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第98回日本社会学会大会 シンポジウム報告要旨(11月16日日曜日午後)

報告番号509

近代(化)論を東アジアから考える――家族論を中心に
日本女子大学 野辺陽子

 本発表では、西洋の歴史的経験をふまえて構築された近代化論を、非西洋諸国の近代化に適用するという論点について、筆者が今後の課題だと考えている点について議論したい。
近代化論、特にウェーバーやマルクスを念頭に置く初期の近代化論に対しては、①近代化を単線的な発展段階として描くこと、②西洋の歴史的経験がモデルとなっていること(ヨーロッパ中心主義Eurocentrism)が、主として批判されてきた(Marsh 2014: 264-6)。
初期の近代化論については、日本では、近代化をサブシステムに分解し、それぞれを検討する枠組みを構築したことで、西洋の後を追う単線的な発展段階図式から離れ(富永 1990)、ウェーバーやマルクスの議論が、社会史の知見によってデータの裏づけを喪失したこと(佐藤 1998)、「隅々まで近代化された一枚岩的なものとして描き出される傾向」のヨーロッパ近代についても、「制度の近代化にはでこぼこが依然として存在」(厚東 2011: 159)することを指摘することで、従来のヨーロッパの近代化論を相対化してきた。
 本シンポジウムで参照点としたベックは、主流の社会理論を「西洋、すなわち主にヨーロッパか北米の近代化の軌跡、歴史的経験、将来への期待を誤って絶対視し、それによって自らの特殊性をも見ることができない」(Beck 2016: 258)と批判したが、では、冒頭で挙げた①②についてはどのように対応されているだろうか。
 ベックは、「社会学理論が内包する誤った普遍主義」は、「非ヨーロッパ的視点から、つまり『アジアの目』で見ることによって『見る』ことができる」(Beck 2016: 267)と主張する。ベックの議論を応用した韓国のチャン・キョンソプは、「圧縮的近代」という用語で、「経済的、政治的、社会的、文化的な変化が、時間的にも空間的にも極めて凝縮された形で起こり、相互に異質な歴史的・社会的要素がダイナミックに共存することで、極めて複雑で流動的な社会システムが構築・再構築される文明の状態」を第二の近代の国際社会の普遍的特徴として指摘し(Chang 2010: 445)、この概念を使って、現在の韓国の社会的再生産の危機を説明しようとする。
しかし、このようなベックやチャンの議論に対して、冒頭に挙げた①②の論点に十分に対応していないという指摘がある。例えば、「多かれ少なかれ単一の発展パターンから考えるなど、以前の近代化理論の多くの不幸な傾向を再現」(Calhoun 2010: 607)、「他の歴史をその同じ順序(筆者注:ヨーロッパの変化)の変種として再び位置づけてしまう」(Calhoun 2010: 602)という指摘に加えて、ベックらの議論を「中国や韓国に合うように修正する一方で、彼らの研究に対する批判を無視することは、西洋近代についての説明を手つかずのままにしてしまう」(Jackson 2015: 6)と、現地で批判のある議論を東アジアの社会学者がそれに対応せずに応用することに対する批判もある。
 本発表では、これらの議論を導きの糸にし、発表者の専門である日本の家族論の展開も踏まえながら、いくつかの論点を挙げてみたい。

Beck, Ulrich, 2016, Varieties of Second Modernity and the Cosmopolitan Vision, Theory, Culture & Society, 33(7-8): 257-70.
Calhoun, Craig, 2010, Beck, Asia and Second Modernity, The British Journal of Sociology, 61 (3): 597-619.
Chang Kyung-Sup, 2010, The Second Modern Condition? Compressed Modernity as Internalized Reflexive Cosmopolitization, British Journal of Sociology, 61(3):444-64.
厚東洋輔,2011,『グローバリゼーション・インパクト――同時代認識のための社会学理論』ミネルヴァ書房.
Jackson, Stevi, 2015, ‘Modernity/Modernities and Personal Life: Reflections on Some Theoretical Lacunae’, Korean Journal of Sociology, 49 (3): 1-20.
Marsh, Robert, 2014, Modernization Theory, Then and Now, Comparative Sociology, 13: 261-83.
佐藤俊樹,1998,「近代を語る視線と文体――比較のなかの日本の近代化」高坂健次・厚東洋輔編『講座社会学1 理論と方法』東京大学出版会,65-98.
富永健一,1990,『日本の近代化と社会変動――テュービンゲン講義』講談社学術文庫.


