの空間における主観性の分析を行う。 【結果】 読むことの空間は、MCAの結果、4軸から解釈することができる。第1軸(52.5%)は読むか読まないか、という程度の違いを表している。第2軸(17.6%)は、実用的な本を読むか文芸書を読むかで分かれている。第3軸(13.3%)は、紙で新聞や雑誌を読むが本は読まない層と文芸書を読む層で分かれている。第4軸(7.8%)は、マンガは読むが紙の新聞や雑誌は読まない層と芸術系(文学を除く、美術や音楽など)と医療・健康に関する本を読む層に分かれている。 【結論】 第1軸は緩やかに社会階層と関わっており、第2軸と第4軸からは文化資本の特徴を見ることができる。Iso et al. (2025) で構築した社会空間と音楽空間よりも、読むことの空間の方がブルデューが『ディスタンクシオン』などで議論した文化資本の特徴を見出しやすい。また、インタビューからは、空間における位置関係の差異が意味するものを捉えることができる。

報告番号375

不確かな未来とどう向き合うのか?――バーバラ・アダムの時間論に注目して
慶應義塾大学 末田隼大

未来をめぐり、現代社会はパラドックスとも呼べる状況にある。気候変動、生物多様性の喪失、核廃棄物の管理といった長期的な未来への視座が求められる問題を日常的に抱える一方で、社会の加速化により人びとの関心は遠い未来ではなく、拡張された現在ともよべるごく短期的な未来へと収縮している。この「未来を創造する実践と、その未来を予見し責任を負う能力の乖離」、あるいは「未来の生産と責任能力の間の断絶」という構造的問題に対して私たちはどう応答すればよいのか。この問いに答える手がかりとして、本報告ではイギリスの社会理論家であり、時間の社会学の代表的論者であるバーバラ・アダムの時間論を検討し、その意義を明らかにしたい。 アダムの時間論の独自性は、従来の(時間の)社会学や社会科学が前提としてきた近代的な時間観に対する批判にある。啓蒙主義以来、時間は過去から未来へと一直線に流れる線形時間として理解されており、そこでは未来とは人が合理的に計画・予測・制御できる「空虚なもの」として捉えられてきた。しかし、アダムはチェルノブイリ原発事故や気候変動問題が示すように、私たちの現在の行為が私たちの意図や認識を超えて予期せぬ形で未来を決定づけると指摘し、近代における支配的な未来観は破綻していると論じる。 アダムは、むしろ未来を単に「まだない」ものでも遠い将来にやってくるものでもなく、私たちの現在の行為・決定・予期の中にすでに潜在的に「現前」しているものとして理解し、これを「未来の現在」という概念で表す。つまり、未来とは私たちの現在の行為を方向づける指針として機能すると同時に、現在の行為によって「活性化」されるものとして再定義される。 では、未来を「未来の現在」として理解する場合、「未来への責任」のあり方はどうなるのであろうか。近代的な時間観に基づく「未来への責任」は明確な因果関係を前提とするが、気候変動などの数千年・数万年に及ぶ事象の前では、因と結果の時間的距離があまりに大きく、将来の被害者の特定も因果連鎖の完全な予見も不可能となる。そのため、アダムは、近代的な時間観に基づく限り、現代社会は未来に対して「構造的無責任」状態に陥ると論じる。 この行き詰まりに対し、アダムはフェミニスト倫理から「ケア」概念を導入し、新たな責任のあり方を構想する。ケアに基づく責任は、因果関係の完全な知識や計算可能な債務ではなく、未来世代を含む他者の「脆弱性」への応答として理解される。それは根源的な不確実性を受け入れつつ、未来の可能性を損なわないよう現在の行為を律する「配慮」の実践である。責任概念は過去の行為に対する「負債」から、未来の存在に対する「配慮」へと根本的に再定義される。 不確かな未来に対しては、ベックやギデンズのように不確実性を飼いならす戦略が論じられてきたが、これらの戦略は未来への責任を回避する性格をもつと言えよう。他方で、アダムの「配慮」という戦略は、不確かな未来と共に生きるための倫理が提示される。それは専門家システムに委託するという間接的な関与ではなく、未来世代の脆弱性に対する直接的で身体化された倫理的関与を求める。この点にこそが、現代社会の「未来への責任」をめぐる構造的問題に対して、アダムの時間論が持つ意義と考えられる。

報告番号376

デジタル民主主義による「2100年脱炭素社会」の未来デザイン――AIを用いた仮想社会調査・実験試論
統計数理研究所 今田高俊

【1.目的】未来デザイン(Future Design, FD)は、将来世代の視点を現代の政策決定に組み込むことで、持続可能な社会の実現を目指す社会設計手法である。本発表の目的は、AIやデジタルツールを活用した民主主義によるFDの「3段階モデル」を提案し、「2100年脱炭素社会」プロジェクトを想定して、エネルギー選択の具体的な手続きと意義を仮想社会調査・実験により明らかにすることにある。 【2.方法】調査・実験の対象者は、2020年国勢調査を基礎に推計された2024年時の20歳台~50歳台の1万人(年齢層に比例して抽出)、うち3000人を調査パブリックス、調査パブリックスから100人をミニパブリックスとしてそれぞれ抽出。FDの3段階モデルは以下の手続きからなる。 第1段階:Pol.isによる意見収集と可視化 オンライン合意形成プラットフォームPol.isを用い、「2100年脱炭素社会」の課題について多様な意見を1万名から収集し、AIによるクラスター分析で意見の分布や対立点、共通基盤を可視化する。これにより熟議の焦点となる論点を明らかにする。 第2段階:仮想将来世代と現在世代による熟議 Pol.isで抽出された論点をもとに、ミニパブリックス100名を「仮想将来世代」と「現在世代」に分け、両世代5名ずつの10名からなる10グループが、専門家のシナリオ提示を受けて熟議を行う。 第3段階:二次の投票(Quadratic Voting, QV)による優先順位決定 熟議でまとめられた複数のエネルギー政策案について、調査パブリックス3000名が二次の投票(QV)方式で投票し優先順位を決定する。QVは選択肢に多く投票するほどコストが二乗的に増加する仕組みで、選好の強さや少数派の意見が反映される。 【3.結果】この3段階モデルを仮想社会調査・実験に適用した結果、以下の知見が得られた。 第1段階では、年齢層ごとに再生可能エネルギー推進派(若年層)、原子力発電容認派(中高年層)、省エネ技術重視派(高年層)を特徴とするクラスターが可視化され、世代間の価値観の違いが政策形成の調整ポイントであることが示された。 第2段階のミニパブリックスによる熟議では、仮想将来世代が再生可能エネルギーと省エネ技術への重点投資、原子力発電の段階的縮小を主張し、現在世代は短期的コストや安定供給を重視した。両者の対話を通じて、再生可能エネルギー拡大、省エネ技術強化、原子力発電の段階的縮小など、現実性と持続可能性を両立させた政策草案が作成された。 第3段階のQVによる投票では、通常の多数決では選ばれない「原子力全廃・再生可能エネルギー重視」案が、若年層(20歳台の少数派)による強い支持により最優先となった。少数派でも強い選好を持つ意見が社会的意思決定に反映される可能性が示された。 【4.結論】デジタル民主主義を活用したFDの3段階モデルは、AIとデジタルツールによって多様な意見を可視化し、仮想将来世代と現在世代の対話を通じて持続可能な政策形成を促進する枠組みである。特にQVの導入により、選好の強さや少数派の意見も政策決定に反映されやすくなり、従来の民主主義の限界を補完する新たな合意形成モデルとなる。今後は、国民のデジタルリテラシー向上や行政組織との連携を進めつつ、FDの社会実装を拡大することが期待される。(参考文献・資料は別途配布又は共有ページにアップロード)

報告番号377

フューチャー・デザインの可能性――社会学にいかなる貢献をするのか
大阪大学 友枝敏雄

1.報告の目的 近年、フューチャー・デザインという方法が、社会科学および都市工学の世界で注目を集めている。この方法は、西條辰義(経済学専門)や原圭史郎(都市工学専門)らによって開発された方法である。すでに地方自治体の政策形成の場で有効に使われている(Hara et al., 2019)。中央省庁では、持続可能な選択をするために、フューチャー・デザイン活用の試みが開始されている(財務省、2023)。さらには企業の将来戦略をデザインする上で、有効な方法として実践されている。本報告の目的は、フュ-チャー・デザインという方法を紹介するとともに、フューチャー・デザインワークショップ(参加型討議)を実践した結果を報告することにある。 2.分析 将来を構想・研究する方法 フォアキャスティングという方法とバックキャスティングという方法があることを紹介した後、バックキャスティングとフューチャー・デザインの違いが、フューチャー・デザインがワークショップにおいて「仮想将来世代」の設定にあることを指摘する。 現在の社会科学および社会制度が抱える難点 近代以降構築されてきた社会科学および社会制度の難点として、(1)社会制度が現在生存している人びとの権利・義務の体系として構築されていること、(2)意思決定が個人(個人主義の原理)によってなされていること、を取り上げる。さらに具体的な制度である、市場と民主的な意思決定がはらむ陥穽を「近視性」「相対性」「社会性」「(西條、2015)の観点から考察する。 フューチャー・デザインワークショップの試み 2023年1月から3月にかけて尼崎市で行ったワークショップを報告する。 ワークショップのテーマ:「尼崎市のまちの未来のあり方と防災」 グループ構成:1グループ6名程度、5グループ(A,B,C,D,Eグループ)、グループ間に 役割分担はなく、同一テーマについて同時並行で討議を行った。 発言データのテキストマイニング 発言データをKHコーダーで分析した。分析結果の 詳しい内容については、当日配布する資料で紹介する予定である。 分析結果 分析結果として、2つの知見を得ることができた。 【第1の知見】現在世代、将来世代という役割を設定すると、発言内容が明らかに異なること。具体的には「仮想将来世代」を設定することによって、将来社会をデザインする方法が拡大し、政策立案の幅が大きく広がること。 【第2の知見】グループごとに考えがまとまる。しかも、グループでの議論を通してまとまってくる結論に対して、社会的属性(年齢、性別、職業)の影響が少ないこと。 3.結論 フューチャー・デザインの意義 内在的意義と外在的意義 【内在的意義】 1. 将来社会をデザインする方法の拡大 2. フューチャー・デザインワークショップが社会的な属性の影響を受けない、自由な雰囲気の討論の場であること、民主主義的な意思決定のバージョンアップ 3. 社会学のメインテーマたる「社会的なるもの=公共圏(公共性)」への接近 ロールズの言う 「無知のヴェール」の状態 ハーバーマスの唱道する 「理想的発話状況」 【外在的意義】 フューチャー・デザインの方法は、イギリスの哲学者マッカスキルの言う「長期主義(longtermism)」と親近性をもっているのではないか。「世代間正義」の問題。

報告番号378

フューチャー・デザイン――将来可能性、現在可能性、過去可能性
京都先端科学大学フューチャー・デザイン研究センター 西條辰義

フューチャー・デザイン(Future Design, FD)は、将来世代が私たちに「ありがとう」と感謝したくなる社会のデザインとその実践である。この概念が必要となる背景には、人類が自ら作り出した深刻な脅威がある。頻発する戦争、政治的分断、経済危機に加え、気候変動、生物多様性の喪失、資源枯渇、食料安全保障の危機など、相互に関連する複合的な問題群が私たちの存続可能性を脅かしている。 特に産業革命以降、20世紀半ば頃から将来世代に重荷を背負わせる「将来失敗」が加速している。「地球の限界」研究によれば、地球に関する9つの領域のうち、生物圏の健全性、窒素・リンの循環、気候変動など6つの領域で、すでに元に戻せないティッピング・ポイントを超えてしまったとされる。 この状況を生み出した歴史的経緯として、20世紀初頭のハーバー・ボッシュ法によるアンモニア大量生成技術の確立が挙げられる。アンモニアは戦争と平和の二面性を持つ。爆薬として二つの大戦や現在の紛争で使われる一方、窒素肥料として穀物生産を増大させ、人口爆発を引き起こした。激増した人々は豊かな生活を求めて化石燃料を大量消費し、結果として窒素と炭素の循環を破壊してしまった。 こうした背景から、FDは2010年代初めに日本で始まった。将来失敗を回避し、将来世代が感謝する社会をデザインするため、人の持つ能力・性質に働きかける方法論を採用している。ここで重要なのは「将来可能性」という概念である。これは「目先の利益を犠牲にしても将来世代のしあわせを優先することで、自らもしあわせを感じる能力・性質」と定義される。 FDのアプローチは、従来の社会科学、特にメカニズム・デザイン(MD)とは根本的に異なる。MDでは参加者の評価を固定された所与として扱い、個々の利得最大化の結果として社会目標達成を図る仕組みをデザインする。しかしFDでは、人々の評価や考え方そのものをターゲットとし、皆が将来可能性を発揮する社会を目指す。将来世代のしあわせを考えることが「当たり前」の社会のデザインを追求するのである。 FDの理論的枠組みでは、人の時間軸に対応する三つの能力が導入される。「過去可能性」は過去の行為を評価する力、「現在可能性」は同世代への思いやりを行動に移す力、「将来可能性」は将来世代のために現在の利益を犠牲にできる力である。これらの能力は、Meadows(1999)が「レバレッジポイント」と呼ぶものであり、これらのポイントを活性化させるパスト・デザイン、プレゼント・デザイン、フューチャー・デザインという三つの仕組みを設計・活用することでパラダイムシフトへの道筋をさぐる。 現在可能性は「目先の利益を犠牲にしてでも現世代のしあわせを目指すことで、しあわせを感じる能力・性質」と定義されるが、この活性化は容易ではない。そのため現世代の他者に重荷を背負わせる「現在失敗」が発生してしまう。しかし三つの可能性と三つのメカニズムの枠組みにおいて、過去可能性や将来可能性を活性化する仕組みをデザインすることで現在失敗を回避する道筋が見えてくる。 これら三つの可能性と三つのデザインは相互に影響し合い、人々の時間的・空間的視野を拡張していく。FDは単なる理論構築にとどまらず、実験や実践を通じて社会変革の具体的な方法論を提供している。

報告番号379

男性同性愛者らにおけるアマトノーマティビティと性的冒険主義の交錯――出会い系アプリは文化的規範を撹乱しうるか
大阪大学大学院 秋丸竜広

【1. 目的】出会い系アプリが新たなマッチメーカーとして注目されるなか,「男性を恋愛や性的欲望の対象とする男性」(以下,「男性同性愛者ら」と記す)は比較的早期から,手っ取り早くかつ安全に多数の相手と出会う手段としてアプリを活用してきた.一方,出会い系アプリは性的マイノリティをエンパワーするとしながらも、そのインターフェースが異性愛規範的なロマンティック・ラブに枠づけられると同時にそれを保持しているために、実際にはその機会を阻害していると指摘されている(Chambers 2021; Illouz and Kotilar 2021).本報告は,男性同性愛者らが親密な関係を築き,維持する過程において,恋愛に基づく関係を特権的なものと位置付ける規範である「アマトノーマティビティ」(Brake 2012=2019)と男性同性愛者らにおける性的奔放さをめぐる文化的規範である「性的冒険主義」(大島2016)の狭間でどのような経験をしているのかを,出会い系アプリを中心としたインターネットでの出会いに着目して検討する. 【2. 方法】本報告では,2023年11月に首都圏の若年男性同性愛者ら11名を対象に実施したフォーカス・グループ・ディスカッションで得たデータと,2025年6月から実施している首都圏および関西圏の若年男性同性愛者らを対象として半構造化インタビューで得たデータを参照し,報告時点で得られた知見をもとに検討を行う. 【3. 結果】男性同性愛者らはアマトノーマティビティと性的冒険主義という二つの規範を内面化し,親密な関係を構築・維持する過程において規範間の板挟みに遭うことによる葛藤を経験すると同時に,それを乗り越えようと試みられていた.すなわち,恋人を欲する一方で,出会いの場では性的快楽の充足が前景化しており,目的とする恋愛関係に至れないこと,恋人を作った場合でも恋人以外との性行為が珍しくないこと,それを背景とした別れを経験し,長期的な恋愛関係を諦めるなどの葛藤を経験していた.そして,彼らがこのような葛藤を経験する場,あるいはその原因となる場が出会い系アプリやSNSなどのインターネット環境であった.それは,インターネットが交際中でも相互に把握困難な出会いを提供しているため,そしてその仕様上,目移りを助長する点が懸念されているためである.しかし,インターネット環境は友人や男性同性愛者のオンライン・コミュニティとの関わりを構築・維持する機能も併せ持っており,完全な撤退は困難だという認識もみられた.また,出会い系アプリごとの出会いの特性の差異から自分が求める出会いの目的に応じたアプリの使い分けなどをすることで,望ましい出会いの達成を試みる実践がなされていた. 【4. 考察】出会い系アプリを中心としたインターネットはアマトノーマティビティを維持あるいは強化すると考えられてきた.しかし,男性同性愛者らはむしろアマトノーマティブな恋愛を志向しながらも,出会いの場が性的冒険主義を背景とする性的快楽の充足が前景化しているゆえに,規範同士の狭間で葛藤を経験していた.したがって,親密な関係をめぐる実践におけるインターネット環境は規範の内容いかんに関わらず,特定の社会集団に共有された既存の文化的規範を維持・強化する機能を有していると考えられる.

報告番号380

社会的適応の卵子凍結を経験した女性の語りからみる現代の恋愛・生殖観――新自由主義と他者への配慮のはざまで
奈良女子大学 岡田玖美子

【目的】  本報告では、20代~40代の高学歴でキャリア志向性の高い女性たちの恋愛について、生殖との関連を含めて、恋愛至上主義やアマトノーマティビティ(Brake 2012=2019)の影響を明らかにするものである。  性と生殖に関する権利と健康(Sexual Reproductive Health and Rights)は、とりわけ妊娠・出産がキャリアや人生選択に大きな影響を与えやすい女性にとって、大きな課題の1つとされている。しかし、現実には女性の雇用環境やワークライフバランスの点において多数の課題がある日本では、キャリアと結婚・妊娠・出産のはざまでコンフリクトを抱える女性が少なくない。  そのような女性の状況・ニーズに即した選択肢として、近年、社会的適応の卵子凍結(以下、卵子凍結と略記)が注目されている。たとえば、2023年から東京都が助成制度を開始し、当初の想定を上回る募集があった。このような卵子凍結を検討・実施する女性たちは、パートナーがいないなどの理由により現在は妊娠・出産することは現実的でないものの、将来の妊娠可能性を少しでも高めることめざしている。このような女性たちについて、欧米圏では「生殖起業家(reproductive entrepreneur; ‘repropreneur’)」と表現する研究(Kroløkke and Pant 2012)や、新自由主義的合理性、異性愛規範性、「適切な子育て」の言説、ジェンダー化された親としてのイデオロギーなどとの関連を論じる研究(Baldwin 2018)などがある。自ら人生を切り開いてきた女性たちが1人では乗り越えがたい生殖とその適齢期という問題に直面するなかで、どのように自らの恋愛を意味づけ、状況を打開しようとするのかを彼女たちの語りから探索的に明らかにする。 【方法】  分析の対象は、卵子凍結を経験した女性たちにインタビューした書籍(松岡 2025)と彼女たち自身によって経験談を記した記事(https://note.com/への投稿など)である。これらの語りでは、恋愛や婚活に関する内容も複数あるため、その部分を中心に質的に検討する。 【結果・結論】  知識や情報といったリソース、周囲の女性の話、海外生活などこれまでの経験をもとに女性たちは卵子凍結を決意していた。そこでは「自分にできることはやる」という新自由主義的な価値観が確かにみられた。他方で、その決断にはパートナーとなる男性や将来生まれるかもしれない子ども、親への配慮などがみられ、多様な関係性のなかで気を遣いながら、ある種の自己犠牲のもとで自分の人生を模索する姿もみられた。その背後にはアマトノーマティブな価値観、つまり、「キラキラした恋愛」や「この人との子どもなら」という相手を求めながらも、それが現実には容易でないことを実感してきた経験やそれに伴う諦念があることがわかった。

報告番号381

結婚のオルタナティヴとしてのLAT(Living Apart Together)
関西大学 栗村亜寿香

【1.背景】 本報告では、現代における多様な親密性の一例として、中年期におけるLAT(Living Apart Together)を取り上げる。LATは別々に暮らす親密な関係を表す言葉であり、1980年前後の北西ヨーロッパ諸国で着目されるようになった。いくつかの研究において、LATは同棲に続いて顕在化した新しい家族形態として位置づけられている(Levin & Trost 1999)。欧米では、1990年代から2000年代に全国調査や国際調査において、別々に暮らす親密な関係を捕捉するための調査項目が取り入れられるようになり、LATに関する研究が進展してきた。中年期のLATに関しては、年齢層が高いほど交際期間が長く、同居の意向が低い傾向にあることから、中年後期以降のLATは同棲や結婚への移行段階ではなく、永続的な生活形態であるという見方が示されている(Reimondos et al. 2011)。【2.目的】 本報告では、日本の中年期のLATの人々に対するインタビュー調査をもとに、LATを類型化し、類型ごとに別々に暮らす理由や背景にどのような違いがあるのかを検討する。後述のとおり、対象者は中年期の独身男女で、別々に暮らす交際相手がいる人である。報告ではとくに、結婚や同居の意向がなく、別々に暮らすことを選好している人々に着目する。【3.データと方法】 使用するデータは、2025年に全国の35~59歳の非婚男女28名に対して行ったインタビュー調査から得たものである。対象者は、調査会社のモニターに登録しており、事前にオンラインのアンケート調査に回答し(回答者:16343名)、インタビューに応諾した人のなかから、結婚経験がなく、別々に暮らす交際相手がいる人を選定した。インタビューは、対面またはオンラインで、1名につき1回、70分から120分かけて行った。【4.結果】 分析の結果、以下のことが明らかになった。第1に、中年期のLATは、選好型、現状維持型、未定型、相手尊重型、制約型、同居移行型の6つに区分される。このうち、選好型や現状維持型は、個人の自由や相手との関係性などから別居を希望し、長期的な関係を維持する傾向にある。対して、制約型や相手尊重型は、制約がなくなれば結婚し同居することを望んでいる。第2に、「結婚のオルタナティヴ」ともいえる選好型LATに関して、交際相手と別居する主な理由・背景には、仕事の都合・多忙さや結婚への否定的な意識がみられた。当日の報告では、欧米のLAT研究も参照しながら、日本の中年期のLATの特徴についてより詳しく議論をすることとしたい。【4.文献】 Levin, I. & J. Trost, 1999, “Living Apart Together,” Community, Work & Family, 2(3): 279–294. Reimondos, A., A. Evand & E. Gray, 2011, “Living-Apart-Together (LAT) Relationships in Australia,” Family Matters, 87: 43-55. 栗村亜寿香、2025、「中年期独身者の交際(LAT)に関する欧米の研究動向――日本での調査研究に向けて」『ソシオロジ』69(3): 61-77.

報告番号382

ドイツ語圏におけるオープンリレーションシップについて――自由と交際の間
明治大学 PACHERALICE

【1. 目的】 現代のドイツ語圏社会においては、結婚という制度を重要視する価値観が根強く残る一方、それを時代遅れと捉える見方も拡がりつつある.加えて、結婚に代わるパートナーシップや、片親家庭、パッチワークファミリーといった一夫一妻制(monogamy)以外の家族・親密性のモデルに対する社会的寛容性も徐々に高まっている.本研究は、こうした文脈の中で近年注目されている「オープンリレーションシップ」(ドイツ語ではoffene Beziehung,英語ではconsensual non-monogamy 「省略CNM」やethical non-monogamy (ENM)と言われている)に着目し、ドイツ語圏におけるその実態と社会的意味を明らかにすることを目的とする.ソーシャルメディアや出会い系アプリの普及により、恋愛関係において互いの性的・感情的な関係の外部化を容認するという関係形態が可視化されつつある。その社会学的な経験的研究は未だ多くはない。本報告では、日本のメディアよりも表象が多いドイツ語圏のメディアにおいて、オープンリレーションシップがどのように表象されているのかを分析する. 【2. 方法】 本研究では、2010年以降のドイツ語圏の文献調査とメディア言説の質的分析を通じて、オープンリレーションシップという関係モデルの社会的構築と規範的含意について検討する.具体的には、①一夫一妻制とは異なる親密性、特に性関係のあり方、②その実践者が直面する社会的期待やスティグマ、内的葛藤、③自由-対-結びつき、ポジティブなものでもありうる嫉妬と信頼といった感情の緊張関係に焦点を当てる. 【3. 考察と結論】 分析の結果によると、CNMにおける性的関係および交際関係の満足度は一夫一妻制の関係と大きな差は見られないことが明らかとなった.一方、CNMは、より多様な性的欲求や願望に応える可能性を持ち、個人によっては関係満足度の向上につながっている.ただし、「自由」「自己決定」「誠実な対話」などの価値と結びつきながらも、依然として社会的には逸脱的・非主流的な存在として認識され、スティグマや制度的不可視性に直面していることがわかった.また、この関係モデルが持つ「解放」と「不安定さ」の両義性は、現代における親密性のジレンマを象徴しており、複数の関係を同時に持つことは、高度な感情的スキルや持続的なコミュニケーション能力を必要とする実践であることが示唆された.本報告では、オープンリレーションシップという実践を通して、親密性がどのように社会構造と連動しながら変化しているのかを考察し、個人化、自己実現、セックス・ポジティブといった現代的文脈の中で、愛と関係性の未来を再考する手がかりを提示する.

報告番号383

なぜ恋愛を社会学的な研究の主題とする必要があるのか――第四波フェミニズム、ポストクイアセオリー、ケア論以後の家族社会学の動向を踏まえて
石巻専修大学 高橋幸

1 問題関心  20世紀後半のジェンダー論や家族社会学においては、結婚が道徳的・法的に特権化された社会的状態を解体することが目指されてきた。その中で規範的な恋愛結婚の感情的基盤となってきた恋愛はロマンティックラブ・イデオロギーとして批判対象となってきた。セクシュアリティ研究においても、恋愛は付随的かつ批判的に言及されることはあっても、主題的な分析対象になってきたとは言い難い。  しかし、2010年代以降のジェンダー論の状況を踏まえると、「恋愛」や愛についての議論が必要である。本報告では、ロマンティックな関係性に部分的に関わってきたフェミニズム、クイアセオリー、家族社会学の3つの領域の研究動向を分析し、愛研究(love studies)の必要性について論じる。 2 分析対象と分析結果  第四波フェミニズムは2010年代後半から高まった運動で、#MeTooに見られるように性暴力や性的被害への異議申し立てを特徴としている。これを踏まえ、性別役割規範が性的魅力と強く結びつきながら残存している現状を批判的に分析しつつ、暴力的でない恋愛的関係のあり方についての社会的議論を深めていく必要がある。また、性的魅力と性別役割の相互強化的なあり方については、SOGIや人種、階層、地域等によって異なった経験がなされており、インターセクショナルな分析が不可欠である。  ポストクイアセオリーとは、欧米諸国における同性婚合法化後のクイアセオリーを指すことが多い。アセクシュアル/アロマンティック研究に見られるように、性的指向と恋愛的指向を区別した上で、多様なロマンティックな感情や関係についての議論が広がった。また、感情や情動に関する身体的・物質的かつ文化的な探究が、セクシュアルなものを超えたより広い範囲(例えば、恥(Sedgwick 2003)やディプレッション(Cvetkovich 2012))へと拡張してきたことがある。  最後に、1990年代のフェミニストによるケア論以降の家族社会学は、性的紐帯を基盤とする「家族」という枠組みではなく、個人の権利を守ることを原則とした「ケア関係」を制度的に保障することを提起している。「最小結婚」(ブレイク)をはじめとして、リベラルな家族法の再編に関する議論が展開中である。  これらの動向を踏まえると、セクシュアリティからさしあたり区別されるロマンティックな感情や関係についての研究と議論が必要であると考えられる。 3 結論   他者からのケアを必要とする弱い個人が安心や愛着といった基本的な欲求を満たすために結ぶのが愛の関係である。このような弱い個人を前提にしながら、いかにして互いへの暴力を避けつつウェルビーイングの高い持続的な愛の関係を築けるかを探究することがジェンダー論の立場からの恋愛社会学の課題である。 文献 Cvetkovich, Ann, 2012, Depression: A Public Feeling, Duke University Press Books. Sedgwick, Eve, Kosofsky, 2003, Touching Feeling: Affect, Pedagogy, Performativity, Duke University Press Books. 高橋幸・永田夏来編, 2024, 『恋愛社会学』ナカニシヤ出版.

報告番号384

日本における自殺対策政策のロジックと変容――『自殺対策白書』にみる内閣府と厚生労働省の「原因と対策」の語られ方を通じて
東京大学 於倩

1. 背景・目的 1998 年以降、日本の年間自殺者数は3万人を超えて推移し、自殺は深刻な社会問題として注目された。これを背景として、2006年の「自殺対策基本法」ならびに2007年の「自殺総合対策大綱」が成立し、自殺は個人の内面的な問題であると同時に、社会全体で解決すべき問題であるとして、内閣府が管轄する社会政策の対象に位置づけられた(竹島 2008)。 自殺の社会政策研究領域は、「官邸機能」に着目するもの(e.g.森山 2018)と「民間機能」に着目するもの (e.g.小牧 2019)に大別され、いずれもアクターの動機・利害関係・特定の時代背景のもとで当該アクターが果たした機能を精緻に記述してきた。対して本報告では、政策が形成されるまでの過程ではなく、すでに実践された自殺対策政策において、政府の自殺問題に対する事後理解と正当化に着眼し、『自殺対策白書』に表された「原因と対策」との結びつきの論理(=政策ロジック)と変化に注目する。 2.方法・対象 本報告では、2007~2024年までの『自殺対策白書』の本文・コラム・掲載事例等を通読し、その記述と変化点を分析対象とする資料分析を行う。『厚生(労働)白書』を通時的に分析した岩田正美(2016)の分析手法を応用する。 国会審議資料や審議会議事録などの政策文書もあるが、それらは個別の審議過程における散発的な発言の集積にとどまるため、政府の自殺に関する理解の事後的な反省および認識の変遷を考察することには限界がある。対して『自殺対策白書』 は、一貫した政策体系のもとで自殺の「原因」と「対策」が論じられ、かつそれらがどのように反省的に位置づけられてきたのかを示す資料であるため、適切な考察対象であろう。 『自殺対策白書』は、自殺対策基本法および自殺総合対策大綱に基づき、2007年11月に初めて内閣府より発表・刊行されたが、現場との緊密な連携を図るため、2016年4月よりその主管省庁が内閣府から厚生労働省に移管された。このような政策的転換は、「原因」と「対策」を結ぶロジック自体の再編を促す可能性が高いため、両者間の相違を解明する必要がある。 3.意義 本報告は、自殺対策という重大な社会問題に対して政府が用いる「原因」と「対策」との結びつきに着眼することで、従来見落とされてきた政策レベルの論理構成とその変化に光を当てようとするものである。この視座は、官庁のレトリックに内在する整理原理に迫ろうとするものであり、結果として、自殺対策の策定に影響を与えてきた政府の認識枠組みの転換を解読するという学術的寄与を果たすと考えている。特に、エビデンスの提示と説明責任が求められる今日では、「原因」と「対策」を 結び付けようとする働きが様々な領域で見られる。本報告の知見を通じて、政策の構造的恣意性や正当化戦略を可視化し、より実効的な政策設計に応答する政策研究、ならびに社会問題に応答する「社会」のあり方を問い直す社会学の理論的・実践的な発展に寄与する。 【参考文献】▼岩田正美,2016,『社会福祉のトポス:社会福祉の新たな解釈を求めて』有斐閣.▼小牧奈 津子,2019,『「自殺対策」の政策学:個人の問題から政策課題へ』ミネルヴァ書房.▼森山花鈴,2018,『自殺対策の 政治学』晃洋書房.▼竹島正,2008,「特集 1 わが国の自殺の現状と対策:わが国の自殺対策」『学術の動向』13(3):15-19.

報告番号385

ナイトワークと解釈労働――在日フィリピン人ホステスの事例から
東京大学大学院 和田吾雄彦アンジェロ

【1. 目的】社会学では,スナック,キャバクラ,ナイトクラブにおける接待労働,すなわちナイトワークに従事する女性が直面する困難として,経済的困難や性暴力といった経験を中心に記述や分析が蓄積されてきた.こうした困難経験の記述は,しばしば女性の受動性や被害者性と結びついてきた.これに対して本報告では,D.グレーバーや石岡丈昇による解釈労働の議論を参照しながら,ナイトワークに従事する女性が,そうした困難の中で日常生活を維持せざるを得ないがゆえに,当該世界において直面する不利な扱いを避ける生活術を身につけるという点に注目する.報告者が調査を続ける在日フィリピン人ホステスの事例を提示しながら,性売買をめぐる困難経験の記述の新たな方向性について論じたい. 【2. 方法】資料として,報告者が2022年4月から現在まで実施している神奈川県内のフィリピンパブでの参与観察調査において得られた,フィールドノートの記述やフィリピン人ホステスへのインタビューデータを用いる.ここでのフィリピン人ホステスとは,1980年代から2000年代中頃にかけて来日し,日本の歓楽街において就労した後,日本人男性との国際結婚を通じて日本に定住するに至ったという歴史的背景を持ち、現在も歓楽街での就労を続ける人々である.彼女たちは結婚定住の後,工場労働者,あるいは介護労働者などとして日本の労働市場に統合されながら,子の出産や養育を伴いながら日本に生活基盤を形成してきた.本報告ではとりわけ,女性が昼間の職場の人々や行政と対峙する場面を取り上げて分析する. 【3. 分析】A.R.ホックシールドは,大企業で働くアメリカの中産階級女性が,長時間勤務に対処するために家庭時間の合理化を強いられており,これに伴う子どものストレスに対処するために,さらに感情労働を強いられるということを明らかにした.(ホックシールド 2022: 383).本報告の焦点もまた,日中の労働時間と家族時間の狭間に位置する女性の経験である.しかしホックシールドが提示する感情労働がある程度社会的に許容されるものであるのに対して,本報告の事例において女性たちが行うのは,ナイトワークに従事すること自体が否定的評価を招きやすいがゆえに,それを秘密にするという労働である.それは例えば在留資格更新や親族招聘の際に,入管審査で不利な判断を受けないよう昼間の雇用関係のみで身元確認をする.ナイトワークの兼業禁止規定のある職場において,兼業を悟られないようにするといったものである. 【4. 結論】解釈労働に注目する性売買のエスノグラフィ的記述は,経済的困難や性暴力といった明示的暴力とは対照的な,微細に張り巡らされた暴力の布置を明らかにする.フィリピン人ホステスは生活の全般にわたり,暴力の可能性に常に注意を払いながら,葛藤や差別を回避するための調整作業を遂行する.彼女たちは,暴力を未執行のまま維持していくための技法を生活術として身につけていくのである. 【参考(副題略)】石岡丈昇,2023,『タイミングの社会学』青土社./グレーバー, D.,2017,官僚制のユートピア,以文社./ホックシールド,A.R. ,2022,『タイムバインド』筑摩書房.

報告番号386

ゲーム依存に関する分析――「ゲーム」に関する研究史からの考察
神戸学院大学 大澤卓也

1.【目的】本報告では、ゲーム依存症(本報告における「ゲーム」は、主にテレビゲーム、ビデオゲームを対象とする)の問題に焦点を当てて、これまでに「ゲーム」に対していかなる研究がなされてきたのかを捉え直すことによって、ゲーム依存症とアカデミアとの関係を明らかにすることが目的である。このような問題設定の背景には、①2019年WHOが発行した「ICD-11」へのゲーム障害(gaming disorder)の収録、②2020年香川県における全国初のネット・ゲーム依存症対策条例の制定など、近年のゲーム依存に対する社会的関心の高まりやそれらの政策において専門知が重視されたことがある。「ICD-11」では、「ゲーム」が引き起こす危険性に関する専門知によって、過度なゲーム利用が医療行為の対象であると認定された。香川県のゲーム条例においては、「ICD-11」への収録、ゲームの悪影響を指摘する専門知が議員らによって活用され、条例制定の根拠とされた。本報告が目指すことは、これらの政策に寄与した専門知の是非を問うことではなく、ゲームに対する悪影響を対象とした研究以外にも焦点を当て、「ゲーム」研究自体を相対化することにある。つまり、本報告の目標は、「ゲーム」に関する研究史をたどり、研究時期、研究分野、研究目的などの論文傾向や「ゲーム」に対する評価の言説傾向を読み解くことにある。2.【データ】本報告で用いたデータは、CiNiiを利用して収集した。その際、「テレビゲーム」、「ビデオゲーム」それぞれをキーワードとして検索を行い(デジタルゲームという学術用語は比較的新しく、「ゲーム」黎明期からの論文の傾向を知ることが難しいと判断し、含めていない)、重複するものを除いた1134件の論文を抽出した(2025年4月10日検索)。また、「ゲーム」依存症の研究動向を把握するために、「ゲーム依存」をキーワードとして同様の方法を用いたところ、215件の論文を抽出した(なお、前述で抽出した論文を除くと209件であった)。3.【手法】本報告では、収集した論文データを量的・質的データとして分析する予定である。そのために、まず、年度、研究領域、研究趣旨ごとに分類し、量的データとして捉える。また、「ゲーム依存」に関する論文については、KHコーダーを用いてテキストマイニングを行う。これらの分析によって論文傾向を明示した後に、収集した論文をテキストデータとして捉えて、「ゲーム」やゲーム依存に関する言説分析を行い、論文傾向との関連を明らかにする予定である。4.【結果・結論】まず、論文数に関して年度別の違いが確認されたが、その理由として「ゲーム」に関連する社会問題と結びついていることを示す予定である。また、心理・医療に関する論文が多く確認されたが、その説明として、年度別のデータと結び付け、行政の施策との関連を示す予定である。さらに、テキストマイニング及び言説分析からは、「ゲーム」に対する悪影響などのネガティブな評価が、ゲーム黎明から続いていることを明らかにした上で、その評価内容の変遷に関して示す予定である。そして、これらの言説の変遷には、社会問題の影響だけなく、「ゲーム」制作技術の向上による表現力の豊かさやゲーム経験へのアクセスの容易さといったゲームプレイヤーへの影響も関連していることを示す予定である。

報告番号387

矯正施設出所後の自己の回復プロセスはどのように達成しうるか――若年当事者の「暮らし方」の工夫に注目して
岡山大学 都島梨紗

本報告は、少年院や刑務所等の矯正施設を経験した若年当事者が出所後、犯罪や非行のない暮らしを維持し続けるために、彼ら・彼女らが行う「暮らし方」の工夫を記述する。そのうえで、矯正施設出所までの期間において失われた自己の回復プロセスがどのように達成しうるかを明らかにする。 矯正施設はGoffman(1961=1984)が定義する「全制的施設(total-institutions)」の1つであり、入所することで「アイデンティティ剝奪」がおこる。そのつぎに施設ではさまざまな規則にのっとった生活を送ることが求められ、施設に適応することで「自己の再編成」がおこる。しかしながら施設内の諸規則は、施設組織内の場面でのみにおいて有効性を発揮する場合がほとんどであり、矯正施設出所後の生活をどのように組み立てて、社会内での「自己の再編成」が行われているのかについての検討は不十分である。 加えて、「アイデンティティ剥奪」は矯正施設入所前からもおこる可能性がある。法務総合研究所(2023)によれば、少年院在院者のうち41.7%が被虐待経験を有するとされている。このうちの一部でも児童相談所による介入により、一時保護所や児童福祉施設に入所する経験を有しているとすれば、これまでの住環境や持ち物が剥奪される経験に該当するともいえる。Goffmanが指摘するように「アイデンティティのための用具」として服装などの外見、スマホや自分の部屋などの持ち物やテリトリーに注目したとき、矯正施設出所までの期間において重層的に自己が失われる経験を有しているともいえよう。 他方、法務総合研究所(2024)では女性犯罪者に焦点を当てた調査がなされており、出所後の暮らしにおける困難さについても言及されている。例えば、心身の問題が多いことや、労働条件の悪い就労先が多くを占めるため、就労によって自立することが難しいことなどである。依存症と他の精神疾患を併せて抱えている場合、PTSDや被害体験を有する場合もあるという。 以上をふまえて、本報告では出所後の暮らしにおける困難さへの対応過程も含めて「自己の再編成」がどのように達成しうるのかについて取り上げる。本報告では、少年院等の矯正施設を出所した人々のうち、犯罪や非行のない暮らしを維持しようと工夫している若年者に焦点を当てる。彼・彼女らが日々の「暮らし方」において「メリハリを持った働き方」、「植物とともに暮らす」、「ハンドメイド(DIY)に没頭する」などのこだわりを有している様子を紹介し、暮らしを再編している様子から自己の回復過程を検討し、出所後の暮らしにおける困難さへの対応過程を明らかにすることをめざす。 文献:Goffman, Erving, 1961, Asylums : Essays on the Social Situation of Mental Patients and Other Inmates, Anchor Books, Doubleday & Company, Inc.(=石黒毅訳,1984,『アサイラム 施設被収容者の日常生活』誠信書房).