報告番号510

喪失との対峙――リスク社会を超える視座
上智大学 ホメリヒ カローラ

近代化の過程を理解する際に、リスク社会論は広く参照されてきた理論の一つといえる。Beck(1986)は、社会が「第二の近代」に入ると、近代化のもたらす人為的で意図せざる副作用(再帰的近代化)に直面し、それが個人や社会だけでなく、ますますグローバルな規模で管理されるべきリスクを生み出すと論じた。同時に、個人化の進展によって、人々は階級、家族、共同体といった伝統的な社会構造や役割から切り離され、自己の人生を主体的に構築すると同時に、リスクや不確実性を自らの責任で引き受けざるを得なくなった。こうしてリスクと不確実性は、第二の近代の中核的な経験となった。当初は西欧社会に限定されていたが、後に近代化の多様なあり方やそのグローバルな相互依存性を理論に取り入れ、「方法論的コスモポリタニズム」を提唱した(Beck & Grande 2010)。
今日、数々の危機やグローバルな課題に直面するなかで、世界は急速に新たな姿を取りつつあり、リスク社会論の枠組みが現代社会をどの程度捉え得るのか、改めて問う必要がある。Beck はこうした変化の兆しを目の当たりにし、『変態する世界』(2016)を構想した。グローバルリスクが既存の社会・政治秩序を揺るがす一方で、必然性に突き動かされ、越境的で集団的な応答を誘発し、新たなコスモポリタン的協働や責任共有の形態を生み出すと予見した(いわゆる「コスモポリタンな現実政治」)。
しかし、私たちが現実に目にしているのは、必ずしもそのような展開ではない。Beckが論じた多くのリスクはすでに現実化しており、さらに新たな課題も加わっている。例として、西欧中間層の経済的不安をもたらす世界的な所得順位の再編(Milanovic 2023)、新型コロナウイルスのパンデミック、激化する気候危機、戦争の勃発、SNSによる分断、ナショナリズムの復活などがある。これらは、社会的にも個人的にもリスク管理の限界を露呈させている。後期近代においては、リスクの予期だけではなく、具体的でしばしば不可逆的な「喪失」の経験が社会生活を形づくっているのである。
近代の推進力であった「進歩の約束」はもはや揺らぎ、多くの人々にとってその信頼性は失われつつある。この点を捉える鍵となるのが、Reckwitz(2024)の論じる「喪失のパラドックス」(Verlustparadox)である。すなわち、第一の近代は自然の脅威や社会的不安定を抑制することで喪失を抑えた一方で、常に新しいものを生み出して古いものを駆逐し、従来のものを価値低下させ、より高い期待を醸成することによって、新たな喪失も同時に生み出してきた。長らくこのパラドックスは、社会的進歩による獲得によって部分的に補われ、均衡を保っていた。しかし後期近代においては、その均衡が崩れ、喪失はもはや副次的な現象ではなく、社会的・感情的状況を規定する主要な特徴となっている。
Reckwitzは、後期近代社会が「喪失の時代」に入りつつあり、かつて自明とされた物質的・制度的保障、経済的安定、伝統や社会的価値観の消失によって集団的経験が規定されていると論じる。同様に、Elliott(2018)は、喪失を「消失・破壊・剝奪・枯渇」といった現象を含む分析カテゴリーとする「喪失の社会学」を提唱し、気候危機を中心にその適用可能性を示した。だが、この枠組みは経済変動や技術的破壊、文化変容、政治的秩序の変化など、他の文脈にも拡張しうる。本発表はこれらの視点を起点に、「喪失」を社会学的分析の新たなカテゴリーとして検討することを目的とする。
Reckwitzが主に西欧社会を念頭に議論するのに対し、本発表では「喪失」の視座を日本に適用する。半圧縮近代を経た日本は、西欧社会よりも速いテンポで第一の近代を経験し、異なる前提のもとで第二の近代に移行した。経済的成功の絶頂期において、日本はあえて独自の道を追求し、西欧型の福祉国家の構築ではなく、家族主義的改革を志向した(Ochiai 2014)。その結果、高齢化やいわゆる「失われた数十年」と呼ばれる経済停滞に対処する力を十分に備えていなかった。1990年代の新自由主義的改革は経済的不平等を拡大させ、中間層の安定を揺るがす一方、社会的孤立や絆の弱体化への懸念を強めた(Hommerich 2024)。高度経済成長からの急激な転換は、将来への肯定的ビジョンによって補償されることなく進行し、さらに2010年には中国、2023年にはドイツに抜かれ、日本は世界経済における地位低下を実感するようになった。これらの過程は、不安と喪失感を一層強めている。
こうした喪失の経験を把握・分析することから、社会学はいかなる洞察を得られるだろうか。喪失は単なる私的な感情ではなく、共同体的帰属意識や将来への志向、行動選択を規定する、集合的に共有された情動的状態として社会学的に重要である(Neckel & Hasenfratz 2021)。喪失がいかに争われ、分配され、認識されるかといった「喪失の実践」(doing loss, Reckwitz 2024)の分析は、その社会的影響の可能性と直結している。進歩的展望の欠如と相まって、構造的・文化的・生態的な喪失は不安を生み出し、それが政治的アクターにより動員されうる。例えば、参政党のような右派ポピュリスト政党は、喪失を国家アイデンティティ、社会的結束、経済的安定への脅威として描き出し、復古や主権といった主張に加え、国際的責任よりも日本を優先するという物語を提示している。
本発表では、最新の調査データに基づき、気候危機を事例として、人々が気候関連の喪失をいかに認識し、その認識が態度や行動選択にどのように関連しているかを考察する。喪失をめぐる感情は、単なる個人的な情緒にとどまらず、共同体的な帰属意識や将来への展望、政治的動員のあり方に影響を与える集合的経験として理解する必要がある。
Reckwitzの議論を踏まえつつ、本発表は、進歩の副産物と見なされてきた喪失の経験が、後期近代において広範かつ感情的に顕著となり、リスク社会論のみでは捉えきれない社会生活の側面を浮かび上がらせる可能性について考察する。