報告番号388

制度的空間における「関係性」はどのように形成されるのか?――更生保護施設在所者同士の「出会い」に着目して
立命館大学大学院 竹松未結希

【背景・目的】刑務所出所者の一定数が生活する更生保護施設は、刑務所をはじめとする全制的施設(Goffman1963=1984)と類似する特徴を有しながらも、刑務所と比較して、ある程度の行動の自由が認められている。一方、そこで暮らす施設在所者たちは、保護観察による法的拘束や施設の諸規則といった複合的な制約を受ける人びとの集まりでもある。更生保護施設という制度的空間において、いかなる施設在所者同士の関係性が取り結ばれているのだろうか。これまでの社会学領域における先行研究は、施設在所者同士の関わり合いによる「絆」や「友情」がスティグマ緩和として機能する(都島2017)ことや、就労規範に沿うことで在所者同士の友好的な関係性が築かれる(相良2018)様相を明らかにした。しかし、先行研究は、在所者同士の関係性の一端を詳細に記述したものの、そこでの関係性は既存の出来事として捉えられており、なぜ・どのようにして関係性が取り結ばれるに至ったのか検討の余地がある。なぜなら、施設という複合的な制度・制約がはたらく空間において、施設在所者同士の関係性は、所与のものではなく、複合的な制度・制約によって規定されていると考えられるからだ。上記の問題関心のもと、本報告では、先行研究が明らかにした更生保護施設在所者同士の関係性のなかでも、在所者同士の「出会い」の場面に着目する。そこから、更生保護施設という制度的空間において、施設在所者同士がどのように出会い、関係性を形成してゆくのかを明らかにする。【方法・データ】本報告でもちいるデータは、2023年から継続的に実施している受刑経験・更生保護施設在所経験のある女性への、生活史および半構造化インタビューにもとづいている。分析では、刑務所出所から更生保護施設入所にかかわる初期の経験・出来事に着目する。なお、本調査は、立命館大学研究倫理審査委員会による承認を受けている。【結果・考察】インタビュー調査の結果、第一に、刑務所のもつ制限からの解放への安堵、その後の更生保護施設入所にともなう新たな制限と不安が生じることが明らかとなった。第二に、施設の制度によって在所者同士の関係性が形成されるパターン(公式な出会い)と、施設在所者による他在所者への紹介によって関係性が形成されるパターン(非公式な出会い)が明らかとなった。第三に、公式な出会い・非公式な出会いにおいていずれも、互いにどのような受刑経験であったかや、現状どのような状況にあるのかといった自己呈示が儀礼的に執り行われることが明らかとなった。更生保護施設在所者同士の「出会い」は、先行研究が明らかにした所与のものとしての関係性や機能だけでは捉えきれない、制度的空間において、いかに関係性が規定されうるのかを示す。【参考文献】Goffman,Erving,1961,Asylums Essays on the Social Situation of Mental Patients and Other Inmates .A Division of Random House NEWYORK(石黒毅訳, 1984『アサイラム―施設被収容者の日常世界』誠信書房.)相良翔,2017,「更生保護施設在所者の「更生」─「更生」における自己責任の内面化─」『ソシオロジ』62 (1):115-131.都島梨紗,2017,「更生保護施設生活者のスティグマと「立ち直り」─スティグマ対処行動に関する語りに着目して─」『犯罪社会学研究』42:155-170.【謝辞】本研究は、「日工組社会安全研究財団」による助成を受けて行われた。

報告番号389

受刑者による表現はいかに成り立っているのか――カナダの刑務所演劇に着目して
立命館大学 加藤このみ

【1. 目的】本報告の目的は、カナダの刑務所演劇を事例として、演者である受刑者と、演劇制作に関わるアーティスト、そして公演の観客がいかに協働しているのかを明らかにすることである。それを通して、受刑者と非受刑者という立場性の違いを超えた「共感」の生成方法や、一時的に創出される「共同体」のあり方について論じる。本報告で着目するWilliam Head on Stage(以下、WHoS)は、受刑者が自らの経験をもとにして制作した演劇を、外部アーティストの協力を得ながら、一般観客に向けて上演する演劇創作活動である。劇団の発足以来40年以上にわたって、受刑者による非営利活動という位置付けで活動を行っている。そこには、受刑者がさまざまな経験を持ち寄り、それを⼀つの集合的な物語にし、観客との対話を通じて受刑者に対する理解を刷新していくような側面がある。先行研究では刑務所演劇の肯定的な効果が析出されてきたが、そのような彼らの表現活動を支えるアクターの役割とその技法については十分に検討されていない。特にWHoSにおいては、プロのアーティストが常時10名以上関わっており、観客にはリピーターが多いことが特徴的である。そのような受刑者の演劇表現を、アーティストはいかなる論理のもとで支え、観客はいかに受容しているのかという問いに接近したい。【2. 方法】WHoSによる舞台公演と、WHoSに関わった経験のある出所者・観客・アーティストへの聞き取り調査を行い、その結果を分析する。【3. 結果・結論】刑務所演劇においては、「認知的共感」(Bloom 2016=2018)をもとにした独自の「共同体」が形成されていた。Paulによれば、「情動的共感」とは、他者と⾃分を⼀体化させ、他者が感じている苦痛などを⾃分でも感じる追体験によって⽣じる共感であるのに対して、「認知的共感」とは、⾃分と他者を区別し、他者が何を考えているのかを知性によって理解することを通じた共感である。例えば、劇中においては受刑者と観客の距離を再定義するような「物語の距離化」が行われたり、「理想的な受刑者像」を撹乱するような語りが組み込まれたりしている。そのように、規範をずらしたり、逸脱したり、撹乱したりするような受刑者の語りを含めた表現が可能となっている条件として、認知的共感が生成され、それを通じた共同体が形成されていることが推察される。さらに、関係者が協力し対話を行おうとすることで、葛藤したり揺れ動いたりする受刑者の自己を含み込みながら関係性を修復しようとする「修復的司法」的側面が見出されることを論じる。この報告を通して、刑事施設の中で人々がどのように自己を表現したり、他者との関係性を取り結んだりするのかに関する社会学的研究の発展可能性を示したい。

報告番号390

在仏フィリピン人家事労働者の「脆弱性」、そのもうひとつの顔――フィリピン海外雇用政策の〈グレーゾーン〉
一橋大学名誉教授 伊藤るり

【1.目的】フィリピン外務省(以下、DFA)によれば、2024年現在、在仏フィリピン人31,845人のうち約3分の1にあたる10,368人が非正規滞在者である(FSI, 2024)。現実にはこれを上回る数の非正規滞在者がいると見られるが、そのほとんどが家事労働者として就労している。これまで報告者は、観光ビザなどで入国し、その後ビザが切れた状態で滞在と就労を続ける家事労働者の地位の「正規化(régularisation)」をめぐる実態解明を行ってきた(Ito 2016など)。しかし、これはあくまでフランスにおける滞在と就労資格の問題である。 これとは逆に、フィリピン側から見たとき、彼女らはどのような地位にあるのか。出国前に正規の雇用契約を結ばずにフランスに入国、就労する彼女らはフィリピンの海外契約労働者統計には含まれない。在仏フィリピン人家事労働者は、広義の「海外フィリピン人労働者(OFW)」の中に含まれても、移住労働者省(以下、DMW)所管の海外雇用政策の対象としては〈グレーゾーン〉を構成するのだが、その処遇はいかなるものか。本報告ではこの点について、これまでの調査結果をもとに中間報告を行いたい。 【2. 方法】報告者は、フランス側では、2023年7月以降、フィリピン大使館・領事館、フィリピン人アソシエーションに対する聞き取り調査(約12週間)、ならびにフィリピン側では、2024年2月以降、DMW、海外フィリピン人委員会(CFO)、DFA関係者、研究者らに対する聞き取り調査(約2週間)をおこなった。本報告はこれらの聞き取りで得たデータ、ならびに2009年以来、断続的に行ってきた家事労働者へのインタビューなどに基づく。 【3. 結果】海外フィリピン人行政には、DFA、DMW(及びOWWA)、CFOが分掌している。この中で、在仏フィリピン人家事労働者は、雇用者による虐待・暴力・搾取、人身取引の被害に遭うという、移住家事労働者一般に特徴的な傾向から、その「脆弱性(vulnerability)」において認識されている。この点で重要なのは、在外国民保護という観点からのDFAによる個別支援である。 他方、DMW(2021年末、新設)は、設置法で、非正規滞在の海外移住労働者をも政策対象とすることとしている。ただし、海外雇用政策が前提とする雇用主と被用者の1対1関係における契約は、複数雇用主のもとで断片化された雇用をもつ在仏家事労働者の現実に見合っていない。このため、滞在が正規か非正規かを問わず、在仏家事労働者にとってDMWは労働者保護の機能を十分に果たしえないという構造的な問題が存在する。 【4. 結論】在仏フィリピン人家事労働者は、フィリピン海外雇用政策の規制の外にある〈グレーゾーン〉とそこにおけるさまざまな海外就労の形態のひとつの事例である。こうした文脈のもと、家事労働者が自らの福利保護に努めるうえでの在仏フィリピン人アソシエーションの役割の重要性がよりよく理解されるのである。 ※本報告はJSPS科研費24K05279、及び23K25585の助成を受けて行った調査に基づく。

報告番号391

新自由主義移民政策下における移民たちの適応戦略――技能実習と特定技能の事例から
一橋大学大学院 SANGMUKDAPoonavich

【背景】 新自由主義は近年の移民政策に大きな影響を及ぼしてきた 。その象徴としては「選別的な移民の受入政策」や「獲得市民権」に代表されるような政策への収斂があげられる 。こうした政策的な背景の下、多くの移民は一時的な滞在資格に留め置かれ、自らの地位の安定化や権利の向上のためには、国家に対し、常に自らの有用性を証明し続けなければならない状況にある 。2019年に日本で創設された特定技能制度もその典型例と位置づけられる 。 【目的】 そのような不安定な地位に置かれた移民が精神的負担をはじめとする負の影響を受けることは、先行研究で広く指摘されている 。そうした不安への対処法として、移民本人が政策に用いられる選別の基準を自ら内面化する現象が、主に非正規移民を対象とする研究で指摘されてきた 。すなわち、自らを国家に選ばれるに値する「良い」移民と位置づけ、「悪い」移民と距離を置くことで、自らの滞在を正当化するのである 。本報告は、こうした移民による移民政策で用いられる新自由主義的なフレームの内面化を「象徴的暴力」と捉える。その上での技能実習制度および特定技能制度の下で来日した移民の経験を事例に、期限付きかつ循環的な移住環境に置かれた移民における価値規範の内面化を分析することを目的とする 。両制度における外国人は、比較的に定住性の強い非正規移民とは異なり、制度に試験が組み込まれることや循環的な移動が許されることから、従来の研究とは異なる内面化のメカニズムを明らかにできると考える 。本報告を通じて、新自由主義の影響下で一時的・多段階的な地位に置かれる移民の経験と、その行動原理をより鮮明に描き出すことを目指す 。 【方法】 本報告は、2023年から2025年にかけて実施した半構造化インタビュー調査のデータに基づく 。調査対象は、技能実習制度および特定技能制度の経験者29名と、両制度の関係者(監理団体、送出機関や雇用主)6名である 。 【結果・考察】 技能実習・特定技能制度には滞在期限が設けられ、1~2年ごとに更新が必要であるにもかかわらず、多くの調査協力者はそのような状況を不安と捉えていないことが明らかになった 。その背景として、主に二つの正当化の理論があげられる 。第一に、これまでの研究で指摘されてきたように自らを「良い」労働者と位置づけることである。自らを「悪い」労働者と区別し、雇用主や国家から評価される存在だと自認することで、切り捨てられることはないと考え、不安定性を認識から排除している。第二に 「予防的無計画性」とも呼べるスタンスである。将来をあえて計画しないと考えることで、滞在の不安定さがもたらす心理的負担を無効化させているのである。これは、定住性の高い移民カテゴリーと異なった、一時的であるが循環的な移動の可能性が示唆される環境に置かれている彼らの適応戦略だと考えられる。

報告番号392

「«ジタン家庭児童»の事例から見る学校内セグリゲーション」
名古屋大学 鶴巻泉子

本報告は、日本で「ジプシー」「ロマ」の名称で呼ばれ、現地フランスでは「ジタン」と呼ばれる人々を事例として、フランスにおける「学校内セグリゲーション」の問題を考える。ジタン家庭児童が参加する学級での参与観察をもとに、①教育省や学区責任者らの視点と、②現場の教員の「経験」を比較し、セグリゲーション再生産の一要因を議論する。 フランスは「単一の共和国」を支える規範的根拠として、文化的差異やエスニックな差異を公共空間から排除する「ライシテlaïcité」思想を持つが、この思想は特に公共教育領域に大きな影響力を及ぼしてきた。2000年代以降セグリゲーションの存在が全国的に問題となる中、その主な要因として議論されたのは「社会階層」であり(Charousset et al. 2023)、エスニックな出自は影に隠れがちであった。 しかし南仏では、ジタン家庭児童のみを集めたクラスの設置など、目に見える形での排除や不均衡が広く存在する。それを扱う研究は一般に「ジタン教育問題」という分析枠組みを用い、他の集団との比較がなされにくく議論が不十分になる可能性が生じている。本報告は、移民出自の児童など他の集団との比較も可能とする「教育とセグリゲーション」という枠組みの中で、ジタンの子供達の排除の問題を考えることを目的とする。 2000年代以降セグリゲーションは大きな問題として議論されるが、制度的言説においてジタンの人々は「共同体主義的」で「閉鎖的」と形容され、ジタン児童のみで構成される学習の場が必要とされた。他方では、「ジタン家庭児童は学校の文化を持たない」とも指摘され、低学力を補う「暫定的」措置として、一部の学校に準学級が設置された。学力が向上すれば通常クラスに行くことが前提であったが、実際には、いったん通常クラスに移動した子供達も結局最初のクラスに戻ってきてしまう。ジタン児童の学級は存続し続け、教員も戻ることを禁止するわけでもなく、子供達を受け入れてしまう。 P. Perrenoudは教員、家族、ピアグループから影響を受ける「生徒というメチエ」が存在すると指摘したが、Dubetら(op.cit.)は家庭・学校・地区というそれぞれ別個の論理を持つ場の規範調整をする子供たちを見守る役割こそ、中学校教員の特徴と指摘する。現場の教員は子どもと同じ目線に立つからこそ、ジタンの人々の間の様々な分断や、しかし彼らが共通して社会から受ける多層的な排除構造が存在することを知っている。そのために子供達が「非ジタン側の世界に行くこと」の困難に、共に向き合わざるを得ない。子供達は制度側から「学校の文化を持たない」と断ぜられる一方で、学校制度が作り出す「ジタン」と「低学力」という二重のスティグマを合わせて内面化するリスクと向き合う。教員が陥る袋小路は、移民出自の生徒に関わるセグリゲーションと共通する側面と、社会から多層的排除を受けるジタンの人々に特有の次元とを含む。 P. Charousset et al. (2023), « Ségrégation sociale en milieu scolaire », Note IPP , n°97, Novembre, 1-8. F. Dubet et D. Martuccelli (1996), A l’école, le Seuil, 1996.

報告番号393

現代イギリス社会における「平等」と「多様性」の発展展開と背景――現代法制度と周辺に見られる、 社会の構成と理念・運用の変化
Society of Authors  ウォーターズめぐみ

1.目的 本発表は、現代の「平等」と「多様性」が法や制度上どのように保証され社会に影響を与えているか、その背景事情と近現代社会の社会・経済・文化的構造の変化の反映・再構築の方向を、イギリスを例として把握することを試みる。 その際、Bauman(2004)の指摘する「近代化の不可避的結果/モダニティの分離できない付属物」である「秩序建設および経済の進歩」がもたらした「廃棄物」扱いの物事(「秩序」から排出される人間を含む)の存在と、規制・制御されないグローバルに産み出された問題に対して「ローカルに解決策を探す必要」が生じたという視点から、系統立てて捉えられにくかった諸疎外とその背景についても光を当て、Young (1990)の多文化社会における多様な価値観の保証が、個人やグループ、コミュニティに公平な資源や機会、意思決定をもたらすとの指摘も考慮したい。 2.方法 主に現代イギリスの「平等」をめぐる法・制度の確認検討から、労働・教育・政治・植民地等の変化を通じ、「支配的な言説」とその暗黙の諸前提を逆照射し再検討に至らせた、様々な立場や条件のもと営まれた生(せい)とその声がどのように現れたかに注目する。 本発表では差異やその背景が露わとなる場としての生活世界と理念的な社会とのずれや統合の過程にも着目し、個人や集団、コミュニティなどの声が辿る経路や受け止められ方、集団や集合的な感情・意識との関わりなどを、労働や事件などの諸事例から見ていき、当事者達と周辺の関係、反映や影響についても考察したい。 3.結果 EUレベルでのHuman Rights の保証が土台となっている。1970年代以降、メインストリームの男性中心の諸前提に対して、まず人種・民族とジェンダー(女性)の権利などを認知・強化する方向で法制度が整備されていった。障がい者や高齢者の権利や機会の拡大はその後に続いている。また、産業の空洞化に伴う失業の増加などから、メインストリームについても「暗黙の前提」の見直しが行われてきている。その上で、経済的機会や活動を支える労働条件や教育・訓練機会の保証、更にステークホルダーとしての意見表明・反映の機会などが、柔軟なガイドライン(soft law)を活用する形で整備されてきた。 半面、インフォーマルな次元で「バックラッシュ」の発生が報告され、ローカルなレベルだけではない事件も報告されている。 4.結論 イギリスの社会・経済・文化的構造の再構築は、Human Rightsを根拠とする法制度によって方向性と保証を与えられているが、課題も多い。 近現代化に伴う社会関係や社会的環境の変化を、ある意味時間的に圧縮した形で1-2世代のうちに経験し、またインパクトが家庭内で吸収・対応される度合いが高い日本で、こうした理論的・事例的な動向がどのように活かされ得るかも、併せて考察したい。 主要参考文献 Bauman, Zygmunt (2004) WASTED LIVES, Cambridge: Polity Press (発表には日本語版のジークムント・バウマン(2007)『廃棄された生』京都:昭和堂を使用) Young, Iris, M. (1990) JUSTICE AND POLITICS OF DIFFERENCE, Princeton: Princeton University Pressほか

報告番号394

The Transformation of Higher Education Governance from Neoliberal to Multi-Stakeholder Governance in Australia, Japan and the United Kingdom
UC, Berkeley (former affiliation) 横山恵子

Introduction University governance has been often analysed in the contexts of management. The substantial numbers of literature have argued the transformation of governance from the traditional, self-govern mode to the managerial mode shaped by the market in Europe, Japan and Anglophone countries, including Australia, the United Kingdom and the United States since the late 1970s (see for instance, Palfreyman & Tapper 2013, Olssen and Peters 2005, Ball 1998, Kogan 1999). University presidents or Vice-chancellors in neoliberal governance have become chief executives, performing as if they are CEOs in the private sector. The neoliberal implementation has also brought cultural changes from collegiality to new managerialism with discourses of cost-effectiveness and efficiency (Deem 1998, Deem & Brehony 2005, Slaughter and Rhoades 2004). Audit, accountability, evaluation (Neave 1988, 1998) and lack of trust in the university systems have prevailed (Trow 1996), in which heads of universities are now expected to win in national assessment and global ranking (Marginson 2007 for higher education system stratification as an impact of global ranking in higher education) and secure external grants. The picture of the above has not drastically changed after nearly half century of neoliberal practice in aforementioned countries. However, real-world problems such as climate crisis may have some implications on higher education governance, bringing about collaboration beyond nation-states, public and private sectors and disciplines (see Gibbons et al., 1994 for change to inter- and multi-disciplinary knowledge). How has academic governance been reshaped with the arrival of an social problem solving approach such as climate change mitigation? Aim The aim of this study is to clarify the current state of university governance in particular in relation to neoliberal governance, which a number of existing literature have elucidated. The paper, from a sociological perspective of actor focused analysis, argues that the new type of governance based upon inclusive, horizontal relationships in multi-disciplinary and multi-stakeholder partnerships beyond sectors are observed. Individual researchers or the group of researchers as intellectual leaders communicate with external, multi-stakeholders in the other sectors to create new knowledge in the new type of governance. Data and methods The study is theoretically oriented. Therefore, it is based upon analysis on existing literature and conception. It also re-examines the author’s previous research on seagrass restoration projects in three countries: Australia, Japan and the United Kingdom. The research collected a set of data from documentation, questionnaires and the semi-structured, in-depth interviews. Result Neoliberal policy has called accountability, making the universities to be defined by external demand (Bernett 1990). University executive power has strengthened to meet such demand during the neoliberal period, reinforcing hierarchical relationships in an institution. However, the result of this study’s analysis shows a different picture. Individual and collective researchers at all levels despite formal roles in an institution have operated as intellectual leaders in seagrass restoration projects. Conclusion Both neoliberal governance based upon institutional hierarchy and multi-stakeholder governance, which is more inclusive, collaborative and horizontal in power relationship, coexist in the complex, interconnected society.

報告番号395

新自由主義的移民政策と都市における移民包摂の再編――イギリス・ルイシャム区の事例から
同志社大学 米川尚樹

研究目的: 本研究は、イギリス都市における移民支援について、新自由主義的な移民政策の影響を明らかにする。イギリスにおけるネオリベラルな移民政策は、高技能移民の受け入れと低技能移民の排除を通じた選別化を進め、移民の社会福祉へのアクセスを制限する傾向を強めている。本研究では、2010年代以降の都市政策に着目し、特にエスニック・グループへの支援の変容および在留資格による社会福祉の制限に焦点を当てて考察する。 研究方法: 本研究では、2017年から2025年までのロンドン・ルイシャム区におけるフィールドワークや資料収集をもとにしている。フィールドワークでは、ルイシャム区議員・職員・NGO職員など移民支援に経験のある人々を対象にインタビューを行った。ルイシャム区はロンドン南部に位置し、ロンドン特別区 (London boroughs)を構成する 32 の区の一つである。これまで多様な移民を受け入れてきた区であり、移民・難民支援のNGOなどの団体も多い。区としては、多様性を都市の活力と捉えるインターカルチュラル・シティ政策や、在留資格にかかわらず移民を保護する聖域都市政策などを展開している。 議論・結論 ルイシャム区では、エスニック・グループへの支援の後退とともに、中央政府の選別的な移民支援の都市の移民支援策への影響がみられていることが分かった。2010年代以降、保守党政権下の緊縮財政の影響により、エスニック・グループを基盤とした支援策は大きく後退している。エスニック・グループに対して支援をすることは,インターカルチュラル・シティ政策に関わる移民支援で一部みられてものの、2010年以前の労働党政権下のコミュニティ結束政策のように行われておらず、支援が制限されている。 また、在留資格に基づく社会福祉の制限や、緊縮財政による支援団体への影響により、教育サービスや生活支援の提供においても選別性が強化されている。ルイシャム区全体としてより重点的に取り組んでいた移民支援は難民支援プログラムなどの特定の人々ではあるが、これも移民の在留資格や社会福祉の制限が関係している。域都市政策においては、在留資格の有無にかかわらず支援を行う姿勢が示されているが、区全体としてその理念が制度的に実現されているとは言い難い。 以上より、エスニック・グループ支援の後退および在留資格と社会福祉のコントロールは、移民の選別と福祉アクセスの制限に直結しており、新自由主義的な移民政策が都市レベルの移民支援に深い影響を与えていることが示唆される。

報告番号396

Transnational Intersectional Experiences of Migrant Women in Canada: Navigating Gender, Race, and Legal Status Across Borders
University of Manitoba Sally Ogoe

“Research Questions: This research synthesizes Canadian case studies and research on migrant women to address –
1. How do gender, race, and migration status intersect to shape migrant women’s experiences of rights, security, and belonging in Canada?
2. In what ways do Canadian immigration policies, legal frameworks, and cultural expectations reinforce or challenge inequalities for migrant women?
3. How do migrant women exercise agency and build resilience amid intersecting oppressions, and what practices or supports have proven effective?

Theoretical Framework
The research is grounded in intersectionality theory, which recognizes that social categories such as gender, race, class, and migration status are not isolated but interact to produce unique and often compounded forms of privilege and oppression. Drawing from Black feminist thought and intersectional feminist migration scholarship, the research challenges homogenizing narratives in migration studies, “one-size-fits-all” approaches in policy and practice, and foregrounds the fluidity and multiplicity of migrant women’s identities and experiences in Canada.

This intersectional approach is complemented by transnational feminist theory, which further contextualizes these experiences, interrogating how global power relations, and local Canadian contexts shape migration, integration, and the everyday lives of women crossing borders. The framework critically examines how policies and discourses often designed with a “generic” woman in mind fail to address the realities of those facing multiple, intersecting oppressions, and instead calls for centering migrant women’s diverse and agentic responses to structural barriers.

Data
This research utilizes a multi-method, multi-sited research design by systematically searching multiple databases for articles and other relevant documents drawing on existing:
• Studies on transnational feminist organizing and grassroots activism, with attention to how these efforts address intersectional inequalities.
• Case studies on migrant women experiences from diverse backgrounds (e.g., Latin America, Africa, Asia, Middle East, and Eastern Europe) living in Canada.
• Content analysis of Canadian immigration, international conventions, and settlement.

The studies reviewed intentionally includes women with varied legal statuses (e.g., refugees, asylum seekers, undocumented migrants, migrants), racial and ethnic backgrounds, and experiences of marginalization (e.g., LGBTQ+ migrants, disabled women, rural location).

Analytical Methods
The research employs an intersectional feminist methodology, integrating:
• Thematic Synthesis: Coding for themes related to intersectional oppression, identity, resilience, and systemic barriers.
• Comparative Policy Review: Assessing how Canadian immigration, international legal frameworks and social policies address (or overlook) intersectional vulnerabilities.
• Case study Analysis: Centering migrant women’s voices to illustrate how they navigate and contest structural and interpersonal barriers, and how they redefine belonging and security in transnational contexts.
• Scoping Review Approach: Mapping the breadth of existing literature to identify gaps, promising practices, and areas for policy improvement.

Main Findings
1. Intersecting Inequalities and Precarity
Migrant women in Canada experience a continuum of precarity, where gender, race, and migration status interact to heighten vulnerability to gender-based violence, workplace exploitation, and social exclusion. Perpetrators often exploit women’s precarious legal or economic status, while systemic barriers such as language, racism, and lack of accessible services compound their isolation and risk, even when gender-responsive policies exist.

2. Transnational Policies and Cultural Expectations as Double-Edged Swords
Canadian policies, while often progressive in intent, can inadvertently reinforce inequalities. For instance, eligibility for social supports or shelters may be tied to immigration status, leaving undocumented or recently arrived women without recourse. Discriminatory or culturally insensitive attitudes within police, healthcare, and legal systems further deter women from seeking help. Women with disabilities or those in rural areas face additional exclusion due to inaccessible or nonexistent services

In addition, while some international conventions (e.g., CEDAW) have advanced recognition of gendered vulnerabilities, their implementation is often inconsistent and fails to address the realities of women facing multiple oppressions. National policies may provide protections for “women” in general but exclude those with precarious legal status or those who do not conform to heteronormative or racialized expectations. Cultural norms in both sending and receiving countries can reinforce patriarchal or racial hierarchies, further marginalizing migrant women.

3. Agency, Resilience, and Innovative Practices
Despite the challenges and structural barriers, migrant women demonstrate significant agency in navigating transnational spaces. Some successfully navigate the complex systems, advocate for their rights, and build new lives for themselves and their children. Grassroots and feminist networks as well as settlement organizations have developed culturally responsive, intersectional supports such as language-accessible services, peer support, and legal advocacy that address the unique needs of diverse migrant women. They advocate for rights, provide mutual aid, and challenge exclusionary policies. These practices not only provide immediate support but also contribute to broader movements for justice and equality.

4. Limits of Universalist Approaches and the Need for Intersectional Policy
Policies or interventions designed for a “generic” woman or migrant often fail to reach those most marginalized by intersecting oppressions. For example, employment integration programs may not address the compounded barriers faced by racialized, disabled, or rural migrant women. Intersectional analysis and approaches essential for designing effective, inclusive, and rights-based responses to migration-related crises.

5. Structuralization of Crisis and Response
The ongoing global crises in the form of conflict, pandemics, and rising authoritarianism intensify intersectional inequalities for migrant women. However, these crises also catalyze new forms of solidarity, organizing, and advocacy that center intersectional justice. Migrant women’s leadership in these movements challenges both the structural roots of oppression and the limitations of existing sociological and policy frameworks.

Conclusion
The Canadian case studies and literature reviewed demonstrate that migrant women’s experiences are deeply shaped by the intersections of gender, race, and legal status. Structural and systemic barriers rooted in both policy and cultural expectations produce heightened vulnerability, but also catalyze innovative forms of resistance and support. Intersectional, transnational feminist approaches are crucial for understanding these complexities and for informing more just and effective policies. Centering the voices and agency of migrant women themselves is essential for moving beyond crisis response toward sustained equity and inclusion in Canadian society. The findings call for a reimagining of migration policy and practice, grounded in the lived experiences and leadership of those most affected by intersecting oppressions.”


報告番号397

日本における「人口の自然性」の展開
法政大学 山田唐波里

1.目的 M. フーコーの講義集成の刊行に端を発する統治性研究の日本における展開は,当初の理論の紹介や思想的検討にとどまらず,その経験的検証の段階に進み始めている.とくに,統治性という現代的な権力メカニズムの重要な対象である「人口」について,ここ数年の研究の蓄積は目覚ましいものがある(山田 2019; Homei 2023; 松井 2024).統治性は,対象が有する自然性を考慮に入れた権力メカニズムを指す概念であり,その概念規定からして,対象がどのような自然性を有しているかを明らかにしようとする言説実践の検討作業が不可欠である.本報告では,日本における統治性の展開を明らかにするために,その対象である「人口の自然性」に関する概念がどのように展開してきたのかを検討する. 2.方法 日本における人口研究の中心的な場となってきた財団法人人口問題研究会,厚生省人口問題研究所(現国立社会保障・人口問題研究所),人口問題審議会の資料を中心に,系譜学的分析を試みる. 3.結果と結論 日本における「人口の自然性」に関する議論は,マルサス人口論の輸入およびその後の1920年代における人口問題をめぐる議論の隆盛に始まるとされる(山田 2017).そこでは,人口は食料の増加速度を超えて増加する自然的傾向を有する,というマルサスの人口原理が「人口の自然性」を規定していた. 戦後になると,欧米諸国の人口動態を基に形成された「人口転換理論」が新たに「人口の自然性」の概念を規定しはじめる.この理論によれば,人口は多産多死の状態から,多産少死の状態を経て,最終的に少産少死へと至るとされる. 1970年代後半から,出生率が人口転換理論の下限と考えられてきた人口置換水準を下回り始める.それにより,「人口の自然性」をめぐって新たな模索が開始される.最終的に,1950年代後半から広がりを見せた「家族計画(受胎調節)」によって,「個人および夫婦の希望/意志」が新たな「人口の自然性」として位置づけられるようになる.それに応じて,これ以降の統治戦略は,基本的に「個人および夫婦の希望/意志」を叶えるために,環境を整備することを主な手段とするようになっていく. [文献] Homei, Aya, 2023, Science for Governing Japan’s Population, Cambridge: Cambridge University Press. 松井拓海,2024,「統治技法としての人口論――1920年代日本と失業問題」『年報社会学論集』37: 187-98. 山田唐波里,2017,「人口概念の歴史的基層――近代日本における人口概念の編成過程」『社会志林』64(2): 57-73. ――――,2019,「近代的統治戦略としての〈均衡化〉――『人口方程式』の編成と政策論への導入」『社会学評論』70(2): 128-45.

報告番号398

植民地主義の社会学のアプローチと多方向的記憶の概念
日本学術振興会 西田尚輝

本報告は、植民地主義の社会学のアプローチを、近年のトランスナショナルな記憶研究からの知見で補完する可能性について議論する。 1980年代半ば以降の記憶研究を特徴づけていた「方法論的ナショナリズム」から離れ、2010年代以降、トランスナショナルな視点が国際的な記憶研究における新たな交差点として浮上している(De Cesari and Rigney eds. Transnational Memory: Circulation, Articulation, Scales, 2014)。Rothberg (2009) Multidirectional Memory: Remembering the Holocaust in the Age of Decolonizationが提唱した「多方向性記憶」という概念は、記憶は特定の集団の独占的な財産ではなく、記憶と集団の両方をハイブリッドで開放的かつ再交渉可能なものとする、対話、対立、交流のダイナミックなプロセスから生まれるものであることを強調している。特に重要なのは、記憶のさまざまな層(異なる伝統や歴史的・文化的遺産)およびスケール(ローカル、ナショナル、トランスナショナル)が生産的に共存し、相互作用しているということである。Rothbergは、ブラック・アトランティックとフランス植民地主義の文脈において、ホロコーストの記憶はユダヤ人だけに限定されたものではなく、他の犠牲者の歴史の表現も可能にしたことを示し、ホロコーストの想起が1950年代に脱植民地化過程との対話を通してどのように展開したかを明らかにしている。 一方、1990年代以降、社会学者たちはポストコロニアリズムの議論を反映し、移民、多文化主義など、旧植民地および旧宗主国における植民地主義の継続的な影響を調査してきた(Steinmetz, The Sociology of Empires, Colonies, and Postcolonialism, 2014)。Al-Hardan (2022) Empires, Colonialism, and the Global South in Sociologyは、この学問分野における特にここ10年間の傾向を「植民地主義の社会学(a sociology of colonialism)」と呼んでいる。「植民地主義の社会学」とは、帝国と植民地主義の現在も続く遺産を、グローバルな権力関係を構造化し、旧植民地世界だけでなく、旧帝国と現在の帝国、およびその旧植民地や現在の新植民地的な影響圏の間での社会関係を形作っているものとして捉えるものである。 しかし、植民地主義の社会学のアプローチは、記憶過程を十分に分析してこなかった。植民地の過去がどのように再構成され、表象されるかは、現在も続く植民地主義の支配システムを研究する上で重要である。本報告では、「多方向的記憶」という概念が、記憶の政治学とポストコロニアル研究を結び付ける上で有用であることを示す。時間が許せば、南太平洋にあるニューカレドニアにおける植民地時代の記憶の変容について議論する。

報告番号399

祇園における親密性と記憶のエスノグラフィー――老舗バーを媒介とした都市的ネットワークの観察
関西大学 安田雪

This report presents findings from a participant observation study in Gion, Kyoto—one of Japan’s iconic historical districts known for its rich traditions and dense interpersonal networks. The research centers on a long-standing bar in operation for over a century, serving not only as a place for leisure but also as a symbolic hub embedded in the local urban environment. Fieldwork began through a sustained relationship with the bar’s proprietor, a man who had managed the establishment alone for decades. Born and raised in Gion, he possessed deep, embodied knowledge of customs, community events, and the intergenerational transmission of tradition. The first focus is the structuring of interpersonal ties in Gion. Though often seen externally as a space of commodified heritage and tourism, Gion contains deeply rooted networks shaped by routine interaction, shared rituals, and tacit understandings. These ties often transcend occupational and generational boundaries. The bar functions as a microcosm of this broader relational system, a space where regulars and newcomers engage in repeated exchanges that reinforce community norms and subtle hierarchies. In this way, the bar supports both continuity and quiet adaptation of local practices. Second, the proprietor’s narratives illustrate how memory circulates outside formal institutions. His recollections—ranging from postwar rebuilding to clientele changes and festival transformations—reveal subtle urban shifts often omitted from official records. These oral accounts, shared casually or through reflective conversation, function as lived archives. They show how urban memory is not just held in documents or sites, but transmitted through storytelling, sensory recollection, and emotion. Finally, the report addresses the observer’s affective engagement. As the proprietor’s health declined and he eventually passed away, the research evolved into a process of witnessing, mourning, and emotional documentation. Recording his final months entailed not only scholarly attention but also personal grief. This experience challenges conventional ethnographic detachment and underscores the need for methodologies that can accommodate care, loss, and emotional reciprocity. In conclusion, this report proposes an expanded model of urban ethnography—one that centers intimacy, memory, and affect as critical analytic dimensions. The historic bar in Gion thus emerges as both a site of cultural transmission and a prism through which to understand the entanglement of place, relationships, and everyday remembrance.

報告番号400

大学紛争における丸山眞男批判における新視点についての一考察――メリトクラシー(能力主義)への反発を中心として
芦屋大学大学院 𠮷岡篤司

一般的に1960年代の大学紛争において、東京大学法学部教授で政治思想史家であった丸山眞男が全共闘を筆頭とした学生運動に批判されたことは知られている。しかし、何故、丸山が批判されたかという本質的な問題については未だ研究途上である。 この問題について、丸山と学生たちとの思想的対立、大学教育に関する意見の対立などといった視点でこれまでは語られることが多かった。しかし、筆者は当時の大学生にメリトクラシーへの反発という意識があったと考える。それが、戦後知識人の筆頭として名声を確立していた丸山眞男への糾弾に繋がったのではないかという筆者の問題意識について、本研究では検証した。 まず、戦後日本社会において、特に大学組織において、知的エリートを至上・志向とする風土が形成されていたのではないかという論点について社会史的分析を行う。そして、次に当時の大学生間の知識人批判についての意識についての要点を数ある当時の雑誌といった一次資料の中から抽出した。 その後、丸山眞男は著書である『日本の思想』を筆頭に教養主義に基づくメリトクラシーを説いていたことを明示し、それに対する当時の大学生間の各種反応についての要点を当時の雑誌といった一次資料から抽出した。 そして、これら要点を基に、大学生たちによるメリトクラシーへの反発と大学紛争における丸山眞男批判の関連性について教育社会学的考察を行った。手法としては、二次資料を交えた解釈学的なものである。なお、当時の世相なども鑑みながら考察は為されている。 筆者は一定の結論として、丸山眞男に対する大学紛争における批判の中には大学生のメリトクラシーへの反発が垣間見えたことを提示する。しかし、結論は大学紛争の一側面に過ぎない。大学生たちのメリトクラシーへの反発に影響を与えた社会思想についての考察は余白の関係上、今後の課題として残った。この課題については、社会学史・知識社会学といった分野から考察できる可能性があると筆者は考えている。 最後になるが、本研究の意義は戦後日本の学生運動を巡る社会史・教育史研究における新視点を提供することである。メリトクラシー批判という視点は、社会学においても教育学においても外せないものとなるであろうと筆者は考えている。何故なら、社会化される個々人が自身らの能力が社会において正当に評価されていないと感じた時、暴力的衝動に駆り立てられるということを問題視しなければいけないからである。

報告番号401

Whom Do Repressors Target in Social Networks?――A Structural Network Analysis of the Forced Migration of Indigenous Tribes in Colonial Taiwan, 1931-1944
中央研究院社會學研究所 江彥生
Yale University Hsiao Yuan

Repression against insurgent collective action is prevalent in authoritarian contexts. Scholars have long suggested that social networks are related to strategic targets of repression, yet research has seldom theorized or empirically tested how structures of social networks are associated with who gets targeted in repressive contexts—a gap partially attributable to the high data requirements of such studies. Drawing from theories of structural network positions and social diffusion, we develop testable propositions regarding how three structural network positions—degree, local clustering, and brokerage—relate to repression. We test these propositions using unique data from Taiwan under Japanese colonial rule in the early 20th century. Following a large indigenous armed uprising in 1930, the Japanese forced indigenous tribes to relocate, documenting the close network relationships among these tribes in detail. We leverage tribal network data and historical documentation to conduct a mixed-methods study incorporating regression models, computer simulations, and qualitative analyses. Our quantitative findings indicate that local clustering, but not degree or brokerage, is associated with repressive migration. That is, repressors tend to break down tribes that are highly connected to one another in cliques. Surprisingly, tribes taking important positions in bridging social networks, such as nodes with high brokerage values, are not removed. To further understand whether the relocation made by the government truly dismantles the social cohesion of the aboriginal tribes, we make a social diffusion model following the threshold modeling to compare the level of mobilization before and after the changes of the social network. Our simulations demonstrate that this type of repressive migration effectively dismantles collective action mobilization. Qualitative analyses reveal that, rather than targeting individual tribes, the Japanese targeted and collectively relocated cliques of tribes that were geographically proximate, had hierarchical relationships, or were connected to tribes involved in collective action. We discuss the implications for research on repression, collective action, and network dynamics. Our paper contributes to scholarship by applying scientific methods to infer evidence of historical incidents where the intentions of repressive regimes are difficult to determine. Repressive migration, inherently political, is more likely to be concealed than disclosed by governing authorities. Given the secretive nature of such practices, it is unsurprising that no historical records explicitly document the use of interventive migration for political purposes. Here we use quantitative methods like statistical regression and network simulation to scientifically estimate the likelihood of such repressive migration occurring. While impossible to validate, the revelation may fill the gap in historical imagination.

報告番号402

感情労働への期待・疎外と感情的負担――在日外国人の職場経験に関する質的分析
立命館大学大学院 WEIQINGYU

本研究は、日本において外国人がコンビニエンスストアや飲食店で勤務する際に、感情労働の側面からどのような問題が生じるのかを考察することを目的とする。 近年、感情労働は多くの職種において不可欠な要素となっているが、日本における研究は医療・介護職などに偏っており、その実態を十分に捉えているとは言いがたい(山本・岡島,2019)。こうした偏在を是正するため、久村・大塚(2023)は、多様な職種や属性を含む視座の拡張を提起している。一方、厚生労働省(2024)によれば、同年10月時点で日本における外国人労働者数は2,302,587人にのぼり、そのうち約23%が卸売・小売業や飲食サービス業に従事している。実際、コンビニエンスストアや飲食店における外国人従業員の増加が身近にも見られる。これらの職場は、来日直後や日本語能力が十分でない外国人にとって就労のハードルが低く、実際に多くの外国人が勤務している。また、接客を伴うことから、一定の感情労働が求められる点でも注目に値する。 以上の研究および社会的背景を踏まえ、筆者は中国本土出身者12名、台湾出身者1名の計13名の在日外国人を対象に、彼らが経験した計19件の異なる就労経験について、中国語による半構造化インタビュー調査を実施した。本研究は、彼らの語りに対する分析を通じて、感情労働の側面から明らかとなった三つの知見および問題点を、以下に示す。 (一)求められない日本語力・柔軟性 調査対象者は、日本語の熟達した使用や柔軟な接客対応に一定の困難を感じている。一方、管理者や顧客も彼らにこれらの能力をあまり求めておらず、日本人労働者に対する感情労働期待とは明確な差がある。 (二)感情労働への関与の希薄さ 外国人労働者は主に厨房や夜勤、日本人労働者は接客や昼勤といった労働を担う傾向があった。マニュアルや職場慣行といった感情労働の基準は存在するものの、管理者や顧客はそれを外国人労働者には緩やかに適用する傾向があり、その結果、外国労働者は感情労働から一定程度疎外されている。 (三)感情的負担の二重性 調査対象者全員が「金銭的報酬」より、「日本語の練習」や「日本文化の体験」を就労の主な目的としていた。そうした者は、感情労働を期待されていなくても自発的にそれをより良く遂行しようとし、過度の感情的な消耗を抱えるケースも見受けられた。また、外国人従業員が対応困難な場面では日本人従業員に交代する職場慣行があり、日本人従業員側の感情労働負担が増す可能性が示唆された。 【文献】 山本準・岡島典子,2019,「わが国における感情労働研究と課題―CiNii登録文献の分析をもとに」『鳴門教育大学研究紀要』34:237-251. 久村恵子・大塚弥生・山口和代,2023,「感情労働化する社会における感情労働の特徴とその効果」『南山経営研究』37(3):283-305. 厚生労働省,2024,「『外国人雇用状況』の届出状況表一覧(分和6年10月末時点)],厚生労働省ホームページ,(2025年6月16日取得,https://www.mhlw.go.jp/content/11655000/001389463.pdf)

報告番号403

声の感情労働――コールセンターに注目して
立命館大学 﨑山治男

本報告はコールセンター業務への質的調査を元にし、音声を媒介とした感情労働の特徴をそこでの相互行為の技法・心理的効果・抵抗に注目しながら論じることを目的とする。 あるのは、感情規則(feeling rule)という概念である。これは、個々人の感情と相互行為の文脈との間の適切性/不適切性を指し示す規則であり、感じるべき感情について、成員に共有された規則である(Hochschild,1979,pp.563-564)。また、それに即して自己の感情経験の表出・保持を操作することが感情管理(emotion management)であり、そのための手法が感情ワーク(emotional work)とされる。その内訳として、表面上感情規則に合わせる表層の行為(surface acting)と、内面も感情規則に合わせる深層の行為(deep acting)がある。 その効果は、感情管理を自律的におこなう中で自己像を形成し、相互行為での立ち位置を確認することにある。他方で、感情管理が労働場面において他律的に課され、自身が感じている感情と職務上感じるべき感情とのズレである感情的不協和(emotional dissonance)が生じうる場を感情労働(emotional labor)とし、そこで自らの意に反した感情管理をおこなうストレスや、自己像の不安定化等の否定的な効果が強調された。 その上で、フライト・アテンダントと電話による借金の集金人への質的調査を試み、それぞれ肯定的な感情と否定的な感情を職務上表さなければならない典型例とし、主として前者の精神的な負荷を論じた。このように、感情労働という概念が提出された当初から、音声のみによる感情労働の例は指し示されていた。しかしそれは否定的な感情表出をおこなう意味と技法に留まり、それ以上の考察は正面からなされてこなかった。 しかし、まず原理的に考えてみるならば本報告で取り上げる上げるコールセンター業務のように肯定的な感情表出をおこなわなければならない音声による感情労働もあるはずである。また、それを相互行為の文脈で捉えるとするならば、身体の振る舞いや視覚といった要素、相互行為を支える様々な小道具が存在しないために自ずと感情労働における感情規則やそれを受けた相互行為の技法や効果も異なってくるはずである。 だが、これまでの研究では管見した限りではホクシールドの研究の他では、対面状況と比較して、音声のみの感情労働の方が精神的な負荷となりうるという指摘がある程度である。(Kinman,2009等)。また国内外のコールセンターの感情労働研究においても空白地帯である。 本報告が注目する第一の点はここにある。音声という限られた手がかりの中で感情労働が、どのような技法で遂行され、どのような効果を顧客と労働者に与えているのかを分析することを通して、声による感情労働の特質をつかむことを目指す。 その上で、音声に特化した業務であるコールセンター業務での感情労働の分析を通して量的調査とは異なり、質的調査をベースとした感情労働の技法を示すことを第二の目的とする。

報告番号404

個人VTuberとしての労働――「何者か」になるための過重労働と搾取の体制
一般企業 﨑山航志

本報告では、VTuber(バーチャルYouTuber)として活動する者のなかで、企業が運営する事務所に所属していない者(「個人勢」と呼ばれる)に対象を絞り、その労働の在り方と、本人らによる労働への意味付けについて論じる。 VTuberは、趣味の一環として活動に取り組む者が多数いる一方で、VTuberとしての活動とそれに付随するクリエイティブな活動によって生計を立てている者もいる。また、企業が運営する事務所に所属してサポートを受けながら活動する者もいれば、ブランディングや営業、商談を含む全ての活動を個人で行っている者もいる。こうした多様な在り方のなかで、とりわけ個人での活動を通して生計を立てている者は、長時間にわたる労働に駆り立てられ、それでいて安定した収入を得ることができず、結果として安定した生活を営むことが困難な状況に置かれている場合がある。そのような活動者は、いかにしてVTuberという職業にたどり着き、自身の置かれた過重労働の状況をどのように捉えているのか。本報告では、こうした問いについて検討する。 結論を先出しすると、クリエイティブな志向を持ちながら、定職に就くことができなかった者が、VTuber活動によって生計を立てる道を選択するケースが見られる。そして、長時間かつ不安定な労働生活に置かれてもなお、クリエイティブな自己実現を目指し、また、ファンとの関わりのなかで得られる承認を求めて、活動を継続している。無論これは、あらゆる活動者に対する包括的な説明というわけではないが、とりわけフリーランス的労働者にまつわる社会学的研究の一事例として、興味深い示唆があると考えている。 本報告は、筆者が2024年度に神戸大学大学院人文学研究科に提出した修士論文を土台として作成されている。そのため本報告においては、筆者が2023年から2024年にかけて実施したインタビュー調査の結果が参照される。調査では、特に対象を絞ることなく、VTuberとして活動する者全体を対象としたアンケート調査を行い、広くインフォーマントを募ったあとで、協力の申し出に応じていただいた数名に対してインタビュー調査を実施した。今回は報告時間の都合から、実際に調査を実施したなかから、さらに対象を絞ってデータをまとめ直し、報告を行う。 なお、本報告における主題は、先述の通り個人で活動するVTuberであるが、必要に応じて事務所所属VTuberの事例や、企業・業界の状況についても紹介する場合がある。

報告番号405

労働者は誰を目指すのか?――航空会社における,自己啓発を事例としたインタビュー調査研究
成蹊大学大学院 神野久美子
成蹊大学 小林盾
成蹊大学 那波泰輔

【1.目的】 この報告の目的は,労働者が自己啓発をおこなうとき誰を目指すのか,というリサーチクエスチョンを解明することである.自己啓発とは,労働者がキャリア形成を目的とし,自分の意思で就業外の時間を使って,時間,労力,金銭などを自分に投資することをさす.労働者がキャリア形成を目的に自己啓発をおこなうことを踏まえれば,目指すのはキャリア形成のあとにまつ,あるべき自分の姿である.そうした目指すべき姿は,そのモデルがいないかもしれないし,いるかもしれない.そのため,「労働者が自己啓発を行うとき,具体的な目指す人はいるだろう」という仮説を検証する. 【2.方法】 大手航空会社A社を事例として,14人に半構造化インタビューをおこなった.インタビューは2021年から2025年に,インタビューガイドを作成のうえ,1人につき原則として複数回実施された.原則として対面だが,オンラインでも実施した.分析の対象者は,自己啓発を行ったことのある正社員11人とし,職種や性別ができるだけ多様となるようにした.自己啓発した結果キャリア形成を達成した事例のうち,特徴的な4人を分析する. 【3.結果】 調査者が自己啓発についてインタビューをするなかで,目指す人物について質問していないにもかかわらず,Bさんは「○○さん(先輩名)みたいな人柄で英語ができたら,フライトでもいいチームが作れると思うんだ」と発言した.またCさんは「○○部長(上司名)はとにかく合理的.説明,結論が分かりやすく,説得力がある」と発言した.一方Dさんは「当時のリーダーやマネージャーが財務の説明をするときに,この人分かってんのかなと思いながら聞いてたんで,自分で勉強しようと思って」と返答した.これらの発言から労働者には,自己啓発を行うとき,ほぼ全ての調査対象者に目指したいモデルがおり具体的だった.さらに反面教師として目指したくない人物もいた.これは想定外であった. 【4.結論】 分析の結果,仮説はおおむね支持された.労働者は,自己啓発を行うとき,目指したい上司や先輩がいた,さらに目指したくない上司や先輩もいたのは新たな発見だった.先の研究において,カッコよさという主観的なものをモチベーションとし自己啓発をおこなう労働者がいることが分かり,カッコよさを構成する主たる要素は高い専門性であった.その専門性を発揮している上司や先輩を目指し,発揮していない上司や先輩を目指さなかった.また労働者の目指すキャリアに応じて,求める専門性には違いがあり,それは組織マネジメントに求められるものと業務マネジメントに求められるものとに特徴が分かれた.ただし,今研究は航空業界のケースである.他の産業,職業にも研究の範囲を広げることが必要だろう.

報告番号406

“Circling the Wagons”: Social Perceptions and Stigma Among Investment Bankers in Japan
東京大学大学院 ベドウジェイ マイケル

This study delves into the social identity construction of investment bankers in Japan, examining how they navigate societal stigma, cultural expectations, and occupational challenges. Through fourteen in-depth interviews, it becomes evident that these elites face identity challenges despite their relative wealth and privilege. The findings underscore the interplay between global financial dynamics, such as the 2008 crisis, and uniquely Japanese themes, including cultural aversion to wealth and suspicion of foreignness. These factors shape how investment bankers perceive themselves and their work within a broader societal context. Participants believed a strong group identity, reinforced by traits like aggression and toughness, was essential for success. However, they also experienced societal disapproval and a sense of “otherness,” particularly those with foreign education or experience. The perceived stigma, amplified by media portrayals and the financial crisis, complicates their professional identity. Many noted that negative societal perceptions, such as being labeled “foreign mercenaries” or being blamed for economic downturns, significantly influenced their experiences. This study employed a descriptive phenomenological methodology to investigate how senior investment bankers in Japan construct social identities and respond to occupational stigma. Using purposive and snowball sampling techniques, fourteen high-earning professionals with substantial industry experience were selected for in-depth, semi-structured interviews in English or Japanese. The analysis followed a simplified version of Moustakas’s phenomenological method, involving iterative coding and thematic clustering to elicit key patterns in identity formation, challenges, and coping strategies. The study prioritized participants’ subjective perspectives, extensively using direct quotations to preserve the richness of lived experience. Ethical considerations centered on ensuring confidentiality within a small and elite professional community. The theoretical framework of this study employs social identity theory to examine how individuals categorize themselves into groups based on shared experiences or traits. This framework elucidates how investment bankers develop a collective identity in response to perceived societal stigmatization. To cope with identity challenges, investment bankers employed various strategies. Some reframed their demanding work environment as necessary for building resilience, while others focused on financial rewards or emphasized societal contributions. When coping mechanisms failed, some chose to leave the industry entirely. The study highlights the complexity of identity formation in a challenging profession and the diverse ways individuals manage the tension between societal judgment and occupational group membership. The complex interplay between global and local influences shapes the occupational identity of investment bankers. While the financial industry operates within an inherently international framework, participants highlighted universal challenges, such as stigma and moral taint, and distinctly Japanese dynamics, including cultural aversion to disrupting societal harmony and unease with apparent wealth. These findings reveal how global events and domestic cultural expectations shape identity and coping mechanisms. Ultimately, this research broadens our understanding of elite identity formation by highlighting universal strategies and culturally specific nuances in dealing with identity challenges.

報告番号407

葬祭関連業務を担う人々の死別体験と就業経験の捉え方――葬儀業界で働く人々への調査から
名古屋学院大学 玉川貴子

1.目的 これまで高齢者就業に関する研究では、日本における定年制を問題としながら高齢者雇用推進のための高齢者が望んでいることを探るため、年収の変化や仕事の満足度やニーズなどを探ってきた(永野2021)。しかし、仕事の満足度は、仕事そのものというよりも条件の満足度になりやすい。高齢期においても同様の面があるが、中高年期では定年や病気、死別など喪失に関するライフコースイベントが発生しやすい。そうしたライフコース上のイベントと就業経験に着目した社会学的な視点からの研究が必要とされていると考えられる。 本研究の目的は、慢性的な労働力不足に陥る地域密着型サービス業としての葬儀業において、高齢期で働く人々へのインタビューならびに質問紙調査によるライフイベント——具体的には死別体験——と就業経験の捉え方に着目する。これまで、国内の葬儀業者の死別体験に着目した研究は、管見のかぎりほとんどないと考えられる。死別体験に着目することで、死にかかわる仕事やその経験の捉え方が、これまで満足度につながりにくいと考えられている葬儀業の仕事内容に影響を及ぼす可能性などが考えられる。本報告では、高齢期におけるライフイベントと就業体験の両者を架橋する労働者の捉え方を探索する。このことにより、高齢者雇用に必要な支援のあり方を考察する。 2.方法 2024年から2025年にかけて葬儀業界で働く55歳以上の従業員への量的調査と65歳以上の従業員への半構造化インタビューを実施した。インタビュー資料をベースとしながら量的調査のデータを用いて、死別体験と葬儀に関する捉え方について考察する予定である。 3.結論(結果) 葬儀業界で働く55歳以上の人々も近親者との死別体験を経験している人は多い。このことは、死別体験時、何らかの就業経験があるということでもある。葬儀業界で働く人々は、自らの死別体験時に就業経験が活かされていると考えていることも判明した。今後は、地域的慣習の業務遂行にとどまっていると思われる葬儀業者の死別体験というイベントが具体的にどのように活かされうるのかなどについても視野にいれていきたい。 【付記】本報告はJSPS科研費(23K01762)による助成をうけた研究成果の一部である 【文献】 安藤究,2008,「生命保険エージェントの女性化に関する試論」渡辺深編『新しい経済社会学』,上智大学出版,38-82. 久木元真吾,2022,『生命保険の社会学』みらい. 嶋根克己・玉川貴子,2011「戦後日本における葬儀と葬祭業の展開」『専修人間科学論集』,93-105 玉川貴子,2024,『葬祭業』平凡社. 永野仁,2021,『日本の高齢者就業』中央経済社.

報告番号408

マネジメントの仕事はいかにして創造的表現に関わるのか――アニメ産業における制作進行のワークの分析
長野大学 松永伸太朗

【1.目的】 本報告では、日本のアニメ産業で働く制作進行の仕事に着目し、一般に創造的表現にかかわるクリエイティブ職には分類されない、現場のさまざまなマネジメントを行う労働者が、いかにして表現にかかわっているのかを検討する。クリエイティブ労働論では、マネジメント職の仕事が創造的表現への関わりから疎外されている側面と、一方で当事者自身が創造的表現を産出する一員として取り込まれる経験の両面が指摘されてきた(Siciliano 2020)。これに対して本報告はあくまで当事者がマネジメントの仕事として行っている一連のワークが、どのようにして創造的表現に関わっているのかに焦点を当てる。 【2.方法】 アニメ制作会社Y社において、2023年から2025年にかけて合計200時間のフィールドワークを行い、フィールドノートにY社メンバーの行動や会話などを記録するとともに、仕事の様子などについてビデオカメラでの撮影を行った。本報告では制作進行が行うアニメーターの割り当てや修正作業(リテイク)に関する打ち合わせ場面を、マネジメントによる創造的表現への関わり方がメンバーにとって問題となる「明白な場面」(Garfinkel and Wieder 1992)の一つとして分析する。 【3.結果】 制作進行は作品制作に必要なアニメーターを割り当てるにあたって、必要な人数を集めるだけではなく、アニメーター個人や制作会社がもつ力量やスキルに関する知識に基づいて、適切なシーンに適切なアニメーターを割り当てることを考慮していた。こうした考慮はシーンにおける表現内容への理解を前提としつつ、作業工程が円滑に進行するかといった制作進行の本来的な業務と関連して行われていた。リテイクに関連しては、制作進行自身が作品表現上のミスを修正する段取りに関わっており、より明確に制作進行の立場で創造的表現に関わる契機がある仕事として行われていた。こうした契機を活かすことは制作進行のキャリア形成にとっても重要なものとして扱われる一方で、創造的表現への関与に消極的な態度をとる制作進行が逸脱的とみなされることはなく、第一義的には制作進行はマネジメント職であるという規範的理解が維持されていた。 【4.結論】制作進行が行っているマネジメントのワークには、クリエイティブ職が生産している表現やそれを可能にするスキルや状況についての判断が常に伴っており、そうした判断のなかには最終的に受け手が視聴する表現に影響しうるものが含まれていた。この意味で制作進行は創造的表現に関わる仕事をしているが、それはあくまで第一義的にはマネジメントとして行われている業務のルーティンの範囲で行われているものでもあった。このことは、創造的表現に関わるマネジメント職をクリエイティブ職でもありうるものとして承認していくのとは別に、マネジメント職そのものとして承認していく回路の必要性を示唆している。 【参考文献】 Harold Garfinkel, D. Lawrence Wieder, 1992, “Two incommensurable, asymmetrically alternate technologies of social analysis”, In Text in Context: Contributions to Ethnomethodology (Graham Watson, Robert M. Seiler, eds.), Newbury Park, Sage Publications, pp. 175–206./Siciliano, Michael L. 2020. Creative Control: The Ambivalence of Work in the Culture Industries. Columbia University Press.

報告番号409

公正教育を通してインターセクショナリティを再考する
釧路公立大学 村上沙織

ブラックフェミニズムから生まれた「インターセクショナリティ」という概念は、相互に形成し合う差別や不平等を可視化するフレームワークであり、承認の可能性を奪われてきた人々を支える思想でもある。英語圏において、この概念は学術研究で広く使われてきたのみならず、「抑圧のマトリックス」として具現化され、社会運動や政策立案に影響を与えてきた。2020年以降日本においては、公正な社会の実現に寄与することを志す社会学者がインターセクショナリティ概念を重要な軸に据えて、社会的不平等の考察に取り組んできた。  発表者は、本概念を方法論として用いたダイアン ・ グッドマンの『真のダイバーシティをめざして(2017)』を拠り所にし、公正教育を地域のNPOと協働して実践してきた。その過程で、「抑圧のマトリックス」の性差別(sexism)軸、すなわち男性はその性別ゆえに社会的特権を享受する一方で女性は抑圧され不当な差別や不利益を被るという議論は、現代日本に当てはまらないのではないか、という意見が多くの学生から寄せられた。それをふまえて本研究は、ブラックフェミニズムの思索を起源とするインターセクショナリティ概念が、現代日本という文化的・時代的に異なる文脈でどのような形を取るのかを調査する。  本研究は男性が被る性差別への理解を深めるために、デイビッド・バーナーの『The Second Sexism第二の性差別(2012)』を参照した。バーナーによると、男性が性別故に被る不当な差別、すなわち「第二の性差別」は、男性囚人の多さ、男性の身体的プライバシーの侵害、家庭内・性暴力の男性被害者への不当な扱い、父親が親権を取ることの難しさ、男性自殺率の高さ等の領域で観察される。そして、日本においても「第二の性差別」が存在しているかを統計データと先行研究を通して調査したところ、男性囚人の多さ、家庭内・性暴力男性被害者への不当な扱い、高い男性自殺率が確認された。  次に大学生にアンケートと半構造化インタビューを行い、性別故に不当な扱いを受けた経験について調査を行った。女子学生がしばしばセクハラ被害にあったり、行動に制約を受けることがある一方で、男子学生は身体的プライバシーの侵害を被ったり、男だから頑張れと叱責されたり、親権争いにおいて父親が不条理な判決を受けていることを経験していることが分かった。つまり、女性に対する性差別は未だ解消されていないことに加え、特定の領域においては男性が性別故に不当な扱いを受けていた。また、男らしさ・女らしさの規範から外れた学生は、からかい・非難・排除を経験していた。  調査結果は、「抑圧のマトリックス」の性差別軸を現代日本に当てはめる際には、繊細な解釈と当事者との対話が必要であることを示唆している。そして、性差別解消のためには、別個と考えられてきた女性運動と男性運動が連帯し、ジェンダーに起因する性差別に取り組む必要性も示唆している。インターセクショナリティ概念が公正な社会実現に寄与するためには、コリンズ&ビルゲ(2021)が『インターセクショナリティ』で主張するように、「男女」というカテゴリーとその意味を多様な当事者との対話を通して問い直し、ブラッシュアップしていくことが重要なのではないだろうか。

報告番号410

日本のジェンダー理論におけるインターセクショナリティ概念の可能性
武蔵大学 千田有紀

近年のジェンダーやフェミニズムをめぐる議論において、インターセクショナリティは間違いなく鍵となる概念である。そこでインターセクショナリティという概念はジェンダー理論にとって何をもたらし得るのかという問いは当然としても、なぜインターセクショナリティという概念がジェンダーの学問分野にとって必要とされ、受け入れられてきたのかという問いもまた、必要とされるだろう。  インターセクショナリティという概念は、キンバリー・クレンショーによる「人種と性の交差点を脱周縁化する―反差別の教義、フェミニスト理論、反人種差別政治に対するブラックフェミニスト批評」(1989)論文が皮切りとされている。クレンショーの論文を読めば、アメリカでインターセクショナリティという概念が必要とされた背景は、非常に明白である。アメリカはその建国当初から奴隷制を下敷きにして「発展」してきた国であり、人種差別が社会のシステムに深く刻まれている。  クレンショーは論文で、裁判闘争において「黒人の女性」が雇用において差別を受けているという事実を明らかにすることが、困難である事例を複数あげている。「黒人として」差別を受けたと言えば、黒人男性は雇用されているではないかと言われ、「女性として」差別を受けたと言えば、白人女性は雇用されていると言われる。「黒人女性は女性差別を受けている」と言えば、「あなたの経験は、女性の経験なのか」と言われる。女性が暗黙の裡に、白人女性だけを指しているからである。黒人差別についても、黒人男性が黒人を表象しているために、同様の事態が引き起こされる。やっと「黒人女性として」差別されていることが認められると、黒人男性が差別されているとはみなされなくなる。クレンショーが、交差点で車の事故が起きたときに、どちらの方向から来た車のせいであるとどうやったら特定可能であるのかといらだつのは当然である。インターセクショナリティという概念が必要とされた経緯は、非常に納得のいくものである。そこにはアメリカで生きる黒人女性の苦難の歴史が刻まれている。  こうしたインターセクショナリティ概念を日本の文脈で考える際には、何が必要とされるのか。インターセクショナリティ概念自体を知識社会学的に検討したのちに、日本におけるインターセクショナリティ概念のありかたについても検討したいと考えている。 参考文献 Crenshaw, Kimberle ́. 1989. “Demarginalizing the Intersection of Race and Sex : A Black Feminist Critique of Antidiscrimination Doctrine, Feminist Theory, and Antiracist Politics.” University of Chicago Legal Forum 1989:139–67.

報告番号411

インターセクショナリティ概念再考――カテゴリの構築性をどうとらえるべきか
一橋大学大学院 児玉谷レミ

第二波フェミニズムは、白人中産階級の女性の抑圧があたかもすべての女性に共通する抑圧であるかのように扱ってきた――こうした批判を鋭く展開したブラック・フェミニズムは、より複雑で多様な抑圧の形態を捉えるための視座として、インターセクショナリティ概念を生み出した。人種やジェンダー、階級といった複数のカテゴリが重なり合って生み出される抑圧を解明することを重要視する研究者やアクティビストは、しばしばこのインターセクショナリティを拠り所としてきた。これに対し、本報告では二つの主張を提示する。第一に、社会問題に対するある主体の複雑な立ち位置を描き出す方法として、インターセクショナリティが最良かどうかは議論の余地がある。これを検証するべく、本報告ではトラウマの発話可能性について論じるために考案された宮地尚子(2007)の環状島と、インターセクショナリティの語を初めて明示的に用いた法学者のキンバリークレンショーの交差点のメタファー(Crenshaw 1989)を比較する。出自が全く異なるこの二つの概念であるが、抑圧の複雑性を捉えることを目的としている点や現実の社会問題を出発点としている点で共通するところも多く、比較は十分可能である(詳しくは報告で述べる)。本報告では、環状島概念はアイデンティティの投企的側面や、ポジショナリティの問題、複数の環状島の形成、可視的ではないカテゴリの問題などを扱っているため、ある社会問題に対する主体の複雑性をインターセクショナリティよりも包括的に捉えることができると考える。しかし報告者は、こうした比較によってインターセクショナリティの概念が無意味だと主張したいのではない。この二つの概念の比較検討から明らかになるのは、カテゴリの構築性をどの程度読み込むかに関して両者の前提が大きく異なっており、ブラック・フェミニストたちは「黒人女性」というカテゴリの構築性を拒絶ないしは想定していない可能性がある、ということである。このことは、マイノリティ属性を持つ社会的カテゴリの構築性をどの程度読み込むことが、社会正義的な観点からどの程度妥当かという問題とも関連するだろう。そこで、第二の主張として、インターセクショナリティ概念に依拠し議論する者は、カテゴリの構築性をどう捉えるかという問いをあわせて考える必要があると述べる。インターセクショナリティに関する議論は、しばしば特定の立場を暗黙理に採用しながら進められてきたのではないだろうか。こうした状況は議論の前提の共有の失敗をもたらし、混乱を招きかねない。たとえばインターセクショナリティの方法論について論じたレスリー・マッコールは、分析カテゴリを脱構築しようとするポスト構造主義的な立場と、主にブラック・フェミニストたちが依拠するカテゴリの安定性と持続性を認める立場が誤って同一視される傾向があると論じている(McCall 2005)。こうしたマッコールの指摘にも依拠しつつ、報告の後半では第二の主張について議論を展開していく。【参考文献】Crenshaw, Kimberle, 1989, “Demarginalizing the Intersection of Race and Sex,” University of Chicago Legal Forum, 140: 139-167. McCall, Leslie, 2005, “The Complexity of Intersectionality,” Signs, 30(3): 1771-1800. 宮地直子,2007,『環状島=トラウマの地政学』みすず書房.

報告番号412

カテゴリー概念を再考する――フェミニスト批判的実在論を用いた理論的検討と経験的研究への展開
一橋大学大学院 永山理穂

インターセクショナリティ研究は、ジェンダー、人種、階級といった社会的カテゴリーが織りなす複合的な不平等を分析する上で、カテゴリーをいかに扱うかという問題に直面してきた。Leslie McCall(2005)は、インターセクショナリティ研究におけるカテゴリーの扱いに関して「反カテゴリー的」「カテゴリー内的」「カテゴリー間的」アプローチに類型化し、論点を整理した。反カテゴリー的アプローチがカテゴリーの脱構築を試みるのに対し、カテゴリー内的アプローチはKimberlé Crenshaw(1989)の黒人女性の経験分析に代表されるように、特定の交差的位置における経験の独自性とカテゴリーの不可分性を重視する。他方、カテゴリー間的アプローチは、既存のカテゴリーを用いて不平等の構造的パターンを比較分析しようと試みる。これらの潮流の中で、Nira Yuval-Davis(2006)は、構造、アイデンティティ、表象の分析水準の混同を批判し、各カテゴリーが独自の存在論的基盤を持つことを前提とした分析的明確性を追求した。この方針はカテゴリー間的アプローチが目指す構造分析と問題意識を共有する側面もあるが、Yuval-Davisは各カテゴリーの存在論的独立性と分析レベルの区別を徹底することでより厳密な理論的基礎づけを目指した。対照的に、Floya Anthias(2008)はカテゴリーの固定性を批判し、translocational positionalityという概念を提唱した。これは、カテゴリーを文脈や状況に応じて流動的に変化する社会的位置取りとして捉え、その動態性と柔軟な活用可能性を強調するものである。これらの理論的蓄積を踏まえ、Lena Gunnarsson(2017)は、フェミニスト批判的実在論(Feminist Critical Realism, FCR)に依拠し、unity-in-differenceという新たな弁証法的視座を提示した。FCRは、客観的実在(存在論的実在論)を認めつつも、その認識の社会性・可謬性(認識論的相対主義)を認める哲学的立場である。unity-in-differenceの核心は、Yuval-Davisが強調したようなカテゴリー間の構造的区別と相対的自律性(「差異」)を、各カテゴリーが独自の因果的効果を持つという「因果的基準」に基づいて認めつつ、同時にAnthiasが注目したようなカテゴリーの文脈依存的な流動性、相互構成性、そして具体的な社会現象や経験における不可分な作用(「統一」)を統合的に把握する点にある。Gunnarssonは、カテゴリーが抽象レベルでは分析的に区別可能でありながら、現実においては相互に浸透し合い、一つの経験や現象として立ち現れると主張し、二者択一的思考を超えた弁証法的な解決を構想しているのである。本報告は、Gunnarssonのunity-in-difference概念がいかに質的・量的研究に対して具体的な方法論的示唆を与えられるかを論じる。インターセクショナリティ研究におけるカテゴリー概念の理論的深化を図るとともに、新たな方法論的展開を示すことを目指す。

報告番号413

クィア移住の再定位――トランスナショナルな生きられた経験からインターセクショナリティを再考する
一橋大学大学院 孟令斉

本報告は、報告者のフィールドワークの事例を通じてインターセクショナリティを再考する。報告者は2022年より、日本に移住した中国出身の性的マイノリティを対象に、出身国もしくは移住国を一方的に受容するのではなく、移動を通じて双方に関与し、越境的社会運動を模索する様子について調査研究を展開してきた。従来の国際移住研究では、ジェンダーとセクシュアリティの観点は必ずしも可視化されてきたとは言えない。1990年代に登場したクィア移住研究は、ジェンダーとセクシュアリティの視点を大事にしつつ、人種、ジェンダー、階級、障害等の要因によって差別が交差する様相を捉え、移住にまつわる過程に埋め込まれる国家統治の力学を可視化しようとしてきた。つまり、クィア移住研究において、インターセクショナリティは常に重要な視点であり続けてきた。  さらに、移民は、出身国から切り離される存在ではなく、出身国と多様な形で関与しながら、移住国との間を行き来することに着目するトランスナショナリズムは、クィア移住研究に重要な知見をもたらす視角と言える。トランスナショナリズムとインターセクショナリティの架橋を試みたVillalobos(2023)は、文脈に即したインターセクショナリティを用いることで静的な権力関係の理解を超え、国境間の相互関係を射程に入れる必要性を指摘した。その際にVillalobosが問題視するのは「都市/農村」の二項対立をめぐり、「落後した農村」と「進歩的な都市」を引く境界線である。本報告はこうした問題意識を引き継ぎ、中国から日本へ移動した性的マイノリティの移民の事例を通じて、クィアの移動においてしばしば自明視されがちである「遅れた出身国」対「進歩的な移住国」という図式を捉え直す。  インターセクショナリティは、国家内部の特定の事例に束縛される限界から、国境を越えた力学を十分に捉えきれていない(Patil 2013)ことを踏まえると、トランスナショナリズムの現象を考察するにいかにインターセクショナリティを援用するか、まだ鍛え上げる余地があると言えよう。そこで、人々のポジショナリティを動的な状態で捉える環状島モデル(宮地 2007)に接続を図り、個々人の生きられた経験が常に異なるイシュー化や環状島のあり方によって浮かび上がるありようを検討する。環状島モデルに依拠しつつ、交差的な経験をより豊かに記述することを模索する。フィールドワークの事例から、性的マイノリティの移民が単に「抑圧」され、もしくは「先進性を目指す」存在ではなく、そうした二項対立の捉え方におさまらない、異なる国家権力の間で揺れ動きながら、自らの生の可能性を交渉するダイナミックな実践を明らかにする。 参考文献 Patil, Vrushali, 2013, “From Patriarchy to Intersectionality: A Transnational Feminist Assessment of How Far We’ve Really Come,” Signs: Journal of Women in Culture and Society, 38(4): 847-867. Villalobos, Roxanna, 2023, “Reimaging Intersectionality Via the Rural-Urban Borderlands,” Nash Jennifer C, Pinto Samantha eds., The Routledge Companion to Intersectionlities, London: Routledge. 宮地尚子, 2007, 『環状島=トラウマの地政学』みすず書房.

報告番号414

多様性と複数性の交差――アーレント思想からフェミニズムをひらく
東京大学 橋本摂子

アーレントとフェミニズムの距離はさほど近くない。公私領域を互いに不可侵の硬直的な区分とみなしたアーレント思想は、70、80年代の第二波フェミニズム初期の人びとからは強い疑義が示された。1990年代以降、世界的なアーレント研究の興隆を背景に、アーレント思想とフェミニズムの間にいくつかの架橋が試みられる。主にはアーレントの構想する公的空間を言説空間と捉え、公と私を分かつ境界線自体がその都度の熟慮と討議を必要とする政治=社会的な合意形成の産物であるとみなす、ハーバーマス的合意形成論へと接続された。結果として、アーレントの思想はリベラル・ポリティクスの延長上に配置され、討議(熟議)民主主義の文脈へと還元されていった。 しかしこうした表層的な統合はアーレントへの深刻な誤読にもとづくものといわざるをえない。アーレントは言論を含む政治全般を何かの手段とは考えておらず、彼女のいう「活動」や「判断」を合意形成プロセスに組み込む読解は無理がある。また、公的領域と私的領域の境界が話し合いで決まるという発想も、アーレント思想から導くことは難しい。フェミニズムがアイデンティティ・ポリティクスに立脚し、かつアイデンティティを(フィクショナルであれファクチュアルであれ)変更不能性から捉える限り、言論を超越する強制力を政治領域から徹底して排除するアーレント思想とは相容れないだろう。 ただし近年では、こうした硬直的なアイデンティティの捉えかた自体が徐々に後退しつつある。とくに近年あらわれたインターセクショナリティという概念は、単一なアインデンティティ・ポリティクス、引いては従来型のマイノリティ・ポリティクスの終焉を可視化する契機にもなった。アーレントの用語でいうと、単独で成立しうる「何」であるかよりも、人びとの関係性のなかで現れる「誰」であるかがより重要となる盤面へと移行しつつあるのではないか。そのとき、所与のルールを想定しない手すりなき思考は、フェミニズムの現状に示唆を与えられるだろうか。 以上の問いを踏まえ、本報告では、フェミニズムとアーレント思想との距離は、公私境界の定義よりもむしろ、多様性と複数性の違いに遡ることができることを提示したい。近年の多様性推進運動の来歴とその行き詰まりを通じ、多様性と複数性の距離、および両者の交差から、改めて多様性概念とは何であったのか、今後何でありうるのか考える。インターセクショナルな立場から、アーレント思想を再びフェミニズムへと接続する回路を探ってみたい。

報告番号415

キャラクターと消費者の価値観
立教大学 足立加勇

近年のマンガ・アニメにおけるキャラクターの重要性は誰もが認めるところであり、それゆえに、キャラクターは、議論の対象として繰り返し取り上げられる題材となっている。キャラクターの議論において、一つのマイルストーンとなったのが、伊藤剛の「テヅカ・イズ・デッド」である。だが、伊藤の「キャラ」と「キャラクター」という二つの観念をめぐる議論は難解であり、論者によってその解釈が大きく異なる。特に「キャラ」の観念をどう理解するかについては様々な見解がある。「キャラ」が多面性をもった観念だったこともあり、論者たちは、自分の関心事を「キャラ」と結びつけた。そして彼らは、持説を説明し、正当化するための手段として「キャラ」を用いたのである。  そのような「キャラ」理解の中で、近年、高い支持を受けるようになったのが、同一性(違う図版が同じキャラクターを描いたものに見えるという性質)に着目する議論であった。伊藤が「キャラの強度」を、同一性を作り出す強さとしたことにその根拠をおくこの説は、同一性がストーリーマンガを成立させるために不可欠なものであると考えられていたこともあり、キャラクターの本質にアプローチしうるものだと考えられたのである。そして、伊藤自身も、同一性の議論を参照することによって、自説の再検討と更新を行った。  しかしながら、伊藤の議論は、同一性だけでは説明しきれない要素も多々あり、伊藤の議論が広く注目を集めた理由も、その説明しきれない要素に含まれている部分が多い。そして、伊藤はそれを《いのち》という観念によって説明している。《いのち》とは、表象に対する認識の一部を指すものであり、その表象を見る人に生命の存在を感じさせるもののことを指す。その最も素朴な形は、単なる殴り書きが人の顔に見える現象である。絵を描く者にとってこの現象が発生した瞬間は、自分の描いた線が命を孕むという奇跡を起こした瞬間である。この奇跡が、《いのち》の観念の存在根拠となっている。  だが、《いのち》の観念は、「キャラ」というものが純粋な分析概念ではないことを、即ち、「キャラ」と「キャラクター」という二つの観念が、キャラクターをめぐる二つの価値観の対立に立脚するものであることを示していた。それは、キャラクターは現実の人間を表象するものであり、現実の人間と同様のものであるからこそ価値がある、という価値観と、キャラクターは現実の人間とは異なる存在であり、それは図像であるからこそ価値がある、という価値観の対立である。  この対立は、マンガ・アニメと現実の結びつきをどのように設定すべきであるのか、という問題であり、同時に、マンガ・アニメファンの間に存在する分断の原因と考えられるものである。伊藤の議論に代表される、表現論的なキャラクターについての議論は、マンガ・アニメを、あくまでもマンガ・アニメとしてとらえ、絵・コマ・ことばといった作品の構成要素を理論的に分析するものとなっているが、その理論の根底には、常にマンガ・アニメを消費する愛好者集団の嗜好と行動があり、それが議論の方向性を決定している。本発表は、キャラクターについての議論を、消費者集団が抱える価値観という観点から再整理を試みるものである。

報告番号416

アニメにおける「リアリティ」の社会学的考察――系譜における継承と革新・現実社会におけるブームとの関係
上越教育大学 小島伸之

1 目的  この報告の目的は,戦後日本におけるアニメーション作品(アニメ)における「リアリティ」の基盤について検討することである。 2 方法  社会学における「リアリティ」に関する研究は、主として知識社会学や社会構築主義の文脈で論じられてきた。本報告においては、「巨大ロボットアニメ」ジャンルの中で、『機動戦士ガンダム』(1979)が従来の作品に比して画期的に「リアル」な作品と評価されたことを手がかりに、その「リアリティ」の成立を映像エンターテイメント作品における継承と革新(系譜的考察)、及び現実社会における出来事との関係において考察していく。  系譜的考察においては、アニメにとどまらない他の映像エンターテイメントジャンル、特に特撮作品との関係を視野に入れることで、「リアリティ」の段階的発展を見出す。現実社会との関係においては、作品放映当時の現実社会における「ブーム」、映像エンターテイメントジャンルのマーケティングの観点に着目する。 3 研究内容  1950年代前半の『The Beast from 20,000 Fathoms(原子怪獣現る)』(1953)及び『ゴジラ』(1954)は、第二次世界大戦と水爆実験を背景に制作された「災害映画」であった。『ゴジラ』のヒットを受けて急遽制作された続編『ゴジラの逆襲』以降の「ゴジラシリーズ」は「怪獣ブーム」においては、怪獣と別の怪獣が戦うフォーマットが一般化する。怪獣映画の「プロレスフォーマット化」の背景に、1954年の「日本プロレス」旗揚げ以降の「プロレスブーム」との関係を指摘することができる。  『ウルトラマン』(1966)は、怪獣(ゴジラ)の代わりに人型の巨大ヒーローが怪獣と戦うというフォーマットを採用した。人類のために戦う存在を人型とすることで、相対的な「リアリティ」の向上を図ったのである。また、『ウルトラマン』は『ウルトラQ』(1966)の後継作品であるが、『ウルトラQ』は『トワイライトゾーン』(1959-)以降の「オカルトドラマ」の人気を背景に制作されている。  『仮面ライダー』(1971)も、(当初は)「オカルトドラマ」の要素を継承した作品であるが、ミニチュアセット撮影に要する多額の製作費を縮減するという制作上の観点から、「等身大」人型ヒーローとなったことで、「巨大」人型ヒーローに対して相対的な「リアリティ」を獲得している。  『仮面ライダー』とは異なる方向で『ウルトラマン』を継承した作品が『マジンガーZ』(1972)である。科学的に開発された巨大なロボットに人間が登場するというフォーマットによって、「巨大」な人型ヒーローの「リアリティ」をさらに相対的に高めた作品といえる。『マジンガーZ』の製作の背景には、1970年の大阪万博による「科学ブーム」の存在を指摘することができる。  『機動戦士ガンダム』は、『宇宙戦艦ヤマト』(1974)のヒットが社会現象化したことを背景に、仮想戦記のフォーマットを巨大ロボットアニメに採用した作品である。『機動戦士ガンダム』における戦争表象の「(相対的)リアリティ」の獲得は、「プロレスフォーマット」を表面的に継承しつつも、ストーリー展開において描写される戦争全体の展開を第二次世界大戦に擬したことによる。『機動戦士ガンダム』の「リアル」には、先行する「戦記ブーム」によって第二次世界大戦に関する知識が少年たちの「教養」となっていたことが指摘できる。

報告番号417

ファンによる組織的無償サポートの行動メカニズム――中国人「VTuber公式字幕組」の事例から
上智大学大学院 朱明昊

【1.背景】ファンが大量に金銭・時間を使い、様々な技法で特定の芸能人の事業展開や影響力の拡大のために能動的にサポートをすることは、今日「推し活」と呼ばれて市民権を得ている。従来のファン研究では、宝塚ファン、アイドル親衛隊などの事例に対する考察より、前述の行動をファンが無償で組織的に行い、業務の支援や自発的なコンテンツ制作まで及び、当該芸能人の事業に大きく貢献したケースも見られた。メディア文化、労働、マーケティングなどの観点からの関心が集まる一方、一部のファンが組織を作り、さらに無償でサポートをする理由、ファン・コミュニティにおける関係性、その存続を支えるメカニズムの解明は比較的に少ない。 【2.目的】本稿では、報告者がアクセスした、ファン組織によるコンテンツ制作と企画参画といった無償支援の効果が特に大きく、しかもきわめて多様な関係性の実態を示している近年の事例、日本人「VTuber(バーチャルYouTuber)」に対する中国人ファンが無償で運営する「公式字幕組」を取り上げる。そのファン組織としての活動実態、活動内容やメンバー同士をめぐる当事者の語りから、①ファン組織とコンテンツ生産側、消費側の関係性、②ファンによるコンテンツ制作(ファン労働)の位置づけ、③ファン・コミュニティの関係性を規定する「ファン資本」のメカニズム、④ファン組織の能動性とメディア運用の関係、といった点の探究を本報告の目的とする。 【3.方法】中国の動画サイト「ビリビリ動画」で日本人VTuber配信者の公式アカウントの活動を「公式字幕組」という名義でサポートしている各種「○○字幕組」組織を対象に、参与観察とインタビューを行う。参与観察は、報告者が2020年から参加してきた2つの「公式字幕組」で行い、また2024年に複数の「公式字幕組」の16人の参加者にインタビューを行った。またウェブアンケートを利用して、85人の公式字幕組参加者の情報・語りを収集した。 【4.考察】①「公式字幕組」とVTuber配信者及びそのスタッフチーム(=生産側)の関係性は、生産側の管理体制の状況とファンの関与がVTuberコンテンツの生産への編入の度合いをめぐる交渉の中で、特定のビジネスモデル=関係性パターンを呈している。この関係性の生成で、「VTuber公式字幕組」は一般のファンに対して「Superfan」というエリートの立場を手に入れることになる。②「公式字幕組」では、ボランティア精神などだけでは説明できない業務の範囲の拡大と影響力への能動的な追求があり、それは、「公式字幕組」でのコンテンツ制作活動(≒ファン労働)は、金銭的な支援と同等またはそれ以上の価値を有する「特別な応援技法」として説明できる。③応援における「貢献度」とコミュニティ内での「名誉」を指標に、「公式字幕組」と一般のファンのコミュニティ全体では、現実生活での諸資本と「VTuberファンの界」における文化資本、社会資本、象徴資本の転化と蓄積をめぐって序列化されたが不安定な秩序が作られている。④こうした「公式字幕組」の活動は、「Superfan」による「語学力」と「公式性」の能動的な運用で達成されたものであり、メディア産業との対抗では必ずしもなく、一般の人々・ファンの有志が参加したメディア・コンテンツ生産である。こうした関係性のメカニズムとメディア運用の連動は、英語圏における「Fan Studies」の理解とも一致している。

報告番号418

メディア・テクストのインターフェイス・デザインと「事実」の構成――NHK「子どもの貧困」報道とそれへの批判を手がかりに
日本大学 小川豊武

【1.問題】近年、既存マスメディアによるニュース報道が、必ずしも虚偽とはいえないにもかかわらず、インターネット上で「フェイク」と見なされ批判される事例が相次いでいる。本報告では、そのような「フェイク」批判の射程とその成立条件を明らかにするために、私たちがニュースを「事実」として見る実践、あるいはそれを「事実ではない」と批判する実践がいかにして可能になっているのかを分析対象とする。従来のフェイクニュース研究が偽情報の拡散メカニズムや政治的影響を中心に議論してきたのに対し、本研究では日常的なメディア理解の実践に焦点を当て、ニュースの「事実性」が社会的にいかにして構成されるのかを解明することを目的とする。 【2.方法】本研究はニュース報道やそれに対するインターネット上の反応の表現基盤として、テレビ番組、インターネット上のソーシャルメディアやまとめサイトのインターフェイス・デザインに着目する。テクストが表示されるインターフェイスは、書き手がどのようにテクストを書き、読み手がどのように読み、その読み手が当のテクストの理解を示す新たなテクストをどのように書くのかといった「参与枠組み」を形成する(岡沢 2022)。このような観点から、本研究は、メディア・テクストのインターフェイス・デザインに着目しながら、ニュースを「事実」として見る/「事実」ではないと批判する実践がいかにして可能になっているのかを分析する。分析対象としては、2016年に放送されたNHKニュース7の「子どもの貧困」を扱った番組映像および、それに対するX(旧Twitter)やまとめサイト「Togetter」でのユーザー投稿を取り上げる。 【3.分析結果】分析の結果、ニュースを「事実」として見る実践では、①「子どもの貧困」という社会問題の提示、②その「当事者」としての「高校生」のカテゴリー化、③「当事者性」を伝える映像の構成といったインターフェイスのデザインが重要な役割を果たしていたことが明らかとなった。他方で、番組に対する批判的反応では、番組内の一場面を切り出して投稿し、日常的な「貧困」概念の規範と照合する形で違和感の表明がなされていた。また、まとめサイトではこの映像が「捏造」として批判されており、それは映像が視聴者を日常的な「貧困」理解に方向づけるよう設計されていたインターフェイス・デザインに根拠を求めるものであった。 【4.結論】本研究は、ニュースの「事実性」は人物の存在や出来事の生起に還元されるのではなく、社会成員が特定の概念を用いてテクストを読む実践の中で構成されるものであることを明らかにした。その際、ニュース・テクストのインターフェイスに埋め込まれた形式的特徴が、視聴者の理解の方向づけや、批判における責任帰属の資源として用いられていた。本研究が着目したメディア・テクストのインターフェイス・デザインは、メディア研究で「メディアの物質性」と呼ばれてきたような性質と密接に関わるものである。本研究は、テクストが表示されるインターフェイスに「概念としての物質性」が埋め込まれているという視点から、テクスト分析を「メディアの物質性」研究に架橋する可能性を示した。 【文献】是永論,2017,『見ること・聞くことのデザイン――メディア理解の相互行為分析』新曜社./岡沢亮,2022,「エスノメソドロジーとテクストデータ」『社会学評論』72(4): 540–56.