参考文献
Beck, Ulrich. 1986. Risikogesellschaft. Auf dem Weg in eine andere Moderne. Frankfurt am Main: Suhrkamp.
Beck, Ulrich. 2016. The Metamorphosis of the World. Cambridge: Polity Press.
Beck, Ulrich & Edgar Grande. 2010. Varieties of second modernity: the cosmopolitan turn in social and political theory and research. The British Journal of Sociology 61(3): 409-443.
Elliott, Rebecca. 2018. “The Sociology of Climate Change as a Sociology of Loss.” European Journal of Sociology 59(3): 301-337.
Hommerich, Carola. 2024. Social and Subjective Well-Being in Post-growth Japan: Adapting to New Inequalities. In: Yee, J., Harada, H., Kanai, M. (eds) Social Well-Being, Development, and Multiple Modernities in Asia, pp. 103–119. Springer, Singapore.
Neckel, Sighard & Martina Hasenfratz. 2021. Climate emotions and emotional climates: The emotional map of ecological crises and the blind spots on our sociological landscapes. Social Science Information 60(2): 253-271.
Milanovic, Branko. 2023. The Great Convergence. Global Inequality and Its Discontents. Foreign Affairs 102(4): 78-91.
Ochiai, Emiko. 2014. Leaving the West, rejoining the East? Gender and family in Japan’s semi-compressed modernity. International Sociology 29(3): 209-228.
Reckwitz, Andreas, 2024, Verlust. Ein Grundproblem der Moderne. Berlin: Suhrkamp.