報告番号419

文化生産の視座(The Production of Culture Perspective)から文化の測定(Measuring Culture)へ――社会的条件はいかに美的価値 ・経験と相互作用するのか
東京大学大学院 山内信明

文化をめぐる社会学の研究は1980年代の文化的転回(cultural turn)を契機に様々な研究を産んだ。特に本報告ではアメリカを中心とした実証研究の中にある文化的転回以前から文化研究の有力な枠組みとして存在していたR.Petersonの「文化生産の視座(The Production of Culture Perspective)」に焦点を当てる。この理論的枠組みは文化を自律的な象徴(シンボル)として扱いそれ自体の生産構造を従来の経済や政治といったマクロレベルではなく、取り巻く組織(企業など)や作り手の社会的属性および産業構造といったメゾレベルの動態として記述するものである。特にその特徴として定量的な手法への傾倒があり、70年代中期からいかにして定量的に頑健な知見を提供できるのか腐心してきた。初期は定性的な研究とともに現代の水準から見ると初歩的ではあるが定量的手法の先駆的な実証研究が生まれ、文化産品(cultural output)がいかにして社会的条件により構造化されてきたのか示し、理論的なエビデンスが蓄積してきた。特に研究対象としては音楽(music)、映画(film)、料理や飲料文化(culinary work and microbrewery)そして科学(scholarly world)などが挙げられる。  本報告ではこれらのアメリカの文化研究の「文化生産の視座(The Production of Culture Perspective)」の枠組みがいかに生まれ、同時代のAlexanderを筆頭とする研究群(Alexander school)と対峙し、現在の文化社会学(Cultural Sociology/Sociology of Culture)まで続くLiteratureとして系譜を形成してきたのか確認する。そしてにいかに「文化の測定(Measuring Culture)」というテーゼに発展し、実証的な社会学研究においてこれらの研究が美的価値とそれを取り巻く社会的条件との相互作用の頑健な知見を明らかにしてきたのか示す。 加えて近年のAI(Artificial Intelligence)・機械学習やデータサイエンス・自然言語処理の計算社会科学的発展は社会学の中でも文化生産の視座(The Production of Culture Perspective)の文化研究に多くの恩恵を与えている。この前提にはこれらの研究群が取り扱う「文化」の定義が関与している。というのも彼らは文化を「共有された意味の現実(“the reality of shared meaning”)」として定義した。「意味」は従来測定することが技術上難しい要素が大きく、定量的な研究の多くはデータをhand-codingするケースが基本で大規模な分析は不可能だった。しかしながら近年の発展はこれらのラベル付けを自動化したり直接テキストを定量化(ベクトル化を行う)して扱うことを可能にしている。また音や画像といった文化産品自体を測定可能なobjectとしても扱うことを可能にし、文化社会学のさらなる可能性を切り開いている。これらの発展を検討しつつ、最後に日本のデータを用いていかなる貢献が可能な展望を述べる。

報告番号420

芸術における複数の制度的水準とその部分的未整備に関する考察――「小劇場演劇」を事例に
立命館大学大学院 柴田惇朗

本発表の目的は「芸術」と「制度」の関係を整理し、その一般化の可能性を事例を用いて検討することである。 芸術にとって制度は芸術が社会の中で生産されるにあたって基盤的な役割を持つ。例えば芸術社会学における「制度的アプローチ」と呼ばれる潮流において、「芸術」が制度として社会から相対的な自律性を獲得していることは「芸術」が成立する基盤と捉えられる。すなわち、学校、劇場・ミュージアム、批評、助成などといった制度的アクターが制度的な空間やネットワークを形づくり、芸術家はその中で制度化された評価の基準と関わりながら活動を継続する、といった構造とプロセスがはじめて特定の活動を「芸術」として組織することを可能にする、という理解である。 一方で、「制度」は社会科学や哲学で広く論じられる中でさまざまな水準で用いられており、こと芸術に限った場合においても、その外縁を示すことは必ずしも容易ではない。上記の説明の中にも物理的な空間やもの、関連する様々なアクター、教育、流通、支援などのシステム、暗黙的・明示的な規則まで、様々な対象が「制度」に内包されている。 このような多義性・多層性をもつ芸術の制度を巡って、近年さまざまな興味深い指摘がなされている。例えば、芸術生産論などを下敷きとする佐藤郁哉の『現代演劇のフィールドワーク』(1999)においては、現代演劇界が歴史的に様々な制度から排除されており、結果的に制度化の未整備=「タコツボ」的状況が生じていることが繰り返し指摘されている。また、制度的アプローチの分析に対する「制度の構成」批判は「芸術界」を構成する制度が国などの地理的な条件によって異なることを指摘している。 本発表では佐藤(1999)の議論などを下敷きに、とりわけ小劇場演劇という事例において、制度がどのように構成されており、いかなる意味で制度化が未整備であると考えられるのかを検討する。一方で小劇場演劇としてのジャンル的合意、物理的な劇場や官民の支援システムなどの制度が成立しながらも、教育や批評の制度は未整備である、とされる日本の小劇場演劇を制度論的にどのように理解することは可能か。このような問いを、経済学者・哲学者のフランチェスコ・グァラ(2016=2018:5)が哲学者パースを援用して提案する「クラス制度/トークン制度」の弁別など、芸術社会学に限らず制度論の理論的蓄積を参照しながら検討する。事例分析には広く演劇やアーツマネジメントを巡る文献、及び京都の小劇場演劇を中心としたフィールドワークを通じて得られた一時データを用いる。 本発表の議論は、小劇場演劇の制度的構造を出発点としつつ、芸術における「部分的制度化」といえる状況がいかにして一般的な制度論と接続しうるかを示すものである。これにより、芸術に限らず創造的実践全般を対象とした制度の理論的理解の深化に資することが期待される。 参考:Guala, Francesco, 2016, Understanding Institutions, Princeton University Press.(=瀧澤弘和監訳,2018,『制度とは何か』慶應義塾大学出版会.)/佐藤郁哉, 1999,『現代演劇のフィールドワーク――芸術生産の文化社会学』東京大学出版会.

報告番号421

誰がアートを買うのか
東京工科大学 陳海茵

【研究目的】 本報告は、美術雑誌を「アートの価値づけを担う社会的装置」として捉える視座に立ち、英国、日本、中国の三つのアート市場向け雑誌を比較対象とする。美術雑誌は単に展示情報や作品紹介を行うだけでなく、誰がどのように作品を買うべきか、コレクションをどのように語り、所有し、評価するかをめぐる言説の編成を通じて、作品の流通を文化的に正当化し、読者を制度の内側へと導く役割を果たしている。美術の制度的価値づけにおける雑誌の役割に注目することを通して、本研究では芸術社会学とメディア論的視点の接続を試みる。 【先行研究】 これまでの芸術社会学においては、芸術がどのように制度的文脈の中で成立しうるのかを問う視点から、美術館、ギャラリー、批評家、コレクターといった制度成員のネットワークや、それを支える文化資本の配置に注目した研究が蓄積されてきた(Bourdieu 1993, Becker 1982)。美術市場における価格と価値の形成については、ヴェルトハイス(2005=2023)がギャラリー経営者の発言を雑誌記事や新聞報道等から収集し、それが制度的ナラティブの構成に寄与する過程を描いた。しかし、制度の一部である雑誌メディアが、そうした価値づけの言説を日常的に仲介し、アートの流通過程においていかなる機能を果たしているのかについては、十分に論じられてきたとは言いがたい。 【研究対象】 本報告が比較対象とする三誌は、それぞれ異なる文化圏においてアート市場に特化した雑誌として確固たる地位を築いている。『Frieze』(1991年創刊)はアートフェアの創設を強みとし、現代アート界の主要プラットフォームとして機能している。『Hi藝術』(2006年創刊)は中国語圏における当代芸術の専門誌として、前衛的なアート情報、実用的なマーケット分析、作家インタビューなどを豊富に掲載してきた。『Art Collectors’』(2006年創刊)は日本において、アートを「買って飾る」日常実践として提示し、生活文化としてのアート市場を支えている。 【予想される結論】 本報告では、三誌の誌面構成(価格情報、特集テーマ、コレクターインタビュー、用語の使い方、SNS連携など)、および想定読者層とされる主体像の描かれ方を比較し、それぞれが提示する「望ましいコレクター像」の相違と共通点を明らかにする。たとえば『Art Collectors’』は、比較的価格帯の低い作品を「買って飾る」ことの実践を紹介し、生活空間にアートを取り入れる中間層文化消費のモデルが読み取れる可能性がある。『Hi藝術』は、市場分析を強みとして読者に向けた投資的判断の指針を提供しつつ、経済実践と文化実践を融合させている。一方『Frieze』は、アートフェアや国際批評ネットワークとの連動を通じて、読むことと買うことが一体化したコミュニティを作り上げている。 これらの比較から導かれるのは、雑誌というメディアが作品の価値だけでなく、「誰がどのようにアートを買うのか」というモデルを制度的・文化的に提示し、他方のコレクターは既成の経済主体ではなく、雑誌が編成する言説空間のなかで文化的に構成される行為者である。

報告番号422

「有名税」とは何か?
京都大学大学院 新山大河

【目的】本報告は「有名税」といった言葉に象徴されるように、有名性の獲得が芸能労働者の私生活にどのようなプライバシー管理の要請をもたらすのかを明らかにする。 【背景】表現をめぐる社会学的関心が作品のみならず、それを支える基盤へと広がるなかで、表現に携わる人々の生活環境にも目を向ける視点が求められている。特に今日ではSNSなどのメディアで、表現の担い手である芸能労働者の私生活が暴露されたり、誹謗中傷の対象になったりするなど、有名性が芸能労働者の生活や心理に深刻な影響を与える事象が社会問題となっている。先行研究はメディアにおける社会的・制度的な枠組みのなかで、有名性の生成・流通過程を分析対象として発展してきた。また芸能労働者が有名性を獲得する際に、望まれる自己の表出を管理する感情労働や、ファンとの親密性を管理する関係的労働の実践が明らかにされてきた。以上の知見は重要であるが、先行研究の視座は相互行為を通じて関係が構築される、顕在的な場面を中心に知見が蓄積されてきた。したがって有名性が私的な生活領域へと浸透するという潜在的な側面、つまりは非対称かつ匿名的な眼差しのもと、日常的なふるまいや人間関係などがいかに制限されていくのかについては看過されている。 【方法】音楽事務所に所属し芸能労働に従事してきたミュージシャンへのインタビュー調査を通じて、有名になることが私生活をどのように再編させているのかを分析する。対象者はSNS上で数千〜数万人のフォロワーを有し、メジャーデビューなどを通じて一定の有名性を獲得してきたプロのミュージシャンである。 【結果】分析は二つの論点を軸に展開する。第一に、匿名的眼差しに晒されることによって、ミュージシャンは私生活の空間的な管理が求められていたことを指摘する。芸能労働者はいつ/どこで/誰に見られているかわからない状況で生活を送らねばならない。調査では、ミュージシャンがストーカー被害や個人情報の漏洩を回避するため、ファン層と接触しにくいアルバイト先を選んだり、あえて自宅から離れた病院・郵便局を利用したりするなど、生活導線の再編を通じたプライバシーの管理実践が確認された。第二に、ミュージシャンが将来のリスクへの対応を現在に先取りし、私生活に予防的な人間関係の調整を持続的に組み込んでいることを指摘する。芸能労働者としての生活は、一見問題のない日常的な言動や人間関係も、将来的にSNSやメディアなどを通じて注目・批判の対象となりうる。調査では、同窓会や結婚式といったイベントへの不参加、交際相手を同業者に限定するといった対応から、将来的に現在の私生活が暴露されうる備えとして、人間関係を予防的に制限する実践が確認できた。 【考察】本報告は、有名であるという状況が本人の意図とは無関係に日常生活を変容させる過程を明らかにし、有名性と私生活のあいだにある緊張関係を理論化する。とりわけ他者との直接的関係を伴わずとも、匿名的で非対称な眼差しのもとで行動や関係性が制約されるという、有名性における潜在性とそれにまつわる実践に着目し、従来の理論では捉えられなかった有名性の新たな作用領域を浮かび上がらせる。本報告は、表現実践の担い手である芸能労働者の私生活の調整に注目することから、表現をめぐる社会的条件や制度的文脈を捉え直す一助となることを目指す。

報告番号423

日本若年層の「スマホゲーム」頻度にたいする、遺伝子一塩基多型rs4680の看過しがたい効果――遺伝子社会学の試み:そのN
鹿児島大学 桜井芳生

1 目的 現代日本の青少年におけるいわゆるスマホゲームの遊戯頻度に、ある一つの遺伝子変数が看過しがたい影響をもっていることをみいだした(桜井芳生他)。また遺伝子変数を視野にいれた社会科学的リサーチの普及への一歩として、報告したい。 2 方法 以下の実験計画は大学倫理審査委員会の審査済みである。匿名の調査協力者さんたちから採集した遺伝子試料の解析結果と、その方々に回答いただいたスマホアンケートの結果との統計解析をおこなった。DNA採取キット Oragene® DNAをもちい、唾液ないし頬内側粘膜をいただいた。A大学とB大学、2018-19年度のいくつかの授業履修者さんたちが対象プール、スマホアンケートと遺伝子試料ご提供協力者161人。男性102人。女性59人。年齢平均19.17歳。リアルタイムPCR装置(StepOnePlus)で解析を行った まず、以下要点となる遺伝子一塩基多型(SNP)rs4680について説明する。周知のようにDNAは、ねじれた縄ばしごが、父由来と母由来の二組ある形状をしている。この縄ばしごの一段に変異した多様性が見られる場合がある。この変異が集団内で1%以上の頻度で見られるとき、これを一塩基多型SNP(スニップ) : Single Nucleotide Polymorphismとよばれる。よく知られているように単位をなす塩基は、アデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)、チミン(T)の四種類だけであるが、「アデニン(A)⇔チミン(T)」「グアニン(G)⇔シトシン(C)」という組み合わせでのみ相補対をなす。したがって、ターゲットとする座位が、「G」か「A」かのいずれかであるかがわかればその座位の値は完全にわかることとなる。ただし父由来と母由来の都合二つの値がありうるので、ある座位がもちうる値はG G(ホモ)、A G (ヘテロ)、A A (ホモ)の三通りとなる。当該の「rs4680」においては、G Gホモが、ワイルド=野生型(もともとの型)とされ、AはGからのミュータント(変異型)とされる。上記のようにGGが野生型であり、AキャリアであるAGとAA は、変異型とされるため、「Aキャリア」である(すなわち、AGとAA)か、いなかで、「rs4680Aキャリアダミー」という変数を作成した。 3 結果 重回帰分析の結果「GGタイプの人」ほど、「スマホゲームをし」、「外向性が高く(活発で、おとなしくなく)」、「協調性が低く」、「技能向上や新技術習得のための訓練の機会が多いことを重視する」となった。 4 結論 今回のリサーチは、新コロナ禍のためもあって、サンプル数が十二分とはいえない。広く、追試を呼びかけたい。GGタイプのヒトすなわち、23andMeにいうwarrior 勇士 型のヒトが、有意に、スマホゲームの頻度が高い、というのは絵に描いたような結果でわれわれ自身おどろいている。 いずれにせよ、今回われわれがみいだいしたことは、スマホゲームをめぐる社会(科)学的アプローチに一石を投じるものであることは否定し難いのでなないだろうか。 (1).登壇者、コレスポンディング・オーサー。yoshiosakuraig@gmail.com 参照 SNPedia:rs4680 https://www.snpedia.com/index.php/Rs4680 2020年8月12日閲覧 科研費挑戦的(開拓)20K20281「文化-ジーン共進化説のミクロ的確認とネットワーク社会学的展開」(代表:桜井芳生)による。 桜井芳生他2021『遺伝子社会学の試み 社会学的生物学嫌い(バイオフォビア)を超えて』日本評論社

報告番号424

ニホンザル用電気柵の機能評価と中山間地域における被害対策方法の提案
株式会社BUB 坂井もも

近年、日本全国においてニホンザルの分布は拡大傾向にあり、農地や集落周辺へと生息域を広げて、農作物被害や生活環境被害が発生している。高い学習能力と社会性を持ち、環境を立体的に使うことのできるニホンザルに対して、有効な防除方法として電気柵が挙げられる。そこで本研究では、サル用8段電気柵を対象として、電気柵は有効に機能しているのかを明らかにするため、電気柵機能診断を実施し、評価を行った。また、サル被害の発生している中山間地域は、住民の高齢化および過疎化が進んでいることから、将来を見据えた対策方法を提案していく必要があると考え、アンケート調査を実施することで住民の意見を取り入れ、電気柵の取り組み状況を明らかにすることで、電気柵を使用した被害防除の在り方について新たな提案を行うことを目的とした。 電気柵が増加している新潟県長岡市栃尾地域にて、設置・管理状況を明らかにするための電気柵診断を行い、2023年~2024年で合計98圃場148回の電気柵診断と30名へのヒアリングを実施した。その結果、電圧出力不備が2023年49.3%、2024年55.4%と不備が多いことがわかった。また、サルの行動圏面積は年々拡大したが、電気柵の導入数増加に伴い、電気柵の管理状態に関わらず、被覆率が少ないエリアを選択していることが示唆された。 電気柵を設置している地域住民へのヒアリングにより、電圧出力不備および柵周辺に侵入につながる障害物のある環境の場合、電気柵の有効性は失われ、侵入被害につながる可能性があることが示唆された。また、設置者が仕様を理解していない状態で設置された電気柵は、設置者が事前に研修を受けている状態で設置された電気柵と比較して有意に不備な柵の割合が多いことが明らかになった。 アンケート調査の結果、49集落1,413世帯から回収し、回収率は40.1%であった。電気柵を使用している割合は17.1%で、その内の37.2%の電気柵ではサルの侵入被害を受けており、侵入防止効果が既に失われていることが明らかとなった。適切に設置・管理された電気柵を維持するために、設置前に柵の使用方法についての事前研修を義務化することを提案した。また、電気柵を使用していない理由の回答として、金銭面への懸念が最も多いことがわかった。長岡市が実施している補助金について周知しきれていない可能性があり、行政と住民間でサル対策に関する十分な情報共有がされていないことが示唆された。アンケート調査の自由記述ではサルの“駆除”を求める声が最も多いことがわかり、行政の対応に依存している可能性が考えられる。ここで、現在進めている電気柵導入補助金を活用する人へ向けた、電気柵やニホンザルの生態に関する事前研修を義務化することにより、当事者意識が生まれ、住民の主体的な被害対策の取り組みにつながる効果も期待されると考える。

報告番号425

性腺機能不全を主病態とし出生女児のみに発現するターナー症候群の当事者とその母親の「生きづらさ」とは何か
長岡技術科学大学 髙口僚太朗

【背景】医療者は、検査値や患者の訴えを中心に、ターナー症候群患者の健康状態を観察することが多い。一方で、患者自身の「生きづらさ」は、患者自身が意識することも少なく、医療者はその「生きづらさ」を捉えることが難しいとされている。 【目的】ターナー症候群(TS)の「生きづらさ」とは何かを明らかにする。 【ターナー症候群とは】TSは、X染色体の全体または一部の欠失に起因した疾患の総称である。性腺機能不全を主病態としている。出生女児のみに発現し、患者数は約1000人に1人と推測されている。おもな症状は①低身長、②卵巣機能不全による二次性徴、③月経異常などが挙げられる。とくに低身長は、TSにほぼ必発の症状である。さらに、性腺機能不全を主病態とするため、不妊となる場合が多い。多くの当事者は、小学校高学年のころ低身長が顕著となり、小児科を受診することで明らかとなる。このとき、多くの当事者が医師から診断結果をきくことはなく、母親にのみ告知することが標準医療行為と推奨されている。とはいえ、低身長に対しては、成長ホルモンの補充療法(注射剤)を、卵巣機能不全には、健常女性の思春期来発年齢を指標にして、女性ホルモンの補充療法(貼付剤、経口剤)を開始し、その後は自己管理のもと継続することから、適切な医療行為の介入があれば日常生活をおくることができる。その意味で、病気・障害ではなく一種の体質ということを強調した「ターナー女性」という呼称を推奨している。 【方法と結果】患者歴19年目の20代女性(看護師)と家族、患者歴14年目の20代女性(養護教諭)と家族に、それぞれ4回の非構造化インタビューを行った。その結果、2症例とも、職場での生活を重要視していた。そこで共に過ごす患者生徒、同僚との関係性のなかで、いかにターナー女性である自身の経験が有効活用できるかを意識し、今後の展望を語っていた。一方で、2症例の母親は不妊に主眼をおき、「女性性の剝奪」の経験として語っていた。2症例は母親や家族の前ではそうした「女性性の剝奪」の語りに自身を合わせながら生活していることが明らかとなった。 【考察】ターナー女性であるという経験は、小児期発症の2症例にとって、自身の社会生活のほとんど一部である。低身長という顕著な特徴はあるが、成人している彼女たちは小柄な女性とみられる程度で、医療者でなければ一見して判明するものでもなく、彼女たちも深刻に受けとめてはいない。確かに、成長ホルモンと女性ホルモンの補充は行っているが、患者歴を重ねていることからこうした治療方法は身体化された彼女たちの日常である。しかし実際には、母親やそれに完全同意する父親の「現在の医学ではこどもが産めないけど、女性ホルモン剤が発達して産めるからだになるんじゃないか」という語りに自身を合わせることで、TSである現実からは逃れられないことが明らかとなった。2症例への聞き取りを本人と家族個別に実施したことで、ひとつの共通する経験からふたつの異なる語りとして聞きとれた。アーサー・W・フランク『傷ついた物語の語り手』を用いれば、母親は「回復の物語」、本人は「探求の物語」と分析できる。場面としてではなく、ストーリーとして症例を観察することが重要である。 【結論】母親や家族の語りに自身を合わせながら生活していることが、2症例の「生きづらさ」である。今後は症例を増やして検討する必要がある。

報告番号426

<愛>を唱えると子どもの数が減るのはなぜか?――アメリカ優生学の光と影
山口大学 高橋征仁

1.ニュースピークとしての「少子化問題」: ジョージ・オーウェルの小説『1984年』には、国民の思考を管理・統制するために、政治的・科学的意味を排除して作られた新しい公式言語<ニュースピーク>が登場する。昨今の「少子化問題」という言葉も、<ニュースピーク>の捏造された語彙の一つのように感じられる。というのも、昨今の「少子化問題」は、この数十年の至近要因だけで検討され、GHQや旧厚生省による1950年代の産児制限運動には言及されていないからである。日本の出生児数は、1949年から1954年にかけての5年間で100万人近く減少し、合計特殊出生率も4.32から2.48にまで低下している。この急激な少子化は、官民挙げてのキャンペーンの「成果」であり、現在の少子化を基礎づけた。その中核的原理は、<愛>を唱えれば子ども数が自発的に減少するというアメリカ優生学の知見(Osborn1956)にほかならない(山本起世子2011,2017参照)。しかも1970年代になると、この産児制限運動のノウハウは、日本の戦後復興の秘訣として、中国や韓国・台湾など東アジア地域を中心に海外に輸出された。 2.アメリカ優生学の光と影: もっとも1920年代には、欧米でも日本でも、都市部インテリ層における少子化が明白になり、移民や下層階級による「逆淘汰」が懸念されていた。そうした時代背景の下、露骨な人種差別・障害者差別を伴った他国の消極的優生学に比べれば、アメリカ優生学は、「避妊」と「中絶」という女性の自己決定権を擁護した積極的優生学のスタイルをとっており、「民主主義のための優生学」(TIME, Sep9,1940)を標榜していた。ただし、そこでは、<愛>を唱えることで、養育・育コストの増大が予期され、低学歴・低階層の女性が自発的に妊娠・出産を抑制するという因果図式が想定されていた。昨今の「少子化問題」の議論も、こうしたコスト予期を組み込んだ因果的説明をしていることが多い。 3.<やさしい>相手を選択することの帰結: しかし、「避妊」や「中絶」という重大局面において、10~20年後の養育・教育コストを十分に計算できるだろうか?むしろ、目の前の男性の<やさしさ>が信頼できるか否かというより具体的・実践的判断こそが重要ではないだろうか?この配偶者選択における「向社会性」の重視こそ、子どもの数の減少だけでなく、教育期間の延長や暴力犯罪の激減(量から質へ)、リスク回避や意欲喪失傾向、さらには精通遅延や色白・無毛・小顔・声の高音化、若返り・長寿化など一連の奇妙な脱男性化・幼形化現象(高橋征仁2013, 2025a, 2025b, 2025c)を引き起こした出発点として考えられる。これらの現象は、進化生物学の「家畜化症候群」と共通する点が多く、従順な個体同士の選択的配偶がもたらす遺伝的・生理的基盤の変化(神経堤細胞の減少)が重要な役割を果たしていると考えられる(AS. Wilkins 2017, B. Hare 2017参照)。 4.配偶者選択を介した「向社会性」の2重相続仮説の検討: 本報告では、上述したような少子化と幼形化・脱男性化の関連について、戦後の日本の時系列的データやOur World in Dataにもとづく国際比較を通じて明らかにしていく。そしてさらに、現在でも、既婚/未婚で男性のパーソナリティだけが大きく異なり、配偶者選択を介した「向社会性」の2重相続(文化遺伝子共進化)が進行している可能性について、WEB調査をもとに明らかにしていく。

報告番号427

猫好きな人はどのように猫の社会問題を認識するのか
東京大学 赤川学

報告者が2023年11月に実施したWebモニター調査(日本在住の20歳以上80歳未満の2000名、性別・年代別・地域別で層化)によれば、猫好きな人(猫を好きな度合が上位25%に属する人)は、女性、若年層(20-30代)に多く、労働時間が短く、平均子ども数が少ないが、健康で、幸福で、孤独を感じないという特性があった(赤川 2024)。他方、教育年数(学歴)、個人の年収、交際者(配偶者・恋人)の有無には差が認められなかった。  本報告では、上記の知見を踏まえつつ、2つのリサーチ・クエスチョンへの応答を試みる。 (RQ1)猫好きな人は、経済資本、文化資本、社会関係資本の保有に差があるか、あるとすればどのようなものか (RQ2)猫に関する社会問題を認識するにあたり、猫好きな人にはどのような特徴があるか (RQ3)上記の特徴は経済資本や文化資本や社会関係資本の保有によって説明されるか  上記3つのRQに応答するために、本報告は以下の作業仮説を設定する。 (1)猫好きな人は経済資本よりも、文化資本(高尚/新興の区別)もしくは(ポジションジェネレータによって計測される)社会関係資本を多く保有する。 (2)猫好きな人は猫の社会問題について、より多くの種類を認識し、それぞれについてより強く問題意識を有している。 (3)(2)の事実は(1)によって導かれている。つまり、猫好きな人は文化資本もしくは社会関係資本を多く保有するがゆえに、(2)のような認識構造を有するに至る。  本報告は、近年、社会階級を形成される3要素とされる経済資本、文化資本、社会関係資本(Savage et al. 2015=2019)が、猫好きであることや、猫に関する社会問題認識に影響を与えると想定するものであり、人間の意識や認識に関する遺伝的な要因や、動物としての人間が有する生物学的特性を直接的に検証するものではない。しかしながら、このような社会的要因によって説明される境界を明確にすることによって、将来的に社会学が進化論や生物学と有意義な対話を行なうための端緒にしたい。 【文献】赤川学,2004, 「猫好きな人の社会的特徴と意味世界——猫好きな人はどのような人で、何を考えているのか」第97回日本社会学会大会テーマセッション犬と猫と社会学と。京都産業大学. Savage, M.et al., 2015, Social Class in the 21st Century, London: Penguin Books.(舩山むつみ訳,2019,『7つの階級:英国階級調査報告』明石書店.)

報告番号428

進化論的現代社会論と社会学理論の関連についての一考察
関東学院大学 三原武司

【1.目的】   近年、進化論や文化進化(cf. McCaffree 2022)を念頭においた人類史や現代社会についての新しい知見がさまざまに提起されている。そのなかにはすでに対立的な議論がみられるなど、いくつかの動向がみてとれる。そこで、本発表では関連する議論を3つのモデルに分類し、それらと従来の社会学理論との関連を考察することを目的とする。 【2.方法】  近年提起された進化論的現代社会論のモデルをそれぞれ、上昇モデル、循環モデル、変動モデルと分類し、議論の内容を比較する。つぎに3つのモデルと従来の社会学理論との関連を考察する。 【3.結果】  上昇モデルは、Pinker(2011, 2018)、Norberg(2016)、 Rosling et al.(2018)らによる議論で、「合理的楽観主義」(Ridley 2010)などとよばれる。このモデルでは、近代化にいたる過程で、戦争や暴力による死亡率、貧困、栄養失調、文盲率、児童労働、幼児死亡率、災害による死者数、公害などが急速に減少し、公衆衛生が改善され、寿命は延び、奴隷制の擁護者はいなくなり、さまざまな権利向上も進展したことが論証される。近代化と現代社会を肯定的にとらえる傾向にある。それにたいして循環モデルは、人類史を上昇と下降の循環でとらえる。Turchin(2006, 2016, 2023)、Dutton and Woodley of Menie(2018)、Sarraf et al.(2019)らによる議論が該当し、現在の先進国にたいして下降傾向を指摘する。下降傾向についてはTodd(2024)などと論点を共有し、Inglehart(2018)のように上昇モデルを前提にした議論もある。変動モデルでは、累積的文化進化がもたらした社会や環境の変化と人間の相互作用に焦点がある。Lieberman(2013)、Laland(2017)、Henrich(2016, 2020)、Christakis(2019)らの議論が該当する。つぎに3つのモデルと社会学理論との関連について考察すると、上昇モデルは近代化に肯定的なスペンサーやジンメルと親和的である(Turner 1992)。循環モデルでは循環についてイブン=ハルドゥーン、近代批判や下降傾向の文脈でウェーバーらが言及されている。変動モデルは、ギデンズやベック、変容論者(Held et al. 1999)が対応するという結果となった。 【4.結論】 上昇モデルは近代化を肯定する一方、第2の近代における相対的貧困などには関心が薄い。循環モデルでは一国社会が念頭におかれることが多いこともあり、気候変動などには関心が薄い。双方の関心は反転しており対立することもある一方で、ともに膨大なデータや数理モデルを背景にもった古典モデルの現代的適用という側面がある。現代社会学理論と対応する変動モデルは、古典モデルでは視野に入りにくい問題群をあつかうことに適している。3つのモデルは内部で共有する論点もあるため、社会学理論とともにそれらを併用することが、現代社会を理解するうえで有用である。

報告番号429

ジェンダー視点から見た能登半島地震の被災と支援――被災地の社会変動も踏まえて
早稲田大学 浅野幸子

2024年1月1日に発生した令和6年能登半島地震(以下、2024年地震)を対象として、ジェンダー視点から見た被災と支援をめぐる実情と課題について、被災地の社会変動も踏まえる形で検証を行った。 調査方法は、既存資料の分析、統計データの分析、被災地の女性リーダーや支援者へのインタビューである。既存資料には、共助活動に尽力した被災女性へのインタビュー調査、内閣府男女共同参画局による2024年地震の支援実態調査(被災自治体・応援自治体・民間団体)、同局・同趣旨の熊本地震(2016年4月発生)の調査報告書が含まれる。人口の変化は輪島市を対象に住民基本台帳のデータを使用した。インタビュー調査は、2024年3月・9月、2025年2・3・4・5月に行った(一部オンライン)。その結果、次のことが明らかになった。 避難生活については、女性や衛生・栄養・育児・介護をめぐる環境は過酷を極めていたこと、避難所では性別役割が強化される傾向があったこと、一方で、自ら被災しながらも共助活動におけるリーダーシップを発揮し被災者の命と健康を守った女性たちが少なくなかったこと、それらの支援活動は炊き出しにとどまらず多岐にわたったこと、それらは大変な重労働だったことが挙げられる。 復旧・復興に重要な役割を果たしている女性たちも少なくないが、支援者へのインタビューからは、すでに限界に近い活動をしており、さらに活動を拡大する余裕がないとの見方や、活動の継続にあたり地域を超えて女性たちが横につながる機会づくりの重要性について指摘があった。若手女性リーダーからは、いまだ男性・年長者優位の感覚が強いコミュニティにおいて地域復興に積極的に参画・発言していくことの厳しさについても語られた。 ちなみに、2007年地震から間もない時期に被災地で実施したインタビューを踏まえると、かつて炊き出しを組織的に行った婦人会などは、現在は高齢化し、解散している地域も少なくなく、その分、少数の女性たちの負担が大きくなった可能性や、若手の割合・数が大きく減っていることが、若手の女性たちにとってより大きな障壁となっている可能性が見えてきた。 そこで2007年3月31日、2024年1月1日時点の住民基本台帳のデータを使用し、人口の構成の比較を行った。その結果、2007年は、15~64歳の総人口54.98%、65歳以上総人口35.18%に対し、2024年は15~64歳45.01%、65歳以上48.3%と、現役世代より高齢者の割合がやや多い状況であった。また、男女別の5歳階級のデータを使用し、人口ピラミッドを作成・比較したところ、2007年の段階ですでに少子高齢化の傾向は見られたものの、2024年には極端な逆三角形となり、少子高齢化が極端に進行したことが明らかになった。 内閣府男女局による能登半島地震と熊本地震の調査を比較したところ、支援の質が向上した側面もある一方で、応援派遣職員の女性割合は低いままなど、課題もまだ多い。被災地の環境の差異もあるが、いかなる条件でも男女双方の支援者が入ることができる仕組みづくりなど、抜本的な改善が求められることも明らかになった。 <参考文献> ほくりくみらい基金ほか、2024、「令和6年能登半島地震の女性の経験と思いに関するヒアリング調査」. 内閣府男女共同参画局、2025、「令和6年度 男女共同参画の視点からの能登半島地震対応状況調査報告書」.

報告番号430

被災者に寄り添うとはいかなることなのか――「能登を去る」選択をする被災者の事例調査から
東北大学 雁部那由多

【目的】 本報告は、令和6年能登半島地震を契機に「地域を去る」という選択をした被災者にいかに寄り添うことができるのかという問いを主題とする。既存の災害・被災地研究では、生活再建に取り組む被災者やそれを支える人々の姿が数多く描かれてきたが、他方で地域を離れる選択をした人々については、支援や再建の「主体」から逸脱するものとして語られる傾向があった。研究者が被災者の苦しみに伴走する姿勢は重要であるが、それは「地域を離れる者」の葛藤や苦しみにも等しく向けられるべきではないだろうか。本報告では、そうした問題意識のもと、能登半島地震で居住地を離れた人々への聞き取りを通じ、彼らがいかなる過程で現在の選択に至り、どのような思いを抱えているのかを明らかにし、「寄り添う」とは何を意味するのかを再考することを目的とする。なお、本事例を対象とした理由は、阪神・淡路大震災以降「コミュニティ再建」が強く志向された災害復興研究の系譜のなかで、人口減少と過疎化が進行する現代において、もはや地域の再建が当然視できなくなったという現実を象徴する事例だからである。 【方法】 報告者は2024年3月以降、のべ4回にわたり、輪島市門前町に居住していた5家族16名への半構造化インタビュー調査を実施した。彼らは現在、金沢市・白山市・津幡町等へ避難しており、現時点では輪島市内での住宅再建に消極的であるが、移住を最終的に決断したわけではない。本調査では、あらかじめ設定した質問項目を用いつつ、時間の経過とともに被災体験がいかに再解釈され、将来構想がどのように変容していくのかを観察するとともに、阪神・淡路大震災以降の被災者研究に通底する「被災者像」の特徴についても比較検討を試みた。 【分析】 聞き取り調査からは、以下の2点が明らかになった。第一に、被災者には時間の経過にかかわらず一貫した物語性が期待される傾向があるが、現実にはその期待から逸脱していく過程を経験する者も少なくない。たとえば、被災後直後には「元の地域に戻る」と語っていた人が、支援制度の限界や高齢による不安、子世代との相談などを経て徐々に再建を断念していく過程では、語りに揺らぎや葛藤が見られた。第二に、過去の体験や将来構想は時間の経過とともに捉え直され、状況や他者との関係のなかで書き換えられていくものであった。たとえば被災当初の語りと、半年後の語りでは、生活に対する諦念や受容の程度が大きく異なっていた。これらの変化を経るなかで、被災者自身が「順当な被災者像」からずれていくことに対して後ろめたさを語る場面があり、周囲からの理解や制度の枠組みが、被災者の選択に少なからぬ影響を与えている実態が示唆された。 【結論】 本報告は、災害後に地域を去ることを検討・選択する被災者に対しても、「寄り添う」という姿勢がいかに可能かを検討する一助となることをめざした。聞き取りからは、被災者が一様な復興主体として描かれる枠組みに馴染まず、時間とともに変化していく「被災者の語り」を持つことへの葛藤や孤立感が浮かび上がった。そして、そうした葛藤は被災者自身の内面だけでなく、社会の側が被災者に一定の物語や選択肢を期待する構造のなかで生まれているのではないかという点も併せて指摘できるだろう。

報告番号431

被災者の生活再建と被災地の復興過程における集落自治の可能性と課題――能登半島地震における”集落支援型調査”の実践より
金沢大学 阿部晃成

“1.目的
2024年1月に発生した能登半島地震では、大規模な破壊によって生活インフラが寸断された。特に半島の先端部にある奥能登地域は、少子高齢化・過疎化が進む条件不利地が多く、過酷な環境下での生活継続による災害関連死の発生を防ぐため,発災直後から、積極的な被災地域外への避難誘導(1.5次、2次避難)が行われた。
特に能登半島地震後の避難誘導は、一世帯毎に旅館・ホテル等を案内する形が取られたため、避難者だけでなく、被災集落に残った人も、同じ集落の構成員がどこにいるか把握しにくい状況を生み出した。こうした初動対応が、集落単位の自治機能に与えた負の影響については言及されることが少ない。
職住分離が進み、生活インフラが充実している都市部では、個人・世帯の単位で住まいや仕事を選択できるが、奥能登地域のような条件不利地にある農山村集落では、生業や生活を維持するために、集落を単位とする自治の機能―生産補完機能、資源管理機能、生活扶助機能など―が生活インフラの役割を果たしてきた。
加えて、災害後に行われる復興事業―砂防事業、防災集団移転事業、区画整理事業などの面的整備をはじめ公営住宅の建設等―は、集落という単位で意思決定が求められることが多く、その決定は、集落を構成する個々の世帯の再建にも大きな影響を与えることになる。しかし、域外避難した被災者・世帯は、こうした意思決定に参加できない状況に置かれやすい。
災害後の一連の公的な対応は、被災者個人・世帯を単位に行われており、集落という単位に配慮した施策は少ない。しかし、中山間・農山村集落における個人・世帯の生活再建は、集落単位の自治機能の存在が重要な意味を持つことになる。
奥能登地域の被災集落の中には、集落の構成員の状況を把握し、域外避難者も含めた情報提供や、住宅の修復・再建の相談、集落内で独自の生活インフラを確保して生業を継続できる条件を整備するといった取り組みを行う集落も存在していた。このように、個人の生活再建や、復興過程における集落単位の意思決定に、集落が果たすべき役割を検討しておく必要があろう。

2.方法
報告者らは、奥能登地域の区長らから支援要請を受け、当該集落の自治組織の活動を支援してきた。具体的には、①域外避難者を含む名簿の作成、②集落だよりの発行、③域外避難した集落の構成員とのつながり維持のためのイベントの企画・実施などを支援してきた。これらは集落が自治機能を発揮して復興を進めるために必要な条件整備であった。これらを遂行するために必要な情報収集を合わせて、”集落支援型調査”として実践してきた。今回の本報告では、集落単位で集合的な意思決定を行ってきた奥能登地域の事例を報告する。

3.考察
一連の”集落支援型調査”から、集落の自治組織が、公的支援や民間の災害支援が果たせない様々な役割を果たしていること、集落自治の機能を補強することが、被災者の生活再建支援、ひいては集落の持続可能性を維持することにつながる可能性が示唆された。しかし、集落の自治組織は、構成員が集落外に分散して居住することを想定しておらず、域外への2次避難やみなし仮設への分散入居に対しては、従来とは異なる自治の活動が必要になることに加え、構成員の意思が反映できない状況下で行われる集落単位の意思決定のあり方について検討する必要があることが示唆された。”


報告番号432

暴力被害の予防に資する防災教育の変化
帝京大学 浦野慶子

【1.目的】 本研究は、東京都における防災教育を対象として、避難所および避難生活における暴力被害の防止に資する防災教育の内容の変遷を分析することを目的とする。 【2.方法】 本研究では、2018年に東京都が刊行した防災ブック『東京くらし防災』と2023年に改訂された防災ブック『東京くらし防災』を比較検討し、避難所および避難生活における暴力被害の防止に関する防災教育の内容の変遷について分析する。 【3.結果】 初版『東京くらし防災』では、防犯に関して「在宅避難での防犯」と「避難所での防犯」の二つに分けて、それぞれの避難状況においていかなる防犯対策が必要か具体的な方策が書かれてあった。例えば、「在宅避難での防犯」においては、「在宅避難をする際は、普段以上に防犯意識を持ちましょう」(東京都 2018: 134)と注意喚起をしたうえで、「ひとりで出歩かない」(東京都 2018: 135)ようにすることを推奨している。一方、「避難所での防犯」においては、窃盗、性犯罪、暴力などの犯罪被害に遭うことのないように犯罪から身を守る方法が具体的に提示されていた(東京都 2018)。 改訂版『東京くらし防災』では、在宅避難での防犯に関しては「在宅避難での過ごし方」のというセクションの中にある「防犯編」、避難所での防犯に関しては「避難所での様々な配慮」というセクションの中にある「防犯」の中で言及されていた。その中で、避難所での防犯に関して、避難所では性犯罪などの犯罪被害に遭わないよう注意喚起されていた(東京都 2023: 170)。この文章は初版に記されている文章とほぼ同一ではあるものの、初版にあった「暴力」(東京都 2018: 146)という文言が削除されていた。一方、改訂版の見出しには初版の見出しになかった文言が加えられた箇所もあった。初版『東京くらし防災』では、「複数人で行動して身を守る」(東京都 2018: 147)と記されていたが、改訂版『東京くらし防災』では「複数人で行動して性犯罪から身を守ろう」(東京都 2023: 171)と記され、“性犯罪”という文言を使っていた。 【4.結論】 初版『東京くらし防災』においては、子どもの暴力被害に係る具体例が記されていた。一方、改訂版は、事例の提示はないものの、あらゆる人々が犯罪から身を守ることを意図した内容になっていた。初版にあった具体的な事例の提示は、「暴力犯罪の手口を学習する機会提供となるリスク」(浦野 2023;Urano 2024)もあるため、「防災教育における二つのジレンマ」(浦野 2023;Urano 2024)を鑑みながら、あらゆる人々を対象とした暴力被害防止に資する防災教育の展開が求められる。 [文献] 東京都, 2018, 『東京くらし防災』初版 東京都, 2023, 『東京くらし防災』改訂版 浦野慶子,2023, 「保健・医療・福祉・教育の連携による防災教育の構築ー子どもに対する暴力被害の防止に向けてー」第49回日本保健医療社会学会大会 2023年5月27日 Urano, Yasuko, 2024, “Development of disaster preparedness education that contributes to the prevention of violence against children,” Teikyo Sociology(帝京社会学) 37: 147-155.