報告番号511

第二の近代論とトランプ時代のナショナリズム・政治意識
早稲田大学 田辺俊介

 この10年ほど、排外主義的ナショナリズムが政治的な影響力を増しているように思われる。本報告では「トランプ時代」とも称されるその時代状況について、U.ベックの「第二の近代論」を参照点としながら検討するものである。その際、欧米諸国と日本など非欧米諸国を比較することで、単線的な発展論や段階論、一方「経路依存性」として個別性に還元する議論とは異なる記述や説明、可能な限りの理論化を試みる。
ベックの第二の近代論における政治とナショナリズムに関する見解を端的にまとめておくと、まず政治については「第一の近代」において自明とされた「労働者対資本家」という階級政治と「左右」対立の不明確化を背景とし、「不安による連帯」や「サブ政治」化が進むとみなしている。またそのような状況下、環境問題なども政治的争点化され、特に若年層の支持を集める環境政党(「緑の党」)の成立と伸長が論じられる。ただし、近年問題視とされている排外主義的極右政党の伸張やトランプ的自国第一主義については「極右はグローバル化を閉じた国民的同質性に結びつけるという矛盾に困難を感じるであろう」(Beck 2002=2008:354)と、むしろその限界を指摘していたと考えられる。そもそもベックは「個人化とグローバル化は再帰的近代化という同じ過程の二つの面である」(Beck 1994=1997:32)と主張するように、グローバル化を第二の近代における所与の社会現象とみなすため、その現実を無視する極右的主張の現実化は困難とみていたと思われる。
またナショナリズムについては、先進欧米諸国では19世紀から20世紀前半に至る時期、「第一の近代」として「普遍主義」に基づく他者の征服と同化を求めるナショナリズムが進展した。それが「第二の近代」の時代に至り、ネーション内のエスニシティの面での多様性が拡散していく中で、逆に文化的他者との共生を拒否する「民族主義化」する危険性を論じていた(Beck 2002=2008)。その点では、欧州極右政党やトランプ大統領的な形のナショナリズムの隆盛を、ベックも危惧していたことを指摘できよう。
そのような産業社会化(「第一の近代化」)の成立を経た上で「第二の近代(化)」とされる様々な事象が進展した「先進」欧米諸国とは異なり、日本社会の場合1945年以降も本格的な「第一の近代化」が続いた。産業社会化という側面については、農村からの人口移動による都市化や第二次産業従事者が急増の大半は、実は戦後の高度成長期以後に果たされたものである。先進西欧諸国と比較すると、そのように「労働者」が階級化される歴史が短かった日本では、結果的に「左」の階級的基盤は脆弱であった。実際革新政党とされた社会党は、基本的に労働組合が存在する大企業ブルーカラーしか包摂できず、55年体制崩壊に伴って弱体化の一途を辿った。他方「右」を自認する自民党の支持基盤も、資本家と(農業を含む)小規模自営層が「自前層」(三宅1985)としてまとまっていたが、そもそもその「自前層」内の階級的利害が一致していたかは疑問である。以上のように日本社会では、「第一の近代」における政治が前提とした階級的基盤に基づく明確な「左右」対立が成立し切れないまま、既存政党の地盤沈下、あるいは「左派」とされる政党が「リベラルなエリート政党」とみなされるなど、第二の近代的な現象として欧米諸国で観察される状況が発生しているのである。
またナショナリズムについても、日本では第一の近代の完成が1945年以後であった。第二次世界大戦の敗戦によって「植民地」諸地域(さらには当時は沖縄県も)を「喪失」し、「帝国」としては継続不可能になったことから、(再)国民化(同時に「帝国」としての過去の忘却)がなされ、残った「国内」において「単一民族国家」という自己イメージが自明視されるようになっていった。いわば「普遍主義」に基づく「同化を求めるナショナリズム」は、戦後になって完成したのである。さらに産業化の進展に必要な労働力を(例えば、海外から「ガストアルバイター」として受け入れたドイツなどとは異なり)「国内」の農村などからまかなえたことも、欧米諸国におけるグローバル化をふまえた第二の近代の状況である「ネーション内のエスニシティの面での多様性」を低位に抑えることに寄与したといえよう。とはいえ2000年代以後、特に2010年代からの外国籍住民の急増は、当然日本社会におけるエスニシティの多様性なども進展させており、日本のナショナリズムにも一定の変容がもたらされると予想される。
他方西欧の極右政党が、日本の(移民比率の低さなどを前提とした)「単一民族性」に対して強い「憧れ」を表明し、そのような単一民族的な国民像を「理想」として表明したりする事態も生じている。いわば、日本がある種の「モデル」とみなされていたのである。そのように第二の近代化が不徹底な状態にあるとみなしうる国が、むしろ第二の近代化を経た国における近年の政治的言説に影響している様子も存在するのである。ただ同時に、直近の2025年の参院選で急伸した参政党などのように、欧米の極右政党の主張や政治手法に強い影響を受け、それらをモデルとして出現した存在も無視できないだろう。そのように第二の近代化によって生じた「民族主義化」したナショナリズム、特にその政治との関わりについては、欧米の極右と日本社会の間である種の相互作用が生じてきているとも考えられる。
以上みてきたように、一般的には「第一の近代から第二の近代へ」というように発展段階的な進展として説明されやすい政治やナショナリズムの変化や現況について、そのような「段階」として整理できるのは、実は西欧の「先進」とされる一部地域(イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ等)に限られると思われる。本報告で採りあげた日本のように、「二つの近代化」とされる諸事象が「同時進行」となる部分も存在し、それがそれぞれの社会における「経路依存性」となって、表出される現象も異なってくるのである。ただし、実はグローバル化を背景に、相互に影響しあう側面もみられ、再帰的に「第二の近代」とされた先進諸国の社会状況にも影響を与えていると考えられる。本報告では、以上のようにベックの理論を参照しつつ、また可能であれば調査データなども利用しながら、そのような数々の共通性や相互連関についての理論化も試みる。

文献
Beck, Ulrich, Anthony Giddens, and Scott Lash, 1994, Reflexive Modernization, Cambridge: Polity Press. (=1997,松尾精文・小幡正敏・叶堂隆三訳『再帰的近代化――近現代における政治,伝統,美的原理』而立書房.)
Beck, Ulrich, 2002, Macht und Gegenmacht im globalen Zeitalter, Frankfurt a. M.: Suhrkamp.(=2008, 島村賢一訳『ナショナリズムの超克――グローバル時代の世界政治経済学』NTT 出版.)
三宅一郎, 1985, 『政党支持の分析』創文社.


報告番号512

格差・不平等に挑む社会階層研究:記述、介入、メカニズム
東京大学 藤原翔

 社会階層研究の研究目的は大きく3つに分けることができる.第1に,社会の実態把握に挑む記述,第2に,メカニズムの説明に挑む理論,そして第3に,格差縮小に挑む介入である.これまでの研究では記述と理論については比較的明確に議論されてきたものの,介入については十分に検討されてこなかった.そのため,研究成果を政策提言に転換するという課題は旧来から繰り返し主張されてきたものの,積極的に取り組まれることはなかった.本報告では,この3つの目的の相互関係を整理し,社会階層研究が格差・不平等問題にどのように取り組むべきかを考察する.
社会階層研究に限らず,社会学においては対象となる社会を適切に捉え,そこにある規則性やパターンを明確に示すこと,すなわち記述が基本的な出発点となる.社会階層研究が無作為抽出による社会調査を重視するのも,社会全体の構造を正確に把握するためである.この点において,2025年SSM調査では70代を含めた日本国籍の調査対象に加え,外国籍住民調査を実施することで,調査の範囲を拡大し,これまで把握しきれなかった日本社会の格差・不平等を理解しようとしている.こうした記述は,変化する日本社会の実態をより正確に捉えるために不可欠であり,続く理論構築や介入研究の土台となる.メカニズムに関する理論や介入を考えるうえで,まず説明の対象を明確に設定し,格差・不平等の様相を明確かつ再現可能な方法で記述することが重要となる.
一方で,格差・不平等を明らかにする研究は長年にわたって蓄積されてきたものの,それがなぜ,どのように生じているのかを十分に説明できていないという批判や不満が古くから続いている.データや分析方法は確実に洗練されてきたが,メカニズムの解明という点では限界があるという指摘が繰り返されているのが現状である.メカニズムは新しい文脈や未知の現象に対する予測を可能にし,検証可能なものでなければならない。その検証において有効な方法のひとつが介入によるテストである.格差のメカニズムを考えることは本質的に,「もし特定の要因があったら,あるいはなかったら,格差はどのようになっているだろうか」という反実仮想的(counterfactual)なテストを行うことに他ならない.重要な点は,介入する要因がアウトカムに実際に因果効果を持たなければ,介入を行ってもアウトカムやその格差は予想通りの変化を示さないということである.
メカニズム研究に加えて,格差縮小という目標を考える際には,介入(例えば政策による何らかの平等化)という概念を避けて通ることはできない.しかし,介入研究に対しては慎重な立場も存在する.この背景には,社会的文脈を踏まえた上で,何に介入すべきか,またそうした介入研究をどこまで推進すべきかについてのコンセンサスが社会階層研究において欠如していることが挙げられる.実際にはメカニズムを考えることと介入を考えることには大きな重なりがある.研究者は常に介入,すなわち反実仮想的操作について考えており,この意味で,反実仮想的な思考実験としての介入は,社会学的研究の重要な要素と言える.
本報告では,記述,メカニズム,介入という視点の相互の関連性を踏まえつつ,特に3点目の介入を中心に社会階層研究を進めることについての実践例を示しつつ今後の課題を検討する.