報告番号433

災害と「多様性」――宮城県の女性団体による実践から
一橋大学 内田賢

“本報告は、東日本大震災後に「災害と女性」を掲げて支援活動を展開してきた宮城県の草の根女性団体「イコールネット仙台」が、2010年代後半以降に「災害と多様性」へフレーム転換した過程とその意義を、災害社会学・フェミニズム・クィア研究を横断する視点から分析する。「多様性(diversity)」という言説は、制度的には理念的・包括的な価値として語られる一方で、実践現場では状況や対象や使用者によって異なる意味で用いられ、支援のあり方や関係性の形成に多様な影響を与えている。本報告は、そうした言説が地域の災害支援においてどのように用いられたのか明らかにする。
イコールネット仙台は震災以前から、地域で災害とジェンダーに関する実践を継続しており、その蓄積が震災直後の女性支援の迅速な展開を可能にした。避難所で実施された女性への物資提供や被災経験の聞き取り・アンケート調査は、行政が前提とする男性中心的な支援とは異なる女性視点の復興のあり方を提示した。そのような「女性支援」の延長線上にトランスジェンダー女性への支援も位置づけられ、草の根活動を通じて多様な女性の多様な経験を掬い取った。
こうした実践の蓄積の上に、2020年以降の「多様な視点で取り組む防災力アップ講座」をはじめとする「多様性」言説の活用がある。講座では、それまで同団体が主な活動の対象としていた「女性」という属性に限らず、多様な属性(性的マイノリティ、外国にルーツを持つ人々、高齢者、若者、男性など)に射程を広げている。
本研究は、2021年から2023年にかけてスタッフ2名への半構造化インタビュー、内部資料・広報物の分析、講座への参与観察を実施した。分析の焦点は次の問いである。すなわち、「災害と女性」を掲げてきた女性団体において「多様性」という言説がどのような文脈で用いられ、どのように意味づけられたのか。また、「女性支援」との間に生じたジレンマはいかなるもので、どのような調整が図られたのか、である。
調査の結果、イコールネット仙台にとって「多様性」は、あらかじめ定義された理念ではなく、支援の現場で関係性を調整するための実践的な資源として活用されていたことが明らかになった。たとえば、「女性支援」という枠組みでは届かなかった層(シスジェンダーでヘテロセクシュアルの男性など)に問題意識を共有するために「多様性」というフレームが選ばれた。一方で、講座や活動の場面では「女性」の困難が後景化されないような調整も行われた。さらには女性と性的マイノリティの被災経験をそれぞれ異なるものとして扱うのではなく、両者の困難やニーズの共通性も強調された。こうした事例は、「多様性」言説が固定的な理念ではなく、草の根の実践を通じて意味が調整されながら用いられている実態を明らかにする。
本報告が示すのは、「多様性」がトップダウンで与えられる包括理念としてではなく、支援の場面で被災当事者の経験や関係性の中から再構築される言説資源として機能していたことである。言説としての「多様性」は、支援対象の広がりを生む一方で、従来の支援枠組みと緊張関係を生じさせる場面もある。実践者たちはそうした緊張のなかで語りを編み直し、支援の方向性を調整していたのである。”

報告番号434

不変の未来と可変の過去――組織の時間志向と時間意味論
神戸大学 梅村麦生

本報告では、組織に特有の時間志向と時間意味論について、主にニクラス・ルーマンの組織社会学研究と社会学的時間理論に基づき、検討をおこなう。 社会の広範な領域におよぶ理論研究をおこなったルーマンにあって、組織という対象は断続的に取り組まれた研究対象として、特有の位置づけを与えられている。そしてルーマンが組織についての理論研究を展開している「組織と意思決定」講義(Luhmann 1978)および没後刊行の同名書(Luhmann 2000)のいずれも時間について一章を割いているように、その組織研究のなかでは組織に特有の時間的契機に焦点が当てられている(参照、梅村2020, 2024)。 そのルーマンの組織理論によれば、組織は自らの意思決定によって、たえず固有の時間地平――つまり固有の過去と未来との区別――を切り開く。しかしこの点だけであれば、〈社会システムはそれぞれ自らの作動によって、そのシステムに固有の時間を生み出す〉という、いわば社会的時間のシステム相対性の一種を指すものであり、他の社会システムの時間様相と大きく相違するものではない。より組織に特有であると考えられるのは、ルーマンが記す以下の点である。 「時間についての通常の考えでは、過去をすでに終わったもの、変えることのできないものとして理解し、その反対に未来を変化に開かれているものとして、つまり一部は意図して引き起こし、一部は期待に反して生じ引き受けることになる変化に開かれているものとして、理解している。しかし過去と未来のあいだのこうしたほとんど異論の余地がない関係は、意思決定によって反転される傾向にあり、少なくとも対抗原理によって修正を受ける。意思決定をおこなうことは、そうした時間規定が取り換えられることによって可能になる。過去は不可逆的に規定されたままであり、未来は未規定のままである。しかし意思決定が前提とするのは、その意思決定が過去によって確定されて《おらず》、《それゆえに》未来を確定しなければならない、ということである」(Luhmann 2000: 165-166) もちろん組織においても、過去に起きた事柄そのものや、未来が未知で不確実であること自体には、変わりがない。しかしルーマンによれば、組織は意思決定によって、自らの未来における代替選択肢間の選択を、例えば目的設定のかたちで確定させ、それと同時に自らの過去のうちに、これまで認識されてこなかった代替選択肢の可能性を切り開く。 以上のように、本研究では主にルーマンの『組織と意思決定』時間章における理論的検討をたどり、その見解に基づいて組織に特有の時間志向と時間意味論について考察をおこなう。 文献 Luhmann, Niklas, 1978, Organisation und Entscheidung, Geisteswissenschaften Vorträge G 232, hrsg. von Rheinisch-Westfälische Akademie der Wissenschaften, Opladen: Westdeutscher. ――――, 2000, Organisation und Entscheidung, Opladen: Westdeutscher. 梅村麦生,2020,「ニクラス・ルーマンの時間論」『社会学雑誌』37: 81- 102,(2025年5月22日最終閲覧,https://doi.org/10.24546/E0042280) ――――,2024,「「締切の社会学」試論――ニクラス・ルーマン「時間の稀少性と期限の緊急性」論考より」『時間学研究』日本時間学会,15: 1-14,(2025年5月7日最終閲覧,https://doi.org/10.20740/timestudies.15.0_1).

報告番号435

機能分化論の再検討
神戸大学 坂井晃介

機能分化論は、近代社会を記述する一般理論の一つとして長らく受容されてきた。その起源は社会学黎明期までさかのぼるが、本格的に展開されたのはT.パーソンズおよびN.ルーマンによってである。特にルーマンは、自己言及的なコミュニケーション・システム論に基づき、機能分化を制度的な領域分割としてではなく、異なる意味コードに基づくコミュニケーションの相互排他的運用として再定式化した。 ルーマンにおいて機能分化とは、複数の観察可能性が共在する状況のもとで、社会システムがメディアやコードを通じて自律的に区別されていくプロセスを指す。この立場において、「政治」「学術」「経済」「法」「教育」といった分化した機能システムは、共通の目的に従属するのではなく、それぞれ固有のコードに基づいて自律的に作動するとされる。 しかし、このような理論的洗練にもかかわらず、近年では機能分化論の経験的妥当性が厳しく問われている。たとえば、近代社会の機能分化をコミュニケーション・メディア、コード、機能によって特徴づけるとしても、こうした規定は抽象的すぎて実際の歴史的社会現象を分類・操作化するには不十分であるという批判がある(Holzinger 2017)。さらにこうした批判は、宗教・法・政治が区別されない形でコミュニケーションが作動していた(あるいは現在もしている)社会における理論的有効性への疑義にもつながる。特に植民地支配体制はその筆頭であり、そこではそもそも機能の分離という前提自体が成立しないとみなされている(Leanza und Paul 2021)。 しかしこのような批判は、機能分化論の理論的志向を過小評価している可能性がある。本稿は、ルーマンの機能分化論(Luhmann 1998ほか)およびその再構成を試みる論者たちの議論を再検討することを通じて、この理論を現実の制度の反映として(のみ)ではなく、社会的なものを記述・解釈するための意味論的観察スキーマとして捉え直すことができると主張する。この観察枠組みは、制度設計者や研究者によるセカンドオーダーの観察に限定されるものではなく、コミュニケーションを通じて制度的区別や分化が経験的に意味づけられるなかで実現する、ファーストオーダーの実践としても運用されているとみなされる。 こうした理論的視座に立つならば、「近代社会」の形成や帝国主義的統治・植民地支配も、機能分化的観察図式の運用という経験的な水準で考察することが可能となる。例えば「文明化」や「福祉」といった西洋近代の理念に基づく正当化と機能分化的意味論のなかで、いかに被支配者をとりまく実践が組織化されていったのかが、歴史社会学的な問題として浮かび上がるのである。 機能分化論は、以上のような理論的考察と歴史社会学的反省を通じて、より発展的に再構成することができると考えられる。 文献 Holzinger, Markus, 2017, „Die Theorie funktionaler Differenzierung als integratives Programm einer Soziologie der Moderne?“, Zeitschrift für Theoretische Soziologie, 46(1): 44–73. Leanza, Matthias and Axel T. Paul, 2021, „Kolonialismus und globale Moderne“, Soziologie, 50(2): 150–165. Luhmann, Niklas, 1998, Gesellschaft der Gesellschaft, Frankfurt am Main: Suhrkamp.(馬場靖雄・ 赤堀三郎・菅原謙・高橋徹訳, 2009, 『社会の社会1 • 2』法政大学出版局.)

報告番号436

Rule-followingの観点からパーソンズ『社会的行為の構造』を読む
東京大学大学院 下山颯

本報告では,パーソンズの著書『社会的行為の構造』(以下,SSAとする)をrule-followingの観点から読解する.Rule-followingとは,言語や思考の本性について,ヴィトゲンシュタインの『哲学探究』138~242節,および『数学の基礎に関する解説』第6節が提起する問題のことを指す(SEP 2022: First section, para. 1).Rule-followingの議論とパーソンズのSSAを結び付けて論じる試みについては,キングによる2009年の論文が先行研究として挙げられる.その論文において,キングは規則の懐疑論が提起するパラドックスを回避するものとして,SSAの議論を読解している(King 2009: 279-81).本報告はここでキングが示した方向性に沿ってSSAを読解するものである.報告では,適切/不適切という規範的次元の区別に関する理解可能性を問題にする.こうした区別があることは,言語や思考,および行為に際立った特徴だと言える.言語的なものではない振る舞い,たとえば木の枝から離れたりんごが地面に落ちることは,適切であったり,不適切であったりするものとしては理解されないのである.言語的なものに特徴的なこうした適切性の次元は,セラーズが「理由の論理空間」(the logical space of reasoning)という表現で問題としていた――空間と次元は,もちろん概念的な親類だろう――事柄に他ならない(Sellars [1956] 1997: 76=2006: 207).パーソンズのSSAは,この規範的次元の区別に特徴的な事柄や,その理解可能性についての洞察として読解することができる.本報告の核心は,規範的なものに本質的な特徴の一つとして,パーソンズが誤りの可能性を指摘していることである(Parsons [1937] 2017: 45-6=1976(1): 訳81, [1937] 2017: 250-1=1986(2): 訳189-90).誤りの可能性とは,ブランダムの表現を借りるならば,「現になされることとなされるべきこととの間の区別」(Brandom 1994: 27)の可能性とも言い換えられる.ここで言う「なされるべきこと」とは規範的な事柄であり,現になされたことが不適切であるとは,それが規範と一致していないということなのである.適切/不適切という規範的次元の区別が有意味に理解可能であることは,こうした不一致の恒常的な可能性を前提とする.これは,自然的な事物が法則から外れた振る舞いをすることがありえるとは考えられないということと対照的である(Brandom 1994: 30).本報告では,SSAでパーソンズが「規範的秩序」を「事実的秩序」と対置したこと(Parsons [1937] 2017: 91-2=1976(1): 訳151-2),ならびに行為の「主意主義的理論」を「実証主義的理論」と対置したこと(Parsons [1937] 2017: 250-1=1986(2): 訳188-91)の眼目は,こうした規範的次元の区別に特徴的な事柄を指摘することにあったと論じる.

報告番号437

マルセル・モースの「贈与」の再検討――「供犠」という観点から
関西学院大学 松本隆志

贈与行為は賞罰では涵養できない義務の感覚を惹起させる。贈物の交わし合いには算盤勘定を超えた結びつきを生じさせる。これらは市場取引(経済的交換)では涵養しえぬものである。MAUSS(社会科学における反功利主義運動)を典型として、社会学では一般的にこのような議論があるが、本報告の目的は、この種の議論の嚆矢とも言えるマルセル・モース『贈与論』の読解を通じて、その機制の一端を明らかにすることである。以下はモースが、贈与が絆・縛りの感覚を惹起させる理由を説明した箇所で、本報告の起点となる部分である。 「物を介して形成される紐帯が魂と魂の紐帯であることである。なぜならば、物はそれ自体が魂を有しているからであり、それ自体としてすぐれて魂であるからである。そのため、何かを誰かに贈るということは、自分自身の何ものかを贈ることになるわけである。(中略)こうした観念体系にあっては、他人に何かをお返しする場合、じつはその相手の本質であり実体でもあるものの一部を返さなくてはならない」(『贈与論 他二篇』岩波文庫、2014年、森山工訳、p.99) 「物はそれ自体が魂を有している」がゆえに、彼から“物を受け取る”が彼と“関係を取り結ぶ”を意味してしまうと説明されているが、留意してほしいのは、モースによれば、どんな物にも魂(霊性)が等しく宿っているわけではない。モースは物について、日常生活の用のために消費されるだけの「有用品」と、自分やその集団の一部と言えるほどに一体化した「貴重品」とに弁別している。すなわち、霊性を見出されるのは後者だけであり、贈与交換を牽引するのはこうした性質を帯びた物である。別の言い方をすれば、こうした性質の物を与えることを「贈与」と言う。「何かを誰かに贈るということは、自分自身の何ものかを贈ることになる」ともあるように、自らの魂と言えるほどの物を差し出すから絆が生まれる。縛りが生じる。単に日常的に消費されるだけの物が差し出されたところで、双方の間に――“損した”“得した”はあっても――絆・縛りの感覚は生まれない。相手の一部を有している重みがこうした感覚を喚起させるのである。なお、マルク・アンスパック(『悪循環と好循環』新評論、2012,年、杉山光信訳)は“魂を渡す”“自分自身の何ものかを差し出す”という規定から、自己放棄的な要素を読み込んでいるが、本報告もそれに倣い、「贈与」を「供犠」の一種として捉える。 以上が本報告の土台であるが、報告当日は『贈与論』の知見が呪術的観念に支配された未開社会に限ったものではなく、どのような振る舞いをすれば相手に「敬意」を伝えることができるのか、「誠意」があることを認めてもらえるのかといったコミュニケーション一般の問題にまで援用できる点をもう少し詳しく提示してゆく。そのために「互酬性」(相手と同じ出方をする、同じ態度で応じる)、「純粋贈与」(贈与行為への返礼どころか、それが存在したという認知すら求めない究極の自己放棄)などの概念と対比させてゆく。

報告番号438

「政治的公共圏の新たな構造転換についての考察と仮説」におけるハーバーマスの熟議民主主義論の展開
東北大学 洪逸飛

「政治的公共圏の新たな構造転換についての考察と仮説」におけるハーバーマスの熟議民主主義論の展開 洪逸飛(東北大学大学院文学研究科) 本発表では、ユルゲン・ハーバーマスの近年の著作『公共圏の新たな構造転換と熟議政治』(2022年)に収録された主要論文「政治的公共圏の新たな構造転換についての考察と仮説」(以下「考察と仮説」)を中心に、同論文における熟議民主主義論の理論的展開と新たな概念導入について考察する。 1962年の代表作『公共性の構造転換』以降、ハーバーマスは公共圏と民主主義に関する議論を継続してきたが、「考察と仮説」では、インターネットの普及と情報環境の変化を背景に、政治的公共圏の機能変化とその危機を論じている。本研究は、同テキストの理論的位置づけを明確にし、特に新たに提示された「規範落差(normative Gefälle)」という概念の重要性に焦点を当てる。 「規範落差」とは、市民が現実の政治制度に対して抱く規範的な期待と、実際の制度的現実との間に存在する乖離を指す。この概念は、熟議民主主義の成立条件として重要な市民的意識の形成を説明する鍵として位置づけられており、同時に民主的正統性の再構成の必要性を示唆している。ハーバーマスは本テキストにおいて、規範落差を市民の政治的関与を促す契機とみなし、これをもとに民主主義の「合理的再構成」の必要性を論じている。 また、本論文では、デジタルメディアの台頭により従来の公共圏における熟議的コミュニケーションが損なわれ、「審査の消失」や「匿名性」の増大がもたらす「半公共圏」という新たな社会空間の登場が分析されている。この変化は、世論形成の質を低下させ、結果として熟議民主主義の基盤を弱体化させる要因として捉えられる。 本研究は、「考察と仮説」が従来のハーバーマス理論とどのように接続されているのかを明らかにしつつ、民主主義理論、特に熟議モデルの現代的展開に対してどのような貢献をなしているのかを検討する。先行研究においては、規範落差の理論的位置づけや公共圏の変容に関する詳細な分析は未だ不十分であり、本発表ではそれらを補完し、ハーバーマス理論の再構成の中核的要素として「考察と仮説」を捉える視点を提案する。 結論として、「考察と仮説」は単なる補足的論考ではなく、ハーバーマス理論体系における中継点として、熟議民主主義と社会理論の接合を果たす重要なテキストであることを提示したい。

報告番号439

見田宗介における「交響するコミューン」の3面相
大阪産業大学 德宮俊貴

見田宗介の社会理論・社会構想の中心的なコンセプトでありながら,「交響するコミューン(symphonic commune)」あるいは「交響圏」の概念としての内実は明確とはいえず,葛藤なき世界[長谷 2016]とか趣味のサークル[岡崎 2023]といった具合に,居心地のよい静態的な調和の関係として理解されることも多い。見田の著作においても,価値や趣味を共有する小集団の点在を想起させるような記述が事実ないわけではない。他方で,同質性を強いる溶融集団(J.-P. サルトル)の暴力性に抗するために,異質な他者との出会いによって絶えず更新されていく動態的な関係として見田はむしろ交響を提唱したわけでもあり[德宮 2022],こうした正反対の解釈が両立してしまっているところに見田の所説の難しさと問題があるといえる。 本報告では,見田の著作群から垣間見える交響するコミューンの展望を,自由な共同体(対自的ゲマインシャフト),異質的相補性,弁証法的相剋の3種に整理しなおし,それぞれの論点の含意を究明したうえで,見田の着想の独創性を最大限に展開しうる概念として再構成するための読解の方向性について検討を試みる。 第一に,全人格的に結ばれるという意味で交響するコミューンはゲマインシャフト的関係の一種であるが,あくまでも各個人の自由意思による選択,脱退,移行,創出,重複加入が保障されたかぎりでの対自的(voluntary)な共同態でなければならない。個人の自由の最優先が強調される一方で,共同体やゲマインシャフトの語が喚起する同質性のイメージがここには附着している。 第二に,男性と女性,大人とこども,青年と老人,健常者と身障者などのカテゴリーの差異(それすら個人ごとの差異へと突破する必要を見田は連呼するのだが)を無視する形だけの平等=同質化に抗して,多様性をより際立たせ,対等でありつつ相補しあう関係として見田は交響を提唱する。É. デュルケームの有機的連帯よろしく個々人の異質性によってこそ結ばれることが強調される一方,相補という表現でそれらの調和が(無邪気に)期待されているようにも聞こえる。 第三に,異質な他者とは意のままにならない相剋的な他主体を指し,そのような他者との不意なる出会いによって自己はそのつど解体され変容をせまられるのだが,それこそが歓びとして感覚され弁証法的に連鎖していくところに交響するコミューンは存立する。ここでは主体相互のダイナミックな自己変容が強調される一方,関係の安定的な持続性はむしろ低いものと想定するほかなくなっている。 第一の側面は自発的結社(association)の概念に近く独自性は少ないといえるし,第二の側面は本質主義と癒着すれば差別の容認につながりかねない。第三の側面はケア研究などのシーンで認識されていることとも重なるけれど,他者によって自己が変容するような関係に理論的に接近するための概念として,見田の交響するコミューンを読解する可能性があるということではないだろうか。

報告番号440

エフェクチュエーション。パイの奪い合いからパイを作り出す起業へ。――因果論から、縁起論へ。客観の科学から主観の科学(現象学)へ。
起業家研究所omiiko 松井勇人

エフェクチュエーションが話題だ。世界の350を超える大学でテキストに採用され、学会でも真剣な議論が続く。 提唱者はインド系の女性研究者、サラス・サラスバシー。 彼女は「パイを奪い合うのではなく、パイを作り出せ」と言う。パイの取り分を増やすための既存の戦略論とは一線を画す。 熟練起業家ほどマーケティングを信用せず、パイを作り出すことに力を入れる。自ら開拓した市場ならせわしい薄利多売とならず、思考を巡らせた経営が可能だ。 「市場とは人間関係である」 エフェクチュエーションはそう述べる。 草むしりで生活をしている「草むしりマイスター協会」。 彼らの話が興味深い。 「会社の周り2キロ四方の人たちに顔を知ってもらいます」 「町内会やお祭りなどには必ず参加します」 「するといつの間にか仕事が入り、生活できるようになっているんです」 マーケティングでは「草むしり」に市場があると教えることはできない。 自ら開拓すれば事情が違う。価格競争にも巻き込まれにくい。 エフェクチュエーションと対置される概念はコーゼーションというものだ。 法則を重視し、法則に則るものがコーゼーション。cause and effectに由来し、因果論と訳される。 エフェクチュエーションには訳語がないが、ここでは「縁起論」と訳す。縁起とは「人と人の縁を作ること」とさせて頂く。 エフェクチュエーションでは、 「この仕事をしたい」 「彼女らと働きたい」 資格や能力でなく、コミットしてくれる人と共に会社を作る。因果論と違い予想外も付き纏う。 ・因果論:AすればBになる。 ・縁起論:AとBとCと…の関係性の中で、たまたまZが起こる(偶然と必然が交錯し、創発が起こる) ハンナ・アーレントの『人間の条件』を思い起こす。 彼女は人間の条件を三つに整理した。 ・労働:生命を維持するため食べ、働く行為。 ・仕事:道具や制度といった人工物を作る行為。 ・活動:他者と関わり、語らいの中で新しい始まりを生み出す行為。 以上が彼女の「人間の条件」だ。「活動的」な場所の代表はギリシャ時代のアゴラ。人はそこで言葉を交わし、自身を見出した。 アーレントが最も人間的・創造的と評するのは「活動」だ。しかし、現代は「労働」に強く偏る。 人は労働を通し「What(肩書きや資格)」を手にするが、「Who(生きる意味)」は見出せない。 「活動を忘れれば人は動物へと堕してしまう」 アーレントはそう警告した。 日産、パナソニック、マツダ、東芝・・・。 国を背負ってきた会社で大規模なリストラが続く。関連業者は戦々恐々とし失業者の大量発生が懸念される。 特殊詐欺の拡大が止まらない。2024年被害総額721億円。過去最悪の2014年565億円を大幅に上回った。 我らも例外ではない。「頭を使うことは人を出し抜くこと」と考える起業家もいる。私も被害を被った。 戦略論はゼロサムゲームゆえ争いを招く。 一方、熟練起業家は人間関係を作る。 頭の使い方が違うのだ。 研究を深め人間関係に根ざした起業手法を確立したい。 起業にはれっきとした手順がある。 エフェクチュエーションでそれが述べられている。 このまま起業を手探りにしておくのはまずい。 なにを学べば生き残れるか。 学歴や資格はもはや時代にそぐわない。 今は市場を作り出す人間が最も強い。 社会に資するヒントをエフェクチュエーションに探る。

報告番号441

無数の炸裂の行き着く先――1960-1970年代淡路島北部における反空港闘争
武蔵大学 林凌

1960年代後半から1970年代にかけて、新関西国際空港の立地にあたり様々な紆余曲折があったことはよく知られている。他方でこの新空港建設において、当初は淡路島北部が有力案であったこと、またそれに対する激しい抵抗運動があったことは、今やほぼ知られていない。この忘れ去られた運動を、社会運動論と批判的都市研究の文脈に定位させることが、本発表の目的である。 かつて濱西(2008, 2025)は、社会運動論においては動員論と歴史的行為論が歴史的に並列してきたこと、後者が「〈運動の意義・意味を解釈する研究〉」として理解できることを主張した。他方彼の議論では、ティリー、デュベ、トゥレーヌといった社会運動論の国際的中核をなした研究者の業績が集中的に検討される一方で、社会運動に対する関心を継続的に抱いてきた、批判的都市研究に代表される近接領野や日本の社会運動に関する諸研究を、この図式で整理した場合どのような知見が得られるのかについては、あまり触れられていない。 以上の状況を踏まえ、本発表では当該運動に関する詳細な経緯を示したうえで、以下のことを主張する。第一に、マニュエル・カステルを嚆矢とする批判的都市研究における「都市社会運動」をめぐる議論と、全国総合開発計画をめぐる社会変容を主題化した日本の環境社会学の議論は、「〈運動の意義・意味を解釈する研究〉」として理解可能であること。第二に、この淡路島北部における反空港闘争は、「受苦圏」から発せられた集合的消費をめぐる異議申し立てであることから、後背地からの「都市社会運動」として評価しうるということ。第三に、この反空港闘争が、兵庫県-神戸市-関西財界の利害同盟による、新関西空港立地に伴う淡路島北部の開発と明石海峡大橋誘致を目指した動きへの反発により生じたことから、地理学者のニール・ブレナーが言うところの「リスケーリング」をめぐる議論にこの事例を位置づけることが可能であること。第四に、以上の議論を踏まえ、「都市社会運動」の「意義・意味」を解釈するにあたり、本事例から近年の批判的都市研究におけるルフェーブル解釈と整合的な知見を――炸裂の契機(moment of rupture)、すなわち空間の占有に伴う権力関係の強制的変化を生み出すという意義・意味を(Halvorsen 2014)――引き出しうること。 以上の内容を踏まえ、本発表ではこの淡路島北部における空港反対運動を、現代の批判的都市研究/社会運動論の系譜に位置づけ、またその現代社会に与えた影響の再評価を目指す。 参考文献 濱西英司, 2008,「動員論と行為論、及び第三のアプローチ――方法論的差異と社会運動の『質』」『ソシオロジ』53(2), pp.39-53. 濱西英司, 2025,『『社会運動は何を行うのか――運動行為論の構築へ向けて』』新泉社. Halvorsen, S., 2014, Taking Space: Moments of Rupture and Everyday Life in Occupy London. Antipode, 47(2), pp.401-417.

報告番号442

運動行為の攪乱性とその効果――1980年代指紋押捺拒否運動の事例から
同志社大学大学院 金由地

1980年代、日本に住む外国人を対象に指紋押捺を義務づける外国人登録法に対し、在日朝鮮人を中心とする多くの人びとによって、その「拒否」を通じた不服従の運動が広く展開された。いわゆる、「指紋押捺拒否運動」である。この運動は、最盛期に1万人を超える拒否者を生み出し、複数回の法改正を経て最終的には指紋制度を撤廃させたことから、しばしば「成功した運動」として位置づけられてきた。しかし一方で、人びとの抵抗がいかにして制度や支配秩序を揺るがし、中央当局の譲歩を引き出すにいたったのか、その力学については十分に議論されてきたとは言いがたい。  先行研究の多くは、政治的機会構造(political opportunity structure)を理論的な土台としつつ、普遍的人権理念の浸透や在日朝鮮人の世代交代とそれにともなう「定住志向」の高まり、また国内外のアクター間の連携形成といった、運動の外部にある政治的・社会的条件に着目してきた。それらは運動の発生や展開を理解するうえで一定の有効性をもつものの、運動行為それ自体がいかなる変化や効果をもたらしたのかという点については、これまでまったくといってよいほど分析がなされてこなかった。  本報告は、当事者へのインタビュー調査および関連資料の分析をもとに、指紋押捺拒否運動における抵抗のあり方と、それがもたらした変化のプロセスを考察する。指紋押捺拒否運動の動態は、個々の拒否者、現場で実務を遂行する地方自治体、そして政策決定の主体である中央当局という三者の相互作用によって大きく規定されていた。全国各地に伝染し増殖していく拒否の波は窓口現場を混乱させ、やがて拒否者に対する告発の留保や法務省通達の無視といった自治体の離反が次々と生じた。その結果、外国人管理行政は麻痺状態に陥り、これを脅威とみなした当局は法改正でもって運動に対処しようとした。言い換えれば、個々の外国人による拒否行為、そして自治体の非協力という多層的な不服従の伝播と集積が、制度を変えさせる力となっていったのである。  本報告では、このようなせめぎ合いが織りなすダイナミズムを具体的に描き出すとともに、特定の運動行為に内在する政治性に着目したフランシス・フォックス・ピヴェンらの〈攪乱の力〉の概念に依拠することで、支配秩序のなかに組み込まれた人びとの自発的な拒否や非協力が、制度を内側から切り崩し、重大な構造的変革の契機となりうることを明らかにする。これにより、これまで見過ごされてきた運動行為それ自体がもたらす効果を理論的に捉えなおし、社会運動における行為の力を再考する視座を提示する。

報告番号443

社会をつくる運動――先住民ウェツーウェテン主体の共同キャンプ生活の場から
京都精華大学 鈴木赳生

いま北米では、内陸部での非在来型石油資源の採掘とともに、採掘した資源を輸送する無数の巨大パイプライン開発が進められている。大陸を縦横無尽に掘りおこしてつくられるパイプラインは、いくつもの土地をグローバルな資本開発の「犠牲区域」(石山 2020)として破壊していくため、これに抗する先住民運動や環境運動が展開されてきた。本報告ではそのうちの1つ、先住民ウェツーウェテン(Wet’suwet’en)主体の反パイプライン運動について、参与観察調査をもとに論じる。  カナダ西海岸ブリティッシュ・コロンビア(BC)州の北西部で展開されるこの運動は、パイプラインに反対するだけの運動ではない。パイプライン開発予定の経路上に共同生活のキャンプをつくるこの運動では、先住民が土地に生活の場を築き、土地とのコネクションを取りもどすことを重視している。現代カナダでは、先住民と言ってもその大多数は都市か、政府によって割り当てられた限定的な居留地で暮らし、本来自民族が暮らしてきた「先祖伝来の土地」とのつながりは薄くなっている。しかしこの状況のなかで、特に1980年代以降のBC州では、グローバル資本による過剰開発が民族の根ざす土地を荒らす事態に直面して立ちあがり、土地を占拠するなどの直接行動によってそれを阻止しようとする先住民運動が湧きおこってきた(Blomley 1996)。これはオキュパイ運動に代表される現代の直接行動の系譜(Brown et al. eds. 2018)に連なるものだが、先住民運動の場合、希薄になった土地との関係を結びなおすという意味合いを持つ点にユニークさがある。  だが本報告が取りあげる運動においてさらに興味深いのは、このように「先住民のもの」に見える運動に先住民でない多様な人々が加わり、狭義の先住民運動や環境運動のカテゴリに収まりきらない性格がうまれていることだ。冬にはマイナス20度にもなり、電気やインターネットといったインフラも整備されていない初期の段階から、非先住民の支援者たちは先住民のリーダーたち以上の数でキャンプ生活に加わっていた。警察にも監視されるこの厳しい環境、都市の安楽からは遠く離れた生活に、なぜ直接関係のない非先住民の人々まで参加するのか。キャンプ生活運動が実際どのようなもので、一体なにをおこなっているのか、センセーショナルな瞬間のメディア・イメージから離れてその内実を見ない限り、この問いに応えることはできない。本報告ではキャンプの内側から、特定の土地と密接に結びつく生活の実感を求める参加者たちの姿を具体的に描きだす。この作業をとおして、先住民と非先住民、人間と人間以外の存在が織りなす社会をつくるという、この運動の核心を明らかにしたい。 参照 Blomley, Nicholas, 1996, “‘Shut the Province Down’: First Nations Blockades in British Columbia, 1984-1995,” BC Studies, 3: 5-35. Brown, Gavin, Anna Feigenbaum, Fabian Frenzel and Patrick McCurdy eds., 2018, Protest Camps in International Context: Spaces, Infrastructures and Media of Resistance, Bristol: Policy Press. 石山徳子,2020,『「犠牲区域」のアメリカ―核開発と先住民族』岩波書店.

報告番号444

地下鉄を止める障害者運動――韓国全国障害者差別撤廃連帯の「闘争」のかたち
東北大学大学院 小野里涼

本報告の目的は、韓国の全国障害者差別撤廃連帯(以下:全障連)による「地下鉄闘争」の展開とその現場で発生する「受け手」の反応を記述することである。全障連は、2007年に設立された障害者団体で、ソウルの中央事務所を拠点に全国15の地域に連帯団体を有する。全障連は障害者の権利を求める自らの運動を「闘争」と名付け、障害者・非障害者の活動家が地下鉄やバスの運営を妨げたり、駅や建物に籠城したりといった多様な直接行動を続けてきた。韓国の障害者運動はおおきく「闘争」路線と「穏健化」路線に分かれており、全障連の闘争は乗客だけではなく、穏健な活動を進める他の障害者団体からもしばしば非難される。本報告が着目するのは、全障連が2021年から開始した「地下鉄闘争」である。既存の研究も「地下鉄闘争」に注目し、その報道のされ方や運動の主張の意義を分析してきた(Lee 2023: Goh 2024など)。その一方、「闘争」の現場に焦点を当てると、運動側と「受け手」の衝突は自明視され、現場での両者の行為は記述されてこなかった。そこで、本報告では報告者がこれまで行ってきた全障連への参与観察調査のデータや全障連に関連する資料を用いながら、「地下鉄闘争」の現場での運動行為と現場に居合わせた人びとの反応を記述することを試みる。「地下鉄闘争」では、障害者活動家が車椅子を地下鉄のドアの間で停車させ、一部のメンバーは列車内でのスピーチを行う。それによって地下鉄は(十数分間)遅延する。列車に乗り合わせた乗客からは「こんなやり方では誰も共感できない」「私の出勤が遅れたら責任を取れるのか」といった非難や罵声が投げられ、運動メンバーへの身体的な攻撃が為されることもある。この非難や攻撃に対して、全障連は無反応・非暴力を原則としている。全障連側は「障害者の権利獲得のためにはこの方法しかない」と認識する一方で、車椅子で電車を止める役割を担う活動家は「(乗客からの罵声を浴び続けることが)精神的に辛い」とも口にする。本報告で「地下鉄闘争」の現場を記述することで、この直接行動、ひいては「全障連」の活動の背後にある葛藤と連帯の実践を理解する手掛かりとしたい。さらに、社会運動が活発な韓国社会における「社会運動の受容性」について検討する出発点としたい。参考文献:Lee doeun, 2023, A Study on the mechanism for discoursive constitution of meaning and subject related to Solidarity Against Disability Discrimination(SADD)’s subway ride action in the Korean Daily Newspapers: Chosun and Hankyoreh, 장애의재해석,4(1):37-66./Goh Byeong-gwon , 2023, Making communal life beyond the politics of inclusion : The Disability Movement’s Challenge to Civil Society in Korea(2021~2023), ECONOMY AND SOCIETY, 139: 92-117.

報告番号445

運動行為としてのロビイング――NPO法制定過程におけるインサイド戦略の記述・分析を手掛かりに
立教大学 原田峻

【目的】近年、狭義の利益団体に限定されない市民団体のロビイングが活発化し、様々な分野で政策に影響を与えるようになった。これらの運動行為を、どのように記述・分析できるだろうか?ロビイングについては、その多くが先取的よりも反応的であり、他の政治家や政策参加者の行動に規定されること(Baumgartner et al. 2009)、などが指摘されてきた。運動団体が他のアクターに反応しながら、自分たちの主張をどのように実現しているのかを詳述することが、運動行為論としてロビイングを捉え直す手掛かりとなるだろう。そこで本報告では、市民団体のロビイングのもと制定・改正されたNPO法(特定非営利活動促進法)に着目する。報告者はかつて、NPO法の立法運動が生起した1990年前後から1998年の法制定、2011年・2016年の法改正に至る、運動内外のアクター間関係と運動のインサイド/アウトサイド戦略、政策的帰結について明らかにした(原田 2020)。本報告では、当時の与党3党が政策合意をした1996年1月から、法案が衆議院を通過した1997年6月までの、運動のインサイド戦略に焦点を絞る。この時期にNPO法をめぐる利害関係者が増えるとともに、与党間の対立が浮き彫りになり、シーズは公式・非公式に様々な交渉を行っていたからである。こうした状況で、シーズが誰とどのような方法で、どのような相互行為をおこなったのかを克明に辿るのが本報告の目的である。【方法】データとしては、この時期にシーズが送受信したFAXのコピーやシーズのニュースレター、政党スタッフの手記、関係者のインタビューなどを用いる。これらは報告者が「NPO法制度の制定過程の記録保存と編纂」事業の一環で収集・整理したものであり、個人情報などに留意しながら分析を行う。【結果】本報告が対象とする時期は、自社さの与党3党における見解の相違の表面化や政局の混乱、衆議院解散・総選挙、民主党も交えた与党3党の修正協議、法案の衆議院提出と野党との調整、などが目まぐるしく展開した。その中でシーズは、局面ごとに要望書を提出しつつ、「インサイダー」(Banaszak 2005)の位置にある政治家と綿密に連携したり、各政党スタッフや議員秘書とFAXで情報共有したりしながら、幅広いアクターと相互行為をしていた。そして、刻一刻と変わる状況の中で争点の優先順位を瞬時に選び、双方が妥協可能な代案を提示する形で、法案の文言修正などを働きかけていた。こうした日々の運動行為と細部にわたる修正の蓄積が、NPO法をめぐるロビイングを形作っていたのである。【結論】社会運動の政策的帰結は、「アジェンダ・セッティング、政策決定アリーナへのアクセス、望ましい政策の達成、政策的履行の監視、長期の達成」などに理論化されてきた(Andrews and Edwards 2004)。だが運動行為としてのロビイングをつぶさに記述・分析すると、「政策の達成」としては一面的に描けないような、「合意形成」が困難な場面における「他者と戦略的に折り合う実践」である「了解」(井口 2019)として捉え直すことができる。このことが持つ運動行為の意味について、考察を深めたい。【謝辞】本報告はJSPS科研費25K16801の助成を受けた研究成果の一部である。

報告番号446

高額療養費制度の引き上げに対する患者団体の運動行為の記述と分析――運動当時者の視点から「成功」の要因を振り返る
東京大学 河田純一

本報告は、高額療養費制度の自己負担上限額引き上げ(2024年度診療報酬改定)に対して展開された患者団体の運動行為を記述し、その過程で示された「成功」の要因を、運動を主導したリーダーの視点から振り返るものである。分析視座としては、濱西(2020)が提示する「社会運動をけん引する組織の戦略や活動と運動の盛衰・成否との関係性」を参照し、制度変更の撤回と見直しという成果に至った要因を検討する。  報告者自身が患者団体の一員として当該運動に参画した経験をもとに、国の審議会資料、議会議事録、報道記事などの公的記録に加え、当事者として記録してきた非公開の議事メモや日誌を用いて、公式・非公式の動きを可視化する。分析対象は、今回の運動の一翼を担った、全国がん患者団体連合会(全がん連)、日本難病・疾病団体協議会(JPA)、および慢性骨髄性白血病患者家族の会・いずみの会の三つの団体の運動行為とその影響とする。本報告では、この三団体の動きに焦点を当て、2024年3月の参議院予算委員会での制度引き上げ撤回までとする。  とりわけ全がん連の理事であり、運動の先頭に立ったひとりの轟浩美は、運動をふり返る中で、①医療費制度に対する将来的な行動に備えて2015年に全がん連を設立したこと、②数ではなく現場の声を重視して緊急アンケート(1月実施)に3,623名の切実な声が集まったこと、③疾患の壁を越えた連携を目指し「日本患者会議」の設立準備を進めていたこと、の三点を「ポイント」として挙げている。  このうち①③は、運動体が制度的変化に“先行”して組織化されていたことを示し、制度引き上げが俎上に載った際、既存のネットワークや人材、政策関係者との接点を活かし、議会、厚労省、学会、メディアへの迅速かつ多面的なアプローチが可能となった。これは、日本における患者アドボカシー運動が一定の基盤を形成しつつある証左ともいえる。背景には、がん対策推進基本法の成立とそれに伴う患者・遺族の政策形成参画、さらに難病法をめぐる制度参加の積み重ね(渡部・安藤)といった経験の蓄積がある。  ②からは、背景の見えにくい署名よりも、当事者の経験をナラティヴとして社会に提示することが、世論形成=社会問題の構築において先行するという認識があったことがわかる。実際、このアンケートは、不可視だった経済的困難や治療継続の不安を可視化するとともに、がんに限らず他疾患の患者、家族、医療者が制度の影響を受けていることを浮かび上がらせた。さらに中西・上野(2003)が述べるように、「自己定義によって、自分の問題を見きわめ、自分のニーズを自覚する」ことによって当事者になるという意味で、このアンケートは語る主体を生み出す「当事者化の装置」としても機能した。 参考文献 濱西英司,2020,「社会運動を研究するには?」濱西栄司・鈴木彩加・中根多惠・青木聡子・小杉亮子『問いからはじめる社会運動論』有斐閣,1-13. 中西正司・上野千鶴子,2003,『当事者主権』岩波書店. 渡部沙織・安藤道人,2019,「難病政策の社会保障化における政策形成と利用者負担――2013年度法案審議に関する考察」『立教經濟學研究』73 (1),59-68.