報告番号513

性的マイノリティと社会的不平等
早稲田大学 釜野さおり

 性的マイノリティの包摂をテーマとしたSociety at a Glance(OECD 2019)では,OECD諸国における性的マイノリティの受容度は未だ全般に低く,性的マイノリティ当事者(原文ではLGBT)が偏見にさらされ,さまざまな形の差別に直面していること,そしてそれが経済的・社会的なコストを生じさせていることを指摘した.その上でOECD諸国における性的マイノリテの社会経済的状況は非当事者に比べ,相対的に悪いことを示した.各国の代表性のあるデータを用いた46の学術論文(OECDの11か国を含む)をもとにした算出によると,性的マイノリティ当事者の方が非当事者より雇用されている可能性が7%低く,労働所得が4%低く,管理職割合が11%低いことが示された.
日本はOECD加盟国であるが,性的マイノリティの社会経済的状況を示す適切なデータがないことから,上記の結果には含まれていない.しかし,性的マイノリティの社会経済状況が注目されてこなかったわけではない.たとえば,レズビアンとバイセクシュアル女性向けのミニコミ誌や雑誌では,仕事,収入,経済的困難の課題が,幾度となく取り上げられてきた.性的マイノリティが2010年代の「LGBT」ブームの中で経済を活性化させる可能性のある存在として(のみ)扱われる中で,「当事者からの批判的な声や活動」(志田 2019)が複数みられる.社会学的研究においても,1990年代から質的アプローチを通じて生活実態が明らかにされる中で,報告者も2000年前半,インタビューをもとにレズビアン(カップル)の経済状況が女性全般に比べて悪い傾向にあるとの発表を行った.その根底には女性の地位の低さがあり,レズビアンの場合は別のベクトルも働いてさらに状況を悪化させる可能性に触れた(釜野 2009).近年では,志田(2019; 2021)が,性的マイノリティが貧困に陥るプロセスを国内外の研究動向を整理した上で,インタビューを通じて読み解き,分析している.
この課題に対し,OECDレポートに即すような量的データを集めて実態を明らかにしようという研究はなかったが,平森大規が日本のデータを用いた性的指向と性自認のあり方(sexual orientation and gender identity, 以下、SOGI)の階層研究を博士論文にまとめたことで大きく進展した(Hiramori 2022).平森が分析に用いたのは,報告者も含む研究チームで実施した「大阪市民の働き方と暮らしの多様性と共生にかんするアンケート」のデータである.本調査の特徴は,対象者を住民基本台帳から抽出しているため,結果を母集団に当てはめることのできる設計になっていること,回答者のSOGIをたずねる設問を含めているため,同調査でたずねた教育レベル,就業状況,職業,収入,心身の健康,世帯状況などをSOGI別に集計して統計的に比較できることである.
 本報告では諸外国におけるSOGIによる不平等に関する量的研究を紹介し,そうした研究には不可欠である,回答者のSOGIを含めた量的調査を実施する際の課題を述べる.状況と時間が許せば,クィア方法論的な視点についても触れる.クィア方法論では,そもそも測定も定義もできないはずのSOGIを調査することで,それらのカテゴリーを固定化し,ある種のアイデンティティを生み出し,それが統治される可能性を認識する.同時に,異性愛主義とシスジェンダー主義を問い直し,SOGIが流動的で曖昧であることを量的調査の実践を通じて示す可能性も評価する(Browne and Nash 2010).報告者は,性的マイノリティの置かれた状況を量的調査で捉える必要がある,と主張して研究を進めるさい,クィア方法論的な視点を「拠り所」としているが,日本の文脈においてこの視座に立つことの意味と意義も問うてみたい.