報告番号447

日常の再建に関わる実践――中国の若者コミュニティの空間づくりを例に
東京大学大学院 張馨予

[目的]一般市民による社会運動への数十年にわたる警戒により、当該社会において、行為自体が社会運動の行為にあたる場合でも当事者側として社会運動だと定義しにくく、あるいは運動のあり方自体も影響される。本報告は、変化を意図した日常的な抵抗と、監視社会による圧力によって意図せざる変化を成した現象を、「コン・ジェン(空間)」実践とファンの戦術の二種に分けて、当事者たちが生み出した変化とその動向を考察する。①「コン・ジェン(空間)」実践。コロナ以降、中国の都市部で若者主導の「空間」(読みコン・ジェン、意味は日本語と同義である)が雨後の筍のように急増している。カフェ、バー、放映室、書店などの役割を持つ「空間」が若者によって運営され、多くの若者が集まる。その背景として、一方、経済的停滞や就職難、文系や芸術系の学問への軽視といった現実があり、若者にとっての居心地のいい場所の重要さが増す。他方、中国での現代アートやパフォーマンスアートの分野では、社会的参加を狙う「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」や「ソーシャル・プラクティス」の動向があり、また「オルタナティヴスペース」の影響も見られ、若者のコミュニティを支える空間ではアーティストたちの活躍と概念の浸透が現れる(Urban Interventions Manifestoを参照)。②ファンの戦術。近年のインターネット検閲と政策の変化によって、一部のファンはコンテンツの入手方法や討論の場を失うことになるが、ファンたちは、広範に行われる検閲に正面から反対することが極めて困難なため、規制の意図を慎重に読み取りつつ、自らの活動が許される限界を探りながら行動している。報告では、張哲瀚(チャン・ジャーハン)とロックシンガーの李志(リ・シ)の事例を取り上げ、各ファンの戦術を紹介する。BLドラマで人気を博した張は「非愛国的」という理由で炎上し、活動が制限され、歌手の李は政治を風刺した歌詞により公式での活動が困難となっている。 しかし、二つ芸能人のファンは様々な経路を辿って、中国の規制が届かない場所でのライブツアー興行を成し遂げ、遠征に向かった。[方法]以上のケースに現れたコミュニティでオフラインまたは対面でのフィールドワークを行い、参与観察を通じて、その活動を記録し、分析する。また、関連する事例を記事などで補完しつつ、これらの変化を取り巻く文脈を考察していく。[結果]「空間」の実践は日常生活と密接に結びつき、若者たちはストリートや広場、家庭、職場とも異なる空間で、自らの望む「日常」を手に入れようとしている。この実践はライフスタイルとして形成し、様々な都市の若者に拡大していく。ファンの事例では、言語パフォーマンス、場所性を重視した越境応援活動、技術的制限の乗り越え、ナショナリズムの超克を意図しない越境的消費といった特徴が見られた。[結論]これらの事例での行動は、当事者たちにとっての日常を守るあるいは構築する行動であると言える。「空間」で営まれる日常は中国社会の一般的な日常とは異なり、あるいは失われた日常とも言える。その「日常」をオルタナティヴなライフスタイルによって再建する必要がある。ファンにとっても、好きな芸能人についてネットで語り合い、消費し、ライブに参加するという日常が失われた。ネットのパフォーマンスと遠征といった形で新しい活動空間を手に入れ、ファンとしての日常を再建した。

報告番号448

「語りかけ」の実践としてのミュニシパリズム――杉並区における情報発信の変化
筑波大学 鈴木彩加

本報告では、杉並区における2022年区長選挙とその後の行政運営・情報発信の変化を素材に、「社会を変えようとする行為」としてのミュニシパリズムを検討する。特に焦点を当てるのは、行政の体外発信言説がどのように変化し、住民参加をめぐる条件がどう変容しうるのかという点である。近年注目されているミュニシパリズムは、分権・包摂・民主的統治といった理念のもと、市民と行政の関係を再構築する取り組みとされるが、そこでの情報発信の様式は決定的に重要である。  日本においても、これまで消費者運動をはじめとする女性運動が地方自治に一定の影響を与えてきた。自治体レベルでの子育て支援や福祉政策の充実には、住民の声を制度に反映させようとする働きかけが存在していた。しかし、そうした運動の多くは、制度内容の変更や新設を求めるものであり、制度が市民に向けて「どのように語るか」にまで踏み込んだ試みは限定的であった。これに対して杉並区の事例では、行政が用いる言語や情報発信の様式そのものが、運動的価値に照らして見直されつつあるという特徴がある。この点において、従来の女性運動と杉並区のミュニシパリズムとの間には、アプローチの違いが見て取れる。  分析にあたっては、共同研究チームが2024~2025年に実施したインタビュー調査を用いる。調査対象は、区長選挙に関与した市民活動家、ボランティア、支援団体の関係者、そして新区長本人である。選挙過程においてどのような語りが構築され、どのような価値観が共有されていたのかを分析するとともに、就任後の行政情報──広報誌、公式ウェブサイト、公文書など──の変化を比較検討する。特に、公的文書の「わかりにくさ」が住民参加を妨げる要因となることに着目し、語彙や文体、構成、表現方法の変化を通じて、ミュニシパリズムが情報発信のあり方にどのような影響を与えたのかを明らかにする。  ここで扱う行政文書の「わかりにくさ」は、単なる技術的問題ではない。行政の専門性や責任の所在を意図的にあいまいにするため、あるいは制度の境界線を引くために、意図的に複雑な文体や抽象的な言い回しが用いられてきたという側面がある。その意味で、行政文書の語りを変えるということは、単に言葉をやさしくすることではなく、制度運営における権力の分布や、誰が制度にアクセスできるのかという構造そのものを問い直す行為となりうる。ミュニシパリズムがこうした構造的な「わかりにくさ」にどう向き合っているのかは、単なる広報の問題を超えて、制度改革としての射程をもつ可能性がある。  本報告の目的は、ミュニシパリズムを「制度の外」からの運動ではなく、「制度の内側」からの変革プロセスとして捉えることである。社会を変えようとする行為が、選挙や政策提言といった明示的な実践のみならず、行政の語り方そのものを変える営みとして現れてくるとすれば、その変化を丁寧に記述することには大きな意義がある。理念として掲げられる「参加」や「包摂」が、どのような言語を通じて制度へと実装されていくのか。その過程を具体的に分析することで、杉並区におけるミュニシパリズムの射程と課題を検討したい。

報告番号449

現代社会における対面の再配置――抽象的システムへのアクセスポイント
久留米大学 石橋潔

【対面性の問い】人が人と直接に会い、対面するとはどのようなことなのか。それには固有の社会的機能があるのか。そして対面は現代社会でどのように再配置されてきているのか。ICTをはじめとするさまざまなコミュニケーションメディアが発達するなかで、私たちは対面と非対面を使い分けられるようになってきた。そのとき対面が社会のなかでどのような機能を持ち、どこに配置されているのかを検討する必要がある。【報告対象とする「対面」】現代社会における対面を考えるとき、「それ自体のため」に対面が行われている領域と、「ある目的のために」行われている領域の2つを区分して分析する必要があるだろう。前者の例としては、親密圏のなかの対面(家族・友人との交流、面会、その極限的な形態としての危篤のときの対面など)、入学式や結婚式などの儀礼もその例である。後者の「ある目的のために」行われる対面の例としては、企業活動における対面営業、教育における対面授業、医療における診察(初診)、消費者保護のための不動産契約などの重要事項説明などが挙げられる。この報告では、現代社会において対面が「ある目的のために」社会のシステムに組み込まれている例を分析したい。特に事例として挙げたいのは、生命保険の対面営業や保健医療福祉分野の対面である。【理論枠組みと分析:アクセスポイント論】現代社会における対面の再配置を考える際に、重要な理論的枠組みとなるのがA.ギデンズのアクセスポイント論である。ギデンズによると、近代化による抽象的な社会システムの発達によって対面関係から解放される(脱埋め込み)が、逆にそのシステムに人を接続するために、対面関係が再配置(再埋め込み)されるという。つまり対面関係は、人とシステムをつなぐアクセスポイントとなるというのである。このことは社会システムの抽象化・効率化が進むほど、対面関係が必要とされるという逆説的な現象が生じることを意味している。この現象はポスト産業社会における対人サービス職の増加として確認できる。こうした対人サービス職は専門知識を分かりやすく伝え、利用のためのガイドをし、市場メカニズムや社会保障などのシステムに人をつなぐアクセスポイントの役割を果たしている。このアクセスポイントでは「顔の見えない抽象的なシステム」と「顔の見える対面的関係」という異質な要素が媒介される。この対面的関係にはシステムに還元できない情緒的・非システム的要素が存在し、それが人を抽象的システムに接続するうえで重要な役割を果たしている。しかし、異質な要素が接続されることで、「システム」「対面関係」「人」それぞれに対して一定の負荷をかける側面も存在する。【文献】Giddens, Anthony (1990) The Consequences of Modernity, Stanford University Press.(松尾精文・小幡正敏訳 (1993)『近代とはいかなる時代か?:モダニティの帰結』而立書房.)

報告番号450

対面的相互行為はどこまで必要か?――コロナ禍の経験とオンライン・ミーティング・ツールの普及をふまえて
名城大学 櫻井龍彦

【目的】コロナ禍はわれわれの社会生活に多大な影響をもたらしたが、対面的相互行為に関する研究関心からすると、特に注目すべきこととして以下の2点をあげることができるように思われる。第1に、コロナ禍においては人と人との直接的な関わりが大きく制限されたが、それゆえにわれわれはあらためて、対面的相互行為という関係性の社会的な意味や作用について考えさせられたこと。第2に、ZOOMをはじめとするオンライン・ミーティング・ツールの普及により、「間接的な対面的相互行為」という新たな形態の相互行為がわれわれの社会生活に深く根付いたこと。以上の点をふまえ、旧来の対面的相互行為、すなわち「直接的な対面的相互行為」の必要性について考察する。 【方法】まず、É.デュルケム、G.ジンメル、A.シュッツ、E.ゴフマン、J.メイロウィッツを主な手がかりとして、社会学において対面的相互行為の特質やそれが果たす作用がどのように論じられてきたかを整理する。それをもとに、コロナ禍における対面的相互行為の制限がわれわれの社会生活に与えた影響と、オンライン・ミーティング・ツールの普及によって間接的な対面的相互行為が日常化したことの意義について検討する。その上で、シュッツが「直接世界」と呼び、ゴフマンが「ナマの感覚」による自他の相互知覚状況として対象化したもの、つまり上述の直接的な対面的相互行為の必要性はどのような点にあるのかについて考察する。 【結論】間接的な対面的相互行為が根付いたことなどにより、直接的な対面的相互行為の必要性は、かつてに比べるとある面では間違いなく低下したといえる。しかし、間接的な対面的相互行為が根付けば根付くほど、直接的な対面的相互行為でなければ充足できないものが確実にあるという感覚も強くなっており、その点で、直接的な対面的相互行為の必要性は社会生活のさまざまな場面で残り続けるだろう。とはいえ、直接的な対面的相互行為は、その直接性と無媒介性ゆえに独特の過酷さも持ち合わせており、その点からすれば、「直接的な対面的相互行為からの自由」も保障される必要がある。そして、コロナ禍とそれによるオンライン・ミーティング・ツールの普及は、そうした自由を拡張するためのまたとない機会だったはずだが、それが充分に活かされたかどうかも、「ポスト・コロナ」の社会の重要な課題として、しっかりと検証されるべきである。 【主要参考文献】É.デュルケム(古野清人訳)『宗教生活の原初形態』岩波書店、E.ゴフマン(丸木恵佑・本名信行訳)『集まりの構造』誠信書房、雁屋優『マイノリティの「つながらない権利」』明石書店、J.メイロウィッツ(安川一・高山啓子・上谷香陽訳)『場所感の喪失』新曜社、櫻井龍彦「新型コロナウイルス時代の対面的相互行為」『人間学研究』、A.シュッツ(佐藤嘉一訳)『社会的世界の意味構成』木鐸社、G.ジンメル(居安正訳)『社会学』白水社

報告番号451

身体的相互行為の2つの解釈――生身の身体と生き生きした身体
千葉大学 高艸賢

本報告の目的は、主に現象学の立場から「対面性」と「身体性」の関係を明らかにすることである。E. Husserl、A. Schutz、M. Merleau-Pontyらが他者経験、身体、対面性についての現象学的分析を行っていた時代は、インターネットの登場・普及よりもはるかに以前のことであった。彼らの議論においては、「相互行為が身体的に行われること(複数の人間が身体を伴って相互行為に参与すること)」と「その相互行為が対面的であること(特定の物理的空間のなかに身体的に共在すること)」は同じことを意味する、という前提が存在していた。しかし、「深層のメディア化」(A. Hepp)の時代である現代において、この前提は成り立たなくなりつつある。つまり、身体的であるが対面的ではないような相互行為が存在しうるようになっている。こうした状況において、現象学者たちは身体的相互行為についての2つの解釈を提示してきた。1つは、対面的な状況における身体的相互行為のみを真正の身体的相互行為とみなし、非対面的な(つまりオンラインの)身体的相互行為は疑似的な身体的相互行為とみなす、という解釈である。この解釈をとっているのは、H. DreyfusやT. Fuchsである。特にDreyfusは『インターネットについて』のなかで、オンライン上の相互行為には傷つきやすさの感覚が欠如しており、リスクに満ちた環境での経験ができず、他者と信頼を築くこともできない、と主張している。これに対し、もう1つの解釈では、非対面的な身体的相互行為もまた身体を伴った相互行為への参与であることを強調し、これを疑似的な身体的相互行為とみなす第1の解釈を批判する。この解釈をとっているのは、L. Osler、D. Ekdahl、S. Ravnなどである。彼女らの議論では、オンライン上でも共感(empathy)や間身体性は可能であるとされる。 2つの解釈の違いは、何をもって相互行為が「身体的である(embodied)」と考えるかの違いに起因する。第1の解釈では、身体性とは「生身の身体」によって相互行為に参与することを指しており、したがって、オンラインの相互行為は身体的相互行為ではないとされる。これに対して第2の解釈では、身体性は「生き生きした身体」を互いに経験することを指す。この解釈においては、他者の身体が「表現の場」として知覚されるならば、生身の身体それ自体でなかったとしても他者の身体を知覚している、と考える。したがって、第2の解釈においては、オンラインの相互行為も使用されるメディアによっては身体的相互行為になりうる。本報告では、「身体性」については第2の解釈を採用した上で、対面的な身体的相互行為の特徴が何であるかを探る。Dreyfusにおける「雰囲気の共有」の議論を参照しつつ、暫定的な結論として、対面的な身体的相互行為の特徴は参与者の身体的注意作用が前反省的な次元でその都度の状況の「雰囲気」へと調整されることにあると論じる。

報告番号452

ケア現場における即興的身体表現と対面性――芸術家(ダンスアーティスト)の語りを手がかりに
山形県立保健医療大学 山田カオル

近年、保健医療福祉介護の臨床現場(以下ケア現場)において、芸術活動の導入が拡がりを見せている。たとえば、「障害者アート」に代表されるアール・ブリュット的な実践や、ソーシャリー・エンゲージド・アート、社会的処方といった枠組みにおいて、多様な表現活動がケア実践と交差している。しかしながら、ケア現場では「ケアする/される」「教える/教わる」といった関係性が制度的・役割的に固定化しやすく、ときに当事者にとって望まない役割の押し付けになることもある。 本報告では、芸術家による身体的・即興的な表現活動の提供が、一時的にそのケア現場の秩序をゆさぶり、状況の意味をずらす契機となる可能性に注目する。とりわけ、言語的関与では捉えきれない、対面における「身体の応答性」や「逸脱」が、即興的な相互行為としてどのように場を動かすのかに焦点を当てる。 分析には、相互行為における「線引きのポリティクス」(草柳 2015)のポジティブな面、すなわち「いわば硬直した状況を活性化させる、蔑ろにされてきた者に新たな立場を与える、といったプラスの変化」を援用し、長年ケア現場でダンスワークショップ(以下WS)を行ってきたアーティストA氏・I氏へのインタビューおよび参与観察を通して、非言語的かつ即興的なやりとりが持つ状況的意味への作用を検討する。 A氏らの実践は、あらかじめ決められた動きを指導するのではなく、対象者の動きや視線、呼吸に即興的に身体で応答しながら、その場ごとに動きを共に生み出すというものである。A氏らのWSでは、「失敗」や「逸脱」とみなされがちな行為が歓迎され、場の中で新たな意味が与えられていく。A氏は自身を「お囃子」や「祭りの日にだけ来る余所者」と表現し、秩序を再構成するのではなく、秩序をゆさぶる異質なノイズとして機能することを意図している。 これらから明らかになるのは、芸術による身体表現の実践が、ケア現場における単なる癒しや参加促進の手段ではなく、身体を媒介とした対面的な即興性を通じて、状況の読み替えを促す実践であるという点である。もちろん、日常的なケア実践においても、相手と身体的・対面的に関わるやりとりは不可欠であり、そこには微細な感受や応答性が含まれている。しかし、ケアの現場は、制度や手順、目的に規定されがちであり、関係性の枠組みがあらかじめ定められているという点で、即興的な自由度や役割の可変性には限界がある。一方、WSはその構造を一時的に逸脱し、秩序のゆらぎを受け入れる即興性へ、役割の逸脱を通じた状況の再定義へ、身体を通じた親密な応答と偶発性の共有へと向かう可能性を示している。 ・草柳千早,2015,『日常の最前線としての身体―社会を変える相互作用―』世界思想社.

報告番号453

訪問看護における対面の必要性――コロナ禍前後で変わらないこと・新たな課題
専修大学 中田明子

1. 目的 訪問介護や訪問看護などのサービスは、2020年4月以降緊急事態宣言が出された時期も、利用者からの希望がない限り、対面での訪問が続けられた。訪問看護では電話による病状確認にも報酬の算定が認められたが、2020年9月の調査では、15%の事業所のみが報酬を申請したとされる。本報告ではなぜ訪問看護では対面が基本となるのか考察する。 2. 方法 報告者が2018年9月から訪問看護師に対して行ってきた調査結果より、対面の必要性に関わるデータを分析する。またコロナ禍のサービスに関して訪問看護師はどのように捉えてきたか、業界誌や日本訪問看護財団のアンケートの調査結果を分析する。 3. 結果 訪問看護における対面の必要性が示されていたのは第1に、コロナ禍前から緊急時の対応に関してであった。訪問看護では、利用者や家族が看護師に電話で24時間相談できる体制が整備されている。電話での対応だけで済む場合もあれば、臨時の訪問に至る場合もある。調査では、利用者からは相談が求められただけでも、看護師の判断で緊急訪問することがあると語られていた。その理由は、利用者は高齢であったり、認知症を抱えていたりするため、電話で状況を説明することが得手であるとは限らないからであった。同様に、コロナ禍の電話での状態確認について、2021年の吉川未桜らの調査では、「「変わりないですよ」と言われるが、褥瘡ができていたりする」とのデータが示され、電話での対応の限界が指摘されている。エリオット・フリードソンは、患者と医療専門職との関係の根幹には、専門的知識の非対称性があると論じている。2022年から初診からのオンライン診療が恒久的に認められるようになったが、現在Doctor to Patient with Nurseが注目されている。患者の情報を伝えられるように、医師によるオンライン診療時に、看護師が患者の対面で側にいることを意味する。オンラインでありつつも、フリードソンの指摘する、患者との間の非対称性の問題に対応しようとする試みとして位置づけられる。第2に、コロナ禍における対面の必要性がうかがわれたのが、感染対策についてである。コロナ禍に訪問看護師が困っていたことの1つとして示されていたのが、利用者やその家族によって、感染対策の認識が異なったり、身体的な理由から実行できる感染対策が異なったりすることであった。各利用者・家族に合わせて実行可能な感染対策を助言することは、その利用者宅に訪問し、環境や身体的な状態を確認した上でなければ不可能である。すなわち利用者がより良い感染対策を実施するためには、訪問看護は対面でなければならない。猪飼周平は、地域包括ケアシステム下では、治療が唯一の目標ではなく、生活の質の改善が目標となるため、個々人の価値観によって具体的な目標は異なると分析していた。コロナ禍はこれが感染対策についても該当することを明らかにしたと言える。コロナ禍が去りつつある中で、感染対策の基準は、利用者だけではなく、実は各サービスの事業所ごとでも異なり、これが新たな困難となっていることが職能団体の調査には示されている。それゆえ今後も感染拡大期を迎えるたびに、脆弱性を抱える利用者を守っていくために、各サービス業者間で、さらには一般社会との間で、感染対策をどのように調整していくかという課題が、訪問系のサービス事業者に新たに課せられるようになったことになる。

報告番号454

オンライン空間における故人と対面性
久留米大学 伊藤慈晃

1.目的  本報告は,死者との接触という営みを手がかりに,「対面/非対面」という二項的枠組みを検討することを目的とする.とりわけ,故人が遺したSNSやメッセージアプリ上の履歴を見返すという行為に着目し,そこに現れる経験の特性を分析する.近代社会において,対面性は真正性や信頼性の基盤,非対面性は象徴や儀礼を介した間接的関係として,社会関係が成立してきた.故人との関係もまた,例えば遺影のような非対面的な装置を通じて死者として象徴化されることによって,社会が再生産されてきた(郭 2019).しかし,SNSやメッセージアプリを介した故人との接触経験は,こうした二項対立に収まらない特異と思われる経験を生み出している.本報告では,こうしたオンライン空間における接触の分析を通じて,「対面/非対面」枠組みに対して,その中間でも折衷でもない別の可能性が立ち現れることを指摘し,暫定的に「無対面性」と呼びうる視角から検討する. 2.方法  オンライン会議システムを利用した半構造化インタビューを実施した.対象は,SNSやメッセージアプリ上に残された故人の記録を見返した経験を持つ者であり,オンラインインタビューサービスを用いてスクリーニングした.対象者の抽出にあたっては,10代から30代の男女の中から性別と年代のバランスを考慮し,オンライン空間に死者の遺した記録への接触経験を有する者を選出した.すべてのインタビューは録音・逐語化のうえで,質的に分析を行った. 3.結果  分析の結果,SNSやメッセージ履歴を見返すという行為は,単なる記録の確認や回想にとどまらず,故人との関係が現在もなお持続しているという感覚を伴っていた.特に,過去のやり取りを繰り返し確認しながら,故人の気持ちや死に至る経緯を理解しようとする姿勢も見られた.また,履歴に対して「返事が届くかもしれない」,「既読がつくかもしれない」といった応答への期待がしばしば語られた.こうした期待は,故人を過去の象徴的存在としての死者ではなく,応答可能な「いま―ここ」の存在として経験していることを示している.このような関係性は,従来の非対面的接触とは異なる経験構造を有していると考えられる. 4.結論  SNSやメッセージアプリに残された履歴を通じた故人との接触は,既存の非対面的な象徴装置(遺影,位牌など)を通じた関係とは異なり,故人が現在の文脈の中で応答可能性を残した存在として経験されるという特徴を持つ.このことは,故人が死者として象徴化され,社会生活へ溶け込んでいくプロセスから切り離され,故人が故人のまま,現在の関係に留まり続けることを意味する.  こうした経験においては,故人との関係は,社会的制度から切り離され,孤立したかたちで,私的かつ継続的な接触関係として構築される.これは,従来の対面/非対面という社会空間の枠組みでは十分に捉えることができない状況だと考えられる.本報告では,このように対面性と非対面性の往還から切り離され,閉ざされた様態を,暫定的に「無対面性」と呼ぶ.そしてこの概念を通じて,「対面―非対面」という社会空間の構成原理が,オンライン空間の出現とどのように関係し,いかに再編されつつあるのかを検討する. 文献 郭軼佳,2019「写真の本質―写真の何を人間は礼拝するのか?」『千葉大学人文公共学研究論集』38:32-47.

報告番号455

揺らぐ対面/非対面と共在感の変容――越境者の空間経験をめぐる感受性の行方
関西学院大学大学院 黄滋蕊

【目的】 ポストパンデミック期における人々の日常生活では、対面と非対面のコミュニケーションが複雑に交錯し、あらゆる場面においてその境界が曖昧になっている。とりわけ国境を越えて生活する越境者は、物理的空間とメディア空間を日常的に往還しながら、そうした交錯を鋭敏に体感する存在である。本研究は、こうした対面/非対面の境界が流動化する経験のなかで、他者と「共にいる」という感覚=共在感がいかに変容し、再構成されるのかを明らかにすることを目的とする。 この問題設定の背景には、メディア技術の発展により、人々の「共在」のあり方が根本的に変化しつつあるという認識がある。従来、共在とは物理的な同席や対面を前提とした身体的現前性と結びつけられていたが、現代社会では、物理的距離を超えて人がつながる感覚が一般化している。こうした変化は、特に移動と媒介の双方を日常的に経験する越境者の語りから明瞭に現れると考えられる。 【方法】 本研究では、日本に5年以上滞在している中国出身者14名を対象に、半構造化インタビューを実施した。調査対象者は20代後半から40代前半の男女であり、留学・就労・結婚など多様な滞在理由を持つ。インタビューは主にオンラインで実施され、1人あたり60〜90分、使用言語は主に中国語であった。 分析にあたっては、Relph(1976)の現象学的空間論、Lefebvre(1991)の空間の社会構築論、Meyrowitz(1985)のメディア論を理論的枠組みとして援用した。これらの理論を通して、物理空間/メディア空間を横断する経験における情動的・社会的意味を明らかにし、越境者の語りが示す空間的感受性の変化を質的に分析した。 【結果】 分析の結果、越境者の空間経験を特徴づける二点が明らかとなった。 第一に、「空間の混在性」である。複数の空間的次元──例えば物理的/メディア的、滞在先/出身地──は、単なる共存や並列ではなく、互いに相互浸透的かつ重層的に関係しながら、個人の生活世界を構成していた。これらの空間は分離された単位ではなく、日常的実践を通じて相互に意味づけられ、情動的・社会的機能を補完的に分担していた点に特徴がある。このような空間編成は、現代の越境者が「複数の場に同時に属する」存在であることを示しており、空間の経験を単一の場所に還元できないことを浮き彫りにする。 第二に、「空間の錯位性」が見出された。これは、身体的に存在する空間と、主観的に意味づけられる空間との間に生じる機能的・情動的なズレを指す。越境者にとって、身体的な近接性と情動的な親密性が一致するとは限らず、むしろ非対面的な空間(メディア的空間や遠隔地の記憶/想像によって構成される空間)が、共在感やつながりの実感にとって中核的な役割を果たすことがある。このような空間の錯位は、従来的な「場所における共在」という前提を揺るがし、共在の感覚そのものが空間の再配置とともに構成されていることを示している。 これらの知見は、空間が感受性や関係性の文脈に応じて構築される経験的実体であることを示唆している。とりわけ、空間の混在性と錯位性という視点は、現代の越境的生活における空間経験が多層的かつ可変的に構成されていることを明らかにし、固定的な空間観への批判的視座を提供する。

報告番号456

インタビュー調査での「共謀関係」による研究者への影響とその対処
立命館大学 桜井政成

Newton (2017) は、繊細な研究分野における調査面接においては、「二重の交換による研究者と研究協力者の”共謀する”関係」が存在しているとしている。それは、研究者が研究目的に対する成果を得るために、信頼関係を構築し共感的に聞き取るのに対して、研究協力者は自分の話・感情を傾聴されることで治療的効果という、擬似的なセラピー経験を得ているのだという。このことは参加者はなぜ研究に参加するのか、そして研究が彼らにどのような影響を与えるのかといったことに、研究者が適切な注意を払う重要性を示唆しているとNewton (2017) は述べている。  他方で研究者が擬似的なセラピストの役割に向かうことは倫理的に不適切であり、インタビュアーはサポートを提供できないという感情的な負担を感じることになりかねない(Mitchell and Irvine 2008: 35)。Newton (2017)も、自分たち研究者はカウンセラーとしての訓練を受ける必要はなく、そのような訓練を明示的に受けることもないが、その結果、参加者へのサービスだけでなく、自分自身へのサービスにおいても、どこに不足があるのかを明確に認識する必要があるとしている。  こうしたインタビュー調査における研究者と研究協力者の共謀関係については、報告者は2025年5月の関西社会学会でその論点を「質的研究における意図せぬセラピー的効果―発生要因と研究上の配慮の検討―」と題して報告した。ただしこの報告は、先行研究の網羅的な整理であったために、個々の論点を十分に検討できなかったという課題が残された。そのため同報告における後半部分であった、研究者にとっての困難性とその対処について、補足し焦点化した説明を行うとともに新しいデータも加えて検討したい。  研究者の対処実践にくわえ、研究機関における研究倫理審査での調査実施者の健康への配慮・対応不足も、先行研究で指摘されている。Dickson-Swift et al. (2007)は、研究者が感情的苦痛を管理する方法としての非公式な報告会やピアサポートは貴重ではあるが、カウンセリングの訓練を受けていない仲間からの非公式なサポートは必ずしも十分、または有用であるとは限らないという懸念を提起している。彼女らは多くの戦略を提案しているが、そのなかでも感情的リスクは身体的リスクと同様に重要な考慮事項であり、このリスクに適切に対処することは雇用者である研究機関の責任であると主張している。このため、本報告では研究実施者の健康への配慮・対応についての規定やプロセスについて、日本の大学等においての現状も検討したい。 参考文献 Dickson-Swift, V., James, E. L., Kippen, S., & Liamputtong, P. (2007) Doing sensitive research: What challenges do qualitative researchers face? Qualitative Research, 7(3), 327–353. Mitchell, W., & Irvine, A. (2008) I’m Okay, You’re Okay?: Reflections on the Well-Being and Ethical Requirements of Researchers and Research Participants in Conducting Qualitative Fieldwork Interviews. International Journal of Qualitative Methods, 7(4), 31–44. Newton, V. L. (2017) ‘It’s good to be able to talk’: An exploration of the complexities of participant and researcher relationships when conducting sensitive research. Women’s Studies International Forum, 61, 93–99.

報告番号457

医療への患者・市民参画としてのテクノロジー利用は可能か――生殖する身体とのかかわりから
東京科学大学 菅野摂子

【目的】:多様な身体データが、テクノロジーの発展によって収集され、利活用されるようになってきた。治療のための検査のみならず、予防医学の範疇で健診/検診として行われるものから、近年ではDTC(Direct To Consumer)検査やフェムテックなど医学の知を用いながら医療専門職を介することなく商品として提供される「サービス」があり、大量の身体データが流通している。こうした身体データを自らの身体管理に用いることは、市民が医療に直接的に参加する機会にもなりうる。本報告では、使い勝手の良いデバイス上のテクノロジーが牽引する身体データの利活用が、患者・市民参画となりうるか検討する。補助線として、SRHR(Sexual Reproductive Health and Rights)が男性中心の医療への異議申し立てを指向する市民活動として進展してきたことを踏まえ、生殖する(可能性のある)身体を措定し、議論を進める。 【方法】:フェムテックのなかで生理周期の追跡アプリは身体データの収集として注目されることが多い。海外でもフェムテックへの関心は高く、専門書も出版されているが、日本も含め、検査の主体であり利用者、さらにはサービスの消費者である人々いわゆる市民への調査研究は少ない。本報告では、限定されてはいるが利用者の「語り」から、生理周期追跡アプリがいかに利用され、利用者の主体性が担保されているのか検討する。さらに、検査データに対する医療者の「語り」も併せて分析することで、利用者の「語り」の解釈を補完する。 【結果/結論】: 生理周期追跡アプリは妊娠を希望する人、希望しない人の両方が使える仕様になっているが、実際には気分や活力、精神的健康と結び付けられて解釈されており、生殖に限定されない意味を持つ。しかし、ホルモンの状態を把握し生活上の困難に対しすることは、自らの生活を立て直すというよりも、「ホルモンのせいにする」つまり身体と自己の分離を伴っている、という(Ford et al 2021: p58)。ホルモン値という「客観的な」指標は身体と自己のつながりを切断する。こうした「客観的な」指標は医療者にとっても、客体としての患者の身体を自分の気持ちと分離するのに一役買っている。報告者の調査で、ある医師は、胎児の障害は超音波画像を注意深く観察するよりも、数値でわかる方が少しまし、という理由でNIPTを使っていた。数値で表される検査値は、身体データとしてそこにあるだけ、であれば視覚に比べ情動を伴わない。 自宅での見取りや在宅介護/看護は、「医療の生活化」と言われるが、生理周期追跡アプリはあくまでも個人をターゲットとしており、個人化された「医療の生活化」ともいえる。アプリの機能として入っている場合以外は、そこから他者と繋がるプラットフォームが生まれるとは考え難い。ただし、こうしたデータによる自己把握を元手に、あるいはこのアプリを使うこと自体を問題化することで、身体データを介した自己理解の語りという文脈において患者・市民は医療へと主体的に関われる可能性はある。 備考:本研究は科研費25283017、20H04449および科研費25K15739によるものである。 (参考文献) Ford, A., De Togni, G., and Miller, L., 2021, “Hormonal health: period tracking apps, wellness, and self-management in the era of surveillance capitalism”, Engaging Science, Technology, and Society, 7(1):48-66.

報告番号458

デジタル・セルフ・トラッキングにおける知識生産と自己専門家化――社会学的観点からの考察
立教大学 堀内進之介

1 目的 ウェアラブルデバイス等の普及はデジタル・セルフ・トラッキングを一般化させ、個人の生体データが常に収集・可視化されるようになった。この現象は監視社会化や新自由主義的な自己管理の強化と批判的に論じられる一方、実践者の中には、それを自己探求のための経験的な知識生産、すなわち「パーソナル・サイエンス」へと発展させる者もいる。本報告は、この実践がもたらす「自己専門家化」を社会学的に考察し、それが現代における科学と市民の新しい関係性(public engagement)の現れであることを明らかにする。 2 方法 本報告は、セルフ・トラッキングを批判的視点だけでなく、市民による新たな知識生産の実践として捉える。具体的には、Quantified Selfコミュニティ等の実践事例に注目し、個人が自身の健康や生活に関する問いを立て、科学的手法を応用して経験的な知識を構築していくプロセスを探る。その上で、このプロセスが医学的専門知と相互作用し、実践者が「自己の専門家」となる過程を考察する。 3 議論 セルフ・トラッキングをめぐっては、二つの対照的な見方が存在する。一つは、個人をデータ化・数量化し、規範的な健康観へと従属させる統治技術であるとする批判的な視点である。もう一つは、実践者が自らの身体や経験に関する特有の知識を持つ主体となり、専門家の知識を相対化し、より個別化されたケアを追求するエンパワーメントの実践であるとする視点である。 本報告では後者の視点を展開する。パーソナル・サイエンスの実践者は、医師から与えられる一般的知識や既製のツールの受動的消費者に留まらない。彼らは自らの経験に基づき仮説を立て、データを収集・分析することで、自己に関する固有の知識を生産する。このプロセスを通じて、彼らは自らの身体や健康に関する「自己専門家」となる。この「自己専門家化」は、専門知と経験知の境界を流動化させ、専門家の権威を絶対的なものと見なさず、自らのデータを根拠に対等な対話を試みるという、科学との新たな関わり方を示す。これは、科学が社会の隅々にまで浸透し、市民がその担い手となる現代の「科学の社会化」の一側面と捉えることができる。 4 結論 デジタル・セルフ・トラッキングは、監視や自己管理のツールという側面を持つ一方、市民が科学的知識生産の主体となる「パーソナル・サイエンス」という重要な実践でもある。この実践がもたらす「自己専門家化」は、専門知への依存から脱し、市民が自らの経験を科学的に探求する新たなパブリック・エンゲージメントの形態を提示する。社会学的には、この現象の批判的検討に加え、それがもたらす知識の民主化と科学と社会の新たな関係性の構築という可能性に注目することが不可欠である。 参考文献 Heyen, N. B. (2020). From self-tracking to self-expertise: The production of self-related knowledge by doing personal science. Public Understanding of Science, 29(2), 124–138. Wolf, G. I., & De Groot, M. (2020). A conceptual framework for personal science. Frontiers in Computer Science, 2, 21.

報告番号459

継続的生体信号計測とそのフィードバックが生む共有型自己理解の一例――研究室モニタリング実践からの社会学的洞察へ
名古屋大学大学院 岡島正太郎

【目的】近年のセンサの小型化や低価格化,計測精度の向上によってApple Watchに代表されるような日常的に使用可能な計測デバイスが登場している.日常生活下での生体信号や運動計測は自己の状態や運動能力の基準となる範囲を知り,基準範囲の経時的変化を知ることが可能になる.通常,解析結果は被計測者本人のみにフィードバックされる一方で,Quantified Selfカルチャーのように計測結果やそこから得られた洞察を自身が会ったこともない不特定多数の人と共有する場合もある(堀内2022).しかし,自身の目が届く集団という意味でのコミュニティにおいて,計測結果を共有する実践や共有によるコミュニティへの影響は不明な点が多い.本研究では,脈拍数モニタリングシステムを用いて得られた計測結果をコミュニティにフィードバックすることによるコミュニケーションへの影響の一端について述べる.【方法】今回1つの研究室を対象に,研究室に所属する者の脈拍数を計測し,計測結果を研究室内に設置したディスプレイに表示するシステムを構築した.活動量計の1つであるFitbitを実験参加者に配布し,Fitbitで計測した脈拍数は1秒間ごとの時系列データとしてPCに保存されるとともに,ディスプレイに表示される.今回,実験参加に同意した成人男女5名(ID: M1, M2, M3, M4, F1)に実験期間中は可能な限りFitbitを装着するよう依頼した.【結果】結果として実験参加者が1日に6時間以上装着した実質計測日数は,M1は計測期間111日中48日(43%),M2は計測期間111日中87日(78%),M3は計測期間49日中17日(34%),M4は計測期間49日中2日(4%),F1は計測期間49日中26日(53%)であった.本システムでは実験参加者の脈拍数が居室のディスプレイに表示され,実験参加者と実験実施者の間や実験参加者間でディスプレイ上の脈拍数を見ながら,脈拍数の変動に関連した緊張の有無や運動の有無への言及があった.実質計測日数が長いM2やF1は当然ながら日々のコミュニケーションにおいて脈拍数への言及が増えた.また実験に参加しなかった研究室所属者と実験参加者の間でも表示された脈拍数変動に関するやり取りが確認された.日常生活で時折現れる非定型パターンについて,定量的なデータと主観的経験が結びつき,それらが共有されることで,自己や他者への「気づき」が生まれる様子が観察された.【結論】今回,実質計測日数にはばらつきがあり,計測における精神的・身体的負担軽減やモニタリングに対して興味を持たせる手法の重要性が示された.一方で,データの単純な提示においても計測に関連するコミュニケーションが研究室全体に広がることは,モニタリングというものが自己の中で完結するに留まらず,コミュニティの変化といった利他的な実践に繋がる可能性を示唆している.今後は,社会学が得意とする社会調査法と工学的研究要素を組み合わせた混合的研究によって,コミュニティ内の質的・量的変化を明らかにしていくことが必要になると考えられる.【参考文献】堀内進之介,2022,『データ管理は私たちを幸福にするか?自己追跡の倫理学』光文社.

報告番号460

「サイボーグ的身体の社会的意味と自己理解――AI医療技術と患者の《データ化された生》の社会学」
京都府立医科大学 村岡潔

【目的・方法】 近年、人工呼吸器、人工内耳、筋電義肢(脳マシン・インターフェースによる)、AI搭載の心臓ペースメーカーなどの技術は、「健常/障害」や「人間/機械」といった従来の境界を曖昧にし、テクノロジーと共に生きる新たな身体像を形成しつつある。本発表は、近年のセンサー技術やAI医療機器の進展により現実化した「サイボーグ的身体」が、個人の身体経験や自己理解、社会的位置づけにどのような変容をもたらすのかを、社会学の視点から推察することを目的とする。ここではサイボーグ的身体を「人間と機械の連続体」として捉えるが、人工内耳のような体内埋め込みと違い、人工呼吸器のように機械が人体外にある場合もサイボーグ的身体とみなす。 こうした身体は、常時データ化されることで「私が感じる身体」だけでなく「データに反映される身体」への自己認識へと再編・再構築されていく可能性がある。これは、自己決定や主体性といった概念にも変容を促すはずである。実際、現在でも、ALS(筋萎縮性側索硬化症)などの患者への人工呼吸器の装着、人工骨頭や人工内耳の埋設には、当事者の葛藤や社会的な是非論が展開されている。近未来では、AIを搭載した医療機器が体内のより大きなスペースを占有するような事態が招来する可能性が高い。本報告では、そうした近未来を見据えた形で、(1)サイボーグ的身体(ならびに心身)の自己認識と自律性の変容、(2) AI技術とアイデンティティ形成の関係に注目する。方法としては、こうした「サイボーグ的身体」の経験者の「闘病日記」や医療者側の研究論文・観察記録、等々のメタアナリシス的な分析と、更に、近未来的な「サイボーグ的身体(心身)」に関しては、報告者らの想定に基づきながら、思考実験を行なった。 【結果・結論】 どの社会でも、人間の身体(心身)像は、生物学的生理的なリアリティであると同時に社会的なリアリティでもある。そのため、こうした分析・考察の結果でも、サイボーグ的身体を持つ人々は、その人間観やバックグラウンドによって「サイボーグ化した自分自身」をめぐって大きく相反する二通りの反応を示すようだ。一つは、サイボーグ化によって、以前(直前)よりも「機能が拡張」されたことをポジティヴに評価し、サイボーグ(機械)も自己に包摂したアイデンティティを認める傾向が見られた。もう一つは、逆に「聴覚障害者」の中の「Deaf Culture」の立場のように「障害」自体を個性として評価し、サイボーグ化自体にネガティブな評価を与える反応である。後者では、サイボーグ化による自己意識の変容はありえまいが、前者ではサイボーグ化の時間とともに「拡張された機能」への自己としての抵抗感が減り、自己に同化するように思われた。 結論として、生物的身体を超えた、言わば生命と物質のハイブリッドであるサイボーグ的身体は、単なるテクノロジーの所産というより、身体・自己・社会の相互の関係を脱構築するデジタル時代の臨界的存在と言えよう。報告では、サイボーグ的身体とその究極な形としてロボットを措定し、自己と他者、死と生、人間とは何かという根本的な問いについても敷衍し、生物学と社会学を架橋する「バイオ社会学」的視座から「生きられる身体」と「データ化された身体」との緊張関係にある「デジタル時代の現人Homo digitalis」の特性に迫りたい。

報告番号461

バイオデジタルツイン技術開発へのステークホルダー参画の実践
大阪大学 姫野友紀子

“【目的】バイオデジタルツイン(BDT)とは,医学領域で、個々人の身体データを元にモデルを構築し、仮想時空間上にバーチャルな“双子”を誕生させる技術を指す.筆頭報告者はこのBDT開発プロジェクトに開発者として参画している研究者であり,今回は共同報告者と共に新規技術開発に必要不可欠なステークホルダーとの対話を試みた実践について報告する.

【方法】大阪大学ヒューマン・メタバース疾患研究拠点(PRIMe)で,PRIMe研究者8名(ELSIグループから3名,開発者5名)とスペインの介護福祉領域の実業家や専門家15名が参加するワークショップを開催し,介護領域におけるBDT技術への期待や懸念について議論した。言語の壁があり,日本語,英語,スペイン語の3か国語を併用しての開催となった.開発者の代表がオンラインで歓迎スピーチをおこない,次にスペインのグループから日本の介護現場で学んだことやスペインでの実践についての紹介があり,続いて開発者(筆頭報告者)がBDTの概念を説明した.後半では,ELSIメンバーが中心となってグループワークをおこない、出てきた意見をまとめて,グループファシリテータによる全体シェアリングをおこなった。掲示した模造紙に付箋で貼った意見に対して各自投票をおこない、最も多く票を集めたグループを表彰した。最後にPPIとアクセシビリティの専門家2名がコメントをおこない,ELSI代表の挨拶をもって閉会した.