【文献】Browne, K., and Nash, C. eds., Queer Methods and Methodologies; Intersecting Queer Theories and Social Science Research, Ashgate./Hiramori, D., 2022, “Sexuality Stratification in Contemporary Japan: A Study in Sociology,” Ph.D. Dissertation, University of Washington./釜野さおり,2009,「レズビアン(カップル)の仕事と経済の実態」日本女性学会2009年大会./OECD, 2019, Society at a Glance 2019, https://doi.org/10.1787/soc_glance-2019-en./志田哲之,2019,「セクシュアルマイノリティと貧困についての研究序説」第92回日本家族社会学会./志田哲之,2021,「性的少数者と家族の調査研究についての考察−経済的困難の角度から−」第31回日本家族社会学会大会.
※本報告は,JSPS科研費JP16H03709, JP21H04407, JP25H00556の助成を受けたものである.


報告番号514

福祉国家と平等――何のための階層研究か
名古屋大学 上村泰裕

 フランス革命の約束不履行を想像力の源泉として目前の現実が社会問題として構成された(厚東 2020)とすれば、不平等に取り組むことは社会学の初志だと言えよう。しかし、階層研究の専門化が進み方法が精緻化されるなかで、「何のための階層研究か」という問い直しが求められる時期にさしかかっているのかもしれない。
 報告者の専門は福祉社会学・比較社会学・政策社会学であり、階層研究については外野席から応援してきた一人のファンに過ぎない。福祉国家とその効果に関心を寄せる立場からは、福祉レジーム論の泰斗エスピン‐アンデルセンの次の言葉に共感しないわけにはいかない。「伝統的な階級理論は制度を無視しがちであり、階級は規制なき交換関係から生まれるものと想定している。われわれの研究の想定は逆である。家族と仕事の関係が革命的に変化し、雇用を生み出すエンジンが従来と異なる動きを示すのは、いまや労働市場が巨大な諸制度〔大衆教育、福祉国家、団体交渉〕に引っ張られているからである。…巨大な制度の影響は、一国研究では見分けにくい。多くの階層理論が制度の影響を捉え損なうのもそのせいだろう。われわれが比較アプローチを選んだのは、それが制度の影響を測定する唯一の方法だからである」(Esping-Andersen 1993: 2)。本報告は、この言葉を敷衍することに尽きる。
 私の提案は二つある。第一に、いかなる規範に照らして分析するか。いかなる不平等が不正義なのか。それは私たちの政治共同体の目標次第である。日本型雇用慣行(正規雇用)ではなく、日本国の市民権に照らして分析すべきではないか。機会の平等(世代間移動における開放性)だけでなく、社会的平等(教育・健康・老後生活)も重要である。第二に、不平等を制度との関連で捉えることである。不平等は自然現象ではなく、制度によって形作られている。メカニズムはデータセットの内部で完結していない。制度の効果は国際比較しないと見えてこない。一国の不平等を当然視してはいけない(一般的趨勢のせいにしない)。制度と不平等の関連を明らかにして初めて、必要な改革も明らかになるだろう。

報告番号515

社会学研究を社会にどう還元するか――生きづらさと解放の臨床社会学より
日本大学 中村英代


報告番号516

被差別当事者の人生体験の語りを聞く――『ハンセン病家族訴訟』の伴走者として
東北学院大学 黒坂愛衣


報告番号517

社会学ならではの災害をめぐる研究と実践――東日本大震災被災地と継続的に関わってきた経験を中心に
青森公立大学 野坂真


報告番号518

社会学は日本政府の政策を改善できるか?――実態・可能性・課題
京都大学 柴田 悠