【結果】グループディスカッションでは,グループ毎に言語が母国語になるよう統一し,ファシリテータとしてPRIMeメンバーを配置した.全般的に発言は非常に活発で,充実した議論となった.医学的な側面では、投薬や栄養、衛生、ケアや、疾患の予測と予防など、個人レベルで期待される項目が挙がっていた。さらに、コスト削減や効率化、医療資源の再分配など、医療と同様に介護の現場でも施設運営に関わる部分でもBDT技術が役立つことが期待されていた。個人情報の保護やデータ管理に関するリスクなどに言及する声もあった。生物医学的なアプローチでは到達困難な領域として、スピリチュアルな面、心理面、不安・孤独、意思決定支援などにも役立つのではないか、という意見があった。

【結論】PRIMe拠点は,全ての病気の克服に向けて,病気の発症のプロセスを包括的かつ連続的に理解することで,個別化予防法や疾患の根治的治療法を開発することを目指している.そのような技術を開発しようとする者として,病気は既に発症して根治治療が困難で,老化も進行した人びとを主な対象とする介護業界を想定したときに,当事者であるリアル世界に生きるもう片方の“双子“にとってポジティブな意味合いでのBDTの利活用が果たして可能なのだろうか,余命予測や施設の入所費用,保険金の算定など,当事者にとって必ずしもポジティブではない利用法が議論の中心となってしまうのではないか,というような懸念があった.しかし実際には予想に反して,介護を必要とする人びとの日常生活の質を支える身近な技術としての,実存的な期待が大きく,技術開発の方向性にも影響を与えうるフィードバックが得られた.また,心や霊的な部分への言及もあり,メタバース空間のBDTという“双子”の存在が、単なるデータや数式の総体以上の意味合いをもつ可能性が示唆され,ELSIを通した対話の重要性が確認された。”


報告番号462

介護福祉事業に関わる専門家が考えるバイオデジタルツインの可能性
大阪大学 伊藤紗也佳

“【目的】
バイオデジタルツイン(以下BDT)は、個人のマクロレベルからミクロレベルの全ての生体情報をデジタル上で集積し、再構築するものであり、特に医療分野においては真の個別化医療の実現を可能とするものとして期待されている。同時に、医療のみならず、他の多くの分野においての応用可能性も予想される。当研究は、BDT技術に対する介護業界関係者の期待や懸念を明らかにし、介護福祉業界におけるBDT技術導入の可能性と有用性を探ることを目的としている。本報告では、BDT技術が介護や福祉の事業や現場で具体的にどのように活用される可能性があるか、またその導入が社会や個人に与える影響など倫理的、法的、社会的課題に関する洞察を報告する。

【方法】
スペインの介護福祉業界関係者15名を対象としたワークショップ(共同報告者である姫野友紀子特任准教授の報告にあるワークショップと同一)で得られたBDT技術への期待や懸念のコメントをデータ化し、7つのカテゴリーに分類し、カテゴリーにおけるバイオデジタルツインに対する考え方の特徴を分析した。

【結果】
全てのコメントを7つのカテゴリーに分類した結果、例えば最もコメント数が多かった「個別化健康管理」のカテゴリーでは、食事管理、服薬支援、日常生活の質向上など、実用的で即座に活用できる機能への期待が集中しており、介護福祉現場における現存する日常的なケア管理への関心の高さが現れていた。特に、個人の生活習慣や環境に合わせたカスタマイゼーションへの強いニーズが見られた。「システムと社会インフラ」では、介護システム全体の効率化と質の向上に焦点が当てられており、24時間対応や診断効率の向上など、現在の医療・介護システムの限界を補う機能への期待が表れていた。その一方で、「社会的課題」では、制御不能な技術発展への警戒感と、人間関係や社会構造への影響への関心が見られ、「情報セキュリティとデータ保護」では、データの保護や操作リスクという問題が指摘され、技術の導入の課題が示された。「哲学的考察」では、精神性の向上など、技術では代替できない人間の本質的な部分についての考察が行われていた。全体を通して、予防と予測への強い関心が複数のカテゴリーにまたがって現れており、現在の対症療法的なアプローチから、先制的・予防的なケアへの転換を望んでいることが伺えるとともに、個人の尊厳と自律性の維持が重要なテーマとして浮かび上がった。技術による効率化を求める一方で、人間らしさやスピリチュアルな面の向上や、個人の意思決定能力を損なわないよう配慮する視点も見られた。これらの結果は、介護福祉業界関係者が、全体的に実用性と理想のバランスを重視しつつ、BDTに対して単なる技術導入ではなく、人間中心の技術活用を目指していることを示していると考えられた。

【結論】
介護業界関係者の期待と懸念を7つの視点から分析することで、介護福祉業界の関係者の持つBDT技術に対する考え方の特徴が捉えられ、その導入の具体的な可能性と課題が明らかになった。また、BDTの開発と実装においても、技術的な可能性を最大現に追及すると同時に人間的な価値観を技術に反映する必要性が示唆された。”


報告番号463

「計算の中心」としての環境――情報化は環境問題をどのように変えたか
関西学院大学 立石裕二

【1.問題】2000年代以降、環境問題のあり方は大きく変化してきた。従来は「汚染の防止」や「被害の軽減」が主な焦点だったが、近年では「計算結果」、すなわち数値化された環境評価の良し悪しやその信頼性をめぐるコンフリクトへと移行してきている。2000年代後半の「環境偽装」問題はこうした変化の象徴的な事例といえる。その背景としては、環境対策の「メインストリーム」化、すなわち、サプライチェーンやマテリアルフロー管理といった企業活動そのものが「環境」「サステナビリティ」の文脈で語られ、評価されるようになったことが挙げられる。一方で、ものづくり現場での環境対策の積み重ねには限界が見え始めており、環境負荷の定義やフレーミングの違いにより、そうした積み重ねを大きく上回る「見かけの差」が生じる場合が少なくない。測定データと環境面のパフォーマンスをはかる指標との関係は複雑化しており、指標の算出方法をめぐる駆け引きが恒常化している。本報告では、環境情報がどのように集積・処理され、指標として算出されるのか、どのような専門家が関与しているのか、算出された指標が社会でどのような役割を果たしているのかを分析する。 【2.分析枠組みと方法】本報告では、アクターネットワーク理論の主唱者のひとりであるB・ラトゥールの「計算の中心」概念に注目する。「計算の中心」は、情報や資料が集積・整理・変換されて発信されるハブを指す。たとえば地図の作成という「計算」により、世界の見取り図を得ることができ、地図無しでは難しかったような戦略・計画を立てることが可能になる。このような知識の集積点は、小規模なラボであっても大きな影響力を持ちうる。本報告では、環境情報を集積し、指標として出力する場がもつ「計算の中心」としての側面を分析する。分析方法としては、文書資料の質的分析を用いる(一部で計量テキスト分析を併用する予定である)。主な事例として、製紙産業における環境対策とそこで用いられる指標の設定過程を取り上げ、関連する科学論文、国際機関の報告書、国内の政策決定に関する文書、業界団体の報告書・要望書等の相互関係に注目して分析していく。 【3.結果と考察】分析の結果、「カーボンニュートラル」や「ネイチャーポジティブ」など、企業活動による環境負荷と(しばしば別途実施される)環境改善への貢献を差引勘定する考え方が広まっていることが明らかになった。アカデミズムでは、「サステナビリティ科学」という学際的な研究領域が形成され、環境指標の算出やそれに基づく将来予測や政策枠組みを正当化する役割を果たしている。また、環境を取り扱うコンサルタント企業も、指標の設定や運用に深く関わるようになっている。さらに、環境NGOにおいても、対抗的な「計算の中心」として、環境情報の集積・加工や提示のスキルが重要度を増している。このような「計算の中心」の発達により、企業や国家は自らの環境負荷の定義や発生範囲の見直し・改善をたえず求められる状況が生じていることが明らかになった。 【文献】立石裕二,2025,「再生紙は本当に「環境にやさしい」といえるのか:環境問題の情報化と科学・技術の役割」,湯浅陽一・谷口吉光編『持続可能な社会への転換はなぜ難しいのか』新泉社.【付記】本研究は、JSPS科研費25K05502の助成を受けて実施されたものである。

報告番号464

持続可能な社会の転換に向けた環境問題に対する意識と行動の関係
中央大学 篠木幹子

現在の社会は、「持続可能な社会」の実現に向けた道半ばの状況であると位置づけられる(湯浅・谷口編 2025)。それは、資源の大量消費や大量廃棄を是とした社会の構造や価値観および行動を、環境に配慮した構造に変更したり、環境に配慮した価値観や行動へとつなぎ変えている最中であると言い換えることができる。構造的に持続可能な社会が実現されれば、環境問題に対する関心がなくても人々の行動は環境に配慮したものになるかもしれない。しかし、持続可能な社会への転換期においては、人々のどのような価値観が環境配慮行動につながり、その行動の集積の結果が持続可能な社会の実現に近づくのかを丁寧に検討する必要がある。本報告では、人々の行動の集積という観点から、実際に人々がどの程度環境に配慮した行動をしているのかと、他者行動の推定(何割の他者が環境問題に対応をしていると個人は考えているか)、環境問題に対する意識(自然にはそれ自体の価値がある、自然を守ることが重要であるといった環境に配慮した価値観の強さなど)に焦点をあて、我々が実施した2回の全国Web調査のデータを分析することで、持続可能な社会の転換期における環境問題に対する意識と行動の関係を問い直す。  分析で使用するデータは、2015年と2023年に一般社団法人中央調査社に委託して実施した2つの全国Web調査である。どちらの調査も性別・年齢・都道府県の人口を基準に割り付けた2,500人の男女個人が回答者となっている。はじめに、環境に配慮した20の行動とごみの分別による6つの資源化の行動の実行度をみたところ、全体を通して実行率の高い行動と実行率の低い行動があるが、「マイバッグの持参」を除き、どの項目も2015年より2023年のほうが実行率は低くなっていた。  さらに、(1)他者行動の推定と、(2)環境配慮に関する意識(5つの変数から「環境配慮因子」を抽出:α=0.875)と、ごみの分別・減量行動および温暖化対策行動との関連を検討した。他者行動の推定に関しては、ごみ問題においても温暖化問題においても、社会の5割程度の人が対策に取り組んでいると考える人が多いが、環境配慮行動の実行度が下がっている2023年の方が人々は他者行動の集積率を低く推定している。また、行動との関連をみると、ごみ問題においても温暖化問題においても、他者行動の推定値と環境問題に対する意識の間には交互作用がみられ、環境問題に対する意識が高い人は他者が行動していると思えば自分も行動するが、関心が低いと行動の実行率が下がり、他者が行動していると考えると行動しなくなる傾向があった。以上のことから、他者の行動をどのようにとらえるかという価値観は環境配慮行動に正と負の両方の影響を与え、環境問題に対する意識と交互作用効果を持つなど、複雑な影響を持つことがわかった。しかし、環境問題に対する意識は正の影響を与えることから、循環型社会への転換に向けて検討する際に、環境問題に対する人々の関心を高めることは重要な意味を持つ可能性が高い。これらの点をさらに検討することが今後の課題である。 【引用文献】 湯浅陽一・谷口吉光, 2025, 『持続可能な社会への転換はなぜ難しいのか(シリーズ環境社会学講座5)』新泉社.

報告番号465

持続可能な社会への転換をどう支えるか――市民活動と脆弱な社会関係をめぐる課題
和光大学 小野奈々

本報告では、「持続可能な社会への転換」という視点から、地域における環境保全活動の一事例を取り上げ、市民活動が社会に与える影響や、目的合理的な観点から市民活動が直面する課題について考察する。 とりわけ注目するのは、2000年前後から広がった「市民参加」「官民協働」「パートナーシップ」「新しい公共」といった呼びかけのなかで展開された市民活動である。これらの活動が、「持続可能な社会への転換」に向けてどのような成果を上げ、またどのような課題に直面してきたのかを検討する。 報告の中心となる事例は、霞ヶ浦沿岸の潮来市を拠点とする市民団体「潮来ジャランボプロジェクト実行委員会(以下、ジャランボPJ)」の取り組みである。 霞ヶ浦は、淡水化と水資源化を経て、国の開発政策の対象となった湖である。1970年代以降、利根川水系水資源開発基本計画に基づき「水がめ」としての利用が進められたが、それと同時に水質の悪化や生態系の攪乱など、急激な環境劣化が顕在化した。 こうした状況に対して、地域住民や漁民、都市部の市民により、開発に反対する運動が展開された。ジャランボPJは、そのような動きのなかで誕生した団体であり、「100年後にトキが舞う霞ヶ浦を」というビジョンを掲げるアサザ基金とともに、植生帯の復元や小学校での環境教育、協働によるビオトープ造成など、地域に根ざした多様な活動を実践してきた。 本報告では、こうした取り組みが2000年代の官民協働政策のもとで、どのように制度化されていったのか、その過程に注目する。ジャランボPJの活動は、「持続可能な社会への転換」に向けた実践の一例であり、地域の自然と人々との関係を再構築する試みとして高く評価できる。 しかし一方で、こうした活動も時間の経過とともに「ピーク」を迎え、終息していく現実がある。たとえば、立ち上げを担った中心人物の死去や、関係者の高齢化といった要因が影響する。ジャランボPJも、構成員の高齢化で2020年に活動を終えている。 このような市民活動の「終わり方」についての社会学的解釈は、「持続可能な社会への転換」を目指す市民活動の限界、制度の実践主体としての継続性、そして地域社会における「担い手」の再生産の困難さなど、いくつもの重要な論点を提起している。たとえ自然再生推進法のような制度が整備されていたとしても、実践の担い手が時間とともに変化し、弱体化する可能性があることは否定できない。これは、「持続可能な社会への転換」を目指す「社会的基盤」としての市民活動の脆弱性を示すものである。 したがって本報告では、「持続可能な社会への転換」に資する実践の担い手として、もし市民活動に一定の役割を期待するのであれば、制度や政策の設計にとどまらず、地域住民による実践の蓄積や、関係性の継承といった「社会的基盤」の強化が必要になるということを指摘する。 その一方で、地域環境保全に取り組む市民活動の多くが、実際には「友情(friendship)」や「つきあい(relationship)」といった非公式の社会関係に支えられているため、こうした関係性や実践を、世代を超えて「社会的基盤」として持続・再生産し、強化していくことは困難なのではないかという点を、重要な課題として提示する。

報告番号466

ローカルファイナンスからみる持続可能な社会への転換の可能性――東近江三方よし基金を手がかりに
関西大学 大門信也

【1.問題と方法】□持続可能な社会への転換において、金融の重要性には多く指摘や実践がある。環境NGO団体による金融格付けや、SDGsやグリーンイノベーションの脈絡につらなる政府や金融機関の推進するESG投資等、近年の環境問題をめぐる重要領域となっている。他方、環境社会学においては、主に再生可能エネルギー分野において2000年代に全国的に展開された市民風車の研究にその端緒があるものの、金融に照準した研究は発展途中にある。□本稿で扱う「東近江三方よし基金」は、グローバルな環境問題解決の一手法とされてきたファイナンス論を、ローカルにこだわってきた社会学の観点から捉えなおし、持続可能な社会への転換を構想するための一助になると思われる。□そこで本報告では、2012年から継続してきた滋賀県東近江市を中心とする聞き取り調査や資料収集、また同地域での実践的な関わりのなかでえた情報をもとに事例分析を行う。 【2.調査結果】□財団法人東近江三方よし基金は、2017年に設立された。2021年度までに70件以上の支援を地域の事業者に行っている。ファイナンスのメニューには、ソーシャルインパクトボンドアプローチの支援(東近江市版SIB)、事業指定型をはじめとする各種寄付、地元信金と連携した制度融資、そして休眠預金活用事業がある。これまで対象となった事業は、子どもの居場所づくり、子育て支援、障害者スポーツ、古民家利用、近代産業遺産の資料館、ビワマスの魚道づくり、山村振興事業、自然保護等と多彩である。同基金は、自然資本をベースにして人的資本、社会関係資本、人工資本、文化資本により構成される地域資源の重要性に言及した同市の環境基本条例を背景に、公設民営的な出自のメリットを活かした活動を進めてきた。□こうした先進的なローカルファイナンスの背景として、2005年の東近江市の合併を契機とした協働のまちづくり政策と、それを促した合併以前からの豊富な市民活動の経験がある。例えば、旧愛東町におけるまちづくりの流れと、滋賀県下のせっけん運動の流れ、とくに廃食油粉せっけん運動の流れが合流して生みだされた菜の花プロジェクトの存在はとくによく知られている。□また、せっけん運動という県レベルの市民運動の系譜をさかのぼると、県レベルでの政治過程も視野に入ってくる。1974年、当時共闘体制を構築していた県労働団体(労働4団体とよばれた)は、自治官僚出身で保守を自認する竹村正義を「革新知事」として擁立し、その後のせっけん運動の県民運動への道をひらいた。同じころ労働4団体のもと県の労働者福祉対策協議会から生まれた湖南消費生活協同組合は、廃食油粉せっけんの生産システムを構築し、その後の「環境生協」や前述の菜の花プロジェクトへの展開へとつなげた。これらにかかわる人的ネットワークをたどると、東近江のローカルファイナンスとこうした県レベルの政治過程との関連性も浮かび上がってくる。 【3.考察と結論】□以上から、東近江のローカルファイナンスの事例は、時間軸および統治領域が多層的に絡み合う滋賀県下のローカルガバナンスの社会的編成過程のもとにあることが理解される。ガバナンスをめぐる地域的な営みのなかにローカルファイナンスを位置付ける作業は、持続可能な社会への転換を構想する際の重要な社会学的課題といえるであろう。

報告番号467

エコロジカル近代化論と生産の踏み車論の対立と相補性――「持続可能な社会への転換」を記述する理論を目指して
桜美林大学 木村元

【1.はじめに】近著『持続可能な社会への転換はなぜ難しいのか』(湯浅, 谷口編 2025)は,「個別問題は部分的に解決しているが,持続可能な社会の実現には向かっていない」という立場にたった上で「社会理論の視点からの議論」を展開する。とくに「個々の取り組みがレジームや社会システムの変容につながる形では積み重なっていない」様相は「蛇行性」と「破行性」という概念を用いて捉えられる。そして終章で「蛇行性や破行性に陥ってしまうことの要因の1つはセクター間の連携不足にある」と指摘される。本稿では,このような問題意識を踏まえつつ,また,同書で検討される「持続可能な社会へのトランジション理論」や「環境制御システム論」をパラダイムとして捉えつつ,「持続可能な社会への転換」を記述する理論の構築を目指した検討について報告する。 【2.持続可能な社会への転換の“難しさ”の「生産の踏み車モデル」による記述】エコロジカル近代化論との論争で知られるように,生産の踏み車論は資本主義経済の枠内での環境と経済の両立を原理的なレベルで批判した。環境主義にとっての“壁”たる生産の踏み車システム(政治経済システム)への洞察は,なぜ環境問題が解決されないのか,という悲観的な意味での原因論として今もリアリティをもつ。本稿では,この生産の踏み車システムのダイナミクスを記述する中心的な論理を提唱者らの業績から抽出した「生産の踏み車モデル」を用いる。生産の踏み車論が見通す閉塞状況の根幹には,生産の踏み車モデルに内在する「環境と社会の緊張関係」,すなわち,「社会が経済的な成果(雇用,賃金)もエコロジカルな成果(環境負荷の低減)のいずれも求める」トレードオフ構造がある(木村 2022)。持続可能な社会への転換の“難しさ”はここにある。つまり,環境と社会の緊張関係にもとづいた閉塞状況を打開しうるか否か,という点に持続可能な社会への転換の成否がかかっていると考える。 【3.閉塞状況を打開する内在的な論理と「エコロジカル近代化フレーム」】この閉塞状況を打開しうる鍵は,木村(2022)が明らかにした,生産の踏み車論とエコロジカル近代化論の“相補的”な関係にある。紙幅の制約から詳細は省くが,生産の踏み車モデルに内在する環境と社会の緊張関係の“緩和”がありうるとすると,それは「社会が,経済的な成果を求めるために,エコロジカルな成果を求める」という形であらわれると予測される。その契機となるのは,切迫した環境危機が経済成長それ自体を脅かすようになり,また,その認識が適切になされるような事態であろう。 【4.NGO・市場・行政のセクター間を跨いだ「生産の踏み車システム」の変化】以上の作業仮説を検証していく準備として,環境・社会・ガバナンス(ESG)投資の本格化の土壌となる気候変動関連情報の開示にまつわる経緯を題材に議論する。「財務上の利害関心に重点を置くからこそ,環境に配慮する」という社会的認識を浸透させるNGOによる金融システム介入,それを契機とした「市場の内側からの変革」,そして各国政府による気候変動関連情報開示の制度化,という経緯は,1つの道筋の萌芽かもしれない。  【主要文献】木村元,2022,「「生産の踏み車」論と「エコロジカル近代化」論の対立と相補性 ―ESG投資をめぐるNGOの金融システム介入を事例として―」,『環境社会学研究』,28:122-139.

報告番号468

持続可能性という「問いの隘路」から「翻訳」へ――社会学的介入の可能性
早稲田大学 西城戸誠
名古屋大学 丸山康司

【目的】  報告者らは第93回日本社会学会大会(2020年)のテーマセッション「持続可能な社会への『転換』を社会学から考える」において、サステナビリティ・トランジション論(以下、ST論)と社会学との接点を考察し、現場に即した規範や倫理(配分正義や世代間倫理)を現在世代のニーズにどう結びつけるか、転換に向けた潜在的機能の組み合わせの発見、多様な動機の重層性の把握こそ社会学的な「介入」の役割であると主張した。本報告では、k前報告を踏まえつつ、エコロジー的近代化論、ST論、そして日本の環境社会学の環境制御システム論を概観し、持続可能な社会の実現に向けた社会学の視点を考察する。 【考察・結論】  公害問題を出発点とする日本の環境社会学は、船橋晴俊の環境制御システム論に代表されるように、産業主義と環境破壊の対立という構図を基盤としてきた。この枠組みは歴史的理解には有効であったが、結果的に環境に配慮する行動を取るが動機が「不純」な個人や集団の実践を十分に捉えられていない。エコロジー的近代化論も、環境と経済の両立を目指しつつ、多様な個人の行動を理論に取り込んでいる。しかし、行動を金銭的インセンティブに還元する傾向が強い。  他方で、加害者と被害者を特定し責任を問う「加害―被害構造論」は、気候変動のように因果関係が拡散し、誰に責任があるのかを明確にできない「帰責原理の機能不全」には対応しきれない。つまり、責任がとれない問題が次世代に先送りされてしまうことになる。したがって、経済・環境・社会の統合を目指すSDGsの理念に応答するためには、漸進的問題解決ではなく、未来のあるべき姿から逆算する「バックキャスティング」的発想であるST論が示唆的である。ただし、サステイナビリティ転換の必要性をただ啓蒙するのではなく、社会システムの転換をいかに「誘発」するか、具体的な制度的設計や戦略的な関与が必要であろう。  持続可能な社会の実現を、世代間の利害対立を含む「公共財の供給問題」と捉えると、社会学に求められるのは、個別最適と全体最適の橋渡しである。一部の意識の高い主体だけでは社会全体の転換は起こらない。必要なのは、多様な人々を「弱く動員」する「多様な選択的誘因」を発見・設計し、社会に「翻訳」をして、それを実装する作業である。そして、共感、帰属意識といった非金銭的動機を含む誘因の設計を通じて、ST論が示すような単一の支配的レジームではなく、多様なレジームが併存・競合する状況を作り出し、分断を避けながら全体として持続可能な方向へと導く社会設計が鍵となるだろう。  「持続可能な社会への転換はなぜ難しいのか」と嘆いたり、「SDGsは大衆のアヘンである」(齋藤幸平)といった批判にとどまるだけでは、悲観論や終末思想に帰結する。サステイナビリティによる新たな統治(福永 2014)の問題を視野に入れ、人工物と制度によって構築された社会の中で、例えば、脱炭素社会などのマスターナラティブを飼い慣らし、現実的かつ戦略的に持続可能な未来へと人々を導く制度設計を構想することこそが、中範囲理論を志向する環境社会学の現代的役割ではないだろうか。

報告番号469

批判理論第一世代における権威主義研究――その意義と現代的展開
東京大学大学院 市川結城

【1.目的】本報告は批判理論第一世代の業績の一つである権威主義研究を扱いその理路と意義を検討するとともに、現代的諸研究において当該議論がどのように継承・応用されているかという動向を参照し、その現代的可能性を探るものである。 【2.方法】本報告ではまず、1936年に社会研究所が刊行した『権威と家族に関する研究』以降の権威主義をめぐる諸研究について整理し、その理論枠組みや意義を論じる。特にマックス・ホルクハイマーの論文「権威と家族」や論文「エゴイズムと自由を求める運動」を中心に取り上げる。ここでは、資本主義社会という歴史的・社会的諸条件において、ファシズムに見られるような権威への自発的服従がいかに生じるかというメカニズムが理論的・歴史的に分析されており、他の経験的諸研究に対して理論的・歴史的基礎が先駆的に提示されている。  次にこうした第一世代の議論が現代においていかに継承されているかを考察するため、アメリカを中心に展開している批判理論を土台とした社会学などの諸研究を扱う。これは批判理論第一世代の権威主義研究を、「権威主義的ポピュリズム」や「陰謀論」といった現代的トピックと関係させる形でアップデートし展開するものである(Conner et al 2024等)。主な具体例として、『思想』2024年12月号に掲載されたジョン・アブロマイト氏の論考を収録した論集があり、ここでは「権威主義的ポピュリズム」という概念に集約させる形で批判理論第一世代の議論が応用されている(Morelock 2018)。これらの研究動向を扱うことで、批判理第一世代の権威主義をめぐる諸研究の現代的展開とその意義を提示する。 【3.結果・結論】批判理第一世代の議論を振り返ることで、「トランプ現象」を機に高く関心が寄せられるようになった右翼ポピュリズムや陰謀論のように、現代社会において生じている政治的・社会的問題を理解する手掛かりとなる参照項が得られる。特に陰謀論は日本でも注目されている現象であり、理論枠組みの拡充や分析視角の発見という点でも本報告の内容を進展させる必要が示唆されている。 【文献】Conner, Christopher T., Matthew N. Hannah, and Nicholas J. MacMurray eds., 2024, Conspiracy Theories and Extremism in New Times, Lanham: Lexington Books. Morelock, Jeremiah ed., 2018, Critical Theory and Authoritarian Populism, London: University of Westminster Press.

報告番号470

承認・人倫・自由――アクセル・ホネット批判的社会理論の再構成
東京大学大学院 松崎匠

アクセル・ホネットは、ユルゲン・ハーバーマス以降の批判的社会理論を代表する社会理論家の一人であり、さらに現代ドイツを代表する社会学者ハルトムート・ローザにも強い影響を与えてきたことで広く知られている。ホネットは、ハーバーマスにおける批判的社会理論のコミュニケーション論的転回を継承しながらも、言語によるコミュニケーション的行為の基底にある承認関係に注目することで、批判的社会理論に承認論的転回をもたらした。すなわち、ホネットの承認論は、社会的な承認をめぐる人びとの日常経験を追体験し、期待された承認が得られないという苦しみの経験からの解放のポテンシャルを、承認をめぐる闘争の実践、および、自己のアイデンティティ形成の条件としての間主観的な承認のモデル(愛、法・権利、そして連帯)に見出そうとする。ホネットの第一の主著である『承認をめぐる闘争』(初版1992年)に続き、第二の主著である『自由の権利』(初版2011年)の邦訳も近年刊行され、ホネット社会理論のさらなる展開にますます注目が集まっている。しかしながら、初期ホネットの承認論が後期の正義論/自由論にどう展開しているのかについては、これまでにもさまざまな議論が蓄積されてきたものの、共通見解の形成には至っていない。報告者の見るところ、これまでの先行研究では、ホネットの社会理論における「人倫」概念の意義が見逃されていたために、人間学的な承認論が自由の社会理論に展開する過程をえがき出すことができていなかった。そこで本報告では、「人倫」概念に光を当ててみることで、初期ホネットの人間学的な承認論から後期の自由の社会理論への展開がどう再構成されうるのかという問題に取り組みたい。その結果、ホネットの社会理論は「承認と自由の社会理論」として統一的に解釈可能であろうという結論が得られる。これらの議論を踏まえて、ホネットの社会理論を読み解く鍵を「人倫」概念に求めることが、新たなホネット研究の道を切り拓く可能性を持っているということを示したい。【文献】Honneth, Axel, [1992]2003, Kampf um Anerkennung: Zur moralischen Grammatik sozialer Konflikte: Mit einem neuen Nachwort, Frankfurt am Main: Suhrkamp.(山本啓・直江清隆訳,[2003]2014,『承認をめぐる闘争――社会的コンフリクトの道徳的文法〔増補版〕』法政大学出版局.)――――, 2011, Das Recht der Freiheit: Grundriss einer demokratischen Sittlichkeit, Berlin: Suhrkamp.(水上英徳・大河内泰樹・宮本真也・日暮雅夫訳,2023,『自由の権利――民主的人倫の要綱』法政大学出版局.)

報告番号471

ラーエル・イエッギにおける疎外論の展開=転回
東海大学 飯島祐介

1.目的  本報告の目的は、ラーエル・イエッギの疎外論がいかなる点で新たな社会認識の地平を切り開いているかを明らかにすることにある。イェッギ批判理論は「生活形式の批判」を核とするが、その基礎には疎外論がある。また、現代批判理論では、ハルトムート・ローザも疎外論を基礎とする。本報告は、イェッギ批判理論、さらには現代批判理論が切り開く新たな社会認識の地平の解明に貢献することを目指すものである。 2.方法  本報告では、ヘルベルト・マルクーゼの疎外論との対照によって、イェッギの疎外論の新しさを浮かびあがらせることを試みる。批判理論における疎外論を省みると、マルクーゼと並んで、むしろそれ以上に高くエーリッヒ・フロムが屹立している。たしかに、ローザの疎外論は、フロムのそれの批判的継承として理解されるべき側面を有している。しかし、イェッギの批判理論には、実存主義的なモチーフを確認できる。その出発点にはアーレント論があり、ハイデッガーにも論及しながら世界疎外が問題とされている。こうしたモチーフを踏まえるなら、「最初のハイデッガー‐マルクス主義者」(ハーバーマス)であるマルクーゼの疎外論を対照項にとることは、試みとしては許容されよう。 3.結果  Marcuse([1964]1991)はまず、社会からの疎外ではなく、社会の中での自己疎外を問題とする。この疎外は、少なくとも表面的には抑圧的ではない状況で生じるとされる。そこではかえって、自己の発展と満足が感じられているのである。そのため、この疎外は当事者に認知されない。いっそう進んだ段階にある、この疎外の原因は、人間をも一次元化する社会に見出される。そこで、この疎外からの脱出はまず、逆説的にももうひとつの疎外に、すなわち社会からの疎外に、とくにこの疎外の力を潜在させる芸術に求められる。  Jaeggi(2005)もまた、社会の中での自己疎外を問題とする。そして、この疎外は、抑圧的ではない状況で生じるとされる。それはかえって、本人の選択の結果でもある。しかし、マルクーゼとは異なって、この疎外は、当事者が認知しうるものとされる。生きられている生は、本人が選択したものでありながら、自分の生ではないと感じられているのである。さらに、この疎外の原因は、社会との関係のあり方に求められる。すなわち、社会に対してそれを獲得(Aneignung)しうるような関係にないこと、その意味で社会から疎外されていることに求められる。したがって、疎外からの脱出は、社会からの疎外ではなく、その解消に求められるのである。 4.結論  イェッギの疎外論は、社会の中での自己疎外からの脱出を、マルクーゼのように社会からの疎外に求めるのではなく、逆に社会からの疎外の解消に求めた点において、新たな社会認識の地平を切り開いている(当日の報告では、この新しさが有する、批判理論上の意義についても若干の検討を行う予定である)。 文献 Jaeggi, Rahel, 2005, Entfremdung: Zur Aktualität eines sozialphilosophischen Problems, Campus. Marcuse, Herbert, [1964]1991, One-Dimensional Man: Studies in the Ideology of Advanced Industrial Society, Beacon. (生松敬三・三沢謙一訳,1974,『一次元的人間――先進産業社会におけるイデオロギーの研究』河出書房新社.)

報告番号472

批判的都市理論における「自然との和解」論の継承可能性――アドルノ「文化的景観」論に基づく廃棄物処分地の検討から
名古屋市立大学大学院 馬渡玲欧

【目的・方法】惑星規模の「広範囲の都市化」(N・ブレナー)が拡大する中、採取・採掘される資本の構成的外部の有限性が指摘されている(cf.土佐 2021)。本報告は、このような近年の批判的都市理論や採取-採掘研究の動向を踏まえつつ、フランクフルト学派の「自然と人間の和解」をめぐる思想をいかに批判的都市理論の文脈で継承していくことができるのか検討する。報告では最初にアンドリュー・ビロー編『批判的エコロジー』(2011)等を参照しつつ、フランクフルト学派第一世代の社会思想における自然との和解をめぐる議論の動向を整理する。特に報告では同書第6章著者のドナルド・バークがアドルノの思想を援用して提示している「文化的景観」論に着目しつつ、美的合理性に基づく文化的景観がいかに自然と人間の和解の可能性となり得るのか論じる。さらに事例として、香川県豊島の産業廃棄物不法投棄事件を取り上げる。採取・採掘された跡地に都市の産業廃棄物が不法投棄されていった本事例は、廃棄物処分地の土壌や植生、地下水、周辺環境や島内の生業に多大な影響を与え、その後の撤去や処理過程に多大な時間・費用を費やすこととなった。同事件の現場には、産廃業者が使用していた木造の事務所を転用した資料館が位置する。本資料館をアドルノの議論を踏まえた「文化的景観」の観点から照射し、自然と人間の和解の可能性を探る。【結果・結論】バーク曰くアドルノは美的合理性に基づいた、自然に対する非支配的アプローチを導入する。アドルノにとって自然美は主客の支配関係とは異なる関係であり、これが「美的合理性」となる(Biro ed 2011: 177)。さらに自然美と芸術美を両立させる道として、バークはアドルノ『美の理論』のなかで提起される「文化的景観」の概念を取り上げる(同180)。文化的景観論に基づくならば、ローカルな建材で作られた城は「芸術作品」であるだけでなく、「自然物」としても位置づけられる。「自然」であると同時に人工的である「文化的景観」のイメージは、「過去の苦しみの記念」として位置づけられる。すなわち、人間の肉体に基づく労働の苦しみに媒介されて、文化的景観は成立しているのである(同180)。このような、過去の苦しみの記憶を表現する文化的景観は、文化と自然の調和をもたらす合理性の可能性を示すユートピア的イメージになりうる(同181)。先述のとおり、豊島こころの資料館は、元々廃棄物処理業者が用いていた事務所を転用したものである。ローカルな建材で作られた事務所は「人工物」であると同時にある種の「自然物」としても位置づけられよう。廃棄物不法投棄に際して発生する運搬と投棄という労働にこの事務所と現場は媒介される。さらに事務所自体や資料館内の展示物は、不法投棄と処理事業をめぐる豊島の苦しみを幾重にも反映し記念している。文化的景観によって示される「苦しみの記憶」は、我々と外的自然との関係の再構築を迫るものである(同183-4)。アドルノを踏まえた美的合理性に基づく「文化的景観」論を手がかりにすることで、フランクフルト学派の社会思想が公正で持続可能な都市の再編成に向けた現代社会批判の理論的基盤としてもその意義を有し続けることが示される。【文献】Biro, Andrew ed., 2011, Critical Ecologies, University of Toronto Press./土佐弘之,2021,「過度な採取主義の行方」『思想』1162: 2-7.

報告番号473

「批判理論」の起源とその「これから」
明治大学 宮本真也

[目的] 2024年に創立100周年を迎えたフランクフルト社会研究所は、「批判理論」の誕生の地であり、1960年代末までは確実に学際的研究を試みる潮流の中心であった。しかし、研究所の100年を醒めた眼で見ると、「フランクフルト学派の批判理論」が研究所においては中断し、後景にとどまっていた時期を経て、回帰をはかり、現在にいたっていることがわかる。本報告ではこの事実を確認したうえで、現在、「批判理論」に根本的な見直しを要求するいくつかの論点について紹介し、継承と革新の方向性を、現在では不明瞭になっている批判理論のそもそもの企てとつき合わせて検討する。 [方法]  本報告ではまず、「フランクフルトの批判理論」の今後の方針を確認するために、社会研究所が創立100年を機に公刊した「パースペクティヴズ」と題された冊子をとりあげたい(IfS 2023)。ここでは研究所内の「批判理論」の再構築の方針と、現在の研究プロジェクトについての概観が行われている。次に「理論」構築がTh.・W・アドルノの死後は、主として国内外の他の研究機関に所属する研究者たちに担われてきたことも事実であることも鑑みつつ、フランクフルトにはもはや収まらない「批判理論」のコンステレーションを描く。そして、今日、「批判理論」が自他による批判に応じて、導入が必要と見る理論的試みのうちのいくつかをA・ホネットとM・ザールの議論にしたがって検討する。ここではホネットによる社会研究所創立100年を祝うシンポジウムで行った講演(Honneth 2023=2024)、および、ポスト・コロニアリズムの視点から要請される西洋の思想伝統の形成史の再構築の試み (Honneth 2024)、そしてザールによる「批判理論」のアイデンティティの連続性と非連続性、今後の継承の方向性をめぐる論考の検討を行いたい。 [結果・結論] 創立期の祖型を振り返ると、「批判理論」はこれまでの歴史のなかで何度も挑戦的な概念戦略の提示を受け、現代でも維持可能なものはほとんどないかのように見える。しかし、このことは、理論そのものに、社会における分業や、物質的、精神的付置連関内での歴史的な照応関係を自覚せよという原初的な要請のうちの一つにしたがった結果でもある。今日、「批判理論」に導入要求されているパースペクティヴのかずかずは、初期の理論枠組と社会批判の領野を越えることを要請し、ホネットが暗示するように「批判理論」の終わりにつながる可能性もある。しかし、このことは「批判理論」を固有名や場所からさらに自由にして、理論的認識主体もまた、「批判理論」の伝統(理論)化から解放するというメリットを生むだろう。 【文献】 Honneth, Axel, 2023, The Institute for Social Research on its 100th birthday. A former director’s perspective, Constellations, 30, 372–377. Honneth, Axel, 2024, Axel Honneth, Zwei Schritte zurück, einen Schritt vorwärts. Der Postkolonialismus und der Westen(MS.). Institut für Sozialforschung Frankfurt am main, 2023, 100 Jahre IfS | Perspektiven. IfS Working Paper Nr. 20. Frankfurt am Main: IfS.,(Retrieved August 21, 2024, https://www.ifs.uni-frankfurt.de/publicationdetail/ifs-ifs-perspektiven-perspectives-perspectivas.html). Saar, Martin 2025, Was ist Sozialphilosophie?, Suhrkamp.

報告番号474

社会運動の資料アーカイブズを用いたインタビュー調査による発言権の再分配――模索舎50年史の調査事例から
立教大学 清原悠

【1.目的】本報告は、社会運動の資料アーカイブズを活用したインタビュー調査がどのようにインフォーマントに影響を与えるのかについて、発言権の再分配という観点から報告を行う。これまでの研究では、インタビュー調査がインフォーマントに「意図せざるカタルシス効果」をもたらしたり、逆に過去のトラウマを惹起してしまう危惧が指摘されてきた。意図せざるカタルシス効果については、これまで十分には語れなかった体験について、インタビューアーによる問いかけを契機に発言が可能になったり、インタビュアーという聞き手がいることで発言が聞き届けられるというプロセスにおいて発生するものと考えられる。本報告ではこれに加え、社会運動という共同行為におけるメンバー間の発言力の格差(およびそこから派生する抑圧)に対し、事後的にではあれ一定の是正効果をもたらすことを指摘したい。その際に重要となるのが、過去の資料群を眺めなおすという体験である。これは、インタビュアーの発言に対するレスポンスのみならず、過去の自分、過去のメンバーの「声」に反応するというプロセス(あるいはインタビュアー・インタビュイー・資料という三者間関係)があることにより促されると考えられる。 【2.方法】新宿にある「ミニコミ・自主出版物取扱書店」模索舎は、自主出版物の流通を担う社会運動・企業活動として1970年に創業し、現在に至るまで営業を続けている。模索舎の創業者の一人である五味正彦が所有していた資料群「五味正彦コレクション」(立教大学共生社会研究センター所蔵)では段ボール箱57箱に及ぶ資料が保管され、このうち多くを1970年~1990年代の模索舎の関連資料が占めている。報告者はこれらの資料を活用し、関係者18名に複数回インタビューを行った。関連する資料はインタビューの質問項目の作成のみならず、インタビュー前にインタビュイーに送付し、当日のインタビューに臨んだ(なお、記憶を惹起したり、事実関係を検証するため、グループインタビュー形式で実施)。 【3.結果】主に2つの点から、発言権の再分配を観察することができた。1つ目は、言語化能力の高いメンバーとそうではないメンバーとの間での運動当時の抑圧経験について、資料を基にした出来事の再解釈である。2つ目は、創業世代と後継世代のあいだにある当該運動への歴史的知識の格差を背景にした抑圧体験について、資料からの再解釈である。 【4.結論】社会運動という対象においては、複数のメンバー間による共同行為が常に求められるとともに、メンバー間におけるヘゲモニー闘争という側面も存在しうる。これは運動体内での「平場の関係」を強調する運動においてさえ(むしろそのような運動であるからこそ)免れがたい。運動の渦中での傷つき体験により社会運動から離脱するメンバーも少なくないが、それゆえに過去の運動体験について沈黙をしてしまう者も少なくない。社会運動を研究するにあたって、メンバー間の発言権の格差という問題は重要な課題であるが、資料を活用したインタビュー調査はそれを一定程度是正するポテンシャルを有している。他方で、資料アーカイブズは所蔵・公開されているだけでは、当時のメンバーには届きがたい。資料を用いたインタビュー調査は、このような問題に対しても貢献しうる。

報告番号475

RIWAC-DA(リワック・データ・アーカイブ)が紡ぎ出してきた係わり
日本女子大学 尾中文哉

本報告では、日本女子大学が設置している現代女性キャリア研究所(Research Institute for Women and Careers[RIWAC])が提供するデータアーカイブ(RIWAC-DA)の経験から「質的データのアーカイブ」というタイトルに資する報告をすることが目的である。  日本女子大学は2008年に現代女性キャリア研究所を創設し、2008 年~2010 年の文部科学省私立大学戦略的基盤形成支援事業「戦後日本の女性とキャリアに関わる文献資料調査とデジタル保存」(研究代表者:岩田正美)のなかでこのデータアーカイブを創設することとなった。  その趣旨は、「国際婦人年(1975年)以降に実施された、女性とキャリア(生き方)に関する社会調査」( https://riwac.jp/riwacda/ ) であるという言明にもあらわれるように、社会調査に関する情報提供を行うというものである。  「質的データ」という語を、「質的調査で得られたデータ」という意味でとらえるとするならば、RIWAC-DAの中でもっともイメージにあいやすいのは、同サイトが提供している「女性のセカンドチャンス経験事例」データアーカイブ ( https://search.riwac.jp/secondchance )であろう。これは上記支援事業のサポートも受けながら2007年から2008年にかけて行われた経験事例手記募集プロジェクトの応募者189名のなかから、同意を得られた約130名の事例を7つのライフコースに分けて公開しているものである。  これは集まった手記の内容の濃さおよびその数いずれからしても充実しているし、年度によっては10万件近い検索数になることもあり、十分成功したものということができる。2025年6月20日現在の「日本社会学会倫理綱領にもとづく研究指針」にもかなったデータアーカイブになっていると考えている。  それ以外にRIWAC-DAの「社会調査データベース」のほうも、本セッションとかかわっている。このデータベースは、上記事業期間に収集された社会調査の書誌事項および関連情報を掲載している。この事業終了後も外部補助金のプロジェクト(尾中文哉・大澤真知子・永井暁子「近現代日本における女性とキャリアに関する社会調査データアーカイブ構築 にもとづく比較社会学的研究」『公益財団法人 電気通信普及財団』2016~2018年) を組むなど、充実をはかってきた。このデータベースでは「量的調査」と「質的調査」どちらも収録している。こちらも、年度によるが、10万件前後検索された年もあった。  こうした内容をもつRIWAC-DAがその後どのような道筋を辿り今日に至っているか、またそのなかでどういう係わりを生み出してきたか、またその意味について簡潔な考察を行いたい。

報告番号476

地域博物館運動と研究者
立教大学 橋本みゆき

報告者は、「多文化共生をめざす川崎歴史ミュージアム設立委員会」(以下、川崎歴史ミュージアム)の活動に2年前の立ち上げ時から参加する、川崎・桜本の一住民である。ミュージアムづくりの発端は、同地域の母親の会やキリスト教会で活動してきた80代の在日コリアン二世女性の50年来の夢である。彼女に呼び出されてミュージアム設立構想を聞く集まりに行ったところ、参加者たちの豊かな自己語りが展開され、多文化共生のヒントになるような経験をもつ人がたくさんいたことに、私は衝撃を受け、「この人たちとなら実現するかもしれない」と思うようになった。 そう思ったもう1つの根拠は、この地域が1970年代以降、在日コリアンに対する民族差別の撤廃や多文化共生の街づくりに取り組んできた実績があるからだ。私自身、在日コリアンの就職差別問題が修士論文のテーマだったことで、大学院生時代から通った地域である。というのも、ここは日立就職差別裁判闘争(1970-74年)の舞台だったし、川崎市ふれあい館(1988年開館)という公設民営施設には在日コリアン関連資料が集積しているからだ。資料と関係者の宝庫といえる。テーマによっては当事者につながりうる、多文化共生の歴史の現場である。こうした資料、関係者、そして関心を寄せる人々が集まる場としての桜本の地域資源を後ろ盾に、川崎歴史ミュージアムは活動を開始した。 しかしながら、実際にミュージアムをつくるのは容易でない。博物館展示の専門知識や施設運営のノウハウ、資金、実働メンバーも全く不足している。在日コリアンおよび日本人の関係者が参加しているからこそ、事実認識・優先順位のズレや感情的衝突が起こりやすい。肝心の展示資料作りも今なお手探りで、施設取得に至ってはまだ見通しが立っていない。 それでも川崎歴史ミュージアムの設立実現をめざすこの文化運動に、私が引きつけられ続けているのは、地域の在日コリアン当事者たちが内発的に、その必要性をそれぞれに認識して思い思いに語る姿がたいへん貴重だと、初期に感じ、この間確信を強めてきたからだ。あるとき、在日コリアンメンバーに真顔で問いかけられた。「興味深いとかいうけれど、差別の経験は表立って話したいことではない。何がおもしろいのか」。非難ではなく、ここにかかわる同志として私を知ろうとしたのだと思う。 現在のところは住民としての関わりだが、社会学研究者でもある私自身はこの活動にどう関わり、どんな貢献ができるのか。この同志に対しても、私自身も、ミュージアム実現と合わせて答えを出したい。

報告番号477

AIを活用したデータ収集プログラムのアーカイブ領域における実用可能性について
立命館大学大学院 中井良平

本報告では、議論が十分に行われないまま膨大なデータが失われ続けている、日本のウェブアーカイブを巡る状況に関して、狭義のアーカイブの実現可能性という大きな問題からは距離を起き、まずは個々の研究者らがデータを収集する際、AIがどの程度活用できるのかを検討する。近年のAI技術の発展は目覚ましく、少し前までは考えられなかった利用方法が日進月歩の速度で可能となっている。一方で、ウェブが一般に普及してから20年以上が経ち、サービスの終了などに伴い、膨大なデータがウェブ上から消え続けていることを、本セッションにおける報告者の過去の報告で伝えた。過去の報告においては、ウェブアーカイブの手法について、現在の研究者のデジタル環境を念頭に置きながら検討した結果、個々の研究者による収集であっても、それぞれによりかなりの規模のデータ収集が可能であるとの結論に至った。他方で、集められたデータをどうのように活用していくのか・アーカイブしていくのかについては、著作権の問題などがあり、現時点では明るい見通しは立っていない。報告者は報告以前から、個人的な・少数の規模であっても、以上のような現状に関わる議論や取り組みが社会学領域近辺でより活発になることを期待していたが、見聞きする限りでは大きな動きはないようである。筆者自身も、複数の大きな課題を前に、どこから手をつけて考えれば良いのかという思いがある。前回以前での報告においても、狭義のアーカイブという考えから意識的に距離を置き、研究者が研究に用いるという限定的な活用法にひとまずはとどまるとしても、データが完全に消えてしまうよりは残され利用された方が良い、といった問題意識から報告を行ってきた。今回も狭義のアーカイブの実現可能性という大きな問題からは距離を取り、現状に問題意識を有している個々人の研究者などが、ウェブ上からデータが失われ続けている問題に関して、どこから手を付けることができるのかについて、具体的な方法を検討したい。今回検討するのは、A Iを活用したデータ収集プログラムの作成と、同プログラムの実用可能性についてである。報告者は、デジタル技術に関する研究者でも専門家でもないが、ウェブ上における質的データのアーカイブについて危機感を有しているという立場から本報告を行う。現状においては、A Iの手を借りて作成されたプログラムを素人が利用することについての意義・リスク等に関する議論は十分に行われていないと考えられるが、いずれ行われるであろうそれら議論に先んじて、アーカイブ領域で素人がAIをどのように活用できると考えられるのかについても、多少考察ができればと考えている。

報告番号478

生成AI時代における質的データアーカイブの方法と課題――ALSアーカイブを事例に
立命館大学大学院 鈴木悠平

本報告では、議論が十分に行われないまま膨大なデータが失われ続けている、日本のウェブアーカイブを巡る状況に関して、狭義のアーカイブの実現可能性という大きな問題からは距離を起き、まずは個々の研究者らがデータを収集する際、AIがどの程度活用できるのかを検討する。近年のAI技術の発展は目覚ましく、少し前までは考えられなかった利用方法が日進月歩の速度で可能となっている。一方で、ウェブが一般に普及してから20年以上が経ち、サービスの終了などに伴い、膨大なデータがウェブ上から消え続けていることを、本セッションにおける報告者の過去の報告で伝えた。この膨大なデータ群のかなりの部分は、ウェブ文化の黎明期からこの方人々が書き残してきた個人サイトやウェブログにおけるテキストデータである。そこには専門家や専門職、当事者の人々が残した、時代と社会状況を反映した数多くの貴重なデータが含まれていると考えられること、またウェブ・デジタルデータの寿命が、従来の紙媒体等に記録されたものよりも遥かに短いこと、よってそれらデータの緊急的なアーカイブの必要性があることも、同様に過去の報告で伝えた。過去の報告においては、ウェブアーカイブの手法について、現在の研究者のデジタル環境を念頭に置きながら検討した結果、個々の研究者による収集であっても、それぞれによりかなりの規模のデータ収集が可能であるとの結論に至った。他方で、集められたデータをどのように活用していくのか・アーカイブしていくのかについては、著作権の問題などがあり、現時点では明るい見通しは立っていない。報告者は報告以前から、個人的な・少数の規模であっても、以上のような現状に関わる議論や取り組みが社会学領域近辺でより活発になることを期待していたが、見聞きする限りでは大きな動きはないようである。過去の報告でも見た通り、近年、長年続いてきた大規模なウェブサービス(特にウェブログ)の終了が続いており、かつて主流だったウェブログサービスがSNSの傍流となっている状況を鑑みれば、それは一時的な流れであるとは考えにくい。現在進行形で消え続けている膨大なデータをどのように残し、また著作者の権利や個人情報の扱いなどに留意した上でどのように活用していけるのかについての社会的・社会科学的な議論が待たれているが、同時に、個々の研究者らが同問題についてどこから考え・手をつけていくのか、実践的な知が必要とされていると言えるだろう。

報告番号479

映像アーカイブ/コレクションの研究利用をめぐる諸問題
大阪公立大学 石田佐恵子

2020年代に入り、人文社会科学において研究利用が可能な映像アーカイブがめざましく増えてきている。そこで本報告では、各所に展開する映像アーカイブの基本理念を確認、整理する。その上で研究利用をめぐる諸問題について、映像コレクションの可能性を含め、メタデータの付与、研究目的と方法、公開可能性、引用とガイドラインの観点などから報告を行う。 【1】映像アーカイブの定義と現況 ・映像アーカイブの定義:「静止画の連続による動く映像(Moving Image)」全般、映画やテレビ番組、個人がビデオカメラ類で記録した「家庭用映像」や、「取材フィルム」「テレビ・コマーシャル」に至るまで、社会に存在するさまざまな種類の映像の総称としての「映像」を「質的データ」として捉える。また、「アーカイブ(Archive)」とは、⑴文書すなわち資料そのものの集成、⑵文書を収めた建物(文書館)、⑶文書の保存に携わる機関、という3つが存在し広く共有されている。両者の定義を組み合わせると、「映像アーカイブ」についても、⑴映像そのものの集成、⑵映像を保存する建物、⑶映像の保存に携わる機関、という3つの定義が考えられる。 ・映像コレクション、映像データベース、映像アーカイブ:20世紀後半以降、映像撮影機材や保存機器が社会に広く普及し、個人的な映像コレクションが至るところに存在するようになった。それらは、個人的な収集物であるという意味で、また、ただ単に集めたという意味で「映像コレクション」と呼ぶのがふさわしい(石田 2009a)。映像アーカイブと対比し、「映像コレクション」を質的資料として扱うことの可能性についても考えを進めたい。 【2】拡大する映像アーカイブとそれに基づく研究の展開  社会学におけるさまざまな主題の先行研究から、映像アーカイブ/コレクションを利用した事例を提示し紹介する。 【3】研究利用をめぐる問題① メタデータの付与、研究利用の目的と方法  「映像資料を扱う質的調査」とは、映像の意味をそれが生みだされた個別の社会的・歴史的文脈に即して捉え分析に用いる探求法である。社会学的研究や質的調査にとって、映像資料や放送番組を扱うことにはどのような意味があり、どんな点に注意すべきなのかを論ずる。 【4】研究利用をめぐる問題② 公開への意思、引用とガイドライン  映像アーカイブを利用して書かれた論文を参照し、それらの映像資料の閲覧可能性についてまとめて紹介・補足する。 [引用文献リスト] 石田 佐恵子 2009a 「個人映像コレクションの公的アーカイブ化の可能性(<特集>放送アーカイブをめぐるメディア研究の可能性)」,『マス・コミュニケーション研究』75: 67-89 —- 2009b 「ムービング・イメージと社会 : 映像社会学の新たな研究課題をめぐって(<特集> 「見る」ことと「聞く」ことと「調べる」こと)」,『社会学評論』60(1): 7-24 —- 2012 「ビジュアルデータ・アーカイブズを用いた二次分析の可能性 : テレビ番組CMアーカイブを中心に(<特集>データ・アーカイブと二次分析の最前線)」,『社会と調査』8: 54-63 —- 2014 「映像アーカイブズと質的研究の展開(<特集II>質的調査のアーカイブ化の問題と可能性)」,『フォーラム現代社会学』関西社会学会,13:133-143

報告番号480

社会学はアーカイブズをどう活用できるのか――立教大学共生社会研究センターの経験から
立教大学 高木恒一

本報告は、社会学研究におけるアーカイブズの可能性を考察することを目的とする。アーカイブズ学においてアーカイブズという用語は収集された資料(アーカイブズ資料)とこうした資料の取得・保存・公開を担う組織または責任主体(アーカイブズ機関)を指すものとして使われているが、ここではこのうちアーカイブズ機関を考察の対象とする。事例とするのは立教大学共生社会研究センター(以下、センター)である。センターは埼玉大学共生社会研究センターの資料を引き継いで2010年に設立され、国内外の多様な市民活動に関する資料を収集・整理・公開するとともに、研究支援、教育支援、公開シンポジウムの開催などの活動を展開している(センターの概要はhttps://www.rikkyo.ac.jp/research/institute/rcccs/参照)。  報告者はセンター設立時から2015年度までセンター長をつとめた後、2016年度から今日まで副センター長として運営業務に携わっている。そのなかでセンター立ち上げ時の大学当局とのさまざまな折衝、運営・資料受け入れ・公開に関わる方針や規程の策定、センター資料を用いた授業の運営、資料受入の実務、シンポジウムやワークショップといった一般向けイベント企画運営、さらには関係諸団体との関係構築などの業務を経験している。一方、研究者としてもセンター所蔵のものを含めたアーカイブズ資料を利用した研究もおこなってきた。こうした経験を踏まえて、アーカイブズが社会学における研究活動のなかでどのように活用できるのか、その可能性を考えたい。  センターのこれまでの活動については報告者による論考があるほか、埼玉大学時代から長らくアーキビストを務めていた平野泉氏による論考がある。本報告ではこうした報告を踏まえつつ、センターが大学の部局として設置されているものであることから、制度としてのアーカイブズの特性を考えてみたい。ここでは一定の組織的基盤のもとで、資料の収集・分析・公開に加えて、資料の市民への公開、研究や教育などへの支援なども行っていることに触れて、アーカイブズの展開しうる活動の幅を検討していく。 アーカイブズについて、設立・運営する立場から検討することは、今後のアーカイブズ設立・運営だけでなく、ユーザーのアーカイブ/アーカイブズの活用の可能性を検討することにもつながるはずである。こうした点を視野にいれながら、社会学研究におけるアーカイブ/アーカイブズの重要性を主張するとともに、その活用の方向性を模索したい。 文献 平野泉、2016、「市民運動の記録を考える:アーキビストの視点から」『社会文化研究』18:35-55 高木恒一、2019、「大学アーカイブズの意義と課題:立教大学共生社会研究センターの経験から」『生存学研究』3:69-80

報告番号481

スマートフォン依存要因の検討
関西学院大学 鈴木謙介

本研究では、スマートフォン依存を対象とした調査について報告する。コロナ禍以後、若年層へのスマートフォン普及が進み、動画コンテンツの視聴が一般化した状況において、スマートフォン依存がどのように捉えられるのか、また、スマートフォンの利用を自らコントロールしようとする若年利用当事者は、どのような行動をとっているのかを明らかにすることを目的とする。 社会学においては、スマートフォン以前から若者と携帯電話の依存についての研究が行われてきた。辻(2006)、辻・鈴木(2006)、鈴木(2006)などの研究では、携帯電話依存の要因として、人間関係への依存や不安が指摘されており、特に「孤独であること」そのものではなく、「孤独だと見られること」や「孤立していると感じられること」への不安が携帯電話依存を引き起こしているとされた。 スマートフォン登場以後の研究も、この傾向を踏襲している。田山(2011)は携帯電話依存が若者にストレス反応を引き起こすことを示し、村井(2014)は高校生の携帯電話依存因子のうち、習慣的依存がコミュニケーションと関係していることを明らかにした。また、神野(2017)は、ケータイメールの利用が生活満足度を低下させ、この傾向が特に女子に顕著であることを指摘している。これらの研究では、スマートフォン依存尺度の開発も進められており、例えば戸田ほか(2015)のWakayama Smartphone Dependent Scale(WSDS)では、スマートフォン依存因子として「ネットコミュニケーションへの没頭」「スマホの優先」「長時間の通話」「マナーの軽視」「ながらスマホ」の5つが挙げられている。 しかしながら、コロナ以後の状況を踏まえると、従来の研究には複数の課題が存在する。第一に、動画サイトの普及により、長時間利用の要因として動画視聴、特に短尺動画の視聴の影響が指摘されるようになっている。第二に、ゲーム端末としてのスマートフォンの利用が一般化し、「ガチャ」のような射幸心を煽る仕組みと高額課金の問題も浮上している。第三に、SNSの性質が変化し、従来の「友人とのコミュニケーション」ツールから、プラットフォーム資本主義の拡大に伴い、「タイムラインに流れてくるフォロー外の情報や広告を受動的に見るサービス」へと変容している。 これらの変化にも関わらず、スマートフォン依存研究の多くは「依存=友人コミュニケーションへの依存やリアルのコミュニケーションの軽視」という従来の枠組みを踏襲している。ゲームや動画に関する影響は三島(2020)や中原ほか(2023)によって指摘されているものの、因子の存在を示唆するにとどまっている。 そこで本研究では、コミュニケーションのみならず動画やゲームにも着目してスマートフォン依存の要因を検討する。具体的には、スマートフォン利用制限アプリのユーザーを対象にした調査から、スマートフォンの「使いすぎ」に関して、コミュニケーション目的とコンテンツ消費目的の利用行動に違いが見られるかを検討する。また、アプリの特性上「自らスマートフォンの利用を制限しようとする行動」についても検討を加える。

報告番号482

X(旧Twitter)データにおける「アクター・ネットワーク」の「結節点」となる語彙の可視化手法に関する比較検討――「単語埋め込みモデル」とt-SNEを用いたアプローチ
立教大学 和田伸一郎

■目的 X(旧Twitter)研究において、炎上やトレンドといった可視性の高い現象に注目が集まる傾向にある。これは、エンゲージメント重視のアルゴリズム設計に起因している。しかし、ブリュノ・ラトゥールらによる「アクター・ネットワーク理論(ANT)」の視座から観察すると、そういった大規模な現象から離れたところに、小規模ながらも多様な「アクター」による「グループ形成」や「ネットワーク」の展開が随所で生起し、建設的な議論が行われている。本研究では、「育休」「毒親」「ヤングケアラー」「不妊治療」等をキーワードとした数十万行のデータセットのいずれかを用いて、この現象を実証的に検証する。 ANTにおける「アクター」のつながりは緩やかであり(必ずしもフォロー関係に依存しない)、多くのユーザーは日常的投稿の中で断続的に自身の経験を共有する。そのため、投稿頻度や語彙出現回数といった量的指標では、「媒介子」としての「アクター」の役割や「ネットワーク」展開における重要性を適切に評価できない場合が多い。むしろ、投稿数や語彙出現頻度が少数であっても、「ネットワーク」の「結節点」として機能する投稿が複数観察される。 本研究は、数十万行の投稿から「アクター・ネットワーク」の「ノード(結節点)」となる投稿、「記述」、語彙を効率的に特定する手法の比較検討を目的とする(もちろん「アクター・ネットワーク」なるものを可視化するものではない)。 ■方法 分析対象は、特定単語を含むX投稿の1年間分のデータセットである。これは計算社会科学において「デジタル観察データ」と呼ばれるもので、研究者が「研究目的で作成したもの」ではなくSNS上で自然発生したデータである。取得データ内の一定数の投稿を行うユーザーを、ラトゥールが述べる質問応答型の「インフォーマント」ではなく、「ネットワーク」展開のために「差異」を生成しながら「報告」を行う「アクター」による「記述」として理論的に位置づけた。 従来のテキストマイニングでは、例えば、TF-IDFに基づく重要語抽出によるワードクラウド、語彙のJaccard係数による共起ネットワーク、ルールベースの感情分析に基づく語彙頻度分析などが用いられてきた。そこで本研究では、単語埋め込みモデルを用いて文章中の語をベクトル化し、t-SNEアルゴリズムでクラスタリングした結果をGoogle提供のEmbedding Projector上で三次元空間に可視化する手法を採用した。これにより、出現頻度の低い語彙であってもネットワーク上の結節点となりうるものを可視化可能とし、従来手法と本手法の結果を同一データで比較検証した。 ■結果 その結果、べき乗分布を持つ大規模SNSデータにおいても、出現頻度が高いものが選出されやすい共起ネットワークの語彙に比べ、t-SNEクラスタリングで抽出された語彙は出現頻度が格段に低いにもかかわらず、それらを含む投稿の方が「アクター・ネットワーク」の展開過程を追跡しやすいことが明らかになった。この結果は、量的指標に依存しない質的な「ネットワーク」分析の有効性を示唆している。 ■結論 本研究は、「アクター・ネットワーク理論」と「計算社会科学」手法の理論的・方法論的接続可能性を実証的に検討した。両アプローチには相互補完性があり、デジタル社会における微細な社会的結合の解明に向けた応用可能性が示された。

報告番号483

テレビの「送り手研究」再考――動画配信という「新規事業」に着目して
中央大学大学院 鈴木祐啓

【1.目的】 本報告の目的は、1950年代にスタートした日本国内のテレビ放送における「報道・情報系、及びスポーツ系を除く番組コンテンツ(以下、コンテンツ)」を、テレビ局が視聴者に対してどのように伝えるのかの「送り手」研究に関する整理・検討を行い、今日的な課題を明らかにすることである。現在、ファンダム研究やオーディエンス研究などからのテレビ放送の「受け手」研究は数多くあるものの、「送り手」研究はジャーナリズムに即した研究に集中しており、コンテンツの「送り手」研究の数は少ない。NHK、日本テレビの開局以来、約70年を経てきた「放送学」研究の中で(松山 2024)なされてきた「送り手」研究において、本報告で焦点をあてるのはこの研究になる。その際、同じ映像メディアとして、近年プレゼンスを確立した「動画」配信という「新規事業」(土橋・富樫 2024)へのテレビ局からの視座を加味した検討を行いたい。 【2.方法】 本報告では、「テレビ放送における「送り手」研究(以下、先行研究)」(小林・毛利 2003)(藤竹・竹下 2018)の経緯や背景を探る。先行研究の骨子を構成する要素を抽出、整理し、マスコミュニケーション理論(D.マクウェール 2010)を参照しつつ、理論的な特徴を明らかにする。そのうえで、2010年代以降のテレビ放送の現状に適合するか(辻 2010)を具体的に検討するために、近年の学術研究(『メディア研究』『社会情報学研究』などの各学会誌や『放送研究と調査』(NHK出版)等の関連研究誌など)をリファレンスし、その傾向、課題を考える。 【3.結果】 本報告では、先行研究では扱いの少ない「送り手」研究のジャンルが明らかになると共に、先行研究では捉えきれない状況的な変化を遂げている2025年現在の「送り手」の特徴や傾向も示される。これは、2010年代以降の「動画」配信メディアの確立や、SNS等のネット環境の拡充に起因するものも大きい。 【4.結論】 本報告において、先行研究の理論のみでは、現在のテレビ放送における「送り手」の状況や特徴を記述しきれないことが明らかになる。そこには、ネット環境の一般化や、「動画」配信という新興メディアの成立も大きく影響しており、喫緊の課題として、従来のテレビ局の「送り手」研究へ今日的な要素を加え、現状にアジャストする研究が求められる。その先に、これからのテレビ局の在り方の一端を示すことができると考える。 <主要参考文献> 松山秀明,2024,『はじまりのテレビ 戦後マスメディアの創造と知』人文書院. 土橋力也・富樫佳織,2024,「新たなビジネスモデルの参入に対する既存企業の対応戦略:放送局と動画配信プラットフォームの事例」『組織科学』57(3): 18-32. 小林直毅・毛利嘉孝編,2003,『テレビはどう見られてきたのか』せりか書房. 藤竹暁・竹下俊郎編,2018,『日本のメディア 』NHK出版. 辻泰明,2022,『平成期放送メディア論』和泉書院. McQuail,Denis,2005,McQuail’s Mass Communication Theory,London: Sage Publications.(大石裕監訳,2010,『マス・コミュニケーション研究』慶應義塾大学出版会.)

報告番号484

環境配慮商品に関するナラティブ広告が人々のグリーン購入行動に及ぼす影響の調査
京都大学大学院 橋本大輝

1. 本研究の目的 本研究は, ナラティブコミュニケーションが人々のグリーン購入行動に与える効果について調査・分析することを目的とする. ナラティブコミュニケーションは, 特定のメッセージを登場人物や語り手のエピソードを通じて伝える情報伝達手法であり, 主に没入感(Transportation), 同一化(Identification), パラソーシャル関係(Para-social interaction)の3つの効能が, 聞き手の意識だけでなく行動変容にも大きな影響をもたらす可能性が示唆されている1. 実際, ナラティブコミュニケーションが環境配慮行動の意図形成に与える効果について報告する研究が近年増加しており, グリーン購入行動における効果についてもDaiらが示している2. 一方, 環境配慮行動の行動意図に焦点を当てた研究が多く, 実際の行動に対する効果や, ナラティブコミュニケーションの効能ごとの効果については未だ調査が求められる. そこで本研究では, 従来の意識調査に加えてWilling-To-Pay 調査を行うことで, 環境配慮商品に関するナラティブ広告を閲覧した被験者が実際の市場においてどのように行動するのか調査する予定である. また, ナラティブコミュニケーションの効能に焦点を置いた行動モデルを用いてパス解析を行うことで, ナラティブコミュニケーションの効能ごとに応じた効果についても検証する予定である. 2. 実験計画 本研究では, 特定の環境配慮型商品に関する広告として自主作成した, 商品をモチーフにしたキャラクター達がナラティブに宣伝する広告と, データなどを用いながら商品について単調に説明する広告の2種類を使用する. なお, 調査対象商品として本研究では, A社が発売しているアップサイクルおやつ商品(食料廃棄物をおやつに変換した商品)を使用した. 実験としては, 街頭にて被験者にいずれかの広告を視聴してもらい, 視聴後に商品や環境に対する意識, 及び商品に対する支払見込み額について問うアンケート調査に回答してもらうといった社会調査を行うことを計画している. 3. 解析手法 本研究では, パス解析による行動モデリング作成を通じて, それぞれの広告が行動意図や行動に与えた効果を比較, 検証する予定である. なお, 本研究ではナラティブコミュニケーションとグリーン購入行動との関係をより詳しく調査する目的で, Aizenが作成した購入行動調査において頻繁に用いられる行動モデル3と, Shenらが作成したナラティブの3つの効能に注目した行動モデル4の2つを参考に作成した, 新たな仮説モデルを使用する予定である. 報告の際には, アンケート調査結果をもとにSPSSによるパス解析を通じた仮説モデルの妥当性検証や再構築の過程, 及び得られた行動モデリングの分析, 比較を通じて得られた結果や考察について議論する予定である. 【参考文献】 1. Lijiang Shen. Suyeun Seung. Kristin K. Andersen. Demetria McNeal, 17, 2 (2017), 165–181 2. Dai-In Danny Han. Marissa Orlowski, Computers in Human Behavior, 155 (2024), 1-9 3. Icek Ajzen, Organizational Behavior and Human Decision Processes, 50 (1991), 179-211 4. Lijiang Shen. Suyeun Seung. Kristin K. Andersen. Demetria McNeal, 17, 2 (2017), 165–181

報告番号485

デジタル化と若者の性的非活発化――2008年と2020年代のインタビューのナラティブの変化
明治大学 平山満紀

日本では、2000年代半ば以降、若者の性交経験率が低下している。このような性的非活発化はソーシャルメディア、オンラインゲーム、オンラインポルノなどの急速な発展を含むデジタル化と軌を一にしているが、統計分析を主とした先行研究では、両者の関係は依然として明確ではない。本研究は、若者の性生活に関するインタビューから得られたナラティブの分析を通して、デジタル化と若者の性的非活発性の間の、いくつかの関係を特定することを目的とする。 方法とサンプル: 田村・細谷らの研究チームが2008年(n=27)に、筆者らの研究チームが2021~2025年(n=60)に、日本の大学生を対象に、性生活に関するほぼ同じ質問を用いてインタビューを実施した。インタビューは一対一の半構造化面接で、1人あたり約2時間のインテンシブなものである。本研究では、両調査のナラティブを比較分析する。 結果: 2008年はデジタル化の初期段階と言えるが、その時点の調査では、ほとんどのインフォーマントたちは友人との性に関する会話をさかんにおこなっていた。男性は中学時代に自慰のテクニックを友達間で伝授したり、大学時代にはポルノを貸し借りしたり、恋人を紹介したり、風俗に一緒に出掛けたりと、私的な性的経験を共有し、性的経験が豊富な人が自慢することも多くみられた。女性も、生理や自慰、恋愛関係や性行為の詳細に関する性的経験を共有し、セックスに関する親身な相談もしていた。当時の若者は雑誌メディアの影響を強く受けていたが、雑誌の提供する共通の知識と価値を基盤に、性に関する会話を成立させ、その会話により性交経験に動機づけられていたと言える。 対照的に、デジタル化が進展した2020年代には、雑誌メディアによる共通の知識と価値の基盤を失って、友人間の性に関する会話は成立が困難になった。2008年と同様に私的な性的経験に関する会話をする人は半数弱はいるが、友人とは性に関して全く話さない、恋愛や身体についてのみ話す、アイドルやBL作品やオタク文化などについてのみ話す、社会問題としての性についてのみ話すという人も多くなった。こうして、一方では若者は友人との会話から性行動に動機づけられることがなくなり、他方では生きた人との性的関係以外で性欲を満たすデジタル技術を、多く使うようになった。 結論: デジタル化が間接的、直接的に性的非活発性の要因となっていることが示唆された。デジタル化は世界中で起きているが、他の国々でも同様に、それが性的非活発化の要因となるのか、国際比較研究も重要であろう。

報告番号486

子育て支援とTFRの不都合な関係
帝京大学 池周一郎

平成15(2003)年に制定された「少子化対策基本法」には、第1章 総則(施策の基本理念)として、「男女共同参画社会の形成とあいまって、家庭や子育てに夢を持ち、かつ、次代の社会を担う子どもを安心して生み、育てることができる環境を整備することを旨として講ぜられなければならない。」と謳っている。そして、第2章 基本的施策として、雇用環境の整備、保育サービス等の充実、地域社会における子育て支援体制の整備、経済的負担の軽減等が掲げられている。 これらの子育て環境を充実させるという施策は、20年を経過した2024年の72万988(速報値)という出生数とTFR=1.3 est. (日本人のみの数値を公的に発表する姿勢は非科学的であり、同時にその民族主義的偏向に強く抗議する)を前にすると、無力なものであったことが事実として判る。 これらの施策の有効性は、家政経済学の論理的帰結でもあるが、社会の子育て支援を充実させれば出生率が上昇するだろうという常識に基づいていた。社会保障・人口問題研究所の第10回厚生政策セミナーにおいて、阿藤 誠は「超少子化社会を考える」(平成18(2006)年1月)というタイトルで講演を行い、その中に、OECD諸国の子育て支援額とTFRの相関分析である散布図(図表11)で「子育て経済支援と合計特殊出生率の関係(2000年)」https://www.ipss.go.jp/seminar/j/seminar10/atoh.pdを掲載している。 この相関分析は、赤川 学から分析の妥当性やデータ選択等の問題性を既に厳しく批判されている。しかし、データ選択は実は基本的には阿藤によるものではない。阿藤のレポートに掲載されている散布図は、OECD諸国のTFRとChild Benefit Package の関係を論じた 4th International Research Conference on Social Security, Antwerp, 5-7 May 2003 のBradshaw, J. at.al.,のpaper からの引用であると記載されている(阿藤は更にデータを追加している)。しかし、同じJonathan Bradshaw and Naomi Finch によるReport: A comparison of Child Benefit Packages in 22 Countries, 2002(York Uni.)Figure 11.13には、阿藤がx軸としたChild Benefit Package は、y軸でありx軸がTFRなのである。つまり阿藤の図表11とはxとyが逆なのである。我々は、回帰分析の文脈からもx軸の変数を独立変数と仮定することが多いことから、オリジナルのJ. Bradshaw & N. Finch は、OECD18カ国について、子育て支援がTFRを押し上げるという因果関係を想定していなかった可能性が非常に大きい。彼等のReportを読めば、むしろ、TFRの大きさがChild Benefit Package を変化させていると考えていたのである。相関分析に因果関係を読み込むことは、擬相関の罠にはまる危険なことであるが、オリジナルは、当時は日本は経済的に豊かでありながら、子育て支援が小さいと主張しているだけである。これを増やせば、TFRが上昇するとは言っていない。彼等はこのような弱い相関では因果関係については推論できないと言っていたのである。 「少子化対策基本法」は、因果関係を科学的に検討せず、主に常識に依存した無策であった。子育て支援は、社会福祉政策としては評価してもよいが、Pronatarist policies(出生促進政策)は概してまったく役に立たない。

報告番号487

若者は性交渉から遠のいたのか――「出生動向基本調査」集積データを用いた性交渉経験の有無の推移確率の推定
九州大学 毛塚和宏
国立社会保障・人口問題研究所 中村真理子

【1. 目的】2000年代以降の日本では,結婚以前に未婚者の性交渉経験率の低下が観察されており,これを未婚化の原因として指摘する研究もある.同時に,このような性交渉経験に関する議論は,現在人口に膾炙している「草食化」言説(i.e. 若年層において性行為から遠ざかっている)とも重なるものである.しかし,そういった指摘や言説の広まりに反して,これまで若者の異性交際離れと未婚化の関係について,定量的なデータに基づいた検証は多くはない.そこで本研究では,現代日本における未婚者の性交渉経験と結婚の関係について,大規模な社会調査データに基づいて定量的に提示すること,1980年代から2010年代にかけての約30年間における,両者の関係に趨勢を提示することを目指す. 【2.方法】分析で使用したのは,第15回出生動向基本調査報告書の報告書に掲載されている「図表I-2-4 調査・年齢別にみた, 性経験の有無別未婚者の割合」と,国勢調査の男女・年齢階級別,配偶関係別人口である.2つの統計表から男女・年齢階級別に,未婚者(性交渉経験あり,なし)と既婚者の割合を算出し,この値をもとに出生コーホート毎に性交渉経験の有無別に未婚者が既婚状態へと移行する推移確率を推定する.具体的には,マルコフ連鎖の考え方に基づき,制約付きの最小二乗法を用いて推移確率を推定する.区間推定にはブートストラップ法を用いる. 【3. 結果】分析から明らかになったのは以下の4点である.I. 性交渉経験がある未婚者(「未婚有」)が5年後もその状態を維持している(「未婚有」に留まる)推移確率が増加傾向にある.II. 「未婚有」から既婚への推移確率が減少傾向にある.III. 性交渉経験がない未婚者(「未婚無」)が,5年後もその状態を維持している(「未婚無」に留まる)推移確率が増加傾向にある.IV.「未婚無」から既婚と「未婚有」から既婚の推移確率を比べると後者が常に大きい. 【4. 結論】未婚から既婚に5年以内で推移する確率は性交渉経験がある場合のほうが高い(IV)ことから,日本においては性行為経験が結婚への十分条件になりつつある(i.e. 結婚するためには性行為経験がなければならない)ことが示唆される.性行為経験の無い未婚者がその後もその状態にとどまる確率が上がっている(III)ことはその裏返しだろう. ただし,性交渉経験があるがその後の結婚確率を上昇させているとも言い難い.I), II)が示す通り,近年,性行為経験があったとしても未婚のままとどまる割合も増加しており,全体として未婚化が進展していると考えられる.

報告番号488

既婚男女の出生意欲の規定要因――世代を超えた影響と性格特性
富山大学 中村真由美
専修大学 秋吉美都

既婚男女の出生意欲の規定要因―世代を超えた影響と性格特性 富山大学 中村真由美 専修大学 秋吉美都 1.目的 出生意欲はどのように醸成されるのだろうか。2018年に実施した既婚女性を対象とした調査データを用いた分析結果では、子どもの頃に「自分の母親が母親業を楽しんでいた(Positive Mothering, PM)」と認識していることが、娘(回答者本人)の子供についての価値観や出生意欲に影響することが明らかとなった(Nakamura and Akiyoshi2024)。 しかし、実際の出生予定数を決めるのは妻の出生意欲だけではなく、夫の出生意欲も関わっている。海外では男性の出生意欲についての研究もあるが(Miller1992など)国内ではほとんど検証されていない。そこで本報告では、まずNakamura and Akiyoshi(2024)の既婚女性の出生意欲の研究について説明したあと、夫の出生意欲の規定要因についても分析結果を報告する。 2.分析 全国サンプルのオンライン調査で2018年に既婚女性2000人(25-35歳、子供が0人or1人)の調査を実施した。また、2025年6月に既婚男性2000人(25-35歳、子どもが0人or1人)の調査を実施している。本稿では既婚女性の結果について紹介するが、発表当日は既婚男性の結果についても述べる。手法は共分散構造分析などである。 3.結果 共分散構造分析を用いた既婚女性の分析結果では、母親の役割葛藤がPM(母が母親業を楽しんでいたかどうか)に影響し、それが娘(本人)の子供に関する価値観や出生意欲に影響していた(本人の基本属性も統制)。自分の母親が母親業を楽しんでいなかったと感じている女性は、子どもを持つことに対してポジティブな価値観を持ちづらく、予定子供数も有意に少ないことが明らかとなった。また、母親のPMには母親の役割葛藤が影響していた。 4.結論 既婚女性の分析結果では、出生意欲は世代を超えて形成されるものだということがわかった。母親業を楽しめない母親を見て育った女性は、自分も子育てに価値を見出しづらく、子どもがあまり欲しくなくなる。未来の出生数を増やすためには、今の世代が子育てを楽しめるようにすることが重要である。なお、当日は、既婚男性についての分析結果も発表予定である。さらに性格特性との関連も検証予定である。 文献 Nakamura, M., & Akiyoshi, M. (2024). Affective aspects of parenthood and their intergenerational effects on fertility. International Sociology, 39(3), 261-283. Miller WB (1992) Personality traits and developmental experiences as antecedents of childbearing motivation. Demography 29(2): 265–285.

報告番号489

中山間地域の農村に住む高齢女性のきょうだい関係――岡山県高梁市宇治町と松原町の事例
岡山大学 野邊政雄

多産少死の時代に生まれた人々は、現在、高齢者となっている。筆者は、そうした高齢者が今日においてもなお、きょうだい(=兄弟姉妹)とどのように交流し、どのように支え合っているのかに関心を持った。この関心にもとづき、筆者は岡山県高梁市の中山間地域である宇治町および松原町において、高齢女性を対象に、彼女たちのパーソナル・ネットワークとソーシャル・サポートに関する調査を2016-17年に実施した。本報告の目的は、この調査データを分析することにより、高齢者のきょうだい関係を規定する要因を明らかにすることにある。具体的には、きょうだいの性別や居住場所、高齢女性の配偶者やこどもの有無が対面的交際頻度、電話等による接触頻度、情緒的サポートの入手可能性に及ぼす影響を検討した。マルチレベル分析によって、次の5点が判明した。 (1) きょうだいが近くに居住しているほど、高齢女性はそのきょうだいと頻繁に交流していた。ただし、情緒的サポートの入手可能性については、物理的距離そのものよりも、実際の対面的な交際頻度が影響していた。すなわち、頻繁に直接会っているきょうだいほど、情緒的サポートを期待しやすい傾向が見られた。 (2) 高齢女性は兄弟よりも姉妹と交流する傾向があり、姉妹に対してより多くの情緒的サポートを期待していた。 (3) 配偶者がいない高齢女性は、配偶者がいる女性よりもきょうだいとの交流頻度が高かった。一方で、情緒的サポートの入手可能性に関しては、配偶者の有無による明確な差は見られず、きょうだいが配偶者の代替的役割を果たしていなかった。また、子どもの有無は、きょうだいとの交流頻度や情緒的サポートへの期待とは関連していなかった。 (4) 高齢女性の年齢、就労の有無、自動車を運転するかどうか、きょうだいの人数も、きょうだいとの交流やきょうだいからの情緒的サポート入手可能性に影響があった。まず、年齢の低い高齢女性ほど、情緒的サポートをきょうだいに期待できた。次に、就労している高齢女性は、無職の高齢女性よりもきょうだいとより頻繁に直接会っていた。それから、自動車を運転する高齢女性は運転しない高齢女性よりもきょうだいとより頻繁に会ったり、きょうだいに情緒的サポートを期待できたりした。最後に、高齢女性にきょうだいが少ないほど、高齢女性は個々のきょうだいに情緒的サポートを期待できた。 (5) 現代の農村において、きょうだいは手段的サポートにとどまらず、情緒的サポートの提供者ともなりうる存在であるが、提供者となるきょうだいの割合はあまり高くない。

報告番号490

韓国における育児ケアプラットフォームの登場に伴う育児ケア労働の変化
広島大学 申在烈
韓国雇用情報院 金埈永

【1.目的】韓国においてこれまで非公式な領域で行われてきた育児ケア労働が、プラットフォームへの移行を通じて公式領域に取り込まれることにより、ケア労働者の労働過程および労働条件がいかに改善されたのかについて、簡潔に考察することを目的とする。 【2.方法】2024年8月から9月初旬にかけて、育児ケアサービスのプラットフォームを通じて就労しているプラットフォーム労働者(ベビーシッター)17名および、育児ケアプラットフォーム主要4社の人事担当者(理事、チーム長)を対象に対面インタビューを実施した。すべてのインタビューは半構造化(semi-structured)形式で行われ、インタビュイーの同意を得た上で録音がなされた。ベビーシッター17名のうち12名については1対1の個別インタビューを行い、そのうち4名は対面で、8名はZoomを用いたオンライン形式での実施となった。さらに、異なるプラットフォームを通じて就労している5名のベビーシッターを対象に、対面によるフォーカス・グループ・インタビュー(FGI)も1回実施した。インタビューに要した平均時間は、個別インタビューでは1時間から1時間30分程度、集団FGIでは約2時間であった。 【3.結果】育児ケアサービスのプラットフォーム経済への移行は、育児・保育サービス市場に本質的な変化をもたらした。プラットフォーム企業が登場する以前、育児ケア労働市場は地域(町内)単位で形成されており、情報の不完全性によりサービスの需要者(保護者)と供給者(育児ケア労働者)とが迅速にマッチングすることは困難であった。しかし、育児ケアプラットフォームの登場以降、求人・求職情報が少数のプラットフォームに集中することで、情報の非対称性が次第に解消され、労働市場は地域という空間的制約を超えて大きく拡大することとなった。育児ケア労働者にとっては、希望する仕事をより容易に見つけることが可能となり、利用者(保護者)にとっても、必要なタイミングで希望する育児ケア労働者のサービスを利用しやすくなった。従来、非公式部門として存在していた育児サービス労働市場は断片的なネットワークに依存していたが、プラットフォーム労働への移行後は、プラットフォーム企業を中心として、利用者と育児ケア労働者とのネットワークが大きく拡張したと考えられる。 【4.結論】育児・ケア労働者の立場から見ると、プラットフォーム経済の登場とともに進行した育児・ケアサービスの公式化は、多様な肯定的効果をもたらした。プラットフォーム上で業務内容が標準化・公式化されたことにより、育児ケア労働者の時間当たりの収入は大幅に増加した。また、トラブルが発生した場合には、プラットフォームが介入することで、従来に比べて労働者にとって不利でない方向での調整が行われるようになった。さらに、契約に明記されていない業務を行わずに済むようになり、追加業務が発生した場合には即座に追加報酬を受け取ることが可能となった。結果として、育児ケアサービスのプラットフォーム化はケア労働者の労働条件に一定の変化をもたらし、現時点ではおおむね肯定的な変化が多いと評価できる。特に注目すべき点としては、プラットフォームを通じたケア労働の転換により、ケア労働者の職業経験が正当に評価されるようになったことである。